2017/09/29

ホノルル感覚


ホノルルに来てます。

6年ぶりのオアフ島は、色々激しく変わってて、おおぅー、と思う部分と、住んでいた頃とまったく変わってなくてギャップを感じない部分とが隣り合っていて、なんだかシュール。

ここ数年ハワイ関連のお仕事を定期的にさせていただいてたので、どんなビルができているのかはかなり細かく頭に入っていたのだけど、それでもぴかぴかの新しいビルがかつて見慣れた風景の中ににょきにょきと立っているのはやっぱり変な夢みたい。
 
アラモアナあたりを歩いていると、ずっとここに住んでいてこれからも住み続けるような錯覚をしちゃう。

むしろシアトルに引っ越したのが夢だったみたいな気がするくらい、違和感がない。
でもショッピングセンターに行くと完全に新しい棟ができていて、ショップが50も増えている。

町のどこに何があるのか把握している、という感覚が、8年以上たってもギャップなしによみがえるのにびっくり。

コンパクトなぶん、東京よりもずっとそういう「おなじみ感」が強いのかもしれない。そうしてそういう感覚には、空気の感触とか空の色とか、ビルや看板の色とか形とか道路の質感なんかも入っている。

自分のいまいる場所が把握できている、この場所を知っている、と感じる、こういう感覚って何か(科学的な)名前があるのかな。
 
ところで、「いただきます」についてデジタルクリエイターズに書いた記事をこちらに掲載しました。

「いただきます」問題についてはかなり前からぼんやり考えてたんだけど、あれって意外と新しい習慣だったんだ!というのは新鮮な発見でした。



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2017/09/19

脳みそが変わるの話、ふたたび




冷たい雨がしとしとと降り出して、シアトルはとつぜん、秋になってしまいました。
気づけばもう9月もそろそろ終わり…!ひょえーーー。


ところで前回のつづきです。

意識は幻想かどうか、というお題とはすこし離れるんですが、TEDトークでもう一つ面白かったのが、モシュ・シーフさんというバルセロナのエピジェネティクス研究者の話。
エピジェネティクスというのは、遺伝子発現のメカニズムを研究する学問であるらしい。

シーフさんは、ネズミのお母さんの子どもの舐め方などを観察する研究などにより、「DNAというのは、ダイナミックな映画のようなものであり、環境によって実際にフィジカルに変化する。特に幼児期のインプットはとても大きい」と結論しています。

日本語字幕つきのトークはこちら


つまり、DNAに書かかれていることは、変えられない「宿命」ではなくて、いろいろなものの相互作用によって変わっていくものであると。

サポルスキーさんとは違い、シーフさんはヒトには「エージェンシー(行為の主体)」があり、環境とダイナミックに働き合って環境を変え、DNAを変え、行動を変え、社会を変えていくものであると言っています。

その行動の主体となる「私」は、場合によって個人でもあり、コミュニティでもあり、世界そのものでもある。それらがすべて関与しあっているのだと。

わたしはこれ、すごくすとんと納得できるのです。

そして「受動意識」仮説の対象であるところの「意識」は、「意識」や「個人」「自我」を固定されたものとする、昔ながらの、19世紀の西洋知識人的な定義なのでは?と、思うわけなのです。


去年、福岡伸一ハカセの著作『動的平衡』を読んで、がっつーんとやられてしまったんですが、福岡ハカセはこういってます。

「消化管神経回路網をリトル・ブレインと呼ぶ学者もいる。しかし、それは脳とくらべても全然リトルではないほど大がかりなシステムなのだ。私たちはひょっとすると、この管で考えているのかもしれないのである」(74)

つまり私たちがふつうに考えている「意識」というのは、脳の一部で起きていることにすぎないわけで、消化管の神経網とかそのほかの部分で身体が「考えている」ことを、私たちはまだ正確に知る手立てももってないということ。

だから、 そういう観点から考えると、脳の一部の「意識」が常に身体や行動を支配しているというのはもちろん間違いで、

「指を動かそうと決断する瞬間よりも0.35秒前から、脳内で行動の準備が始まっていることが判明した」

…というのも、別に驚くに値しないような気がするんですよ。大脳皮質でつくられる意識が、辺縁系とか身体のほかの部分ですでにゆるく決められている自分の決断に気づくのが遅いってことでは。

そして、ある良くない傾向に気づいたときに、大脳皮質の「自分」は、「これはあかん、やめよう」という決断を下して方向を転じることもできる。
そういう意味では自由意志というのは絶対にある、とわたしは思います。

