2016/05/21
セーラー服おじさんに分数の割り算を教えてもらう
Dogwood(ハナミズキor ヤマボウシ)が盛りの、爽やかなシアトルです。
突然ですが、わたしは算数ができません。( ・´ー・`)どや
この何十年というもの、「分数の割り算」というものがどうしても理解できなかったのです!
いちおう自分の名誉のために主張しておくと、ホノルルでコミカレを卒業する前に[数学135](かな?たしか)というのが必修だったので、たぶん日本の高校数学の範囲だと思いますけど(多分というのは高校で出席した数すくない数学の時間は完全に昼寝に費やしていたのでまったく記憶にないからです)、逆三角関数?とかLOG?というルートの中にはいってる3階建てや4階建ての分数みたいな問題を解かされて、いちおうAをもらうことができました。でもいったいあれがなんだったのかまったく覚えてないし説明することもできないので、ちっとも名誉になってないですね。
この時は全然知らない町の限定された場所の地図をわたされ、「この通りに行くんだよ」とバスの乗り方を教わって、よそ見をしたり脇道にそれたりせずに目的地に到着するゲームをしてたみたいな感じだったような気がします。
さて、分数の割り算がわからない。
というのは、「いったいそれが何だか理解できない」ということです。いくら私でも「ひっくり返してかければよい」という小学校で教わった演算はいちおう覚えていますが、だけどそれはどういう意味?というのがイメージできないでいたのです。
分数の足し算、引き算、掛け算までは、ビジュアルで理解できる。と思う。
たとえば
1/3 X 2/5 だったら、
「3つに分けたりんごのうち1つをさらに5つに割ったものの2個分は、もとのりんごの大きさに対してどのような割合になるでしょうか」
という図で理解できます。
まあ無理やりですが、説明にはなってますよね?ね?ね?
(図の割合の正確さについては突っ込まないでくださいね)
が、分数の割り算になると、とたんにこのような図解では対応不可になるのです。
分数は、それ自体が割り算ですよね。割合に割合を掛ける、というのは要するにどんどん小さく割っていくこと、となんとかイメージできますが、割合を割合で割るって、どういうこと?
何度も図解を試みようとしたものの、納得できる説明は見つからず、その事について考えると気持ちがどんどん暗くなるので、なかったことにしていました。
これが、わたしの算数方面に対する巨大なつまづきの岩のひとつになっていたのです。
このあいだ、アリと人間のことを考えていたときに「セーラー服おじさん」こと小林氏にメールをお送りして、メルマガからの引用を快諾していただき、ついでに、往復のメールで分数の割り算が理解できないカミングアウトをしました。
セーラー服おじさんは、巷をセーラー服姿で歩いて道行くひとを和ませてくれるだけでなく、理系の職業人でもあり、とても知的で面白いコラムをメルマガで連載中です。
「OTAKUワールドへようこそ」というメルマガコラム、最初はやばい人の世界の話(すみません)かと思って読み始めたのですが、とても知的でバランスの取れた視点がとてもおもしろくて、すぐ愛読者になってしまいました。
漠然とですが、最近読むものの中では、文学やエンタメを別にすると、理系の人が書いたもののほうが、視点が斬新で面白いものが多いように感じます。
それで、自分は理系的な知性に嫉妬を感じており、しかも算数は分数の割り算でつまづいたまま先に進めないのです、とメールで自己申告すると、ではそれを次のメルマガで解消してさしあげましょう、というお返事が。
なんと世間に大々的にバカをさらしてしまうことになってしまいました。
そして今回のメルマガで、セーラー服おじさんがサルでもわかるほど丁寧に解説してくださいました。
<ふつう、われわれは、「あれ」と「これ」とは別のことだと区別します。しかし、視点を変えてみたときに、それらはほんとうは一緒だったのだとみることが可能だったりします。仏教ではこれを「一如(いちにょ)」といいます。
一如を会得すると、悟りの境地にだいぶ近くなります。>
と、セーラー服おじさんはおっしゃいます。
「一にょ!」が会得できたのかどうか不安ですが、今回の説明をよく読んで、「そうか!」と腑に落ちたことが2つありました。
それは
数のすべてをりんごや団子で説明しなければならないわけではないのだ!
