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2020/12/31

今年と来年の抱負とグレート・ギャツビー


いくら2020年とはいえ、蟹インフェルノで1年をしめくくるのはいかがなものかと思いましたので、 抱負のことでもおはなしいたしましょう。

今年の抱負は、「罪悪感なしに生きる」ということでした。

これはだいたい、8割くらいは実現できたかな。

2021年の抱負はいくつかあります。攻撃性を手放す。動機をたしかめる。世界を信頼する。

この3つにくわえて、正直でいる。ということは死ぬまで常に実現しつづけたい抱負です。

 


こないだ村上春樹訳のフィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』を読みました。
前に読んだ気もするけど例によってまったく覚えてやしませんでした。

で、きょう、ごはんを食べながら1974年版の映画『華麗なるギャツビー』を観ましたが、すごくよかった。

最初はディカプリオがギャツビーをやってる2013年版を観ようとおもっていたのだけど、YouTubeで予告編を観て、うーんこれはちょっと思ってたのとちがう、と感じ、検索しているあいだに1974年版というのがあることを思い出し(未見でした)…。

1974年版のは、脚本がフランシス・フォード・コッポラなのですね。

 


VOGUEより。スーツのデザインはラルフ・ローレンなんだって)

 

舞台も、豪邸も、パーティーの様子も、音楽も、登場人物の服装も、話し方も仕草も描き方も、小説を読みながら想像したとおりという、めずらしい映画でありました。

たいてい原作のある映画って「そこは違う」と思うことがあるものだけど、この作品に関しては、まじでまったくなかった。というよりもむしろある意味、作品世界をより精細に見せてくれた、すごい映画だと思いました。
そうは思わない人もいるでしょうけれど。

小説の筋書きや人物像が、映画を観ながらさらにくっきりと理解できるというか、体験できて、理解が深まった気がしています。

ニック、ギャツビー、トム・ブキャナン、デイジー、ジョーダン、そして修理工のウィルソンとその愚かな妻。この人物たちがほんとによかったー! 原作のイメージそのまんま。

 

 


 

特にギャツビー役のロバート・レッドフォードと、デイジー役のミア・ファローが輝いてました。ミア・ファローの存在をすっかり忘れていた。この人の顔、すごく好き。

無邪気で美しくて強烈に魅力的で、繊細でイノセントで知性も高いのに、結局は富がもたらす快適さだけを頼りに生きてしまう富裕層の娘、デイジー。

最下層に近い層の出身で、強烈な意思と魅力で社会の階段を強引にのぼり、少年のような素朴さで金持ちの娘デイジーを崇拝するギャツビー。(テレビシリーズの『マッドメン』の主役ドン・ドレイパーは、ギャツビーが下敷きになってるのかもしれない、とふと思った)

デイジーやその夫で超利己的で自分のひどさを顧みないトム・ブキャナンのような人たちは、2020年にもたくさんいすぎる。

 終わりの歌もほんとにひどくて最高です。

「金持ちはますます金持ちになるし、貧乏人はそのまんま。でもいまは楽しいことしよう」みたいな歌詞で。1920年代と2020年があまりにも似ていることに戦慄します。

21世紀に1930年代が再来しませんように〜〜〜〜!!!!

2021年が、ニックのような真摯で優しいひとたちをたくさん生む、良い年でありますように。

 

 

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2018/01/20

褒めなくてもよい


朝ごはん。Kちゃんがサンディエゴからシアトルに戻ってきて、しばらくうちにいるので、うちの息子はまめまめしい。
朝からキッチンに立っていそいそごはんを作っていましたよ。

ポテトをずいぶんちっちゃく切ったな!

きのうの、日経DUALの相良さんのモンテッソーリ教育の記事のつづきで、もうひとつ、いやふたつ、おぅ!と思ったことがありました。

それは

(ここから引用)
モンテッソーリが言うのには、子どもは褒め言葉を必要としない、かえって褒められるとがっかりする。内面からの充実感や自信を持っている子に変に褒めたり、ご褒美をあげたりするのは、子どもの内面からの尊厳を無視することだって。


一つの認識が欠落していると思うんですね。手を使うことがとっても大事。その手を頭で理解するんじゃなくて、手を使うことがとっても必要な時期だし、手を使うことが脳へとつながるわけでしょ。だから言葉でするのではなくて、正しい使い方をできるようにして見せてできるようにしてあげるほうが、ちょっと時間はかかるけれど本質的ですよね。

(ここまで)

内面が充実している子は、褒めても喜ばない。

「できた」っていう実感があると、それだけで嬉しい。

なるほどなあ。力強いなあ。

10代の頃うちの子は、わたしがあまり褒めないので不満だったようですけど。
アメリカの親はまた、やたらに自分の子どもを褒めるのよね。

でもやたら持ち上げるのではなくて、出来たことを一緒に心から喜べるのはいいよね。
 ウソじゃなく。

親が「ここで褒めておかなきゃ!」とか思っていたら、そのわざとらしさは必ず子どもに伝わるし、非言語のコミュニケーションで伝わったそういうものって、関係の中に少しずつ積み重なる。

しかし10代くらいになると、周りの評価が100%気になって不安で夜も眠れない年頃だから、親も白々しくでも褒めるしかないときもある。
ウソでもいいからオレのことを褒めろって、潜在意識が飢餓状態になってるっぽいときは。

 幼児のときから充実してて、10代になっても飢餓状態にならないほどブレない育ち方ってできるのかなー? 
ものすごーく人間ができてそうな10代の子たちもいるけどね。
 
あと、バイリンガル教育のことを書いたときにも頭にあって、でも学問の裏付けがなかったしちゃんと言えてなかったんだけど、幼児期に必要なのは絶対!第二言語とか読み書きとか変な技術を覚えることじゃなくて、手や体の筋肉をつかったり五感をつかって直接的な情報をたくさんインプットすることですよね!モンテッソーリさんが太鼓判を押してくれてたのを読んで嬉しくなった(子どもをモンテッソーリのスクールに通わせてから17年後にね……)。

言語より論理より、情感と運動能力と感覚をしっかり鍛えておくと、多分、その後のインプットと処理と演算がうまくいく土台ができるんだと思う。

それには野山に放り出すのがいちばんいいみたいな気がする。
自然の世界は、人工物にはマネのできないほど情報量が多いですから。




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2018/01/19

秩序感と朝の儀式


雨の午後。UディストリクトのSlate Coffeeです。
ここの店では「カプチーノ」とはいわないで、「エスプレッソ&ミルク」と呼ぶ。

エスプレッソ&ミルクも、カプチーノと同様、淹れる人でぜんぜん味が違うですね。

Slate Coffee、いつの間にか、フジベーカリーさんのペストリーを置くようになってましたよ!