 あともう一つ、最近観た意識関連のTEDトークで面白かったのが、哲学者のジョン・サールさんのプレゼンテーション。



意識は演算以上のものであり、現実を作り出すものである。

意識は主体的なドメインにあるものであるが、科学の方法で客観的に研究の対象とできるものである。

意識などというものはない、というのも、意識は単なる演算、というのも間違いで、意識は完全に生化学的な現象である。光合成や消化のしくみのように。

ただ私たちはその詳細をまだ知らないだけだ。

…というのがサールさんの主旨。

この主張は、「わたしたちは考えるちくわ、またはゆるい淀みである」という、福岡ハカセの考え方とほぼ同じではないかと思うんです。

そして、この考え方も仏教の教えていることと似ていなくもないな、とも。

あと、デジタルクリエイターズ&ぽんず単語帳で「還元主義」について書いたときにも思ったんですが、松尾豊さんが書籍『人工知能は人間を超えるか』で

「脳は、どうみても電気回路なのである。…人間の思考が、もし何らかの「計算」なのだとしたら、それをコンピュータで実現できないわけがない」

と言ってましたが、そのように人工知能の可能性のほうから考えていくと、すべてはデータに変換可能ならば、存在とは一元的であり同時に多元的であるということになってしまい、そそそれは、般若心経に書いてあることと一緒では?とクラクラしたりするのです。


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2017/09/16

自由意志は幻想かどうか



セーラー服おじさんことケバヤシさん(でいいのでしょうか)は、デジタルクリエイターズというクラブ活動のようなメルマガに私をひっぱりこんでくれた張本人です。

セーラー服を着て街に出没するという活動(最近は中国など海外にも招聘されてセーラー服活動を行っていらっしゃる様子)をするかたわら、まっとうなエンジニアでもあられるケバヤシさんですが、先日のメルマガ記事『意識は機械に宿るのか?受動意識仮説と幸福学と仏教』が面白すぎて、メールでレスを書こうと思ったんだけど長大になりそうなので、ブログで書くことにしました。

さてさてどこから手をつけたものか。

ケバヤシさんのこの記事は、『受動意識仮説と幸せ』という、慶應義塾大学大学院の前野隆司教授の講演を聴講してのレポートと感想が中心になってます。

「意識の謎」と「仏教」と「幸せ」についてはケバヤシさんも非常に関心をもっている領域なんだけど、なかなかその3つをまとめて興味ある!という人は少ないので、前野教授のような人は「けっこうミラクルなんじゃないか」と思われたと、記事に書かれています。

いやわたくし、その3つとも、ものすごい興味あるんですけど!

意識と、仏教、そして幸福。

わりと暇さえあれば、脳がアイドリング状態のときにはその3つのどれかについて考えてしまっている時間が多いです。

ほかにもあといくつか、アイドリングで考えていることがある。

キリスト教、日本の神様、エクスペリエンス、アートと価値について、 意味と言葉、環境とデザイン、インプットとアウトプット、スケールについて、「ミーム」とおカネなどについて、愛と誠について。うふふ。

もうすこし「現実的な」ことに脳を使うべきな気もするけど、もういろいろな意味で仕方ないです。

みんな、こんな面白いことに興味がないの?正気なの?と思うほど面白い話題だと思うんだけど、意外とそうでもないらしい。

あまり人に話題をふると、すこし気の毒そうな顔で見られる方面なのですね。

世の中は深く広い。

わたしは前野氏の著作は読んだことありません。この方は脳科学者ではなく、ほかのハードサイエンスの人でもなくて、システムデザイン工学という部門のエンジニアなのだそうです。そんな分野があるのね。それすら知らなかった。世の中には知らないことが多すぎる。

(ここからはケバヤシ氏のブログからの引用なので、孫引きです)
前野氏は、

「心は幻想であって、実は存在していないようなものである」という立場をとっている。


ベンジャミン・リベットという研究者の有名な実験結果で、

「指を動かそうと決断する瞬間よりも0.35秒前から、脳内で行動の準備が始まっていることが判明した」

というのがある。
脳の中では、意思よりも先に行動がすでに準備されている、したがって意識は遅れてやってくることが証明された。
この結果は、つまり自由意志というのは錯覚にすぎないということ、と前野さんは結論している。

 「脳を調べてみると、意識領域と無意識領域とからなる」

「心の機能を5つの要素に分解して、それらについてひとつひとつ検証していくと、どれもこれも主体的には機能しておらず、ものごとが無意識下で機械的に決定されていくのを下流で眺めているだけであって、受動的にしか機能していないことが判明する」

(以上ケバヤシ氏の記事より)

というのが、前野さんの見解だそうです。

……分解して検証するっていうその発想が、いかにもエンジニアらしいなあ。

人の脳には確固とした「意識」があるという旧来のモデルでの理解はまちがっている、と前野さんは考えているらしい。

「旧来モデル:「意識」がボスで、すべてをコントロールしている
新モデル:意識は無意識の結果を眺めているだけ」

と、前野さんは考えているそうです。


……うんうん、それはわかるよ!

