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2020/10/04

タコの先生がすごすぎて絶句


先週につづき、ユニバーシティ・ディストリクトのファーマーズマーケットに行ってきました。

またまた超大輪のダリヤ。いま、マーケットの花屋さんに並んでいるのは8割がたダリヤ。
あとはヒマワリ、百合。アメリカンサイズですねー。

火焔のようなダリヤ。このクリーミーなオレンジ色が大好きです。



 今回は取り置きしておいていただいて、タキさんのお店でおいしいピッカピカのオクラ、モロヘイヤ、みょうが、ほくほくカボチャなどを買えました。ああ、ありがたい。こんなにおいしい野菜を作って、遠くまで売りにきてくださってありがとう。

 オクラはさっとゆがいてみょうがとかつぶし、レモン醤油で。最強!!

 


 
Netflixのドキュメンタリー『My Octopus Teacher』を見ました。

…と書いていたら、波のり翻訳者えりぴょんから「これ見て」とLINEが入った。またまたシンクロ来てる。みたよみたよー!

ミッドライフクライシスを迎えたドキュメンタリー作家が、南アフリカのケープタウンにある自宅のすぐそばの海(素晴らしい景色にかこまれた、素敵なおうちにお住まいのようです)に毎日潜っていき、ある一匹のタコに出会い、タコとの親交を深め、タコとその世界…習性や身体構造や知能や天敵や捕食行動などを深く知るようになり、タコとの絆を深めていくというお話です。

これがめっちゃくちゃ面白く、ごはんを食べつつ親子で1時間半、くぎづけでした。

ジャイアントケルプの森の中の映像も素晴らしいし、まじでおすすめです。

 


観た翌日も、家庭内でタコについてのディスカッションが止まりませんでした。

青年は、好きなように(なのかどうかは知りようがないけれど)身体の色ばかりか形状までも瞬時に変えられるタコの皮膚の構造について、デザイナーとしてたいへん興味を惹かれているようです。

タコってあんなに色がいろいろ変わるんだ!

茹でると赤くなるのしか知らなかったけど、ほんとに変幻自在で、ツノまで生えてくるんですね!

頭の形を簡単に変えられるなんて!赤くなったり黄色くなったり白黒水玉模様になったり。

そして、足(触手)がなくなると、ほんとに新しいのが生えてくるんだ!

 


そして、このドキュメンタリー中では触れられていないけれど、タコには「9つの脳がある」のです!

タコの脳は、8本の足にそれぞれ、独立した判断力のある「脳」というべき機能がある「分散型」の脳なのだそうです。

だからむしろ「脳が9つある」のではなく、「脳が9つに分散されている」ということですね。

本体の脳はこの分散脳システム全体の質量の10パーセントしかなくて、触手にある脳が合計60パーセントを占めるんだそうです。


そして、各触手には約200個の吸盤があって、これがお互いに瞬時に情報をやりとりしているらしい。

タコの神経系を研究しているワシントン大学の心理学の先生が、あたらしいホッケーチームの名前「クラーケン」(巨大タコ的な海の怪物)がなぜホッケーチームにふさわしいかについて解説してる動画をみつけました。


クラーケン

ワシントン大学にはタコ研究者が多いのか(ピュージェット湾にはタコがいっぱいいるので研究対象にしやすいのかも)、宇宙生物学(そんな学問分野があるなんて知らなかった)の研究をしている院生が、タコの神経系統での判断がどのように行われるのかのコンピュータモデルを作って発表している動画もありました。

「how sensory information is being integrated in this network while the animal is making complicated decisions(タコが複雑な判断を下しているときに、感覚器官からの情報がこの(神経の)ネットワークにどのように統合されているのか)」について、新しい知見をもたらす研究だそうです。研究の中身はまったくわからん。でもどう統合されてるのかめっちゃ興味しんしん。

脳が腕とか足とかにあって、瞬時に判断を下してるって、いったいどんな心持ちなんでしょうか!しかも8本がそれぞれ独立してるって。

しかし、これだけフレキシブルな身体構造だと、逆に脳が中央にしかなかったらどの触手をうごかしていいのか迷っちゃったりこんがらかったりするのかも??

そして、タコが身体の色を変えるのはタコの「判断」なのか、触手が決める判断なのか、その時タコの意識のなかでどんなことが起こっているのか。

タコにも人の感情に似たものがあるとすれば、身体の色が変わるとき、なにを感じているのか。

ドキュメンタリーでは、タコの好奇心と知性がフォーカスされていました。


毎日通ってくる人間にだんだん慣れてきて、触手をのばして人間の手に触ってみたり、ついにはまるで猫のように人間の腕に抱かれるようになったり。たしかに好奇心旺盛、というほかない。

UWの研究でも、タコの好奇心と知性が確認されてるそうです。

さらには、魚の群れで遊んでいるとしか思えないような行動もとらえられています。


この映画を観ていると、タコがかわいくみえてしょうがない。このドキュメンタリー作家さんに近寄り、触手を伸ばして手にさわったり、おとなしく腕に抱かれているようすは、猫みたい。




このドキュメンタリー作家さんは当然ながらこのタコとのあいだに深い精神的な絆を感じるわけだし、観ているわたしたちもそれに共感して涙を流してしまうのですが、タコのほうで人をどう思っているのかは永遠にわかりませんよね。

 犬猫は進化の途上で別れはしたものの、哺乳類というおおきなくくりでは同じで、脳の構造からしても、情動やその前身になる感覚がわたしたちとそれほど大きな隔たりはないだろう(人より純粋に感覚や情動を経験しているかも)と思われますが、頭足類は脳の構造、使い方、司令系統からしてまったく違う。

それでも行動を観察していると、好奇心と記憶が発達した、高い知能を持った存在だと確信するしかない。まさにエイリアン。

昔からSFでタコ型のエイリアンが何度も描かれてきたのは、いわれのないことではなかったんですねーーー。



タコ先生を観たら、こちらもぜひ。「タコの脳はどうしてそんなにすごいの?」TEDトーク。

しばらくタコ刺しが食べられなくなりそうです…。

 


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2019/04/10

自己標的バイアス


10代のころ、わたしにはチエコちゃん(仮名)という親友がおりました。

わたしよりも3歳くらい年下の家出少女だったチエコちゃんは、いつのまにかうちに転がりこんできて、いつのまにか同居人になってました。

チエコちゃんは暴走機関車のように有無を言わせないドライブを持つ少女で、いつも想定外のスピードでデタラメで魅惑的な方向にすっ飛んでいき、小心者のわたしは「ちょ、ちょっと、それはないんじゃない」とかいちおう言いながら内心ドキドキワクワクしてあとを追うフォロワーでした。

そのあといろいろあって会わない期間があり、それぞれ結婚して、わたしはハワイに引っ越して離婚して、しばらくぶりに子連れで帰国したときに連絡したら、チエコちゃんは前よりもきつくねじれてしまっていて、
「いつ会う?この日とこの日とこの日だったら大丈夫だけど」
という会話のあと、いきなりキレてわたしに絶交を言い渡したのでした。

「そんなことを言われてどんな気持ちになると思う?」

と切羽詰まった声で言われて、いったい自分が何をしてしまったのか、何が起こったのか、その時は全然わかりませんでした。

何年かたってから考えてみて(遅い)、ああ、あの子はしばらくぶりに日本に帰ってきた親友のはずのわたしが、全面的に彼女だけのために時間をあけてべったべたにつきあわなかったことに、とても深く傷ついてしまったんだなあ、ということがやっとわかったのでした。

もちろん、数週間の限られた滞在期間で用事をこなしたり親戚に会ったり親と一緒に旅行に行ったりほかの旧友にも会ったりもしたいというわたしの都合など、チエコちゃんにとってはまったく眼中になく。

「ともぞは自分にもっともっと会いたいと思ってくれない > ともぞは自分なんかどうでもいいと思っている」
という方向に、きっと心のすべてがフォーカスされてしまっていたのだろうと思います。

その後もまた連絡を取り直したのだけど、よく似た状況でまた彼女を爆発させてしまい、わたしも自分の生活と子育てでいっぱいいっぱいだったので、そのあとはもうどちらからも連絡を取ることはありませんでした。

一時は姉妹みたいに四六時中一緒にいたのに、今は彼女がどこかで元気に生きているのかどうかも、まったくわかりません。幸せでいてくれるといいなと思う。本当に。



このあいだ、あるエッセイを読んでいて「自己愛性パーソナリティ障害」というのにいきあたり、はっこれだ、と30年以上前のチエコとわたしがよみがえってきたのでした。

ウィキペディアにあったこんな引用が目をひきました。

(ここから引用)
プライドの高い人”とは、一般に自己評価の低い人である。だから、他人からの評価によって傷つくのである。逆にいえば、他人からの評価によって揺らぐような低い自己評価所持者が「プライドの高い人」と周囲から認識されることになる。
(ここまで)

うんうんうん。そうね。そうだと思う。そうだったそうだった。

出典は中井久夫著『世に棲む患者』 筑摩書房、2011年。これ読んでみたい。

パーソナリティ障害までいかずとも、相手が本当にどう思っているかにかかわらず、(たいていの場合、相手は自分のことなどほとんど気にもとめていないのに) 「あの人はこう思ってるに違いない」と思い込む傾向を「自己標的バイアス」というそうですが、これってたぶん、程度の差はあっても誰でもやってることだと思う。

このあいだ、ほんのちょっとしたことから、ある人に「あなたは人をコントロールしようとしている」みたいなことを言われて超おどろいた事件がありました。

その人は知的でコミュニケーション能力もすごく高いし、社会的にもわたしよりずっと立派な地位を得ている立派な人なんだけど、ちょっとしたわたしの言動を自分への攻撃であるかのように感じてしまったらしく、えらく激昂してしまったのです。

自分のちょっとした動作に対して「えっまじでそんなこと1ミクロンも思ってないんですけど?」というような解釈をされて、本気でおどろきました。

なんだこれ、ものすごく久しぶりだという感じがして、思い出したのがチエコ(仮名)。

こんなにちゃんとした人でも、こんなにも情緒不安定なところがあるんだ!というのにもびっくりでしたが、そこそこ社会的地位が高いからこそプライドが高くて傷つきやすい人も多いのかもしれない。



たいていの人はそうだと思うけど、知らないあいだに、相手に、そして世界に、自分のことをこう見てこう反応してほしいということを、漠然と期待しているんですよね。

そしてその自分の期待に気づいてないことが多い。

わたしもよく、クライアントさんにメールを送ったのにすぐに連絡がないと、自分が何か仕出かして怒らせたのかな、と心配になったり、息子に頼んだことをすぐにしてくれないと、バカにしてんのかコラ!と腹をたてたりします。

でも単にクライアントさんは忙しくてテンパってるだけで、息子は単に誰かに似てズボラで忘れっぽいだけだったりするのです。

それを、どんなに忙しくても一行返信しないなんて馬鹿にしてる!とか、頼んだことを3秒で忘れるなんて私を尊重していないからだ!なんて考えはじめると、これが地獄への第一歩なんですよね。

その先にあるのはチエコ症候群。

人の反応に期待するのを止めるだけで、世界はけっこうシンプルで暮らしやすくなるんだけどな。

多分いまでも私に腹を立てているチエコにもそれを知らせてあげたいと思うんだけど、それはきっと私の仕事じゃないんでしょう。


腹立てるだけ損なんだよチエコ! 


