冷たい雨がしとしとと降り出して、シアトルはとつぜん、秋になってしまいました。
気づけばもう9月もそろそろ終わり…!ひょえーーー。
ところで前回のつづきです。
意識は幻想かどうか、というお題とはすこし離れるんですが、TEDトークでもう一つ面白かったのが、モシュ・シーフさんというバルセロナのエピジェネティクス研究者の話。
エピジェネティクスというのは、遺伝子発現のメカニズムを研究する学問であるらしい。
シーフさんは、ネズミのお母さんの子どもの舐め方などを観察する研究などにより、「DNAというのは、ダイナミックな映画のようなものであり、環境によって実際にフィジカルに変化する。特に幼児期のインプットはとても大きい」と結論しています。
日本語字幕つきのトークはこちら
つまり、DNAに書かかれていることは、変えられない「宿命」ではなくて、いろいろなものの相互作用によって変わっていくものであると。
サポルスキーさんとは違い、シーフさんはヒトには「エージェンシー(行為の主体)」があり、環境とダイナミックに働き合って環境を変え、DNAを変え、行動を変え、社会を変えていくものであると言っています。
その行動の主体となる「私」は、場合によって個人でもあり、コミュニティでもあり、世界そのものでもある。それらがすべて関与しあっているのだと。
わたしはこれ、すごくすとんと納得できるのです。
そして「受動意識」仮説の対象であるところの「意識」は、「意識」や「個人」「自我」を固定されたものとする、昔ながらの、19世紀の西洋知識人的な定義なのでは?と、思うわけなのです。
去年、福岡伸一ハカセの著作『動的平衡』を読んで、がっつーんとやられてしまったんですが、福岡ハカセはこういってます。
「消化管神経回路網をリトル・ブレインと呼ぶ学者もいる。しかし、それは脳とくらべても全然リトルではないほど大がかりなシステムなのだ。私たちはひょっとすると、この管で考えているのかもしれないのである」(74)
つまり私たちがふつうに考えている「意識」というのは、脳の一部で起きていることにすぎないわけで、消化管の神経網とかそのほかの部分で身体が「考えている」ことを、私たちはまだ正確に知る手立てももってないということ。
だから、 そういう観点から考えると、脳の一部の「意識」が常に身体や行動を支配しているというのはもちろん間違いで、
「指を動かそうと決断する瞬間よりも0.35秒前から、脳内で行動の準備が始まっていることが判明した」
…というのも、別に驚くに値しないような気がするんですよ。大脳皮質でつくられる意識が、辺縁系とか身体のほかの部分ですでにゆるく決められている自分の決断に気づくのが遅いってことでは。
そして、ある良くない傾向に気づいたときに、大脳皮質の「自分」は、「これはあかん、やめよう」という決断を下して方向を転じることもできる。
そういう意味では自由意志というのは絶対にある、とわたしは思います。
あともう一つ、最近観た意識関連のTEDトークで面白かったのが、哲学者のジョン・サールさんのプレゼンテーション。
意識は演算以上のものであり、現実を作り出すものである。
意識は主体的なドメインにあるものであるが、科学の方法で客観的に研究の対象とできるものである。
意識などというものはない、というのも、意識は単なる演算、というのも間違いで、意識は完全に生化学的な現象である。光合成や消化のしくみのように。
ただ私たちはその詳細をまだ知らないだけだ。
…というのがサールさんの主旨。
この主張は、「わたしたちは考えるちくわ、またはゆるい淀みである」という、福岡ハカセの考え方とほぼ同じではないかと思うんです。
そして、この考え方も仏教の教えていることと似ていなくもないな、とも。
あと、デジタルクリエイターズ&ぽんず単語帳で「還元主義」について書いたときにも思ったんですが、松尾豊さんが書籍『人工知能は人間を超えるか』で
「脳は、どうみても電気回路なのである。…人間の思考が、もし何らかの「計算」なのだとしたら、それをコンピュータで実現できないわけがない」
と言ってましたが、そのように人工知能の可能性のほうから考えていくと、すべてはデータに変換可能ならば、存在とは一元的であり同時に多元的であるということになってしまい、そそそれは、般若心経に書いてあることと一緒では?とクラクラしたりするのです。
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