ところでこの間、ていってももう何ヶ月も前だけど、美人弁護士すーちゃんと久々に会ってごはんを食べました。すーちゃんのご子息、「たーちゃん」(仮名)はパワー溢れる4歳。
2歳前からエネルギーいっぱいで、会うたびに

「もー聞いてくださいよ〜、うちの子ね…」

ではじまる、そのわんぱくぶりを聞くのがたのしみ。

すーちゃんも、フルタイムでがっつり仕事を終えて家に帰ると職場の何倍も疲れる…とは言いながらもたーちゃんのエネルギーをうまーく発散させて見守ってるのがいいかんじ。

本人はほんとに疲労困憊もいいところなんだろうけど、私に話すときにはもうほぼ、笑い話に昇華されている。

ていうか、すーちゃんはよく考えると決して自分の話を湿っぽく愚痴ったりしないで必ず笑える話にしてから来るな。そこがカッコいいなあ、と前から思ってたんだった。

でこないだ、

「うちの子ね〜、絵本を読み聞かせると、目次のページとかも飛ばさないで最初から全部順番に読まなきゃいけないっていうんですよー、ちょっとおかしいのかしら」

とまた例の調子で、半分本気で悩んでるっぽかったので、笑ってしまった。

だって自分もそうだったのを、その話聞いて思い出したから。

本を読む時、かならず奥付まで心のなかで音読しないといけないと決まっていた時代が、たしかあったのよ、私にも。
ほかにもなんか色々と難しいキマリを作っていた覚えがうっすらある。良く思い出せないけど。

うちの息子はそこまでのこだわりはなかったので、子どもによるんだと思う。

で、今日、日経DUALっていうウェブの共働き夫婦用の情報サイトで(べつにぜんぜん共働きでもないし子育ても終了してるんだけど面白くて時々読んでます。さすがに有料会員じゃないが)、モンテッソーリ教育の第一人者だったという相良敦子さんという方の対談記事を読んで、すっごく感動してしまった。

この記事は去年の6月のもので、相良さんはインタビューのすぐ後に亡くなられたのだそうです。

 相良さんは、2歳児は「魔の2歳」ではなく「宝の2歳」だという。

(ここから引用)

モンテッソーリは「秩序感」という0~3歳の特別な敏感期を、「強烈な恋をするようなエネルギー」って言い表しました。恋をするように命懸けで戦うほどのやりたい大事なことを、大人が無頓着で、場所もどうでもいい、順序はどうでもいい、あなたは遅いから私がやっちゃおうとするから命懸けで反抗するんです。

この時期の一生の最初の段階に生涯を左右するほどの「敏感期」という独特のエネルギーは、秩序感と呼ばれ、基本的にはいつもの順番、いつもの場所であること、いつもの所有物である、そして一人でできるようになることが大事なんです。


(ここまで)


そういう「秩序感」が満たされると、子どもは自信を持ち、落ちついてくるのだと!

これすっごく納得。

世の中ってむちゃくちゃとりとめがないじゃありませんか。

そこに自分なりの秩序を見つけて、自分でコントロールできる範囲を作っていくこと。

子どもってそういう作業をして、自分のまわりの世界と和解してるんだ!

子育てが終了してからやっと分かったよ!遅っ!

それでこの記事を読んで、すーちゃんの話を思い出して速攻LINEで記事のリンクを送っちゃいました。

そしたら「はー、じゃあ宝がどんどん続いていく…」と返信が(笑)。

 実はうちの息子も4歳のときにちょっとだけ、ホノルルでモンテッソーリの幼稚園に通わせてたことがあったんだけど、モンテッソーリ教育についてはなんとなく「自主的にー、面白いと思うことをー、手をつかってやるんだよねー」くらいの認識で(バカすぎる)、まったくちゃんと知りませんでしたし学ぼうともしてなかったな。バカ親ーん。

そして今、よく考えると、わたくし自身が秩序感の構築をしようと自分をしつけてる。

1日が自分のコントロールの及ばない速さで過ぎていくのに驚きながら、いろんなリチュアルがだんだん増えていっています。

私は毎日同じことをする生活がたいへん苦手な性格だと自分では数十年思っていたのだけど、そして確かに今でも苦手なのだけど、フリーで家で仕事をするようになってから、生活にルーチンを作る必要をひしひしと感じて、実行するようになってます。

ていってもたとえば朝起きたらラジオ体操をする、レモン入りの白湯をのむ、布巾に熱湯を通して机の上を拭く、とか、ほんとに簡単な儀式ばっかりなんだけど、それでネジが巻けるのです。

朝起きて、世界が「いつもの順番、いつもの場所であること、いつもの所有物である、そして一人でできる」ものであることは、大人にとってもけっこう大切。

たぶん毎日お勤めに行っている人は自然に実行しているのでそんなことは考えるまででもないのだろうけど、いつもの電車やいつもの朝の同じ時間のオフィスの雑談がないぼっち自営には、これかなり重要。成功しているプロの方には、みんなきっとそういうリチュアルがあるんじゃないかと思う。



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2017/02/13

人が変わる瞬間


先週、雨の土曜日にシアトルで開催されたThe Work of Byron Katieのワークショップにいってきました。

行ってよかった。

ザ・ワークについては以前にも書きましたが、ワークショップの印象など、長くなると思うので何回かにわけて書きますよ。

えーと、まず開催場所! 
The Center of Spiritual Livingって初めて知った、なんだかプログレッシブでニューエイジな場所だった。

ワシントン大学の近く。ユニバーシティ・ヴィレッジの先、チルドレンズホスピタルの少し先、マグナソン公園よりはちょっと手前です。

なんだかさすがにシアトルだなあ、としみじみ思った。
名前から、いったいどんなニューエイジなところかとちょっとドキドキしていたのだけど、垢抜けた小さな大学のような建物で、明るくて、とても感じがよかったです。

ここって教会もあって、宗教じゃないんだけど宗教を超えた礼拝を毎週日曜にやってるのだとランチのときに隣りになった人が教えてくれた。よくわからないけど、面白そうだから今度見に行ってみようー。

立派なオーディトリアムはとても広く、2階もあって1000人くらい収容できそう。
この日は1階はほぼ満席。全部で600名か700名はいたんじゃないかと思う。

そしてやはりオーディエンスは、40代〜60代くらいの中年白人女性が多かった。駐車場から乗った無料シャトルは、私と中年男性一人をのぞいて全員がそのカテゴリーだった。

でも会場に着くと、意外に若い人も一定数いて、あら、と思いました。

若い男の子もちらほらといたし、男性は全体の3割弱くらいの印象。
私が座った席の近くには20代後半くらいのカップルが何組もいて、ぺたーんとくっついていた。
もしかして、結婚する前に行ってきなさいと何かのカウンセラーに奨められたのかも。

ケイティは、ゆったりした心地よさそうなセーターを着て舞台に登場。
スタンディングオベーションで迎えられていました。

真っ白な髪に瞳がキラキラしていて、おっとりした口調で、もう常に楽しそうな笑顔で、ユーモアたっぷりに、きっぱりと話す。
去年だか、かなり大きな病気をしたと聞いたけど、動きはゆっくりだったけれど、本当に楽しそうだった。見ているとこちらも楽しくなってくる。

最初の小一時間は、「このワークショップに来た目的は?」とケイティが語りかけ、それに観客が手を挙げて答え、ケイティがコメントしたり、質問に答える対話で進行。

そのあと、会場入口で配られた「Judge your neighbor worksheet(ひとを批判するワークシート)」に、実際にいま自分が持っている問題をそれぞれが書いてみる。

そして、「何を書いた?」とまたひとしきり、観客との間のやりとりがあり、そのやりとりの中から希望した人がステージの上で実際にケイティと一緒に「ワーク」をする。

(ステージの真ん中にオプラ・ウィンフリーのトークショウに出てくるみたいな長椅子が置いてあって、参加者とケイティはそこに座って「ワーク」を行いました)