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2018/02/08

さまよう猫のタマシイ



やっと、長いトンネルを抜けて放心状態。

先週までの2週間は翻訳稼業をやってきた中でも一番ハードだった。もちろんスーパーボウルも見れず。

そんななか半分寝ながら書いたデジタルクリエイターズの回です。

自分ではけっこう気に入ってたんだけど、70歳の柴田編集長には完全スルーされ、しかも知らないうちにタイトルが「さまよう猫のタマシイ」から「猫シッターで考えたワンダーラスト」とかに変わってた。あら。

よほどつまらなかったのか、やばい系だと思われたのか。まあいいや。

でもそのかわり、「猫を2ダース飼っている」という方からメールをいただきました。

では以下、「さまよう猫タマシイまたはワンダーラストについての考察」です。




年に何度か、猫シッターに行く。

知人のご夫婦が日本にセカンドハウスをもっていて、年に1度か2度長期間日本に滞在する。そしてシアトル近郊のひろびろした邸宅に4匹の猫たちが残されるので、その皆さんのお世話をするのがわたしの任務である。



2匹はメンズ。

繊細で好き嫌いが激しいお公家さん的な性格のリンタロウ君と、耳が聞こえないためかまったく空気が読めないシンノスケ君である。

この子たちはもう10年以上この邸宅でのびのび暮らしている。



そこに去年加わったのが、2匹のガールズ。ふたごの(ほんとは多分五つ子か六つ子だったのだろうけど)ハナちゃんとノラちゃんで、まだ1歳未満のぴちぴちギャルズだ。

この4名の間に繰り広げられる猫ドラマは、かなりのエンターテイメントだった。

特にふたごギャルのハナちゃんとノラちゃんのキャラクターの違いには瞠目すべきものがあった。



今回は、その猫ドラマの一端をご紹介したいとおもう。

まずハナちゃん。この子は、満腹中枢がどうかしてるのかねと思うくらい、よく食べる。

ほかの子たちは、缶のフードをめいめいのお皿に少しずつあげても、ほんのちょっと食べるとどこかに行ってしまう。彼らが集中して食べている時間はほんの1分足らず。そしてしばらくするとまた戻ってきて思い思いの時間にちびちびと食べる。

リンちゃんなんかは、ほんのちょっと上澄みをなめただけでぷいっと中庭のドアのほうへ向かい、「まろは散歩に行くでおじゃる」と外遊を要求する。そして、しばらくして戻ってきてからまたフレッシュな気持ちで残りを食べるのがルーティンである。

でもハナちゃんだけは、完璧な集中力を発揮して目の前のごはんに取り組み、ほぼ完食するまで食べ続けるのだ。ハナちゃんの注意がごはんからそれるのは、自分が食べ始めた後で他の猫がごはんをもらっている時だけだ。

みんなが自分とまったく同じものを食べているのにもかかわらず、この娘は人の皿めがけて突進し、頭をにょっと横から割り込ませて食べ始めようとする。

この攻撃を受けると他の3名はすごすごと退散してしまう。特に王子様のように繊細なリンちゃんは、ハナちゃんが近くに寄って来ただけで食べる気を喪失するらしく、即退場する。

そのまま放っておくとハナちゃんは他人の皿に盛られたごはんを余すところなく順番に食べ尽し、最後に自分のお皿に戻って、これもまたきれいに食べる。まるで『千と千尋の神隠し』に出てくる「カオナシ」を見ているかのような、圧倒されるような食べっぷりである。



もちろんそれには結果が伴い、持ち上げてみるとまだ8カ月という小さい身体に見合わないずっしりとした重量感がある。そのままでは異常に巨大化してしまうのが目にみえているため、食事時間にはハナちゃんが他人のごはんの近くをうろつかないよう隔離しておく方策を取らねばならない。

ごはんのみならず、ハナちゃんは何に対しても躊躇がない。猫たちはみんなヒモの先に羽根のついたおもちゃが大好きで、これをリビングの真ん中でブンブン振っていると皆がたちまちそわそわしはじめるのだが、真っ先に飛び出してくるのはやっぱりハナちゃんである。

ギャルズがあまりにパワフルにリビング中で破壊活動を繰り広げるためヒトが眠れないこともあるので、夜の間二人だけを別の部屋に隔離しておくこともある。朝迎えに行くとドアのところで待っていて飛び出してくるのはハナちゃんで、姉のノラちゃんは必ず数メートル遅れて、妹の後を追う。


リビングにはプラスチック製のおやつディスペンサーがある。40センチくらいの高さで、3階建ての丸い立体駐車場みたいな形になっていて、ヒトがてっぺんの穴からカリカリおやつを入れると、まわりにいくつも開いた穴から猫が手をつっこんでそれぞれのレベルの床の穴に次々におやつを落としていき、最後に一番下からおやつが外に出てきて食べられるという仕掛けになっている。

このディスペンサーに入ったおやつが食べられるのはハナちゃんだけである。

というか、敢えて挑戦するのがハナちゃんだけなのだ。
おやつを取り出すと皆わらわらと寄ってくるのだけど、ディスペンサーに入れたものにはハナちゃん以外見向きもしない。ハナちゃんも、まず床にあるおやつをしっかり食べてから、ディスペンサーに向かう。

で、このディスペンサーは一見パズル的な、ちょっとした知力を要求するもののように見えるのだが、そうではない。必要なのは、食えるまで絶対にあきらめないという強い意思だけなのだ。ハナちゃんはとにかく怒涛の勢いであらゆる場所から手を突っ込み、やみくもにかき回している。すると、そのうちおやつが下から出てくる。彼女にとってこれは、上段>中段>最下段という段階のあるパズルではなくて、「ひとかたまりの障害物」にすぎないようだ。

常に忖度も斟酌も躊躇もなく目の前のものを全力で追い求めるハナちゃんは、まるでシリコンバレーのスタートアップ企業の人か、投資ファンドのマネージャーのようである。

資本主義社会で勝ち残っていくにはこういう何をも顧みないドライブが必要なのかもしれないなあ、と思わされる。

ハナちゃんが人間だったら、きっと中学生の時からビットコインで5億円くらい儲けてると思う。



ノラちゃんにはドライブがないかというと、決してそんなことはない。

でも、そのドライブは明らかにハナちゃんとはタイプが違う。

何が違うかというと、ノラちゃんには、いってみれば想像力みたいなものがあるのだ。

そしてこの娘には「ワンダーラスト」がある。



猫は好奇心が強いといわれるけど、ノラちゃんの好奇心は筋金入りだ。

キッチンで料理をしていて、キャビネットの扉をほんのちょっとでもあけっぱなしにしておくと、閉めるときにはたいてい猫がはさまっている。

これは必ずノラちゃんである。

彼女は、普段は閉まっている扉がたまに開く瞬間を決して見逃さない。



キッチンのごみ箱は引き出し式になっている。そのごみ箱の入っている引き出しの下に手をつっこんで空ける方法を知っているのはノラちゃんだけ。

そもそもごみ箱の後ろに入り込んで探検しようとするのもノラちゃんだけだ。



大きなシダの鉢植えの中に飛び込んでいってしまうのもノラちゃんだし、スパイス棚の下にいつのまにか挟まっているのもノラちゃん。

ディスペンサーのおやつには興味を示さないのに、カウンターの上に置いてあるおやつの入った箱をかじったり床に落とたりして、なんとかフタをあけて食べようとするのも、ノラちゃんだけ。

あれだけ食べることに貪欲なハナちゃんは、そういう斬新な試みを思いつくことはない。しかしノラちゃんがカウンターから落下させてフタを開けることに成功したあかつきには真っ先に走ってきて中身を一緒に食べている。

そしてノラちゃんは、外の世界に激しいあこがれをもっている。


この家の周りは自然環境が豊かでコヨーテやアライグマもいっぱいいるし、何にでも無鉄砲に突撃していくノラちゃんは気の毒ではあるけど、とてもじゃないが心配で外には出せない。




わたしがリビングに座って仕事をしていると、時々世にも哀しげな声でノラちゃんが啼いているのが聞こえる。世界のすべてが自分を置き去りにして別の次元に旅立ってしまうのを目の当たりにしているかのような、悲痛な声である。自分はガラス窓のむこうの世界にどうしても行かなくてはいけないのだと切実に感じているのがわかる。

この悲しいほどのあこがれは、きっと人間の中に呼び起こされるものと基本的には同じ作用なんだろうなと思う。ただ言語化されていないだけで。

ハナちゃんとノラちゃんには明らかな指向性の違いがある。
すごくよく似た遺伝子を持って、ほとんど同じ条件で育っているはずの姉妹なのに。

見たことのないものに死ぬほどあこがれて全力で追い求める人と、目の前に置かれたものにすべてのエネルギーを注ぐ人。


人類には旅に出たがる個体と安定を求める個体があって、全体として種の存続に役立ってるという話を聞いたことがある。その状態にい続けるのが好きな保守的なグループと見知らぬ土地に旅立っちゃうグループがいるから、新天地に突撃していって全滅する人びとも多いなかで何割かは生き残り、種は全体としてより広い土地に広まっていったのだ、という説だったと思う。

遠くのものをあこがれてやまない気持ちを「ワンダーラスト」という。ドイツ語が語源だそうで、「WANDER」(漂泊する、ふらふらする)ことへの「LUST」(渇望)。病的なまでに強く、遠くに行きたくなっちゃう気持ちである。

こういう傾向を持っている人は、つまりホモサピエンス中の「突撃隊」的存在だってことなんだろう。

わりに最近の研究で、ある遺伝子がこのワンダーラストに関連しているのがほぼ確実だというのが実証できたという話を聞いた。人類の20%は特定の遺伝子「DRD4-7r」を持っていて、どうやらその人たちはワンダーラストが強いという説だ。


これはドーパミン受容体の感度を決定する遺伝子で、これを持っている人はほかのグループに比べてリスクを取るのが好きで新しい刺激を求める傾向があるので、旅好きなだけでなくアル中やヤク中にもなりやすく、精神疾患にかかる傾向も強いらしいという。
(『Telegraph』紙の記事はこちら)





この遺伝子「だけ」がそういった特性を決めると結論するのはちょっと単純すぎるんじゃないですかと思うけど、わたしたちの志向や嗜好はその多くが生まれつき埋め込まれたものだっていうのは、まあそうなんだろうなと思う。

人間の生活にはほんとうに沢山チョイスがあるから、成長していく間にミュートになるものや活発になるものもあるんだろう。殺人鬼になりやすい遺伝子構造、お坊さんになりやすい遺伝子構造、会計士になりやすい遺伝子構造というのもあるのかもしれず、でもそれにたいする適切な環境のはたらきかけがなければ殺人鬼もお坊さんも会計士もできあがらないという、そういうことなんだと思う。

