最近、蟻のことをよく考えています。
蟻ってヘンないきものですよね。
人間的な基準で考えると。
ひとりの女王蟻から生まれたクローンみたいな働き蟻たちが、全体のために喜々として、一丸となってはたらいている世界。
蟻の中にも個性があって、あんまり働かない働き蟻とがむしゃらに働く蟻があるみたいですが、それにしても、蟻たちに「自分」という感覚はどのくらいあるんでしょう。
蟻の感覚と人間の感覚を比べるのもなんですが、蟻たちには人間のような「自分」の感覚がないのではないか。「自分=全体」という感覚で彼らは生活しているのではないかと思うのです。
そしてそれは蟻たちにとっては幸福なことなんだろうと思います。
だって彼らには彼らの共同体だけが「世界」なんだし。辛い思いをしている蟻は、いないんじゃないか。
「ほんとうは空を飛びたかったのに!」とか「ほんとうは違うことをしていたいのに」とか「あいつのほうがアタシよりいい思いをしている。ちくしょー」なんて、彼らは思っていないから。たぶん。
全体のためにせっせと働くことそのものが嬉しくて嬉しくて仕方ない、営巣工事でも外敵から巣を守る戦いでも、共同体のための活動が直接、「自分」の利益になるセカイ。
そこには犠牲の精神はありません。
だってすることが全部、「自分」のためなんだから。
この間ラフカディオ・ハーン先生の『怪談』を読んでいたら、うしろのほうにアリの話が載っていました。『虫の研究』というエッセイの中の一編『蟻』です。
「社会進化論」「適者生存」という考え方を編み出した哲学者ハーバート・スペンサーの論をひいて、ハーン先生は
「社会進化に関して、この昆虫の方が、むしろ「超人」的に進歩していることを認めるのに、だれもちゅうちょしないであろう」
と言ってます。
そして、
「蟻社会の生態のうちで、われわれの最も注目に値するものは、その倫理的状態である。しかもこれは、スペンサー氏が、道徳進化の理想は「利己主義と利他主義とが、たがいに区別のないまでに融和折衷されている国家」であると述べている、その理想を実現しているのであるから、人間の批評を絶しているのである。いいかえると、非利己的な行為をするという喜びが、唯一の有能な喜びになっている国家である」
とも。
そして、ハーバート・スペンサーの「いずれ人類は、倫理的に蟻の文明と比較のできる、ある文化状態に到達するだろうという信念」を次のように引用しています。
「利己的目的を追求する際に奮起するのと同様、あるいは同様以上に、利他的目的を追求する場合にも、奮然決起することのできる本性を生み出すのは、すでに有機的組織のうちに、それを産み出す可能性があるからだという事実を示している」というのがスペンサーの主張。なるほど。
「有機的組織のうちに、それを生み出す可能性がある」 というのは、すでにもうアリで実現してるんだから、ほかの生物でも実現する可能性があるだろうという意味ですね。
などと考えていたら、愛読している「セーラー服おじさん」のメルマガにも、蟻のことがでてきました。(Otakuワールドへようこそ!4月1日号「自閉症の時代」)
++ここから引用+++++
「脳内には脳細胞がいっぱい詰まっていて、それらが互いに結びついていて、情報をやりとりすることによって、総体として意識が生じているものらしい。そうだったとしても、脳細胞一個一個の側が、自分が全体の意識の形成のために小さな役割を負っていることを意識できてはいまい。
一匹一匹の蟻は、大した知能をもっているように見えないが、
もしそうだったとしても、一匹一匹の蟻が、
もしかすると、人間も、一人一人が脳細胞一個の役割を負い、
+++引用ここまで++++
蟻社会と人間社会のありかた。今の人間の社会でも、もしかして、一人ひとりの人間は気づかないレベルで全体のために動いているのではないかという。うーん、なるほど。
「ガイア」論みたいに、個をぜんぶまとめたところで人類が生命体として活動していて、個人は気づかないうちに役割を振られているという感じか。
でも今のところ、素子同士で忙しく殺しあったり憎みあったり絶望したりで、蟻たちよりずっと幸せ度は低いですね。
19世紀の学者であったスペンサーの考え方は、19世紀の人らしく、高尚な倫理の状態に向けて社会は進化していくのではないか、というものでしたけど、倫理とかそういう価値観を別にしたところで、メカニズムとして、蟻社会と人間社会に似たところはあるのでしょうか。
蟻たちが全体のためにまるで一個の生命体のように、自他のインセンティブをまったくひとつにして働いているのと、マクロな視点でみたときの人間社会に、似たところはあるか。
わたしは、そんなにはない、と思う。今のところは。
でもこれから本当に人工知能が発達して、人びとが「繋がる」ようになったら、だんだん蟻的世界になっていかざるを得ないのでは?とも思う。