という構成で、ランチをはさんで「ワーク」をステージでやったのは全部で5名。

「このワークショップに来た目的は?」という質問には、いろんな答えがあった。

PSTDの治療中で、カウンセラーに奨められたという男性。

夫が数ヶ月前に出ていったという女性。

娘にすすめられて、はるばる中西部から来たというお母さん。

近親者をなくした人。

そして、今はとにかくトランプのことで不安だったり怒りで頭がいっぱい、という人多数。

わたしも「人を批判するワークシート」には、現職大統領についての怒りをぶちまけました。

「わたしはトランプに対してハラをたてている。なぜなら彼がうすらトンカチで人を平気で傷つけ、国のリソースを使って無駄なことばかりしているから」
「わたしはトランプに自分の馬鹿さ加減に気づき恥じ入ってほしい」
など。

会場でもトランプに怒りや不安を持っている人はとても多くて、ステージにあがって「ワーク」をした5人のうちの2人はトランプ問題を抱えている人でした。

ステージに上がって「ワーク」をした1人目は、「兄が妄想に取り憑かれていて、誰かに盗聴されているとかその手のことばかり話すので、つらい」という女性。

2人目は、とても品の良い60代くらいの婦人で、「トランプの大統領令で家族が引き離されたり、空港に留置されたり、苦しんでいる人がいることに我慢がならない、私はトランプに、人の思いが分かる人になってもらいたい」という思いをワーク。

3人目は、数ヶ月前に恋人が自殺してしまったという、20代後半くらいのきれいな女の子。

4人目は、大統領選挙の際に中西部の州に選挙運動を手伝いに行っていたという筋金入りのヒラリー支持者で、 「わたしはトランプ支持者の馬鹿さ加減に我慢がならない。なぜ自分たちの首をしめるような人や政策を支持して国をダメにするのだ」と怒っている50代くらいの女性。

そして最後も50代女性で、「自殺願望が止められない自分が許せない」という人の、これはもう本当にパワフルなワークでした。

性格は変わらないとか人は変わらないという人もいるけど、人は事実、変わります。

「自分」だと思っているものの大部分は、実は考えかたや感じ方の習慣であって、意外とそのことに自分では気づいていないことの方が多い。

世界や自分についてどんなふうに自分に説明しているか、ということが、その人の世界を作っている。誰でもそうですよね?

「ワーク」では、怒りや不安や悲しみを抑圧するのではなくて、ワークシートに短く書き出すという作業を通して、客観的に見られる対象にする。

書き出す作業を通して、悲しみや怒りや不安をしっかり感じる。

そして、4つの質問をそのワークシートに書いた自分の気持ちにぶつけてみる。

「これは本当か?」
「絶対に真実だといいきれるか?」
「この考えを信じることによって、自分に何が起きているか?」
「この考えがなかったら、自分はどんな人になるか?」

という4つの質問で、事実だと思っていた考えを、いままで見ることができなかった場所から眺めてみる。

そして、自分の頭をさっきまで占領していたその考えを、「ひっくり返して」眺めてみる。

その過程で、その人にとって世界がひゅっと変わるのです。

そして、世界が変わると、人は変わります。ていうか変わるほかないのです。

「ワーク」は、あまりにも慣れすぎて自分自身に牡蠣殻のようにくっついてしまっている、だから自分自身と切り離せない一部と思ってしまっている、その思考パターンをこそぎ落とすための、とても役に立つツールです。

自分がとらわれていた思考パターンに気づくとき、人の意識は変わる。

もちろん、生活の中でまたすぐに元に戻す力がはたらくので、何もしなければすぐに葛藤に戻ってしまいます。

だからこれは腹筋運動やラジオ体操のように、毎日やったほうがいいのです。
そうするとだんだん、脳が慣れてきて、「考えを調べてみる」ことが習慣になります。

 わたしはかれこれ10年以上、ずっと毎日やってるわけじゃないけどこの方式に慣れてきて、だんだんダウンしている時間が減って、ほんとにラクになってきました。

ずっと毎日取り組んでいればよかったと、この日ワークショップに行って、つくづく思った。

昔、いちばん暗かったときは1日の95%くらい怒っていたり恨んでいたり後悔していたり落ち込んだり自分を責めたり人を責めたりいろいろ大変でした。
本当に自分は時間を無駄に消耗していると思い、どうしてこの無駄な時間をもっと有効に使えないのか、なんて自分はダメなのかと、さらに悩んだ。

いまは、機嫌が悪い時間は1日の5%以下に減ってると思う。切り替えるのが、われながらだいぶうまくなってきた。もちろん調子の悪い日もありますけどね。

自分が苦しんでいるシステムは別に必要のないものだったと気づくことで、急に体が軽くなる。

この日の「ワーク」では、そうやって人が変わる瞬間をたくさん見ることができました。
それは本当にパワフルでした。


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2014/11/01

なぜ人を殺してはいけないのか


別ブログで「なぜ」と「WHY」ででてくる検索フレーズの違いに驚愕!という話を書きました。

グーグル先生に「なぜ」と聞くと出て来る検索フレーズには、「なぜ人を殺してはいけないのか」というのがありました。

どういうわけでか、日本で「なぜ人を殺してはいけないか」の説明がブームになっていたようなのです。

そこで、もし自分の息子が今小学生か中学生で、「なぜ人を殺してはいけないのだ」と真面目に聞かれたらなんて答えるだろうか。

と、ちょっと考えてみました。以下、答え。

 

 なぜ人を殺してはいけないか。それは、今、わたしたちが住んでいるこの社会は、どんな人にも同じ権利があるという考えのもとに成り立ってるからです。

君の目から見てどんなにキモくても、臭くても、年取っていても、生まれたてでも、ブスでも、頭が悪くても、自分と違う外見でも、自分と考えが違っても、嘘ばかりついているやつでも、怠け者で一つも世の中のためになってないように見えても、人である以上は誰でも、君や君の大事な人とまったく同じ権利を持って生きている。というのが、この社会の前提です。

だから、どんな人でも勝手に殺してはいけないだけではなくて、人から盗んでもいけないし、殴ってもいけないし、嫌がらせをしてもいけないのです。

この社会の法律は、「人はみんな同じ権利を持っている」 という考え方をもとに作られてます。

そのきまりで、君も君の家族も、そのほかの君が大切に思う人も守られています。

でもこういう考え方は、わりに新しいものです。人間の社会がずっとこうだったわけではないし、今後もいつもそうとは限りません。

戦争になって兵隊にされたら、「人を殺してはいけない」というスイッチをオフにして、相手の国の人を殺すことが仕事になります。

奴隷や異教徒や罪人を猛獣に襲わせたり互いに殺し合いをさせてそれを見物していた国もありました。日本ではサムライの時代には名誉が人の命より大切だったので、サムライ的な名誉を傷つけた人は殺さねばならないことになっていました。

おおむね、ベーシックなルールとして、身分の高い人は身分の低い人を適当な理由で殺しても、傷つけても、あんまり何もいわれないという時代が、どこの国でもけっこう長かったのです。

奴隷制があった時代や国では、奴隷として所有されていた人には持ち主と同じ権利がなかったので、どんな目にあっても、殺されても、何もできませんでした。奴隷のある世界では、「人を殺してはいけない」という決まりの「人」の中に奴隷は含まれていなかったからです。

浮気をした女の人は石で打ち殺されるきまりになっている国もありました。その国の決まりの下では、女の人には男の人と同じ権利がなかったからです。

今現在でも、みんなに同じ権利が保証されていない国や地域はたくさんあります。国がきちんとした法律をもっていないところもあるし、その法律をきちんと守らせる力を誰も持っていない場所だってたくさんあります。

日本やアメリカやその他の多くの国では、これまでにいろいろあって、その結果「人が人である以上、みんなが同じ権利を持っているので、互いにそれを守らなければならない」ということを基本的な考え方にすることに決まりました。

何百世代もの人びとが苦しんだあげくにようやくこういう社会が実現した、と私は思います。

だから、この考え方を尊重して、私たちは勝手に人を殺したり傷つけたりしてはいけないのです。

私はこの決まりができて良かったと思うし、こういう決まりのある社会に住んでいることを幸せだと思います。
君はどう思う?

