2016/07/12

川からはじまる話(奥の細道 隅田川べり)


今回東京で泊まったホステル、Nuiの廊下の窓からの眺め。

眼の前に 「馬獅子商会」という謎の家があった。なんの商売なんだろうーー。
その後ろの川沿いの家からは、毎朝、手拭いを姉さん被りにしたお婆様が出てきて打ち水をしてました。

うちの息子は「authenticな日本のおばあちゃん」と呼んでいた。


この頃はまだ到着1週間目で時差ボケのまま早朝が絶好調で、朝の川辺の散歩が快適でした。まだ暑くなかったし。

隅田川は高度成長期にはすっかりドブ川のようになってしまって異臭をはなっていたそうですが、だいぶ改善され、散歩コースに整備されてました。

東京から失われてしまった水辺を取り戻そうと考えている人は多いようです。
ほんとに東京は、実は水の都だったのに。



 蔵前橋。

 関東大震災のとき、この近くにあった被服廠跡という広場に避難してた人びとが何万人もいちどに亡くなり、東京大空襲でもこのあたりは火の海になった、悲惨な歴史を持つ場所でもある。


芭蕉先生の『おくのほそ道』 も、隅田川の深川付近が出発地。

蔵前の宿を予約したときにはそんなこと意識してなかった(ていうか、知らなかった……)のに、隅田川べり〜仙台〜立石寺〜松島(通過)〜平泉という旅行ができて、順番は違うけど(芭蕉先生は平泉のあと山形から立石寺に行ってます)足あとを少しだけたどることができました。



「あけぼのの空朧朧として、月はありあけにて光おさまれるものから、ふじの峯かすかにみえて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし」。というのが『おくのほそ道』の隅田川を出発するときのくだり。

芭蕉先生とお弟子さんはこの辺(もうちょっと南だけど)からお見送りの人たちと船に乗って千住まで遡り、そこからみちのくへの道を歩き始めています。

時は3月末、新暦で4月の末。

川下の遠く南西のほうには富士山が白く見え、行く手の左岸には「上野・谷中の」花が豪勢に咲き誇るのが家々の屋根越しに見えたという。遅めの桜なのか。

両岸はどんな景色だったんでしょうね。銀色の瓦屋根、柳の新緑、渋い色の板塀、緑の土手を想像してみる。

 「春のうららの、すみだ川」という歌、小学校で歌ったときに、きれいな言葉だとは思ったけれど歌詞のイメージはまったく意味不明でした。

春のうららの 隅田川
のぼりくだりの 船人が
櫂(かひ)のしづくも 花と散る
ながめを何に たとふべき
見ずやあけぼの 露浴びて
われにもの言ふ 桜木を
見ずや夕ぐれ 手をのべて
われさしまねく 青柳(あおやぎ)を
錦おりなす 長堤(ちょうてい)に
暮るればのぼる おぼろ月
げに一刻も 千金の
ながめを何に たとふべき

なんとのどかで、美しい景色であることよ! 見てみたいよ!!

芭蕉の頃からこの唱歌が作られた明治の頃まで、川辺の眺めはそれほど変わってなかったのに違いない。「一刻千金」のながめが広がる川辺だったんですねー。

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