まだ誰にもわからないすごく複雑なしくみによって、わたしたちはいろんなものを、人や場所や香りや味や音や感触や、さらには思想や信条も、致命的に好きになるように運命づけられている。

個性というのは、究極的には「自分は何が好きか」っていうことだ。何ができるか、よりも、きっと何が好きかのほうが、要素として大きい。

その志向のほとんどが遺伝子で決定されているにしても、わたしたちは「好き」に引きずられて喜びを感じ、湧き上がる願いを切実に生きずにはいられない。

ノラちゃんの切ない啼き声は、紛れもなく「ワンダーラスト」の表明だとおもう。

はてしなく大きな空間、遠くで飛んだり動いたりする不思議なもの、見たことのない色や形や感触。窓の外に見えるものや、ごみ箱のウラにあるかもしれないなにものか(なにもないけど)に、ノラちゃんのタマシイが引き寄せられているのだ。

人間の2割にさまよい系の人がいるなら、猫にもさまよい系がいないほうが不思議だ。

もしかしたらもっと単純な生きもの、爬虫類とか昆虫の中にも、安定を志向する個体と遠くへ行きたがる個体が同じくらいの割合で存在してるのかもしれない。

「タマシイ」がアミノ酸の雲のどこかにしまわれているのなら、タマシイ構造が単純なものから複雑なものまで、生命体の間で共通しているのは当たり前な気がする、と最近よく思う。「何がしたいか」「何が好きか」だ。

これは仏教的な考え方につながっていくのだと思う。もっと言うなら、きっと植物にだってそういう指向のスイッチはあり、感受性のモトがあると思う。

ショウジョウバエもドーパミンを持っているということを忘れてはいけない。わたしたちの知っている嬉しさや恐怖のエッセンスのコアである原始的ななにかを、ハエたちも知っているのだ。ましてや猫たちは。

言葉の檻、主観の檻、ロジックの檻に閉じ込められていない猫や犬たちは、人間のタマシイの真ん中にあるものを、そのまんまのかたちでみせてくれる。だから犬や猫といるのがこんなに面白いのだ。

言語獲得以前のワンダーラストを、ノラちゃんがかいま見せてくれる。




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2017/09/19

脳みそが変わるの話、ふたたび




冷たい雨がしとしとと降り出して、シアトルはとつぜん、秋になってしまいました。
気づけばもう9月もそろそろ終わり…!ひょえーーー。


ところで前回のつづきです。

意識は幻想かどうか、というお題とはすこし離れるんですが、TEDトークでもう一つ面白かったのが、モシュ・シーフさんというバルセロナのエピジェネティクス研究者の話。
エピジェネティクスというのは、遺伝子発現のメカニズムを研究する学問であるらしい。

シーフさんは、ネズミのお母さんの子どもの舐め方などを観察する研究などにより、「DNAというのは、ダイナミックな映画のようなものであり、環境によって実際にフィジカルに変化する。特に幼児期のインプットはとても大きい」と結論しています。

日本語字幕つきのトークはこちら


つまり、DNAに書かかれていることは、変えられない「宿命」ではなくて、いろいろなものの相互作用によって変わっていくものであると。

サポルスキーさんとは違い、シーフさんはヒトには「エージェンシー(行為の主体)」があり、環境とダイナミックに働き合って環境を変え、DNAを変え、行動を変え、社会を変えていくものであると言っています。

その行動の主体となる「私」は、場合によって個人でもあり、コミュニティでもあり、世界そのものでもある。それらがすべて関与しあっているのだと。

わたしはこれ、すごくすとんと納得できるのです。

そして「受動意識」仮説の対象であるところの「意識」は、「意識」や「個人」「自我」を固定されたものとする、昔ながらの、19世紀の西洋知識人的な定義なのでは?と、思うわけなのです。


去年、福岡伸一ハカセの著作『動的平衡』を読んで、がっつーんとやられてしまったんですが、福岡ハカセはこういってます。

「消化管神経回路網をリトル・ブレインと呼ぶ学者もいる。しかし、それは脳とくらべても全然リトルではないほど大がかりなシステムなのだ。私たちはひょっとすると、この管で考えているのかもしれないのである」(74)

つまり私たちがふつうに考えている「意識」というのは、脳の一部で起きていることにすぎないわけで、消化管の神経網とかそのほかの部分で身体が「考えている」ことを、私たちはまだ正確に知る手立てももってないということ。

だから、 そういう観点から考えると、脳の一部の「意識」が常に身体や行動を支配しているというのはもちろん間違いで、

「指を動かそうと決断する瞬間よりも0.35秒前から、脳内で行動の準備が始まっていることが判明した」

…というのも、別に驚くに値しないような気がするんですよ。大脳皮質でつくられる意識が、辺縁系とか身体のほかの部分ですでにゆるく決められている自分の決断に気づくのが遅いってことでは。

そして、ある良くない傾向に気づいたときに、大脳皮質の「自分」は、「これはあかん、やめよう」という決断を下して方向を転じることもできる。
そういう意味では自由意志というのは絶対にある、とわたしは思います。

 あともう一つ、最近観た意識関連のTEDトークで面白かったのが、哲学者のジョン・サールさんのプレゼンテーション。



意識は演算以上のものであり、現実を作り出すものである。

意識は主体的なドメインにあるものであるが、科学の方法で客観的に研究の対象とできるものである。

意識などというものはない、というのも、意識は単なる演算、というのも間違いで、意識は完全に生化学的な現象である。光合成や消化のしくみのように。

ただ私たちはその詳細をまだ知らないだけだ。

…というのがサールさんの主旨。

この主張は、「わたしたちは考えるちくわ、またはゆるい淀みである」という、福岡ハカセの考え方とほぼ同じではないかと思うんです。

そして、この考え方も仏教の教えていることと似ていなくもないな、とも。

あと、デジタルクリエイターズ&ぽんず単語帳で「還元主義」について書いたときにも思ったんですが、松尾豊さんが書籍『人工知能は人間を超えるか』で

「脳は、どうみても電気回路なのである。…人間の思考が、もし何らかの「計算」なのだとしたら、それをコンピュータで実現できないわけがない」

と言ってましたが、そのように人工知能の可能性のほうから考えていくと、すべてはデータに変換可能ならば、存在とは一元的であり同時に多元的であるということになってしまい、そそそれは、般若心経に書いてあることと一緒では?とクラクラしたりするのです。


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2017/09/16

自由意志は幻想かどうか



セーラー服おじさんことケバヤシさん(でいいのでしょうか)は、デジタルクリエイターズというクラブ活動のようなメルマガに私をひっぱりこんでくれた張本人です。

セーラー服を着て街に出没するという活動(最近は中国など海外にも招聘されてセーラー服活動を行っていらっしゃる様子)をするかたわら、まっとうなエンジニアでもあられるケバヤシさんですが、先日のメルマガ記事『意識は機械に宿るのか?受動意識仮説と幸福学と仏教』が面白すぎて、メールでレスを書こうと思ったんだけど長大になりそうなので、ブログで書くことにしました。

さてさてどこから手をつけたものか。

ケバヤシさんのこの記事は、『受動意識仮説と幸せ』という、慶應義塾大学大学院の前野隆司教授の講演を聴講してのレポートと感想が中心になってます。

「意識の謎」と「仏教」と「幸せ」についてはケバヤシさんも非常に関心をもっている領域なんだけど、なかなかその3つをまとめて興味ある!という人は少ないので、前野教授のような人は「けっこうミラクルなんじゃないか」と思われたと、記事に書かれています。

いやわたくし、その3つとも、ものすごい興味あるんですけど!

意識と、仏教、そして幸福。

わりと暇さえあれば、脳がアイドリング状態のときにはその3つのどれかについて考えてしまっている時間が多いです。

ほかにもあといくつか、アイドリングで考えていることがある。

キリスト教、日本の神様、エクスペリエンス、アートと価値について、 意味と言葉、環境とデザイン、インプットとアウトプット、スケールについて、「ミーム」とおカネなどについて、愛と誠について。うふふ。

もうすこし「現実的な」ことに脳を使うべきな気もするけど、もういろいろな意味で仕方ないです。

みんな、こんな面白いことに興味がないの?正気なの?と思うほど面白い話題だと思うんだけど、意外とそうでもないらしい。

あまり人に話題をふると、すこし気の毒そうな顔で見られる方面なのですね。

世の中は深く広い。

わたしは前野氏の著作は読んだことありません。この方は脳科学者ではなく、ほかのハードサイエンスの人でもなくて、システムデザイン工学という部門のエンジニアなのだそうです。そんな分野があるのね。それすら知らなかった。世の中には知らないことが多すぎる。

(ここからはケバヤシ氏のブログからの引用なので、孫引きです)
前野氏は、

「心は幻想であって、実は存在していないようなものである」という立場をとっている。


ベンジャミン・リベットという研究者の有名な実験結果で、

「指を動かそうと決断する瞬間よりも0.35秒前から、脳内で行動の準備が始まっていることが判明した」

というのがある。
脳の中では、意思よりも先に行動がすでに準備されている、したがって意識は遅れてやってくることが証明された。
この結果は、つまり自由意志というのは錯覚にすぎないということ、と前野さんは結論している。

 「脳を調べてみると、意識領域と無意識領域とからなる」

「心の機能を5つの要素に分解して、それらについてひとつひとつ検証していくと、どれもこれも主体的には機能しておらず、ものごとが無意識下で機械的に決定されていくのを下流で眺めているだけであって、受動的にしか機能していないことが判明する」

(以上ケバヤシ氏の記事より)

というのが、前野さんの見解だそうです。

……分解して検証するっていうその発想が、いかにもエンジニアらしいなあ。

人の脳には確固とした「意識」があるという旧来のモデルでの理解はまちがっている、と前野さんは考えているらしい。

「旧来モデル:「意識」がボスで、すべてをコントロールしている
新モデル:意識は無意識の結果を眺めているだけ」

と、前野さんは考えているそうです。


……うんうん、それはわかるよ!

意識というもの、つまり「個人」とか「我」とかというものは、そんなにくっきりしたものではないんじゃないか。と、わたくしも、このところますます確信をもって考えていたのである。

私は慶応大の教授とかではないので誰にも意見を聞かれる機会はないのであるが、「意識」って、つまり「自分」って、今までの歴史、特に18世紀以降の西洋インテリジェンスの世界で思われていたほど、たいそうなものじゃなのかもしれないな、という気がしてきていたのです。 

でも前野さんやケバヤシさんのように「自由意志なんて幻想」という立場とは少し違います。

わたしは、むしろ、人間ってきのこのようなもので、意思というのは、現在考えられているものよりも、もっとゆるふわなものじゃないのか?と考えているのです。



えーとまず、リベット教授の知見は、「さもありなん」て感じなんですが、ちょっと待って。
これを「だから自由意志なんて、ない」という証拠として使うのは、かなり乱暴ではないですか?

これは「何を自由意志と呼ぶのか」「何を意識と呼ぶのか」という、定義の問題ではないのかと思うんですよ。
 
 「行動を決断する0.35秒前に脳の中で行動の準備が始まっている」
という生体反応と、
「今このドーナツを食べるか食べないか」
というヒトとしての大きな決断の間には、スケールにして、たぶん微生物と象くらいの違いがあるのでは?