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2013/11/23

登録サバイバル



きのう朝、うちの息子は5時半からインターネットに向かってた。

目的はクラスのレジストレーション。来年1月から始まる大学1年の2学期目で取りたい数学と化学の基礎クラスがすごい競争率で、500人ぶん以上の枠があるのに、ほかの優先枠の学生(単位を規定数以上取って卒業に近いほど優先になる)が取ったあとにはほんの20くらいしか空いてない、席の争奪戦なんだそうです。

朝5時55分だかにクラス登録がオープンになるので、みんな早朝からスタンバイしてるとか。

回線が混み合ってなかなかログインできず、結局ログインできた時にはもう1つも席は残っていなかったといって、おれはどうすればいいんだー!と、朝から超ブルーになっていた。


500何人かのうちの1人が登録を取り消せば席が開く。空席ができたらメールでお知らせをしてくれるリストに登録していても、ほぼ空いた瞬間に埋まるので、きょうは一日じゅうメール受け取っちゃログインして撃沈の繰り返しだったそうです。

今年は特に新入生の数が多くて、1年の基礎クラスの奪い合いがはげしいらしい。

これは商売になる。

と思うのは私だけではないようです。

登録画面にアクセスし続けるボットを作成して売る人とかも当然いるようで、クラス登録の画面にしつこくログインして画面を更新し続けていると、強制的にシャットアウトされるんだとか。
ほかにももっとあこぎな商売が成り立ってそうな気がするなー。


UCLAその他、カリフォルニアのマンモス校ではもうかなり前から学生数に対して必修単位のクラス数が少なすぎ、真面目に通ってもクラスに登録できないために4年間で卒業できない学生続出、というのを何年か前に聞いた(だからカリフォルニアからワシントン州に来る学生が増えたとか)けど、同じ傾向になってるのか。




日本の大学の事情はまったく分からないんだけど、どうなんでしょう。日本の大学って入るのは大変だけど、入ってしまえば割合に卒業まで行き届いた面倒を見てくれる感じがする。

アメリカの大学はクラス登録からして生存競争だ。


要領が良い子は絶対先回りしていろんな手を打ってるはず。高校の続きでぼーっとして誰かが助けてくれるのを待ってても、誰も親切に手伝っちゃくれないのだ。まあこれも勉強だ。頑張れ息子。

写真は数週間前のグリーンレイク、秋の最後のゴージャスな一日。
もう今は、葉っぱもすっかりなくなって、本格的に冷え込んできた。


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2012/06/13

コミュニティカレッジ

火曜日に期末試験が終わりましたーー。

今学期はNSCC(ノースシアトル・コミュニティカレッジ)でアメリカ現代史を受講しました。

面白かった。

第一次世界大戦、1920年代のフラッパー、大恐慌、ニューディール、第二次大戦、冷戦、ミサイル危機、ベトナム、公民権運動、レーガノミックスまで。
知ってるようなつもりで良くわかっていないことがどれだけ多いか毎回思い知らされます。

コミュニティカレッジは7年前、ハワイにいたときに卒業して、ワシントン大学のイブニングディグリーのプログラムに去年編入したのですが、まだ3クラス分くらいの単位をトランスファーできることがわかったので、速攻コミュニティカレッジで取ることにしました。

UWだと1クラスの授業料プラス各種手数料が1765ドル。コミュニティカレッジだと500ドル(テキストは別)。3分の1以下です。

でもハワイの時はもっと安かった。2005年当時、3単位のクラス(ワシントン州の5単位相当)で1単位50ドルくらいだったから、1クラス約150ドルでした。(今は2倍に上がっているけど、それでも州民だと300ドルくらいのはず。)

カルチャーセンターと同じような値段で大学の単位が取れてしまうって、アメリカってすごい国だ、と本当に感動しました。敷居が本当に、低い。

日本にいた時は貧乏だった上に頭も素行も悪く、大学どころか高校もきちんと行かなかった私のような人間にもポストセカンダリー教育への道が簡単に開けてしまうって、なんと風通しが良いのでしょう。

日本にも同じような制度があったら良いのに。



今回の授業は「HIST148 」で大学1年次相当のクラスだからちょろいかなと思ったら、講師がとても熱心で、ペーパーもけっこう大変だった。

講師はワシントン大学でも教えている先生で、ディスカッションの運び方や視聴覚素材の選択が優れていて、少しも退屈しませんでした。 

今回はうちの息子と同じクラスを取りました。といっても時間帯は別で講師も別。わたしは夜間の6時のクラスで、息子は朝8時からの。

テキストは同じでした。
がーー、ファイナルのペーパーの内容が全然違う〜。こっちのクラスは別にまる1冊本を読んでブックレビューを書くという、読むのも書くのもスローなノンネイティブには辛い課題でございました。UWで春に取った400番台のクラスより、むしろクライテリアも課題の量も厳しかった気がします。
 
息子はいま高校3年生(日本でいう高2)ですが、今学期からコミュニティカレッジの教養課程を使って高校の必須科目を取るのと同時に大学の単位も取れるというシアトル市のRunning Start という制度を利用しています。

午前中はコミュニティカレッジで2コマとって、午後は高校で2コマ授業を受けるという生活。
結果良いのか悪いのかまだ終わってみないとわかりませんが、コミュニティカレッジの授業のほうが、高校のよりも面白いようです。

 高校の歴史の授業は、割合に愛国的なアメリカ万歳な内容を教えているそうなのです。インディアン迫害の歴史とか、なにも教わっていないらしい。
ワシントン州のようなリベラルな州で?というのは驚きだったのですが、そういう傾向の先生が多いということなのか。確かめた訳でないので又聞きの範囲を出ませんが。

コミュニティカレッジっていろいろな意味ですごく柔軟に高校と大学の間のニーズを満たしています。

大学の授業料はここ10年間というもの半端なく高騰し続けていますが、ウチのような貧乏家庭のためにコミュニティカレッジが頑張り続けてくれることを祈ります。




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2012/05/31

Lockdown

 

今日はわりに近くで銃撃事件があって、 カフェで5人、ダウンタウンの路上で1人が撃たれて4人が死亡、犯人も逃走したあと銃で自殺したという衝撃的な事件がありました。

ここは本当にシアトルですか?と思うような一日。
どちらの現場も良く通る場所で、ぞっとしました。

ダウンタウンも大混乱だったようだし、ノースシアトルの現場に近いルーズベルト高校などいくつかの学校は即座にlockdown されたと報道されました。

コロンバイン高校の銃乱射事件以降、どこの州の学校でも、近くで銃がからんだ事件があって犯人が捕まっていない場合には、すぐさま学校のすべての入口を封鎖して誰も入れないようにする「lockdown」を実行しているようなのです。

ハワイにいた時にも一度、何だったか忘れたけど武装犯人が逃走した事件が起きて子どもの通っていた小学校がlockdown されたことがあり、その時初めてそんな制度があることを知りました。

lockdownが解除されるまでは親も学校に近づけないし、誰も出入りすることができません。
ウェブ辞書だと「避難」になっているけど、「封鎖」のほうが合ってます。
ぴったりの熟語はありませんね。ていうかそんな日本語が出来ないことを祈ります。

息子によると、年に一回くらい、fire drill(火災訓練)のような「lockdown drill」があるんだそうです。

訓練の時には窓のそばから離れ(外から撃たれないように)、机の下に隠れたりして、教室には鍵をかけるのだそうです。廊下にいた場合は、閉め出されないようにすぐに一番近い教室に飛び込むこと、と指導されているようです。

いまだかつて外で事件をおこした凶悪犯人が学校に乱入して立てこもったという事例は聞いたことがありませんが、親的には、近所で銃撃があった時には学校を封鎖してくれるとやっぱり安心…。






この間サッカーの試合で行った高校のグラウンドの金網にも、↑こんなサインがかかってました……。この刃物も怖いし(泣)グラウンドじゃなければいいのかー! (´;ω;`)


人ごみの中でも渋滞の中でも、誰が銃を持っているかわからないのがアメリカですね。
お願いだから規制はもっと厳しくしてほしいです。簡単に買えすぎだよー!