ということと、
数の世界と言葉の世界は似ている。
ということでした。そして結論として、分数の割り算をわたしは乗り越えることができた!と思います。
セーラー服おじさんは
(1)掛け算とは何か
(2)割り算とは何か
(3)分数とは何か
(4)分数の割り算とは何か
(5)その計算はどうすればいいか
について、実に細かいステップで説明してくださいました。
ここで気づいたこと。
自分は、「割り算とは何か」についての理解がそもそも曖昧だった。
セーラー服おじさんの説明によりますと
<3に2を掛けて6になったのだとすると、6を3に戻すための逆の操作があるとうれしい。それが、「2で割る」という操作です。>
つまり、掛け算の結果を「もとに戻す」ための操作である!という。
これはけっこう目から鱗でした。
割り算とは「◯の中に△がいくつ含まれているか」という「全体に対する割合」という、物質界に即したイメージを持っていて、それはそれで間違いではないけど、「演算の操作である」という役割を改めて振ってみると、なんかすっきり。
ブツや量にとらわれない純粋な「数」の姿が、一瞬、見えた気がします。
ああこれは数という「文脈」なのだ。
りんごや団子の文脈で必ずしも理解する必要はないのだ。というのをまずひとつ納得。
そして分数の割り算についての説明は、ちょっと長いけどセーラー服おじさんの説明を引用します。
(ここから引用)
<さて、まず、ある数に5分の3を掛けるとは、どういうことでしょうか。
中身の計算としては、ある数を5で割って、しかる後に、3を掛けるということです。
次に、ある数を5分の3で割るとは、どういうことでしょうか。
「割る」は「掛ける」の反対の操作です。つまり、「ある数」に何かを掛け算して「別の数」が得られたとするならば、その「別の数」から出発して、元の「ある数」に戻すための操作が割り算する、ってことです。
さきほどみたように、「ある数」に5分の3を掛けて「別の数」を作り出す操作というのは、その中身を見てみれば、5で割って3を掛けるという操作でした。
それを元に戻す操作とは、3で割って、しかる後に5を掛ければいいということになりましょう。ところで、3で割って5を掛けるという計算は、言い換えれば、3分の5を掛けるのと一緒でしょう。>
(引用ここまで)
うんわかった。
つまり「掛ける」と「割る」の表裏一体の関係を絶対に揺るぎないものとして信頼するということですね。
……いや、本当に分かったのだろうか。
「分数の掛け算はもとの数を分母で割ってさらに分子をかけたもの」
「割り算は掛け算をもとに戻す演算」。
これはすっきり頭に入る。
でもこれをやっぱり図にしたい。目で確認したい。それは不可能なのか。
と、ちょっと調べてみたら、でてきた。知恵袋で「なぜ分数の割り算はひっくり返すのか」という回答を図解している方があった!
これをアレンジしてみます。
あおむしが、りんご1/3個を食べるのに3/7時間かかりました。
同じ速度で食べ続けると、1時間で何個食べられるでしょう。
1/3 ÷ 3/7 の関係は、下のようなタテ・ヨコの関係にすると、図解できました!
じゃーん。
分数割り算は単体の団子やリンゴだけではダメで、2つの単位の出会うところと考えると簡単なのですね。
速度や距離などを投入すると、考えやすくなりました。
この斜線の部分は、「りんごの1/3であり、かつ、あおむしの1時間の3/7である」という量?数?だと考えていいのかな。
ここで
「りんご1/3コに対して3/7時間のとき、1時間に対するりんごの量を知りたい」
という問題は、
さきほどの
「分数の掛け算は分母で割ってさらに分子をかけたもの」
「割り算は掛け算をもとに戻す演算」。
を思い出すと、「1/3を3で割って7を掛けたもの」つまり1/3 X 7/3 、という式にぴったりすっきり美しく落ち着きます。素晴らしい。
長年の嫌な結び目がようやくほどけました。
セーラー服おじさん、ありがとうございました!