さいきん、蟻のことをよく考えるのは、技術的特異点(シンギュラリティ)についての「予言」に衝撃を受けてから。2014年のIJETでの斎藤さんの講演を聞いて、世界終末を予告されたような衝撃をじわじわと受け、いろいろと人工知能について読んだりしていましたが、それから2年、メディアでも人工知能についてどんどん取り上げられるようになってきました。いまいち話が咬み合っていない情報が多いですが。
レイ・カーツワイルさんは、
2045年には「人類の生物学的知性とコンピュータの人工知能を組み合わせた『人類文明の全知性』は、現在に比べて10億倍になっている。そのとき、コンピュータは血液細胞とほぼ同じ大きさになっている。人類は脳の内部にこのテクノロジーをはめ込み、脳をクラウド上に置き、思考をさらに大きくする――」
という状況になっているといいます。(NHKのインタビューから)
シンギュラリティをあまりのホラ話だと言う人もいるけど、そういう人こそ本当にどうかしていると思う。
30年後ではないかもしれないけど、100年のうちにはいずれそのくらいのことは起きるのだろうと思います。
AIがほんとうに完成して(いまの時点で実用化されている「人工知能」ではなくて「知性」を持った存在として)「脳がクラウドに直結」することが可能になったとき、「人類対人工知能」の戦いが起きるのではないかと恐れている人もいるようだけど、それも違うと思うのです。
そうではなくてむしろ、「旧人類(いまの人類)」対「新しい人類 powered by 人工知能」の対立になるのではないだろうか。
AIとつながることを絶対に拒否し続ける人びとと、つながってしまった人びと&人工知能のカタマリとの間のどうしようもない断絶が、しばらく続くのではないでしょうか。
互いにほっておければいいのだろうけど、そうでなければ小規模なハルマゲドンみたいなものがあちこちで勃発する。 ISISとかみたいな過激な原理主義的グループが荒野や山に立てこもって、データセンターを破壊しようとゲリラ戦を繰り広げたりする。
そしてつながってしまった人びとは、蟻的な存在に「進化」する。
つまりスペンサーが予言した「倫理的に蟻の文明と比較できる文化状態」に。
なーんて思うんですけどね。
極端な二極化じゃなくて、その中間の「部分的にAIとつながる人類」っていうのもアリなのかなあ。
クラウドに脳のナカミをアップロードしてっていうのが本当に可能になったとしたら、その時点でもうその個人は、今の常識でいうところの「人間」ではなくなり、今のわたしたちが考えるところの「個人」であることも終わるはずですよね。
いまの「人間」というのは、感覚器官をそなえ、常に身体の中と外の情報をその感覚器官から得て、細胞をめまぐるしく再生しつつ、物理的空間の中で自分なりのセカイを構築しつつ動いている、生きものですから。生きものである以上、身体というユニット単位で「個人」がある。そのユニットを隔てる壁がなくなってしまうということ。
クラウドにつながった「脳」というのは、身体をなくした、いわばユウレイのような存在ではないのか。世界中に存在する膨大な感覚器官から絶え間なく情報を受取るのにしても、身体に閉じ込められた「個体」であることをやめたときに、「個人」と「全体」の境界は、今の人間が自分について抱いている感覚よりも、ずっとずっとずっと薄いものになっているはず。
蟻の感じている「身体性」というのは、もしかしたら「個体」ではなくて「全体」にシンクロしている部分が多いんじゃないかしら。
クラウドにつながった「次の人類」は、きっと蟻の巣のように考え、行動するのではないか。
あるいは、私たちがまだ知らない、全体の中の個のあり方があるのかもしれませんが。
21世紀はじめの今の社会でも、すでにだんだんとSNSや携帯デバイスを介して人はつながってきていますけど、この流れが徐々に脳内情報ダダ漏れの時代へと「進化」していくのか、どうか。
いまの私たちが、個人情報ダダ漏れの危険に目をつぶってもグーグルなどの便利なサービスを手放せなくなっているように、人は脳内ダダ漏れと引き換えに、身体能力や知識を拡大させていくことを選ぶようになっていくのではないか。
『マトリックス』でトリニティーが数秒でヘリの操縦方法を仮想脳内にダウンロードしたみたいに、だんだんと「学ぶ」方法や「経験」ということの意味が変わっていくのかもしれません。
蟻の写真はなかったので、だいぶ前のスペースニードル写真でした。鳥居のような色の野外彫刻はアレキサンダー・リーバーマンの「Olympic Iliad」。
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