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2012/05/24

School Lottery



Great Schoolsの記事にこんなくだりがありました。


As parents in a big city with a competitive school lottery, we know the importance of choosing the right school for our children.

 (人気公立校の抽選枠争率が激しい大都市で子どもを育てる親として、子どもにとって最適な学校選びがどれほど大切か、私たちは皆よく知っています。)

この「a competitive school lottery」って、アメリカの公立校に子どもを通わせたことのある方なら多少なりとも悲喜こもごもの思い出がある言葉ではないかと思います。

が、日本やほかの国の方には、たぶんピンと来ないのではないでしょうか。

「school lottery(学校のくじ)」=入学のための抽選枠、ということですが、どうして公立校に抽選枠があるのかというと、アメリカの公立校は学校間でものすごい格差があるからです。

私が子どもの時通っていたのは東京都内の区立小学校でしたが、どこどこの小学校は良いとか全然ダメとか、中野区は良くて杉並区はいけないとか、そんな話は聞いたことがありませんでした。
現在はどうなのでしょう?多少はあるのかな?

地域によっても違うのかもしれませんが、少なくとも昭和後半(後半ですよ、一応ね!)の東京郊外では学校間の格差、学区間の格差というのはほとんどありませんでした。

今思えば、どこの小学校にも図工と音楽の専用室と専任教師があり、音楽室にはちゃんとしたグランドピアノがあり、広い校庭とプールと体育館があった。…って、アメリカの公立校に比べたら、考えられないほど素晴らしい環境です。

ハワイ州でもワシントン州でも、公立はもちろん、私立校だってそこまでの設備がある小学校はほとんどありません。音楽室や美術室どころか、音楽や美術の時間も、予算の都合で存在していない学校のほうが多いです。

アメリカの学校には連邦政府からあんまりお金が出ていないので、ほとんど地方税でまかなわれています。ハワイのように州が一括して管理しているとこもあれば、もっと小さな単位の自治体で学校を運営しているところもあります。

シアトル市の学校はシアトル市の運営で、予算の半分は州から、約4分の1が市の目的税(School Levy)からで、国からの補助金は13%に過ぎません。(参考*Seattle Public Schools


ハワイ州は(シアトル市も)予算を学校に均等に(生徒数に応じて)分配しているはずなのに、それでも学校間に差が生じるのはどうしてなんだろう、と最初疑問に思っていました。

学校間でパフォーマンスに差が出る理由は色々ありますが、裕福な地域に優秀な学校が集中するのはまぎれもない事実です。

Great School などのサイトは、生徒の全国平均テストの点数や先生と生徒の割合などで各学校に「点数」をつけていますが、この点数が1から10の評価で8~10の高得点 の学校は、かなりの割合で地価の高い地域にあります。

学校の評価が良いと学区にある住宅の値段も高くなるので、不動産価格と学校のスコアはほぼ比例関係にあるといってもいいくらいです。

各自治体でシステムは違いますが、シアトル市やハワイ州では各学校に学区外からの「越境入学」枠がそれぞれあって、人気学校には希望が殺到します。これがschool lottery枠です。 

子どもを12年間公立の幼稚園~高校に通わせてみた実感として、ハワイでもシアトルでも、優秀な学校は

1)落ち着いた住宅街の恵まれた環境にあり、コミュニティからも強くサポートされている。
2)その学区に子どもを通わせるため、子どもが学齢期になる前から引っ越して来る親も多い。>コミュニティからのサポートがさらに強くなるし、学校への金銭的・時間的サポートも強い。
3)学区外からの越境入学を希望する親は概して教育熱心で、学校にも積極的に関わるし、子どもにもお尻を叩いて勉強させる
 4)教育熱心な親が多いので学校全体の成績が上がる

…という良循環によってどんどん明るくなって行くのに対して、問題のある学校は、真逆の悪循環にはまっているようなのです。

1)比較的平均世帯収入の少ない地域にあり、治安も良くない場合が多い。コミュニティからのサポートが薄いことが多い。
2)教育熱心な親は遠くてもほかの学校に通わせたがる。時間やお金を使って学校をサポートする親の数が少ない。
3)移民が多い地域では子どもの教育にまで手が回らない親も少なくなく、勉強時間も確保されないので、子どもの成績も上がらない。それどころか学校に来ない子どもも多かったりする。
 
親たちからの時間的/金銭的サポートというのは、慢性的に予算の少ない公立校ではかなり大きなファクターです。

ハワイで人気公立校に子どもを二人越境で通わせていた知人は、学校に「感謝の気持ちとして」数千ドルはすると思われるポータブル倉庫をぽんと寄付してましたし、校舎のペンキを塗ったり草を刈ったりといったボランティア活動やPTAの寄付集めにも、越境で通わせている熱心な親は積極的に参加する確率が高いのです。





で、冒頭のこの記事は、そうやって希望の学校に入ったは良いけれど、今度は「良い先生」が自分の子どもの担任になるように働きかけるべきかどうか…と悩む親の話でした。


希望の学校に子どもを入れ、最善の環境を提供するためにあらゆる手段を駆使する親の中には、いろいろな手段で先生のチョイスに働きかけようとする人も多いようです。

これは日本で問題になった、要求だけをゴリ押しする「モンスターペアレント」とは全く違って、学校に多大な貢献をしている親たちです。PTA活動にも熱心で、時間もお金も出している親は自然と学校とのパイプが太くなり、公式にではなくとも影響力が強くなるというのはうなずける話です。

実際、12年間の間にははっきり言ってやる気がないとしか思えない先生、子どもが嫌いとしか思えない先生、自分のやり方を押し付けることしか出来ない先生にもお目にかかりました。
反面、感動するほどエネルギッシュで、生徒をインスパイアしてくれる先生にも何人か会いました。

アメリカでは教え方やカリキュラムもかなり先生の裁量にまかされているので、同じ学校でも先生によって大変な差が出て来るのは事実です。

でも先生のチョイスに親が口を出すべきか。出せるのか。

記事の著者は、何も言わなかったことで「とても評判の良い先生」のクラスに娘が入れなかったのにはやはり悔いも残る、下の娘の時には、子どもにどんなスタイルの学びが必要なのか、きちんと主張しようと思う、というような結論を述べていました。