それをすべて「自由意志」というひとつの言葉/概念でくくってしまうのは、あまりにも乱暴な話ではないかと思う。

 単細胞の微生物も象も、ひとつの生命体という意味では同じだけれど、象は単細胞生物よりもずっと、複雑な層からなってますよね。

 わたしは、 「行動を決断する0.35秒前に脳の中で行動の準備が始まっている」ということは、「決断」をした主体である個人の「意識」にその「決断」がのぼる前に、「わたくしという総体」が決断をしてしまっているということではないのかと思うんですよ。

つまり、その「意識」をもつ主体は自分が決断したことをまだ知らないのではないかと。少なくとも0.35秒の間は。

この主体が、普通一般に「自我」といわれているもので、その少し外側に、無意識のもやもやとした境界を含む部分があって、そこも含めて「自由意志」と呼ぶべきではと思うんですよ。

このもやもやとした部分は、たぶん、脳のなかで最初に進化した部分であり、言語に関連する論理を扱うところとは別のロジックで動く、原始のエネルギーを持つ部分です。
情動とか、生きる力とか、身体の筋肉や神経組織、ホルモン分泌や消化組織のメカニズムを動かす、そういう方面。

さいきん、TEDで、「意識」に関連したとても面白いトークをいくつか聴きました。
ひとつめは、スタンフォード大のロバート・サポルスキー教授のもの。



日本語字幕つきのバージョンはYou Tubeで見つからないので、こちらで。

サポルスキー教授は、やはり前野教授とおなじく、「自由意志はない」という立場。

でもこのトークでは、人間のあらゆる行動には、生化学的なものから環境、文化まで、様々な作用がはたらいていること、そして行動やその条件としての脳の状態は変化するものであること、私たちはそれに自覚的になることでのみ「善」に近づけるのだと語っています。

他者に暴力を振るうのを楽しむこともできる、かと思えば他のために自らの生命を投げ出すこともある人間の行動は、単一の遺伝子やトラウマや行動から成るのではなく、無数の層からなるもので、私たちはその結果であると。

これも、仏教の因果の法とおなじこと言ってますよねー。と、思いませんか?

長くなるのでつづきはまた別の日に。


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2017/08/21

日食が脳を変える


ダウンタウンの南、シアトル港をすぎたあたりに貨物用の線路が道路と並行して走っていて、コンクリート会社が専用に使っているらしい。そこにおきっぱなしになってるこの貨車が気になってました。
いい感じにサビがでた上に、ミロのヴィーナス??のような顔がずらっと貼られている。
アメリカの貨車はラクガキにおおわれていることが多いけど、このグラフィティは気が利いてるな、と思ってたら、数日前に見ると、顔がいくつかはがされたり黒く塗られてて、F--k White Spremacy(白人至上主義はクソ)という殴り書きがふたつ追加されてました。

うーん、どうせなら殴り書きじゃなくてもっとこうパンチのあるのにしようよ。


ツイッターで見たこれはオシャレ(「移民は犯罪ではありません」)。

ところで今日のシアトル・タイムズに、たとえば日食などのすごい体験で畏怖を感じると脳がどうなるかについての面白い記事がありました。

アリゾナ州立大学のシオタ教授の研究によると、Awe(畏怖)を感じたあとの被験者は、新しいアイデアにオープンになりやすく、記憶を捏造しにくくなり、より批判的思考がしやすくなるのだそうです。つまり、偏見なしに世界を見るのがより簡単になるんですね。

さらに、祈りを捧げている修道女と瞑想中の仏教の僧の脳の活動をMRIで観察したところ、きわめて似た状態の畏怖を感じていることがわかり、感情と記憶をつかさどる辺縁系が活発になるのと同時に、空間の感覚や自己認識をつかさどる頭頂葉が静かになっているのが分かったそうです。

実は幻覚きのこやLSDでもこの頭頂葉の活動が抑制されることによる自己感覚の喪失、空間認識の喪失というのは起こるのが知られているそうです。

修業を積んだ僧が瞑想で会得する感覚ときのこのトリップによる感覚が全く同じといっていいのかどうかは議論になるところだろうけれど、要はそこから日常世界に何を持ち帰れるかが違うということではないでしょうか。

人の世界観を変えるような畏怖は、なにも日食とかグランドキャニオンとか幻覚きのことかそういう日常の常軌を逸したスケールの体験にかぎらず、どこにでも転がっているんですよ、という研究者の言葉を記事は引用しています。

「畏怖は人を連帯させる」とも。
ネオナチの人びともISISの人びとも、宗教的な畏怖を知っているのに違いないのだけど。宗教の中心にあるのは畏怖と、自己の消失ですよね。それをもっとうまく使う方法はないのかなあ。

思うのだけど、モノのインターネットや人工知能がもっと発達してきたら、人類は良かれ悪しかれ「自我」の境界がだんだんあいまいにならざるを得ないところにいってしまうのではないかと思います。

それが恒久的な平和につながるかというと、そうでもないという気がするけど。


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2017/07/28

バイリンガルのコスト




(これはシアトルの南のほうで見かけた街角アート。作者さんは存じませんが、一筆書きっぽい力の抜けた顔がなんだか好き)

デジタルクリエイターズで先日掲載していただいた記事です。

編集長がまぐまぐに推薦してくださって、そっちに載ったら『日本の親が気づけない「子供をバイリンガルに育てたい」の危険性』というなんだか刺激的な記事になっていてあせる。危険って〜!その言葉は使わなかったんですけど〜!(;・∀・)

デジクリの編集長は「炎上するといいですね♡」って、おーい。

私にはとてもできないような努力を傾けて、慎重にバイリンガル環境でお子さんを育てている人もたくさん知ってるし、バイリンガル教育を全面的に否定してるわけじゃないんですよ。とわかっていただけるといいのですが。

ということで再録します。


(いま休館中のシアトル・アジア美術館で見たツボ)

(ここから)


日本では子どもの英語教育に熱心な親御さんが多い。

日本では義務教育で6年間英語を学ぶのにほかの国に比べて英語力が低い、なんとかしなければ、という議論をよく耳にする。小学校でももうすぐ英語とプログラミングが必修になるとか。

私は英語教育についてはまったくの門外漢でしかないが、大人になってから英語をなんとかかんとか身につけ、英語圏で生活して、英語と日本語の環境で子育てをした立場で、つまり日本の英語教育については完全に外から眺める立場で、思うことをちょっと書いてみる。

英語教育の現場に立っていらっしゃる方から見るとピントが外れていたり、何をいまさらと思われるかもしれないが、部外者の勝手な感想だと思ってスルーしていただければ幸甚である。

日本の、特に子どもの英語教育で違和感を感じるのは、それが「芸」としてのみ捉えられているようにみえるところだ。

日本の人は芸事が好きで、特に試験とレベル分けが好きだ。

お茶でもお花でもスポーツでも書道でも将棋でも、級や段が細かく分かれていて、少しずつレベルアップしていくシステムが浸透している。これが英語にも適用されていて、TOEICや英検などが英語力の目安になっている。

もちろん、レベル分けそのものが馬鹿げているなんていうつもりはない。
自分のスキルを一般的な基準に照らしてチェックするのは必要なことだと思うし、やる気にもつながる。

でも、子どもの言語力にこういう考え方を当てはめるのは意味がないと思う。

もちろん言語はスキルには違いないのだけど、同時に言語は文化であり、思考プロセスそのものの一部であり、その人の内面の大きな部分を構成する要素でもある。
そのことが、英語教育の議論ではほとんど無視されているように見えてならない。

バイリンガルとはなんなのか

ネットを見ていると、「子どもをバイリンガルに育てたい」と希望している人が多いことに驚く。海外で苦労しながらバイリンガル環境で子育てをしている人から、日本にいながらにして子どもに英語を身につけてもらいたいと熱望して英会話スクールやインターに通わせている人まで、本当にたくさんいるらしい。

でも彼らが子どもたちに望んでいる「バイリンガル」像ってなんだろう?というのが、よくわからない。

「バイリンガル」といっても、ものすごーく色々である。
私はハワイでもシアトルでも、実にありとあらゆるバイリンガルの人に出会った。

2カ国語で会議ができる人、読み書きはどちらか一方でしかできない人、聞くだけならわかる人、長年ハワイにいすぎて母語の日本語の方が怪しくなってきている人。

ハワイは特に観光業が主要産業で、日英両方が流暢に喋れる人はホテルのフロントからツアードライバーまでもう本当にたくさんいた。

有象無象のバイリンガルの中で最高峰の言語能力を持つのは通訳者の皆さんであるのは異論がないと思う。私は同時通訳ができるレベルでは全然ないが、通訳の勉強も少しだけしたことがあり、同時・逐次通訳者さんたちの超人的な技能を間近で何度も拝見した。

会議通訳の業界では、通訳者が仕事で使える言語(working language)をA言語、B言語、C言語と分けている。
参考:ワーキングランゲージ

A言語は「母語」。生まれ育った国(または地域、民族)の言語。

B言語は「完全に流暢に喋れる」が、母語ではない言語。
通訳者はこの言語への通訳もするが、多くの場合は逐次通訳のみ、同時通訳のみなど形式を絞ることが多い。

C言語は、聞けば「完璧にわかる」が流暢には話せない言語。通訳者は自分のC言語からB言語やA言語への通訳はするが、C言語への通訳はしない。

A、B、C言語を持つ通訳者はどの組み合わせでもレベルの高い「バイリンガル」だが、通訳者の間でもA言語、つまり母語を2つ持つバイリンガルというのは非常にまれだという。

中にはA言語を持たず、B言語のみ2つ持つという人もいると聞く。たとえば両親の仕事の都合などで、外国を転々として育った人の場合など、完璧な読み書きや会話の能力を2つ以上の言語で持っていても、そのどちらにも母語といえる背景を持たないこともあるとか。

ではA言語とB言語の決定的な違いはなにか、というと、私が通訳の授業を受けたハワイ大学のスー先生は
「子ども時代の歌や童話などに通じているかどうか」
「ジョークがわかるかどうか」
を例として挙げていた。

つまり、言語の背景にある文化の厚みが身についているかどうか、ということ。

文化はとてつもなく入り組んだ、とてつもなく膨大な情報だ。
言語の機微はその文化の一部。ある文化の中に生きる人が共有する価値観、なにがタブーなのか、なにがイケてるのか、といった皮膚感覚のような非言語情報まで把握していないと、冗談はわからないことが多い。

バイリンガル環境で子どもに2つの言語を完全に習得させようとするのは、2つの文化をまるごと理解させようとすることだ。それがどれほど莫大な情報量なのかがあまりわかっていない親御さんも、特に日本でバイリンガル子育てをしようと試みている方の中にはもしかしたらけっこういるのではないかと思う。

バイリンガル教育の投資効果

私は言語というのはコンピュータのオペレーションシステムのようなものだと思っている。

コンピュータのハードウェアにもスペックや個性があるが、OSをのせて初めてその他のアプリが動かせる。

日本語と英語のように構造の違う言語を同時に動かすということは、MacOSとWindowsを同時に走らせるようなもので、かなり脳のリソースを食うもの。しかもそのOSがふたつとも構築の途中であれば、構造全体がグラグラすることだってある。