ところで、分数割り算理解へのステップを説明する前に、セーラー服おじさんはこのようにもおっしゃっています。
<多くの人はまったく気づいていないようですが、数学にはちょっと病的な側面もあったりするんです。感覚的にはとうてい受け入れがたいけど、証明されちゃったもんはしょうがないよなぁ、みたいな。
なので、ビジュアルで把握して自分のものにしようとしていると、いつかどこかでやっぱりつまづきます。そういうピュアさは、どっかの時点で結局は喪失します。だからといって、そっちの世界にお連れするのは、ちょっとどうかとは思いますが。>
うーむなるほど。
ビジュアルで理解する、というのはつまり、この目で見ている物質界のものごとに当てはめて算数を理解する、ということです。それはどこかの時点ではやはり追いつかなくなってくるというのですね。
これはもしかして「英語を日本語で理解しようとすること」に少し似ているのかもしれない、と思いました。
私は中学校で英語が数学以上にめったくそできませんでした。(むしろ中学の最初のほうの数学は、「正負の数」とか「ピタゴラスの定理」とか、視覚的に一目瞭然のお題が多かったので、分数の割り算ほど不可解ではなかったのです。)
とくに、仮定法と完了形が理解できずに苦しみ、その後数年間、英語はもう一生できないものとギブアップしていました。
とにかく理解が遅い子ちゃんでしたが、今思うと、もしかして英語の世界を日本語の文脈で理解しきろうとしていたのかもしれません。
その後、英語の文章を何年も読み続けるうちに、文法の背景にある発想がだんだん薄ぼんやりと身についてきました。これはきっと蓄積によって日常感覚(考え方の方法)が少し変化したということなのだと思うのです。
言葉というのは生活と考え方を表現する手段というだけではなく、生活と思想そのものです。
わたしたちは言語を通じて世界を理解しています。
数学も、そういう意味で、言語ですよね。
数学と音楽は、もっとも抽象的で、ある意味純粋な言語なのだと思います。
セーラー服おじさんはさらに、「理解のしかた」には2種類あると言ってます。
ここから引用>>>>>>
<ひとつは、腑に落ちたという納得感と爽快感を伴い、あたかも自転車の乗り方のように、自分のものになったという理解のしかた。「ユリイカ!」と叫んで、素っ裸で街を駆け抜けたくなるアレですね。
もうひとつは、きちんと証明されちゃった以上、いやがおうにも受け入れざるをえないという、不承不承の気持ちの残る理解のしかた。
「オレの論理の筋道のどこに欠陥があるか見つけて指摘してみろ。できないのなら、受け入れろ」と喉元に突きつけられて、「はい、どこにも欠陥は見当たりません」と屈服させられる感じ。
前者だけでずっといけると大変幸せなのですが、なかなかそうもいきません。かといって、後者だけになると、ちっともおもしろくありません。行けども行けども、よその村の祭りを遠くから眺めてるだけ、みたいなことになり、輪の中に入っていけません。>
>>>>>>引用ここまで
うーむ、そうなのだろうか。後者のほうは、本来の「理解」とは違うのではないでしょうか。
「よくわからないけどそういうこととして覚えておきましょう」ということなら、ものすごくたくさんあります。この世は知らないことや理解できないことだらけです。
出会うすべてをとことん理解しようとしたら、人は生活できません。
だから「保留」の箱にいれておくものが、とても多い。
でもどんな証明や概念も、本当に理解できたときには「ユリイカ!」モーメントがあるはずだと思います。ただ、それぞれ費やせる時間は限られているので、自分のものにできる概念は少ない。
それに、「ユリイカ!」と理解できたと思ったことが、他の人の理解とは違っているって場合もありますよね…。
数学の場合は証明ができれば正解。でも言葉の世界では、正しいか正しくないかはほとんどの場合、多数決で決まる。
とりあえず分数の割り算で長年の霧が晴れてウキウキ!なのですが、この理解の仕方がどのくらい「正しい」のか、どのくらい世間からズレているのか、そこのところは私にはわかりません…。
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Tomozo さん。とっても賢い。そして飽くなき探究心。理屈にも強く、私には理系の人のようにうつります。私も自慢ではありませんが、分数のかけ算も割り算も出来ませんです。でも、コミカレの必須数学ではAでした。中学の時は、結構難儀な円の中に台形?みたいなのが入ってて、その面積だか何だかを求めろと言われれば、ハイハイとばかりに出来たのですが、受験が終わって必要性が無くなったと同時に跡形もなく、脳みそのシワから姿を消しました。いいじゃないの、出来なくたって。てへ。と言った具合に開き直って暮らしてるわけですが、分数のかけ算とか、パーセントの何たらとか、必要である事実を告げるべくカーテンがチラチラ開いて来ました。私、漢方薬もやるので、配合ではグラムで細かいパーセントとか、分数的なのが必要なのである。今は間に合ってますけど、生薬と粉と錠剤では濃縮度が違うので、中国の古典から配合を決める時には、数値はまず、生薬のつもりで書かれているので、粉(日本ではエキス剤と呼ばれている) で処方する際には変換しなくてはならぬのです〜。また、日本の漢方のテキストはエキス剤の配合の事が多いため、中国のと比較したり勉強する際には理系脳が必要。。あああっ。私はどっちかというと抽象的なものごとをジーッと考察する方が好きなんですが、人生すべて修行(by かもめ食堂)。体調復活してきたら、おじさまの講義を読んで学びたいと思います。ちなみに夜中2時に何やってんだか。昼間爆睡したせいで眠れません。時差ぼけは、強い意志がないと治りませぬ。
返信削除Emiさん、うわあ、生薬の配合!それは責任重大な割り算ですね。人の健康に役立つ仕事って素晴らしい。古典にあたって配合を決めるなんてすごいですね。
削除米国から日本へより、日本から米国への時差ボケがきついんですよね。養生なさってください!