親の努力やリソース次第で子どもの学ぶ環境にも結果にも大きな違いが出るのが当然、ということが前提になっているアメリカの公教育。飛び交う情報を集めて、ベストと思う学校を選び、子どもが入学できるように最大の努力を払い、さらには学校内でも先生について情報を収集して、子どもがどの先生に当たるかにもいろいろ運動する、当然学校の活動には貢献するし、子どもの宿題もばっちり見てやる。…というのが「できる親」、みたいなことになっているので、親にとっても相当ストレスです。わたしはとてもそんなパーフェクトなことはできないので、焦ったり、罪悪感を感じたりもしました。

同じ学校内でも格差があるから、親が受身ではいけないということと、親が子どもに常に期待値を示していかなくてはいけない、というのは何度も痛感させられました。(もちろん、期待通りには育ってくれないものですが、それはそれとして…) 

学校にも個性があって、画一的でなく、いろいろなチョイスがあるのは大変良いことだと思いますが、とにかく積極的に情報を集めて動ける余裕のある人勝ちのシステムだから、結局格差はそのまま受け継がれることになるなあ、というのも実感です。


いつもありがとう!
よかったらまた来てくださいねー。
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2012/03/23

こども病院のクジラ棟


少し前、Seattle Children's Hospital (シアトル・チルドレンズ・ホスピタル)に行ってきました。

ここは全米でも数少ない小児総合病院で、米国内だけでなく世界各地から移植手術などを受けに小さい患者さんが来るようです。

今回は、うちの息子が2月の末に試合で頭を打ってconcussion (軽い脳振とう)と診断された例の件のあと、2週間たっても時々軽い頭痛があり、特に数学の宿題をしていると頭が痛くなるというので、school nurse (日本でいう「保健の先生」的存在です)やサッカーチームのトレーナー(高校のスポーツ部には、コーチのほかに必ずこのプロのトレーナーがついていて、練習や試合中にケガをしたり身体を痛めた場合にすぐその状態を確認してくれ、試合に出て良い状態かどうかを判断し、故障のある子にはストレッチなどの指導をシてくれたりします)はじめ、いろんな人に一度ちゃんとお医者さんにみてもらいなさい、といわれたので行ってみました。


うちの息子はもう身長170センチの高校生なんですが、それでも紹介されたのは小児科。


子ども病院は「きりん棟」と「くじら棟」に分かれていて、くじら棟は海のテーマで統一されてます。


病棟真ん中の明るい吹き抜けには、ノースウェストのネイティブアメリカンアート様式の、おおきなクジラ(一番上写真)。


エレベーターの中にもイッカクが。


待合室や廊下も海テーマ。

Concussion 外来はくじら棟の4階、整形外科>Sports Medicine (スポーツ医学)科の中にあります。数週間前、別件で来たときに診てもらったのと同じ整形外科のドクターでした。

こんな可愛い待合室に、うちの息子はまったく似合わない



でも整形外科外来なので、走り回るちびっこちゃんたちに混じって、ほかにもスポーツで怪我したっぽいティーンエイジャーたちが親に付き添われてちらほらと、居心地わるそうに座ってました。ひよこの囲いの中に入れられたダチョウみたいな感じで。





 診察室の床にもクジラ。ランプはオルカ。徹底したコーディネート。

 ドクターは問診だけで、実は学校のサッカーチームのトレーナーに数日おきにチェックしてもらっているのとほぼ同じ項目をチェックしただけでした。

頭がどのくらい正常に動いているかを確認するための項目で、たとえばランダムな単語を5つ聞いて、聞いたのと反対の順番に繰り返す。5ケタの数字を3つ聞いて、これも反対から繰り返す、といったもの。

横で聞いていて………この数字のテスト、わたし頭を打ったことはなくても完全に落第だと思いました。ふつうに覚えられないし。

これはものすごく個人差あるはず。だから学校のスポーツはシーズンが始まる前にこのようなテストを受けておいて、頭を打ったらもう一度 、同じテストを受けさせて、その差を比べるのだそうです。

だいたい自然回復に向かってるようだし、様子を見ましょうというだけの結論だったのだけれど、「頭を使いすぎると症状が出ることがあるので、少し勉強量を減らす必要があるかもしれません」というドクターのお墨付きレターを学校宛にもらって帰ってきました。

母ちゃんとしては8割くらいは気のせいじゃないかという気がするんですけど。数学はともかく、もうシーズンが始まっているのに学校のサッカーの試合はもちろん練習にも参加できないのは、本人にはかなり辛いもよう。早いとこ完全に回復すると良いのですが。



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2012/02/28

Concussionは「脳しんとう」?


昨日の日曜日のトーナメント決勝戦で、サッカークラブのシーズンが終わりました。
(息子のチームは決勝戦で負けてトーナメント準優勝でしたが、良いシーズンでした)
来週からは高校のほうのサッカーシーズンが始まります。

アメリカの学校のスポーツはシーズン制で、シアトルの公立校の男子スポーツだと、フットボールは秋(9月〜11月)、バスケットボールと水泳は冬(12月〜2月)、サッカー、野球、ラクロス、陸上は春(3月〜5月)です。

クラブでも学校でも、サッカーなどのコンタクトスポーツに参加する時に必ず書かされるのが「Athletic Concussion Information Form」。

Concussion が起きた場合の症状や対処法などの情報が列記してあり、本人も親も読んで理解しましたという署名をしないと、そのスポーツに参加する許可が出ません。

Concussion は辞書の訳語では「脳しんとう」と載っていますが、日本とは少し定義が違うようです。

AAFP(アメリカ家庭医学協会)のサイトではConcussion を「Mild traumatic brain injury」と定義して、3レベルに分けるガイドラインをいくつか紹介しています。
学会によって微妙に違うのですが、米国神経学会のガイドラインでは以下のとおり。

レベル1:意識喪失も意識の混濁もなし。頭痛など何らかの症状があるが、15分以内でおさまる場合。
レベル2:意識喪失はなし。記憶障害など意識の混濁があり、症状が15分以上続く。
レベル3:長さに関わらず意識喪失があった場合。重度のconcussionとみなされます。

「頭をぶつけて、少し痛いかも?」という程度のレベル1concussion は、日本では「脳しんとう」とはいいませんよね。

 

ワシントン州では、2009年に『Zackery Lystedt法』が可決されました。

この法律はワシントン州のスポーツ少年だった Zackery Lystedt君の名前を冠したもの。Zackery君は2006年、中学のアメフトの試合中に頭を強打したあと、少し休んで試合に戻り、その試合中に急に意識を失って倒れて病院に運ばれました。緊急手術を受けたものの脳機能は完全には戻らず、現在も全身が麻痺したままです。

頭を打ったあとすぐに試合に戻らなければ息子はこんな障害を負うことはなかっただろうと知ったZackery君のご両親が、二度と同じことが起きないようにと州議会に働きかけて制定されたのがこの法律。ニュースクリップはこちら

制定されたのは、ちょうどうちの息子が高校に入学した年でした。

この法律によって、クラブサッカーでも高校サッカーでも、試合中にconcussion が起こった場合には、その選手はすぐにプレーを中断して医療専門家の診断を受け、concussionによると思われる症状が完全になくなってから1週間(軽度の場合)は、試合にも練習にも出てはいけないことになりました。

そしてうちの息子、 か な ら ず 毎年1回は、頭を強打しちゃうのです。
新入生のときにはアメフトの試合でひっくり返り、数週間欠場。
去年は高校のサッカーのシーズン最後の試合の前にほかの選手と頭をぶつけ、重要な決勝に出場できず。