子どもをバイリンガルに育てたいと思う親御さんは、それだけのことを子どもの脳に要求しているのだときちんと認識しておくべきだと思う。

これはうちの息子の教育方針について元夫と意見が割れてケンカになった時からずっと考えていることで、当時は理路整然と説明できず単なるケンカに終わってしまった。

元夫はアメリカ人で完全なモノリンガルだったが、子どもはバイリンガルにしたい、どうしてもっと日本語を教えないのか、といい、私は別にそんなしゃかりきに2言語で育てなくてもいい、頭の基礎が固まるまでは英語を重視したいという意見だったので、子どもが幼稚園に入る前に大変なケンカになったのだった。

思うにモノリンガルの人ほど、子どもをバイリンガルにしたいという過剰な期待を持ちがちなのではないかという気がする。

あんまり誰も言わないようだけど、一時的にせよ恒久的にせよバイリンガルになるかどうか、どれだけ早く第二言語を獲得して使いこなせるかは、教え方や環境よりも、むしろその子どもの生来の能力によるところが大きいのではと思う。特に小さいうちは。コンピュータの比喩でいうと、ハードウェアのほう。

音感やリズム感、運動能力と同じで、言語の獲得や記憶にも得意・不得意があるのは当然なのだ。

ごく一般的には女の子のほうが言語能力は高いようだし、同じような環境で育った兄弟にも言葉が早い子と遅い子がいる。

私は自分の息子が1歳くらいの時に、こいつは特別に言葉のカンがいい感じじゃないから、とくに2言語を強要するという無理はさせないでおこうと直感で決めた。

それも親の勝手であって、見ようによってはただ単に親の怠惰を正当化しているだけかもしれないし、貧乏で日本語補習校などには通わせられなかったという事情もある(その後結局離婚してしまったのでバイリンガル環境どころではなかった)。

でもその後も、この子は大学までアメリカで教育を受けるのだから、とにかく英語できちんと読み書きと算数ができるようになるのが優先、その次がスポーツと音楽、日本語は興味が持てそうなものを目の前に出しておくくらいにして手を抜こうと意識した。

結果、それで良かったのかどうかはわからないが、まあ全面的に間違いではなかったと思う。小学校からサッカーをやっていたのが自分の居場所になったようだし、特別優秀な子どもにはならなかったけどそこそこ普通の学力をつけて自分のしたいことを見つけられた。日本にも深い興味を持っている。日本語は小学生レベルで、もちろん仕事が出来るような日本語能力ではないが、本当に日本語を使う必要がでてくれば自力でなんとかするだろう。

お金と時間と労力は限られているから、何をやるかは何をやらないかの選択でもある。

バイリンガル教育に乗り気でなかった理由には、コストパフォーマンスの問題もある。
早期の言語教育というのは、投資効果があまり高いとはいえないと思うのだ。

高い言語能力を2カ国語で維持するのは子どもにとっても大変だし、親にとっても高いコミットメントが必要。時間もかかるし、お財布にも脳にも相当な負担がかかる。
仮にそうして完璧なバイリンガルに育ったとしても、それで生涯の収入が約束されているわけではないし、逆にそのことでキャリアパスへの意識が言語のほうに偏ってしまう可能性もあるのではないかと思う。

2つの言語ができるというのは確かに素晴らしいスキルではあるけれど、職業的な成功の上で最も大切なスキルではない。

それに、早い段階での言語能力は大人になってからのスキルや能力と直結しているわけではないと思う。

(ちなみに第二言語の獲得に臨界期があるというのは不思議な都市伝説だと思う。通訳者も含め、第二言語をアカデミックなレベルで使いこなしている人には中学や高校以降にその言語を学んだ人が多い。直接の知り合いで日本語の複雑な資料を読みこなせる英語のネイティブが5人いるが、その全員が高校以降に日本語を学んだ人だった。そのうち1人は中国語もほぼ完璧で、現在は米国資本の銀行の上海支店長かなにかをしているらしい。日本人で米国の会計士や弁護士の職についている知人も中学以降に英語を始めた人ばかり。逆に、小さい時からバイリンガルの人には意外と向学心がなかったりする場合もある。)

子どもは覚えるのも抜群に速いけれど、忘れるのも速い。就学前に異国で学んだ第二言語を故国に帰ったらすっかり忘れてしまったという例もたくさんある。

中学生くらいまでは、子どもの脳はフル回転で情報を整理して世界を構築している時期だと思うのだ。不要な情報はさっさと忘れてしまう。
だから、その時期に子どもの獲得した言語能力について一喜一憂するのはあんまり意味がないことだと思う。

子どもにとってもっと大切なことは、他にある。

身体にそなわった感覚をフルに使って経験値を高めること、思考力を鍛えること、安定した自信を築くこと、他の人への共感を深めること、コミュニケーション力をつけること、知りたいと思う意欲を伸ばすことなどだ。もしも、第二言語を身につける努力のためにそういった能力を伸ばす機会が大きく損なわれるなら、それはとんでもないコストになる。というのが、私がうちの息子に第二言語である日本語をプッシュしなかった言い訳だ。

とはいえ、バイリンガル教育がいけないとかムダとかいうつもりはまったくない。
優れた教育の場で複数の言語に触れながら育つのは素晴らしいことだと思うし、2言語をバランス良く獲得することが心や身体の真の基礎力をさらに伸ばすことにつながる幸せなケースもたくさんあるはずだ。

ただ、本格的なバイリンガル教育には教育者や保護者の慎重なサポートと相当のコミットメントが必要なのは間違いないし、子どもに合う合わないもあると思う。同じように教育しても同じレベルのバイリンガルが出来上がるわけでは決してないのだと思う。

英語ができると何がトクか

早期の英語教育はムダだといいたいわけでもない。

英語(だけでなく他言語)に触れる機会は早くからあった方がいいと思う。

他言語で考える練習や異質な文化体系に触れる体験は多いに越したことはないし早いに越したことはない。その体験は、音楽や体育と同じように、経験値を上げて脳の基礎力を上げることに役立つと思う。

でも、子どもに英語を学ばせる目的を、大人のほうがもう一度整理した方がいいんじゃないかと思うのだ。

目的は「英語ができるとカッコいい」ではないはずだし、漠然とバイリンガルにしたいというのなら子どもにとっては迷惑な話だ。

小学校に英語が導入されても、「芸」の進み具合を測るテストが増えるだけでは本末転倒だと思う。

「将来、世界に向かってきちんと意見が表明でき、情報が読みこなせるレベルの英語力をつける」というのが目的なら、まず、英語を話す世界に入っていくことのメリットを子どもたちに説得できなければだめだと思う。

「芸」としての英語ではなくて、生きている文化として、リアルな社会のツールとして、考えるツールとしての英語とその先にある情報の世界が、自分にぜひとも必要で入手可能なものとしてリアルに感じられないとモチベーションにはならないし、本当の知的刺激にもなり得ないと思う。

小学校で英語を導入するとしたら、その英語を使って手に入れられる多様で魅力的な世界をリアルに体験させてあげること以上に、大切なことはないんじゃないかと思うのだ。

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2017/04/05

脳がつながる日




『ゴースト・イン・ザ・シェル』観てきたばかりだけど、きのう、テスラのイーロン・マスクが「コンピュータと脳をつなぐ神経系UI技術を開発する新会社」Neuralinkを作ったと認めたそうです。ギズモードの記事はこちら

火星移住と同じでいつ成功するか、ほんとうに成功するかは未知数なプロジェクトではある。あるけど。『ゴースト・イン・ザ・シェル』の世界は、意外にほんとに数十年で来るのかも。

CBSは

ますます階層に敏感になりつつある世界で、ひと握りの人間が人間を超越する能力を手にいれるというのは、誰にとっても、最悪のシナリオではないか。特に、現在よりもさらに格差が進んだ時にその技術が実現すれば、なおさらだ

という論説を載せてます。

技術は可能になれば、誰が禁じても必ず実現するもの。
そんな技術がうっかり実現する前に、社会が格差を是正する方向にシフトしなければ、という論旨。もちろんだ!

イーロン・マスクがほかで言ってるような「ベーシック・インカム」だけでは、格差の是正にはつながらない。それだって、導入が実現するには、1930年代の大恐慌なみの社会的な災厄が起こらないと、きっと無理なんだろうなー。

あーやだやだ。
若者よ頑張ってくれ。
おばちゃんに出来ることは、今のところなにもないな!

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2017/04/04

ゴースト・イン・ザ・シェル!


『Ghost in the Shell(ゴースト・イン・ザ・シェル)』みてきました。

予告編を何度か観て、こりゃダメかも〜。うーん。でも観ないわけにはいかん、と思いつつ劇場に行ったんだけど、予想以上によかったです

士郎正宗さんの原作コミックは、わたくし、崇拝しているのですが、情報量が多すぎて何度読み直しても完全に理解できない。

原作とも押井守監督のアニメ版映画とも全然別ものだけど、これはこれで了解いたしました。ふつうにいいと思う。

「草薙素子少佐」じゃなくて「レイチェル少佐」のスカーレット・ヨハンソンは本当によかった。
内省的な目ぢからがすごくて、アンドロイドっていわれれば、まあそうかも、と思えるような存在感。

義体(人工の肢体)を開発する科学者役のジュリエット・ビノシュも大好きな女優さんの一人。このひとが画面にいるだけで映画の格が上がるかんじ。


一人だけなぜか日本語を喋る荒巻部長役のたけしも。原作の部長のキャラとは全然違うのだけど、妖怪的な不気味な存在感があってこれはこれでよかったです。なんかでもヤクザっぽいな。

バトーさんはもうちょっと凶悪そうなほうが良かったなー。ちょっといい奴っぽすぎる。

そして、トグサ役が中国人(香港人かな)俳優というのは、少佐がスカーレット・ヨハンソンというよりもむしろ残念な気がする。俳優さん自体はとってもトグサらしくてよかったんだけど。

あと、フチコマが出てこなかったのがなんといっても残念でした。
フチコマまたはタチコマは、ネットワークにつながっていてうっすらと自我のようなものを持っているという設定の人工知能搭載の多機能のりものです。たしかに、フチコマちゃんを出すとお金かかりそうだし話がややこしくなるわね。

(以下マイルドにねたバレ)

原作の舞台は第4時大戦後、核戦争で東京が消滅した数十年後の日本の「ニューポートシティ」だけど、冒頭に画面に字幕で出てきた説明をちゃんと読まなかったこともあり、映画の舞台はどこなんだかよくわからない。日本にしては国際化しすぎていて、もはや東アジアの大陸に溶解してしまった日本国家の都市という感じ。もしかしたら韓国と北朝鮮と香港とマカオと台湾と日本で合併したのかもしれない。