意識というもの、つまり「個人」とか「我」とかというものは、そんなにくっきりしたものではないんじゃないか。と、わたくしも、このところますます確信をもって考えていたのである。

私は慶応大の教授とかではないので誰にも意見を聞かれる機会はないのであるが、「意識」って、つまり「自分」って、今までの歴史、特に18世紀以降の西洋インテリジェンスの世界で思われていたほど、たいそうなものじゃなのかもしれないな、という気がしてきていたのです。 

でも前野さんやケバヤシさんのように「自由意志なんて幻想」という立場とは少し違います。

わたしは、むしろ、人間ってきのこのようなもので、意思というのは、現在考えられているものよりも、もっとゆるふわなものじゃないのか?と考えているのです。



えーとまず、リベット教授の知見は、「さもありなん」て感じなんですが、ちょっと待って。
これを「だから自由意志なんて、ない」という証拠として使うのは、かなり乱暴ではないですか?

これは「何を自由意志と呼ぶのか」「何を意識と呼ぶのか」という、定義の問題ではないのかと思うんですよ。
 
 「行動を決断する0.35秒前に脳の中で行動の準備が始まっている」
という生体反応と、
「今このドーナツを食べるか食べないか」
というヒトとしての大きな決断の間には、スケールにして、たぶん微生物と象くらいの違いがあるのでは?

それをすべて「自由意志」というひとつの言葉/概念でくくってしまうのは、あまりにも乱暴な話ではないかと思う。

 単細胞の微生物も象も、ひとつの生命体という意味では同じだけれど、象は単細胞生物よりもずっと、複雑な層からなってますよね。

 わたしは、 「行動を決断する0.35秒前に脳の中で行動の準備が始まっている」ということは、「決断」をした主体である個人の「意識」にその「決断」がのぼる前に、「わたくしという総体」が決断をしてしまっているということではないのかと思うんですよ。

つまり、その「意識」をもつ主体は自分が決断したことをまだ知らないのではないかと。少なくとも0.35秒の間は。

この主体が、普通一般に「自我」といわれているもので、その少し外側に、無意識のもやもやとした境界を含む部分があって、そこも含めて「自由意志」と呼ぶべきではと思うんですよ。

このもやもやとした部分は、たぶん、脳のなかで最初に進化した部分であり、言語に関連する論理を扱うところとは別のロジックで動く、原始のエネルギーを持つ部分です。
情動とか、生きる力とか、身体の筋肉や神経組織、ホルモン分泌や消化組織のメカニズムを動かす、そういう方面。

さいきん、TEDで、「意識」に関連したとても面白いトークをいくつか聴きました。
ひとつめは、スタンフォード大のロバート・サポルスキー教授のもの。



日本語字幕つきのバージョンはYou Tubeで見つからないので、こちらで。

サポルスキー教授は、やはり前野教授とおなじく、「自由意志はない」という立場。

でもこのトークでは、人間のあらゆる行動には、生化学的なものから環境、文化まで、様々な作用がはたらいていること、そして行動やその条件としての脳の状態は変化するものであること、私たちはそれに自覚的になることでのみ「善」に近づけるのだと語っています。

他者に暴力を振るうのを楽しむこともできる、かと思えば他のために自らの生命を投げ出すこともある人間の行動は、単一の遺伝子やトラウマや行動から成るのではなく、無数の層からなるもので、私たちはその結果であると。

これも、仏教の因果の法とおなじこと言ってますよねー。と、思いませんか?