そして今回も、準決勝の試合でスライドタックルされて↑、この後に思いっきり後頭部を人工芝のグラウンドに打ちつけ、決勝には出場できませんでした。

大事な試合に出られないのがものすごく辛いようで、去年は悔し涙を流していましたが、脳みそには替えられないので、しかたありません。


いずれも意識を失ったりはしない「レベル1」のconcussionですが、昨日は試合後、シーズン打ち上げのチームパーティで、あちこちのお父さんお母さんから、小さな衝撃でも何度か続くと怖いから、ちゃんと検査を受けたほうが良い、と忠告されました。しかもパーティをホストしてくれた家のお父さんが脳腫瘍の専門医だったので、ものすごーーく説得力あり(汗)。



チームメイトの中にも、今シーズン中concussion で欠場した子が何人もいました。試合中にほかの選手と衝突して数分間意識を失い、夕食後もしばらく言動がヘンで、数日間記憶障害があったという 「レベル3」を被った子も。

頭の中の怪我というのは外からでは診断が非常に難しいし、本人にも自覚症状があるとは限らないので、こういうガイドラインが出来たのは喜ばしいことです。


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2011/07/29

Summer Camp


Mt. Baker (マウント・ベーカー)のあたりでみつけたゾウのじょうろ。

マウント・ベーカーは、サウスシアトルのワシントン湖に面したあたりの住宅街。

水辺が近くなると家々がアップスケールな感じになり、急激に住人の白人率が上がる。

水辺はどこでもやっぱり高級住宅地。 ワシントン湖畔からベーカー山が見えるというのが名前の由来だそうです。


Summer Camp の入り口でした。子どもの手描き看板がかわいい。

長い夏休み、子どもが小さいときはサマーキャンプが悩みの種だった。

アメリカは子どもを好き勝手な場所に一日放置して遊ばせておくことができない国(実際に危ないし。つい数週間前にもニューヨークで、8歳の男の子が家まで7ブロック歩いて帰る途中に迷って、道を聞いた相手が変質者で殺されてしまったという事件が報道されていた。涙)なので、働く親は、学校が休みの間、子どもを何かのプログラムに入れなくてはならない。

「キャンプ」といっても朝7時頃~3時くらいまでの学校の時間と同じようなデイプログラム。

これがまた、お値段がはる。せっかくだからちょっと特別なことが体験できる(サーフィンとかカヤックとか、アートとか、山登りとか)キャンプに送ってやりたいなと思うと、1週間300ドルとか簡単にいっちゃう。泊まりがけのキャンプなんかだと、5日間で500ドルは軽く超えたりする。


夏休み期間は6週間〜(ハワイの夏休みはほかの州より短かく、冬と春の休みが長かった)。

とても何千ドルものお金は出せないので、博物館のデイキャンプやらYMCAのプログラムやら、お財布に優しく、そして少しでも何か「タメに」なりそうなものを、と春先から必死に探したものだった。

アメリカって格差社会なんだなあと初めて痛感したのは、子どものサマーキャンプ探しの時だったかもしれない。教育には本当に、親の関心と経済力で恐ろしく差が出ることを、ひしひしと思い知ったのだった。

小学校のときの息子の友達にも、一日ゲームだけして過ごしている子もいれば、私立校のサマープログラムに朝から夕方まで通ってる子もいたし、東海岸の都市を回る見学ツアーに参加してる子もいた。

夏の間、たくさん新しいことを吸収して成長してほしいと願うのはどこの親も一緒だと思うのだけど、それぞれ出来る範囲は当然、限られている。

そして中学生になり、放置しても良い年齢になりサマーキャンプの悩みがなくなると、次にはもっと大きなカレッジ問題が待っているのです…。

2011/03/09

教科書の重さ


アメリカの義務教育は13年間で、公立高校の学費は無料。大変ありがたいことです。

学校はいつも資金が潤沢というわけではなく、地域格差がものすごく激しいのです。

聞いたところでは、南カリフォルニアのさるお金持ち地域なんて、10年前の段階で小学校の全生徒にモバイル端末が支給されて、宿題は全部ダウンロードだったとか。
ハワイの学校にはとてもそんな資金はありません。

うちの少年は毎日のように宿題のプリントをなくして怒られていました。

日本では、義務教育中の教科書は文部省がタダでくれるもの。
でもアメリカでは小中高校一貫して、学校の備品です。生徒はそれを借りてきて、半年とか1年間、大事に使うことになっています。

うちの少年が持って帰ってきた数学の教科書をふと見ると、見返しのところに使った生徒の名前と使い始めた年月日が書いてありました。

最初の日付をみてびっくり。1989年

20年モノでした!

89年に最初に使った「ジェニファー」ちゃんなんて、今ではもう高校生の母さんになっているかも。



受け取ったときに教科書がどんな状態だったかを書く欄もあり、最初の3年目までは「Good」とか「Perfect」とか書いてある。そのあとはだんだんGood な状態じゃなくなってきたんでしょう、空欄でした(笑)。

20年分のラクガキも、いろんなページに書き込まれています。



 歴史の教科書もこんなです。なんてことするのだ!と怒ろうと思ったら、受け取った時にすでにこの状態だったとのこと。
フェルメールの少女が…マリリン・マンソン似に……。


アメリカの教科書が丈夫に作ってあるわけですね。


でこれがまた重い。厚さは3センチくらい。
1教科につき2キロか3キロくらいある感じだから、毎日全教科持って歩いたら登山の装備なみです。

これプラス、例のコンポジションノートブックだから、毎日かなりの荷物になります。
あまりにも重いので成長途中の子どもの背骨に悪いというので、小学校低学年の子どもにはガラガラ引っ張るタイプのキャリーケースを持たせる親が多いけれど、小3にもなると男子は特に、そんなかっちょ悪いものを引っ張って学校に行くことは断固拒否し始めるのです。

で、教科書は学校に置き去りに…。

この20年モノ教科書も、家に置いておいてよい宿題用で、教室にはまた別に1セット新品があるらしいです。

そのうち全部電子書籍になるのかもしれませんが、まだしばらくは超重い教科書が生き残りそうです。

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2011/03/05

Not the End of the World



例の京大受験カンニング事件の報道を見て、朝からどよよ~んとしてしまった。
やったことは本当に大ぱかだとは思うけど、こう国中で大騒ぎするほどのことでもなし…ていうか、国立大受験が日本ではどれほど重大イベントなのかを、改めて思い知らされた。

乗り間違えた受験生のために、急行列車が緊急停止したって話もあったなあ。

日本の受験って一回こっきり勝負なんだよね。
わたしは日本で受験戦争をくぐりぬけもせず、たらりんと生きてきて、なんとなく風にのってここまでたどりついたような人なので、日本の受験制度について何か言う資格はありません。

そしてアメリカがめちゃめちゃ優れた国だとも思ってはいない。とてつもない矛盾や格差が厳然とあって大変な国ではある。

でも、アメリカの良いところはすごく風通しが良いことだと思う。

アメリカの大学受験は、高校1年(日本でいったら中3)くらいから始まるといっていい。高校4年間の成績、リーダーシップ、SATの点数、地域社会での活動、スポーツ活動、本人のアピール、すべてがパッケージになって、選考対象になる。いってみれば、4年間の生活がすべてカウントされる。

高校2年のうちの少年も大学を目標にはしているが、 あと2年のうちにどのくらい勉強に前向きになれるか、大学の勉強についていけるほどの思考習慣が身につくか、夢中になれるようなサブジェクトが見つけられるか、なによりうちにはおカネがないから、自力で資金を見つけてこられるか、まだまだこれから…。