たけしが一人で日本語で喋ってはいるけど、ほかの登場人物は英語。

日本語、韓国語、中国語の看板が入り混じり、キッチュな巨大人物や鯉のホログラフ映像がビルの谷間にびっしり立て込んでる景色は、なかなか見ごたえありました。

とにかくビルが多くて垂直にせせこましい混沌としたアジア都市は、どうみても近未来香港。

香港チックな漢字の看板いっぱいのゴミゴミした都市は押井守監督のアニメ版をそのまま実写化したかんじだけど、『ブレードランナー』の衝撃的なディストピアのアジア都市の延長線上にあって、ビジュアルでびっくりするようなところはあまりなかった。むしろクリシェな感じ。90年代的な近未来解釈。(ゲイシャロボットも、90年代的なセンスだなと思う)


義体を作っているのは、国家以上の権力がありそうな企業「HANKA」。この企業のロゴとか、ちらっと映る社屋とかもなんとなく90年代ふうであんまりウルトラオシャレじゃなくて、少し残念でした。これも香港風というべきなのか。

たけしが「首相と話してきた」っていう場面が2回あったけど、どんな首相のいるどんな国家体制になってるのかは謎。HANKAの白人男性社長は政府と癒着しているらしいけど、敵としてはうすっぺらすぎて怖さがない。

ハリウッドから見ると、結局中国も日本も韓国もひとまとめにアジアなのねというのが良くわかる。ていうかね、たけしの存在でかろうじて日本の原作に敬意を表してはいるけど、完全に舞台は中国に取られてしまっている感。

きっとコアな日本のファンには、もうそこだけできっと拒否反応のひとがいるのだろうな。
でもね、「俺たちの少佐をかえせー」と言ってももう無駄だと思うだよ。 

DreamWorksなどに続いて、映画の冒頭に制作会社&配給会社のクレジットが何社も続くのだけど、最後の2社は中国のだった。ネットでちょっと調べても出てこなかったので何をした会社かわからないけど。

とにかく制作現場でのパートナーとしても、市場としても、ハリウッドが必死で見てるのは中国なんだな、もう日本は、映画でのたけしの存在が象徴するように、もっともバイタルな存在ではなくなって、シンボル的なものになってきたのかもしれない、とふと実感しました。

ヲタクのひとたちが微妙に右傾化しているらしいのは、世界が、そしてこの東アジアの一画が、もう取り返しのつかないほどグローバル化してしまったことの証明なのだな、と、映画とはまったく直接関係ないけどそんなことを思ったりもした。

グローバル化っていうのは「フラット化」なりと主張してたのはトーマス・フリードマンさんだけど、実際にはグローバル経済はこの映画のニューポートシティに描かれるような格差や荒廃を作り出している。でも、意匠や文化のフラット化は進んでいる。日本の「クール」が新しかったのは、きっと90年代までだ。今ではジャパニーズアニメの言語はもう世界のミレニアル世代の共通言語のなかに組み込まれているのだし。本当の「フラット化」というのはもしかしたらこの映画の町並みのような風景のことをいうのかもしれない。
  
(以下盛大にネタバレあり)






原作やアニメ版映画の草薙素子少佐は強くてハードボイルドで、感傷も他者への共感も強いて持とうとしない。これは、ジャパニーズアニメのキャラクターのひとつの典型。

だけど、この映画の「レイチェル」少佐は、ふつうに傷つきやすく、自分の出自に納得していない。

なので少佐の自分探しが映画の本筋になる。

原作世界では、ネットワークにつながる電脳の中に個性または「魂」というべき「ゴースト」がゆるく存在しているという非常にややこしくエキサイティングな設定なのだけど、この映画では、ひとの脳を人工の義体に埋め込み、完全に統合することに初めて成功したのが「レイチェル」ということになっている。

そしてレイチェルには時々、ジェイソン・ボーンのように、過去の記憶が一瞬戻ってくる。いったい自分はなにものなのか?
 

追っていた敵が、実は自分が作られる前の実験体として捨てられた人造人間だったということがわかり、いったい自分の前には何体実験体があったのか、とレイチェルは自分を作ったハカセを問い詰め、ついに真相を知る。

「テクノロジーの暴走に反対する革命分子」みたいな若者グループが、警察の襲撃を受けて国家に拉致され、その若者たちの脳がこのプロジェクトに使われていたのだった。レイチェルの脳は「モトコ・クサナギ」という若い女の子のものだった。

反乱分子が国家に拉致されてその肉体が国際企業の実験に使われる。中国を念頭におくと、何か妙に説得力がある話。

強欲な企業のCEOからレイチェルを逃がすために犠牲になるハカセ(ジュリエット・ビノシュ)と、モトコという娘を失った後、古い高層アパートに一人で住んでいる寂しい母(桃井かおり)という2人の「母」のおかげで、この映画の少佐はかなり人間らしい存在になってる。

原作コミックは、子どもにはちょっとみせられないエロ画像入りで、少佐のコスチュームもかなりエロい。でもこの映画(PG13)のレイチェルのボディは、かなりトーンダウンしていて、わざと作りものっぽい感じになってた。

全体に、映画としてすごく新しいところもなく、ものすごく尖ったところもなく、期待される中の妥当なラインで丸くおさまるように手をうったという感じがする。
映画そのものも少佐も、おっとりした印象だった。

せっかくなら、日本のヲタクたちも、世界のミレニアルたちもぶっ飛ぶような、金字塔的な映画になっててほしい。という淡い期待は裏切られたけど、優等生的にグローバル化した少佐も全然わるくなかった。ホールフーズで売ってる感じだけどな。

でも、本当にせつない近未来の絶望を圧倒的な映像で描く映画が観たい。
と思うと、押井守監督のバージョンをやっぱりもう一度観たくなるのでした。


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2017/03/03

15分以上かかる仕事はない



いったい私の時間はどこの4次元ポケットに入ってしまったのだろうと毎日思うわけなのですが、やはり気がつかないうちにぼーっとしていて、自分が4次元の世界に行ってしまっているらしい。

きょうの日経DUALの記事で、心理学ジャーナリストの佐々木正悟さんという方の時間活用メソッドが紹介されてた。

「重要」と「緊急」のタテヨコ軸で仕事の優先順位のマトリックスをつくる。

面倒な大仕事でも、15分のタスクに分ける。

1分単位の細切れ時間を活用して読書する。

そして、「今日やるべきことは終わった」感を1日の終わりに持つ。

…というのが簡単なメソッドの要約。
これはすごく納得できる。

「15分以上かかる仕事はない」と佐々木さんは言っている。分かる気がする。

15分というのは、分かりやすい、アタマで管理しやすい単位なんだと思う。
わたしも普段、自分の仕事を15分刻みで把握するようにエクセル表をつくってる。

もちろん、翻訳仕事やレポート書いたりする作業はがっつり1時間以上集中して取りくむことが多いけど、それも細かく区切ればたしかに15分単位に分けられる。
 
小さく分けることで、取り組みやすくなるし、「やり残してしまった感」の解消には確かにとても良いかも。

わたしの場合は、優先順位の振り分けがうまくいってないのと、スピードが上がらないのは自分にちゃんと締め切りをかしてないから四次元にいってる時間が増えちゃうんだな。

しばらく前から、ブログには1日15分を割り当てている。しかし15分で書けることはほとんどない。
時間切れになったら翌日にまわすようにしてるのだけど、面白くなってくるとつい1時間も2時間も費やしてしまう。

だらだらと読んだり書いたりぼーっとする時間も大切で、ほんとうは1日30時間くらいそういう時間があると理想的なのだけど。

本を読む時間を「緊急でないけど重要」な時間に割り当てて1日数分の積み重ねでもチマチマ読むというのは、実はもうここしばらく自分なりにやってみている。

積読本を毎日見ながら、生きてるあいだにこれを全部読むにはなにかを始めなければと1年くらい前から思い始め、朝晩と休憩時間に「すきま時間読書」をするようになった。

だけど、1分程度の合間に細切れに読める本というのは限られている。本をひらいた瞬間にその世界に入り込めるかどうかは、その時次第。

短歌集やエッセイ、ノンフィクションだと、数分でも一区切り読める。
フィクションは非常に微妙。

年末には、iPhoneの青空文庫で江戸川乱歩の『人間椅子』を、Fedexの行列に並びながら読んだ。椅子の中の空間と、クリスマス前のFedexの店頭の混雑が微妙に入り混じって記憶されています。

さて、では次の15分仕事にとりかからねばー! 

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2017/02/13

人が変わる瞬間


先週、雨の土曜日にシアトルで開催されたThe Work of Byron Katieのワークショップにいってきました。

行ってよかった。

ザ・ワークについては以前にも書きましたが、ワークショップの印象など、長くなると思うので何回かにわけて書きますよ。

えーと、まず開催場所! 
The Center of Spiritual Livingって初めて知った、なんだかプログレッシブでニューエイジな場所だった。

ワシントン大学の近く。ユニバーシティ・ヴィレッジの先、チルドレンズホスピタルの少し先、マグナソン公園よりはちょっと手前です。

なんだかさすがにシアトルだなあ、としみじみ思った。
名前から、いったいどんなニューエイジなところかとちょっとドキドキしていたのだけど、垢抜けた小さな大学のような建物で、明るくて、とても感じがよかったです。

ここって教会もあって、宗教じゃないんだけど宗教を超えた礼拝を毎週日曜にやってるのだとランチのときに隣りになった人が教えてくれた。よくわからないけど、面白そうだから今度見に行ってみようー。

立派なオーディトリアムはとても広く、2階もあって1000人くらい収容できそう。
この日は1階はほぼ満席。全部で600名か700名はいたんじゃないかと思う。

そしてやはりオーディエンスは、40代〜60代くらいの中年白人女性が多かった。駐車場から乗った無料シャトルは、私と中年男性一人をのぞいて全員がそのカテゴリーだった。

でも会場に着くと、意外に若い人も一定数いて、あら、と思いました。

若い男の子もちらほらといたし、男性は全体の3割弱くらいの印象。
私が座った席の近くには20代後半くらいのカップルが何組もいて、ぺたーんとくっついていた。
もしかして、結婚する前に行ってきなさいと何かのカウンセラーに奨められたのかも。

ケイティは、ゆったりした心地よさそうなセーターを着て舞台に登場。
スタンディングオベーションで迎えられていました。

真っ白な髪に瞳がキラキラしていて、おっとりした口調で、もう常に楽しそうな笑顔で、ユーモアたっぷりに、きっぱりと話す。
去年だか、かなり大きな病気をしたと聞いたけど、動きはゆっくりだったけれど、本当に楽しそうだった。見ているとこちらも楽しくなってくる。

最初の小一時間は、「このワークショップに来た目的は?」とケイティが語りかけ、それに観客が手を挙げて答え、ケイティがコメントしたり、質問に答える対話で進行。

そのあと、会場入口で配られた「Judge your neighbor worksheet(ひとを批判するワークシート)」に、実際にいま自分が持っている問題をそれぞれが書いてみる。

そして、「何を書いた?」とまたひとしきり、観客との間のやりとりがあり、そのやりとりの中から希望した人がステージの上で実際にケイティと一緒に「ワーク」をする。

(ステージの真ん中にオプラ・ウィンフリーのトークショウに出てくるみたいな長椅子が置いてあって、参加者とケイティはそこに座って「ワーク」を行いました)