長くなるのでつづきはまた別の日に。


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2017/09/06

テンパった時のGo-to music


ひっさびさにぽんず単語帖を更新しました。

忙しさについていけず、うなされる毎日。あちこちに不義理をして、忘れている気がする。

車で山に行って道がわからなくなる夢を見る。そのまんますぎて、朝起きてからうなだれる。

前に(去年だ)、かなり偏った仕事中の音楽について書いたんですけど、実は「かなりテンパった時専用のgo-toミュージック」という武器がある。

それはこちら。


すごく面倒な作業で集中が必要な時にはRadio Headをヘッドフォンで聴くと、ある地点に到達できます。しかしあまり続けると頭痛がしてくる。




最近これも超おきにいりの「Dark Necessities」。歌詞がいい。ギターが超好き。


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2017/09/03

マーケットのStoryville Coffee


パイクプレイスマーケットの、入り組んだところにあるコーヒー屋さん、Storyvillle Coffee。


 花屋さんの脇から階段を2階分のぼったところにあります。


ロースターとしては2006年創業だそうですが、カフェが開業したのは去年くらいだとたしかバリスタのお兄ちゃんが言っていた。


はやりのナチュラル&再生材をつかったクリーンで落ち着く内装。


いつも激混みのスターバックスよりはよっぽどくつろげる。パイクプレイスマーケットにはカフェが意外に少なかったので嬉しい登場なんですが、個人的にはここのコーヒーはあんまりおいしいと思わないんだよねー。

わたしはコーヒー的には近くのSeattle Coffee Worksのほうが好き。
ヨーロピアンな深煎り豆が好きな方は、ここのが好きなのかもしれません。


デザインはかわいいし、飛行機クッキーもある。

席は少ないけどWifi環境も良かったです。こんなマーケットの真ん中ながら、がっつり仕事や勉強に打ち込んでいる人がけっこういた。


窓の外にはマーケット、という最高のロケーションです。

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2017/09/02

幸福をよぶロースター


去年の夏、日本に帰ったときにヨドバシカメラで買ってきたフィッシュロースター、パナソニックの「お魚煙らん亭」。
これで、うちのクオリティーオブライフが数ポイント上昇しました。

うちはバーベキューグリルとかないので、煙が出るものをトースターとかオーブンで焼くとかなり大変なことになるし、だいいちオーブンで魚をこんがり上手に焼くのは無理。

でもこれなら!サンマでも鯖の塩焼きでも干物でも味噌漬けでも大丈夫!

もう10年前くらいから欲しかったんだけど、アメリカに売ってるものは性能的にいまいち。しかし日本で売ってるのは電圧が違うので、使うのは博打みたいなもの。

ヨドバシカメラのお兄さんに相談したところ、うーん、と考え込んで、店としておすすめはできないんだけど、と前置きをしつつ、本当だったら業務用の重量10キロくらいの変圧器を使ったほうがいいんだけど、小型であっても変圧器があったほうがないよりはいいっすよ、ということで、こいつを購入しました。


これだけで広辞苑1.5冊くらいの重さ。
幸い、去年は息子が一緒だったので、ひとあし先にシアトルに戻る息子にこれと煙らん亭をもたせた。

その前の年に日本に行った時には紙版の広辞苑を持って帰ってきてもらった。息子というのは運び屋としては重宝です。 


ウワジマヤでみつけた、ハマチかま!これだって楽勝さ!


…勢いあまって焦がしました。しかしうまい。

切り身なら4つが限度で、もうちょっと大きいといいんだけど、まあ2人前の食事なら十分。

この子で魚を焼くたびに、親子でスティービー・ワンダーのようにゆらゆら揺れてしまう、ちょっとやばいくらいに幸せを呼ぶロースターです。 末永く働いてほしい…。

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2017/09/01

またやってしまった


このあいだ、パイオニア・スクエアのフェリー乗り場に近いあたりでみつけた、マンホールのふた。かわいい。

ちょっと大きな締切りがいくつか重なって、ああでも本当に面白い仕事をさせていただいた、とほっとした瞬間、なんとメルマガのデジタルクリエイターズの連載を勝手におやすみしていたことが発覚。前月におくっていただいた香盤表にたしか自分の名前がなかったので、ああちょうどこのへんは忙しくなるから夏休みでよかったー、と思っていたら、どうやらわたしの勘違いだったようで、きのうの午後、仕事が佳境のときに「そろそろ原稿を送っていただけませんか」と編集長から催促メールが来て、毛が逆立った。どひゃー!

申し訳ございませんでした。

1ミリでも調子に乗ると、この始末さ。


足元を見て、空を見る。

ほんとに迷惑かけまくりのでたらめな人生を送ってきた(進行中)のに、とりあえず今面白い仕事ができていて、面白い人たちに会え、住む場所にも食べるものにも今のところ困らず、今のところお天気もよくて、今のところ自分の足で行きたいところに歩いていけるとは、なんとまあ恵まれていることか。深くありがたい。


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