 まあそんな4年間のうちに、格別に優秀な数パーセントの生徒はピックアップされて、奨学金つきでトップ校に招かれるシステムが組み込まれている。それ以外の生徒は、それなりに自分の実力と折り合いをつけながら、それなりに力を伸ばして自分の行き場所を探していく。

だんだんと時間をかけて、自分の実力や向き不向き、周囲の評価や好きなものを見つける。大学に入っても、大学間の単位互換で融通がきくから、A大に入って単位をそっくりトランスファーしてB大で学位、C大で修士をとる、ていうのもある。履歴書で一番大事なのは、最初に入った大学じゃなくて、最後に学位を取った大学。本格的に勉強を始めるのは大学に入ってからだし、いったん社会に出てから大学に戻る人も多く、法学部に入って弁護士になっちゃうとかも珍しくない。

もちろん、それ以前に高校自体をドロップアウトしてしまう子もたくさんいるわけだけど。

風通しが良いというのは、たくさんの道が用意されていて、進路の変更がわりに簡単で、ダイナミックなことと、同じだけ多くの価値観が平行して存在していて、「成功」や「幸福」の形が一つではなく、ものすごくたくさんあるのが当然だと受け止められているという意味。それに加えて、出自や性別、肌の色、年齢などを問わずに実力を評価しましょうというシステムが法律で守られていること。

たとえば高校をドロップアウトしてしまった子にも、大人になってから高校卒業資格をとって大学に通う、というような道がいくらでもある。わたしもそんな道を使わせてもらって、30歳過ぎてからコミュニティカレッジのクラスをたくさん取った。すんごく楽しかった。18歳から60代まで、クラスメートには本当にいろんな人がいて、いろんな誇りや夢を持っていた。みんなすっごく元気だった。

なにがいいたいかというと、日本の若い人は、あまりにも一度きりの機会に追い詰められてるのじゃないかしら。受験にしても、シュウカツにしても。
これがダメなら何もかも終わりだ、て20歳そこそこにして縮み上がってしまっているのかと思うと、胸が痛い。

アメリカの人が、特に学校の先生が生徒に良く言うセリフに、

It's not the end of the world.

ていうのがある。カレッジの講師も、息子の学校の先生も、口にしていた。
 試験の前に青くなっている生徒や、頑張ったのに納得のいく結果を得られないかもしれないとおびえてる人に向かって。

…これが世界の終わりじゃないから。

「A」が取れなくても、思い通りの結果が今回は得られなくても、これで人生終わったわけじゃないから。世界は広い。地球は回っている。あんたはまだ若い。ほかにまだチャンスはある。まあそんな、思い詰めても仕方ないでしょ。

…というような。いたって単純なんだけど、ぽんっと広い世界に突き出されるような、視点の切り替えを促す言葉。

しかし日本の子達にこれを言っても、気楽なおばさんが何の寝言を言うかと思われるだけだろうか。抜け道がたくさんある社会だからこそ、説得力がある言葉なのかもしれない。

日本にももっと、抜け道が用意されると良いのに。ほんとに、試験は世界の終わりじゃないから。考えてもないような展開が待っているものです。


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2011/03/01

ガールスカウト・クッキー


この季節、スーパーマーケットから出てくると、出口の外に立っている制服姿の少女たちによびとめられることが多い。

「Do you want to buy Girl Scout cookies? ガールスカウトクッキー買いませんか?」
Do you want ? というところがミソです。彼女たちはCould you ? とか言わない。頼んでない。 

「買いたかったらどうぞ。ガールスカウトに貢献するチャンスをご提供しますわよ」というマーケティング。

5回のうち4回は「もうウチにいっぱいあるのよ〜」と笑顔で断るけど(まんざら噓でもありません。今年はサッカーチームのマネージャーの娘がガールスカウトだったので買わないわけにはいかなかったw)、あんまり寒い日に小さい子が売ってると、ついマッチ売りの少女を思い浮かべて買っちゃったりする。

1箱4ドルって安くはなく、すごくおいしいわけでもないけど、このレモン味のクリームがはさんであるのとかは、なんだか懐かしい味で、うちの少年も好き。

うちの少年もハワイ時代、カブスカウトやサッカーチームのファンドレイジングで、よくスーパーの前でモノを売った。やはり小さい子のほうが良く売れる。2年生くらいの子が制服をきちんと着て売ってると、飛ぶように売れる。知らない人に話しかけてモノを買ってもらうのって、意外に良い経験になったかも。

 ハワイでは、小学校の備品などを買うためのファンドレイジングで売られてる「School Kine Cookies」ていうのがおいしかった。これも1袋6ドルとか7ドルで、けっこう高いのだ。

学校が学校のために生徒にモノを売らせること自体も驚きだったけど、 たくさん売れた子には賞品が出るシステムにも驚いた。TVアニメ『Boondocks』のネタにもなってたので、全国的な慣習なのだろうと思われる。

こんなん売るより直接寄付集めたほうが早いんじゃと思わないでもなかったが、現金で10ドル寄付を集めるよりも30ドル分のクッキーを売るほうが全体として収益が高いのだろう。親の人脈でも親戚でもなんでも使って売り上げを競うシステムは、社会の縮図のようでもあるのだった。営業魂、大切ですからね。


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2010/09/29

Soul of the university

ワシントン大学のSuzzalo library (スザロ図書館)に行ってきた。

1920年代、当時の学長Suzzaloさんが「図書館はSoulf of University、大学の魂だから」とお金に糸目をつけず、壮麗なゴシック大聖堂のような、美しい図書館を建設した。



外観はヨーロッパの聖堂広場みたい。


アーチの上に彫像が立っている背の高い入り口をはいると、ホールの両側に優雅な階段。




読書室は吹き抜けの大天井にステンドグラス。ハリー・ポッターがほうきに乗って飛んできそうな、クラシカルな雰囲気。

この図書館が「あまりにも豪華すぎる」というので Suzzaloさんが理事会からクビにされた。
…と『Lonely Planet』にはあったけど、どうやらそれは事実ではなくて、木材労働者争議の調停をつとめたときに労働時間制限を通して、当時シアトル政財界を牛耳っていた木材会社社長たちの怒りをかったというのが真相らしい、と歴史サイトにはあります。

インテリで人格者で魅力的な紳士だったらしい、スザロさん。


洗面所の入り口には、りすのステンドグラス。本に座っちゃってます。

ちなみに、ここでお勉強するお値段は。
 州の住民の場合学部生の学費が年間8700ドル、州民でない場合は、年間2万5000ドル。これに寮やアパートの住居費生活費をいれると、州外からの学生なら、ざっくり年間3万5000ドル強。日産のフェアレディZが新車で買えます。これ掛ける、4年間である。

これがたとえばスタンフォード大とかの超名門だともっと大変。年間学費が37000ドル、プラス寮費など1万1000ドル。締めて、かるく5万ドル。BMW5シリーズが買えます。1年間のコストですよ。

一般小市民としては血の気が引いてしまう値段。学生の約半数は何らかの補助金を受けていて、卒業後にも何年もかかってローンを返す人も多い。

だけど大学どころかいろんな理由で高校さえ卒業できない若者も、数多い。

聖堂のような図書館を持つ大学に通えるのは、いろんな意味で恵まれた若者たちなのだ。



9月は新学年の始まりなので、ご両親と一緒に歩いてる新入生らしい若者がいっぱいだった。お父さんやお母さんのほうが、緊張気味の新入生よりも嬉しそうに見えた。

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