という構成で、ランチをはさんで「ワーク」をステージでやったのは全部で5名。

「このワークショップに来た目的は?」という質問には、いろんな答えがあった。

PSTDの治療中で、カウンセラーに奨められたという男性。

夫が数ヶ月前に出ていったという女性。

娘にすすめられて、はるばる中西部から来たというお母さん。

近親者をなくした人。

そして、今はとにかくトランプのことで不安だったり怒りで頭がいっぱい、という人多数。

わたしも「人を批判するワークシート」には、現職大統領についての怒りをぶちまけました。

「わたしはトランプに対してハラをたてている。なぜなら彼がうすらトンカチで人を平気で傷つけ、国のリソースを使って無駄なことばかりしているから」
「わたしはトランプに自分の馬鹿さ加減に気づき恥じ入ってほしい」
など。

会場でもトランプに怒りや不安を持っている人はとても多くて、ステージにあがって「ワーク」をした5人のうちの2人はトランプ問題を抱えている人でした。

ステージに上がって「ワーク」をした1人目は、「兄が妄想に取り憑かれていて、誰かに盗聴されているとかその手のことばかり話すので、つらい」という女性。

2人目は、とても品の良い60代くらいの婦人で、「トランプの大統領令で家族が引き離されたり、空港に留置されたり、苦しんでいる人がいることに我慢がならない、私はトランプに、人の思いが分かる人になってもらいたい」という思いをワーク。

3人目は、数ヶ月前に恋人が自殺してしまったという、20代後半くらいのきれいな女の子。

4人目は、大統領選挙の際に中西部の州に選挙運動を手伝いに行っていたという筋金入りのヒラリー支持者で、 「わたしはトランプ支持者の馬鹿さ加減に我慢がならない。なぜ自分たちの首をしめるような人や政策を支持して国をダメにするのだ」と怒っている50代くらいの女性。

そして最後も50代女性で、「自殺願望が止められない自分が許せない」という人の、これはもう本当にパワフルなワークでした。

性格は変わらないとか人は変わらないという人もいるけど、人は事実、変わります。

「自分」だと思っているものの大部分は、実は考えかたや感じ方の習慣であって、意外とそのことに自分では気づいていないことの方が多い。

世界や自分についてどんなふうに自分に説明しているか、ということが、その人の世界を作っている。誰でもそうですよね?

「ワーク」では、怒りや不安や悲しみを抑圧するのではなくて、ワークシートに短く書き出すという作業を通して、客観的に見られる対象にする。

書き出す作業を通して、悲しみや怒りや不安をしっかり感じる。

そして、4つの質問をそのワークシートに書いた自分の気持ちにぶつけてみる。

「これは本当か?」
「絶対に真実だといいきれるか?」
「この考えを信じることによって、自分に何が起きているか?」
「この考えがなかったら、自分はどんな人になるか?」

という4つの質問で、事実だと思っていた考えを、いままで見ることができなかった場所から眺めてみる。

そして、自分の頭をさっきまで占領していたその考えを、「ひっくり返して」眺めてみる。

その過程で、その人にとって世界がひゅっと変わるのです。

そして、世界が変わると、人は変わります。ていうか変わるほかないのです。

「ワーク」は、あまりにも慣れすぎて自分自身に牡蠣殻のようにくっついてしまっている、だから自分自身と切り離せない一部と思ってしまっている、その思考パターンをこそぎ落とすための、とても役に立つツールです。

自分がとらわれていた思考パターンに気づくとき、人の意識は変わる。

もちろん、生活の中でまたすぐに元に戻す力がはたらくので、何もしなければすぐに葛藤に戻ってしまいます。

だからこれは腹筋運動やラジオ体操のように、毎日やったほうがいいのです。
そうするとだんだん、脳が慣れてきて、「考えを調べてみる」ことが習慣になります。

 わたしはかれこれ10年以上、ずっと毎日やってるわけじゃないけどこの方式に慣れてきて、だんだんダウンしている時間が減って、ほんとにラクになってきました。

ずっと毎日取り組んでいればよかったと、この日ワークショップに行って、つくづく思った。

昔、いちばん暗かったときは1日の95%くらい怒っていたり恨んでいたり後悔していたり落ち込んだり自分を責めたり人を責めたりいろいろ大変でした。
本当に自分は時間を無駄に消耗していると思い、どうしてこの無駄な時間をもっと有効に使えないのか、なんて自分はダメなのかと、さらに悩んだ。

いまは、機嫌が悪い時間は1日の5%以下に減ってると思う。切り替えるのが、われながらだいぶうまくなってきた。もちろん調子の悪い日もありますけどね。

自分が苦しんでいるシステムは別に必要のないものだったと気づくことで、急に体が軽くなる。

この日の「ワーク」では、そうやって人が変わる瞬間をたくさん見ることができました。
それは本当にパワフルでした。


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2016/07/31

どろぼう猫と、翻訳活動のための音楽



YouTubeで出会った、どろぼう猫!

( ゚д゚)ハッ!………。 という顔に萌え萌え。何度みても、なごみます。

Sebastian Stosskopfというドイツの画家(1597–1657)の「台所の静物と猫」という絵だそうです。1650年製作。


パッヘルベルの室内楽のビデオについてました。

クラシック音楽に関してはApple Musicのセレクションがいまいちなので、ここのところ仕事中はYouTubeがつけっぱなしになってることがほとんどです。

だいたい聞く曲きまってて、超マンネリ。

わたしの場合、翻訳活動中は、聞ける曲がかなり制限されます。

コンディションにもよるけど、わたしは非常に意識がウロウロしやすい性質なため、歌詞つきの曲を翻訳活動中のバックグラウンドミュージックにしていると、かなりの確率で気が散ります。

安全なのはクラシックかジャズ。

しかし、クラシックでもモーツァルト以降の曲はダメな時が多い。

曲のほうに意識が向けられすぎちゃって、気が散るのです。ドラマを見ながら翻訳ができないのとおなじ。

ラフマニノフの協奏曲なんかかけた日には、19世紀の大河ロマンが目の前に繰り広げられてしまい、もう全然仕事が手につかなくなる。

ベートーヴェンも壮大なドラマに巻き込まれてしまうし、モーツァルトは…

モーツァルトは、電車で隣に座った女子高生のおしゃべりを聞いてるような感じ。
ちょっとそこ!静かにしてっ!
と脳内ハムスターが叫びだします。

モーツァルトの音楽が女子高生に似てるという意味ではなくて、あくまで私の脳の反応がそれに似たものと出会ったときの状態に似ているということです。いや、似てるのかな。

モーツァルト大好きなんですけど、聞きながら何かほかのことに集中するのは難しい音楽だと私は思う。

結局一番良く聞いてるのはJ.S. バッハと、その少し前の頃のイギリスかドイツのバロック音楽など。バッハだったら大体なんでも大丈夫。カンタータでもある程度までなら大丈夫。

バロックでも、イタリアものは、仕事をしているときに聴くとイラッと来ることが多くてダメ。
ビバルディもほとんどダメです。これも「隣から聞こえてくるおしゃべり」的に、脳のどこかを刺激されるらしい。

パッヘルベルさんは、「カノン」で有名ですが、このドロボウ猫つきビデオの曲はもっと控えめで、仕事がしやすい状態になる。かなりヘビロテで使わせていただいてます。


こちらはパッヘルベルさんの有名な「カノン」。
よく結婚式でつかわれるやつ。この動画の演奏はテンポ早くて気持ち良い。


あとはルネッサンスのリュート音楽とか。

60分くらいのをひとつ選ぶとYouTubeさんが延々とつなげてくれるので気づくと何時間もそのままなのですが、時々ルネッサンスの音楽につかわれている絵画に、とんでもないものがあってびっくりする。

同時代の15世紀から16世紀に描かれたものらしいけど、なぜか変な絵が多いんですよ。

この猫の絵どころじゃないんですよ。一番ヘンだったのは、娼館らしくハダカの女性と男性がずらりと並んだ風呂おけのようなものに入って食事をしているところへ、正装した聖職者が入ってくるというもの。なんなんだ一体。16世紀ベネチアの音楽についてたやつでした。

そのほかにも、ルネッサンス期の音楽についてる絵ってちょっと公序良俗に反するような、男性誌グラビアみたいなテーマの絵が多い。

ここでは引用しないけど、興味がある方はルネッサンスの音楽をYouTubeで探してみてね。 

時代は飛んで、エリック・サティの「ジムノペディ」と「グノシェンヌ」の9曲セットも、ヘビロテです。

モーツァルト以降の近代の曲で仕事用に使えるのが、このサティの9曲と、ショパンのマズルカと練習曲、それからシューマンとリストの曲の一部。ショパンのほかの曲は演奏者によって違う。
ルービンシュタインならバラードでもスケルツォでも大丈夫なんですが、アルゲリッチの演奏だと脳が全部そっちにとられちゃう。


脳内メモリをさらっていく情熱の女、アルゲリッチさん。

ジャズも、1960年代くらいまでのピアノがメインのジャズが一番落ち着く。てっぱんはビル・エヴァンスです。

ビル・エヴァンス2枚とバッハの無伴奏チェロ組曲とフランス組曲は、iPhoneにも緊急用に入れてあります。

総合すると、暗めのトーンで、あまり感情の振り幅が大きくない、かっちりした感じの音楽がいいようです。

たぶん脳のメモリがあまり大きくなくて、翻訳活動中にはかなりもう容量ギリギリのリソースが必要なので、音楽のほうにちょっとでもメモリがとられると、一生懸命回っている「脳の中の翻訳活動に必要な部分」が機能しなくなるのではないかと思う。

これは翻訳でなくても、小難しい本やなにかを読んだりするときも同様です。

ルネッサンスなどの音楽が脳にラクなのは、音楽を処理する担当の部分がアイドリング状態になるのに合っているような気がする。あくまでイメージですけど。

音楽担当部分が大きめのギヤでゆっくり回転しているそばで、言語担当部分のハムスターが必死でくるくる車輪を漕いでるというような感じです。



サティのジムノペディ3曲とグノシェンヌ6曲セットの動画。
このHD画像はどこからとってきたものか知らないけど、ものすごくキレイで見とれてしまいます。


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2016/05/21

セーラー服おじさんに分数の割り算を教えてもらう


Dogwood(ハナミズキor ヤマボウシ)が盛りの、爽やかなシアトルです。

突然ですが、わたしは算数ができません。( ・´ー・`)どや

この何十年というもの、「分数の割り算」というものがどうしても理解できなかったのです!

いちおう自分の名誉のために主張しておくと、ホノルルでコミカレを卒業する前に[数学135](かな?たしか)というのが必修だったので、たぶん日本の高校数学の範囲だと思いますけど(多分というのは高校で出席した数すくない数学の時間は完全に昼寝に費やしていたのでまったく記憶にないからです)、逆三角関数?とかLOG?というルートの中にはいってる3階建てや4階建ての分数みたいな問題を解かされて、いちおうAをもらうことができました。でもいったいあれがなんだったのかまったく覚えてないし説明することもできないので、ちっとも名誉になってないですね。

この時は全然知らない町の限定された場所の地図をわたされ、「この通りに行くんだよ」とバスの乗り方を教わって、よそ見をしたり脇道にそれたりせずに目的地に到着するゲームをしてたみたいな感じだったような気がします。

さて、分数の割り算がわからない。

というのは、「いったいそれが何だか理解できない」ということです。いくら私でも「ひっくり返してかければよい」という小学校で教わった演算はいちおう覚えていますが、だけどそれはどういう意味?というのがイメージできないでいたのです。

分数の足し算、引き算、掛け算までは、ビジュアルで理解できる。と思う。

たとえば
1/3  X 2/5 だったら、
「3つに分けたりんごのうち1つをさらに5つに割ったものの2個分は、もとのりんごの大きさに対してどのような割合になるでしょうか」
という図で理解できます。

まあ無理やりですが、説明にはなってますよね?ね?ね?
(図の割合の正確さについては突っ込まないでくださいね)

が、分数の割り算になると、とたんにこのような図解では対応不可になるのです。

分数は、それ自体が割り算ですよね。割合に割合を掛ける、というのは要するにどんどん小さく割っていくこと、となんとかイメージできますが、割合を割合で割るって、どういうこと?

何度も図解を試みようとしたものの、納得できる説明は見つからず、その事について考えると気持ちがどんどん暗くなるので、なかったことにしていました。

これが、わたしの算数方面に対する巨大なつまづきの岩のひとつになっていたのです。

このあいだ、アリと人間のことを考えていたときに「セーラー服おじさん」こと小林氏にメールをお送りして、メルマガからの引用を快諾していただき、ついでに、往復のメールで分数の割り算が理解できないカミングアウトをしました。

セーラー服おじさんは、巷をセーラー服姿で歩いて道行くひとを和ませてくれるだけでなく、理系の職業人でもあり、とても知的で面白いコラムをメルマガで連載中です。

OTAKUワールドへようこそ」というメルマガコラム、最初はやばい人の世界の話(すみません)かと思って読み始めたのですが、とても知的でバランスの取れた視点がとてもおもしろくて、すぐ愛読者になってしまいました。

漠然とですが、最近読むものの中では、文学やエンタメを別にすると、理系の人が書いたもののほうが、視点が斬新で面白いものが多いように感じます。

それで、自分は理系的な知性に嫉妬を感じており、しかも算数は分数の割り算でつまづいたまま先に進めないのです、とメールで自己申告すると、ではそれを次のメルマガで解消してさしあげましょう、というお返事が。

なんと世間に大々的にバカをさらしてしまうことになってしまいました。

そして今回のメルマガで、セーラー服おじさんがサルでもわかるほど丁寧に解説してくださいました。

<ふつう、われわれは、「あれ」と「これ」とは別のことだと区別します。しかし、視点を変えてみたときに、それらはほんとうは一緒だったのだとみることが可能だったりします。仏教ではこれを「一如(いちにょ)」といいます。

一如を会得すると、悟りの境地にだいぶ近くなります。> 

と、セーラー服おじさんはおっしゃいます。

「一にょ!」が会得できたのかどうか不安ですが、今回の説明をよく読んで、「そうか!」と腑に落ちたことが2つありました。

それは

数のすべてをりんごや団子で説明しなければならないわけではないのだ!

ということと、

数の世界と言葉の世界は似ている。

ということでした。そして結論として、分数の割り算をわたしは乗り越えることができた!と思います。


セーラー服おじさんは

(1)掛け算とは何か
(2)割り算とは何か
(3)分数とは何か
(4)分数の割り算とは何か
(5)その計算はどうすればいいか

について、実に細かいステップで説明してくださいました。

ここで気づいたこと。
自分は、「割り算とは何か」についての理解がそもそも曖昧だった

セーラー服おじさんの説明によりますと

<3に2を掛けて6になったのだとすると、6を3に戻すための逆の操作があるとうれしい。それが、「2で割る」という操作です。>

つまり、掛け算の結果を「もとに戻す」ための操作である!という。
これはけっこう目から鱗でした。

割り算とは「◯の中に△がいくつ含まれているか」という「全体に対する割合」という、物質界に即したイメージを持っていて、それはそれで間違いではないけど、「演算の操作である」という役割を改めて振ってみると、なんかすっきり。

ブツや量にとらわれない純粋な「数」の姿が、一瞬、見えた気がします。

ああこれは数という「文脈」なのだ。

りんごや団子の文脈で必ずしも理解する必要はないのだ。というのをまずひとつ納得。

そして分数の割り算についての説明は、ちょっと長いけどセーラー服おじさんの説明を引用します。

(ここから引用)
<さて、まず、ある数に5分の3を掛けるとは、どういうことでしょうか。

中身の計算としては、ある数を5で割って、しかる後に、3を掛けるということです。

次に、ある数を5分の3で割るとは、どういうことでしょうか。

「割る」は「掛ける」の反対の操作です。つまり、「ある数」に何かを掛け算して「別の数」が得られたとするならば、その「別の数」から出発して、元の「ある数」に戻すための操作が割り算する、ってことです。

さきほどみたように、「ある数」に5分の3を掛けて「別の数」を作り出す操作というのは、その中身を見てみれば、5で割って3を掛けるという操作でした。

それを元に戻す操作とは、3で割って、しかる後に5を掛ければいいということになりましょう。ところで、3で割って5を掛けるという計算は、言い換えれば、3分の5を掛けるのと一緒でしょう。>

(引用ここまで)

うんわかった。

つまり「掛ける」と「割る」の表裏一体の関係を絶対に揺るぎないものとして信頼するということですね。

……いや、本当に分かったのだろうか。

「分数の掛け算はもとの数を分母で割ってさらに分子をかけたもの」
「割り算は掛け算をもとに戻す演算」。
これはすっきり頭に入る。

でもこれをやっぱり図にしたい。目で確認したい。それは不可能なのか。

と、ちょっと調べてみたら、でてきた。知恵袋で「なぜ分数の割り算はひっくり返すのか」という回答を図解している方があった!

これをアレンジしてみます。

あおむしが、りんご1/3個を食べるのに3/7時間かかりました。
同じ速度で食べ続けると、1時間で何個食べられるでしょう。

1/3 ÷ 3/7 の関係は、下のようなタテ・ヨコの関係にすると、図解できました!
じゃーん。


分数割り算は単体の団子やリンゴだけではダメで、2つの単位の出会うところと考えると簡単なのですね。
速度や距離などを投入すると、考えやすくなりました。
この斜線の部分は、「りんごの1/3であり、かつ、あおむしの1時間の3/7である」という量?数?だと考えていいのかな。

ここで
「りんご1/3コに対して3/7時間のとき、1時間に対するりんごの量を知りたい」
という問題は、
さきほどの
「分数の掛け算は分母で割ってさらに分子をかけたもの」
「割り算は掛け算をもとに戻す演算」。
を思い出すと、「1/3を3で割って7を掛けたもの」つまり1/3 X 7/3 、という式にぴったりすっきり美しく落ち着きます。素晴らしい。

長年の嫌な結び目がようやくほどけました。

セーラー服おじさん、ありがとうございました!

ところで、分数割り算理解へのステップを説明する前に、セーラー服おじさんはこのようにもおっしゃっています。

<多くの人はまったく気づいていないようですが、数学にはちょっと病的な側面もあったりするんです。感覚的にはとうてい受け入れがたいけど、証明されちゃったもんはしょうがないよなぁ、みたいな。

なので、ビジュアルで把握して自分のものにしようとしていると、いつかどこかでやっぱりつまづきます。そういうピュアさは、どっかの時点で結局は喪失します。だからといって、そっちの世界にお連れするのは、ちょっとどうかとは思いますが。>


うーむなるほど。
ビジュアルで理解する、というのはつまり、この目で見ている物質界のものごとに当てはめて算数を理解する、ということです。それはどこかの時点ではやはり追いつかなくなってくるというのですね。

これはもしかして「英語を日本語で理解しようとすること」に少し似ているのかもしれない、と思いました。

私は中学校で英語が数学以上にめったくそできませんでした。(むしろ中学の最初のほうの数学は、「正負の数」とか「ピタゴラスの定理」とか、視覚的に一目瞭然のお題が多かったので、分数の割り算ほど不可解ではなかったのです。)
とくに、仮定法と完了形が理解できずに苦しみ、その後数年間、英語はもう一生できないものとギブアップしていました。
とにかく理解が遅い子ちゃんでしたが、今思うと、もしかして英語の世界を日本語の文脈で理解しきろうとしていたのかもしれません。

その後、英語の文章を何年も読み続けるうちに、文法の背景にある発想がだんだん薄ぼんやりと身についてきました。これはきっと蓄積によって日常感覚(考え方の方法)が少し変化したということなのだと思うのです。

言葉というのは生活と考え方を表現する手段というだけではなく、生活と思想そのものです。

わたしたちは言語を通じて世界を理解しています。

数学も、そういう意味で、言語ですよね。

数学と音楽は、もっとも抽象的で、ある意味純粋な言語なのだと思います。

セーラー服おじさんはさらに、「理解のしかた」には2種類あると言ってます。

 ここから引用>>>>>>
<ひとつは、腑に落ちたという納得感と爽快感を伴い、あたかも自転車の乗り方のように、自分のものになったという理解のしかた。「ユリイカ!」と叫んで、素っ裸で街を駆け抜けたくなるアレですね。

もうひとつは、きちんと証明されちゃった以上、いやがおうにも受け入れざるをえないという、不承不承の気持ちの残る理解のしかた。


「オレの論理の筋道のどこに欠陥があるか見つけて指摘してみろ。できないのなら、受け入れろ」と喉元に突きつけられて、「はい、どこにも欠陥は見当たりません」と屈服させられる感じ。

前者だけでずっといけると大変幸せなのですが、なかなかそうもいきません。かといって、後者だけになると、ちっともおもしろくありません。行けども行けども、よその村の祭りを遠くから眺めてるだけ、みたいなことになり、輪の中に入っていけません。>
>>>>>>引用ここまで

うーむ、そうなのだろうか。後者のほうは、本来の「理解」とは違うのではないでしょうか。

「よくわからないけどそういうこととして覚えておきましょう」ということなら、ものすごくたくさんあります。この世は知らないことや理解できないことだらけです。
出会うすべてをとことん理解しようとしたら、人は生活できません。

だから「保留」の箱にいれておくものが、とても多い。

でもどんな証明や概念も、本当に理解できたときには「ユリイカ!」モーメントがあるはずだと思います。ただ、それぞれ費やせる時間は限られているので、自分のものにできる概念は少ない。

それに、「ユリイカ!」と理解できたと思ったことが、他の人の理解とは違っているって場合もありますよね…。
数学の場合は証明ができれば正解。でも言葉の世界では、正しいか正しくないかはほとんどの場合、多数決で決まる。

とりあえず分数の割り算で長年の霧が晴れてウキウキ!なのですが、この理解の仕方がどのくらい「正しい」のか、どのくらい世間からズレているのか、そこのところは私にはわかりません…。

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