2017/04/05

脳がつながる日




『ゴースト・イン・ザ・シェル』観てきたばかりだけど、きのう、テスラのイーロン・マスクが「コンピュータと脳をつなぐ神経系UI技術を開発する新会社」Neuralinkを作ったと認めたそうです。ギズモードの記事はこちら

火星移住と同じでいつ成功するか、ほんとうに成功するかは未知数なプロジェクトではある。あるけど。『ゴースト・イン・ザ・シェル』の世界は、意外にほんとに数十年で来るのかも。

CBSは

ますます階層に敏感になりつつある世界で、ひと握りの人間が人間を超越する能力を手にいれるというのは、誰にとっても、最悪のシナリオではないか。特に、現在よりもさらに格差が進んだ時にその技術が実現すれば、なおさらだ

という論説を載せてます。

技術は可能になれば、誰が禁じても必ず実現するもの。
そんな技術がうっかり実現する前に、社会が格差を是正する方向にシフトしなければ、という論旨。もちろんだ!

イーロン・マスクがほかで言ってるような「ベーシック・インカム」だけでは、格差の是正にはつながらない。それだって、導入が実現するには、1930年代の大恐慌なみの社会的な災厄が起こらないと、きっと無理なんだろうなー。

あーやだやだ。
若者よ頑張ってくれ。
おばちゃんに出来ることは、今のところなにもないな!

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2017/04/04

ゴースト・イン・ザ・シェル!


『Ghost in the Shell(ゴースト・イン・ザ・シェル)』みてきました。

予告編を何度か観て、こりゃダメかも〜。うーん。でも観ないわけにはいかん、と思いつつ劇場に行ったんだけど、予想以上によかったです

士郎正宗さんの原作コミックは、わたくし、崇拝しているのですが、情報量が多すぎて何度読み直しても完全に理解できない。

原作とも押井守監督のアニメ版映画とも全然別ものだけど、これはこれで了解いたしました。ふつうにいいと思う。

「草薙素子少佐」じゃなくて「レイチェル少佐」のスカーレット・ヨハンソンは本当によかった。
内省的な目ぢからがすごくて、アンドロイドっていわれれば、まあそうかも、と思えるような存在感。

義体(人工の肢体)を開発する科学者役のジュリエット・ビノシュも大好きな女優さんの一人。このひとが画面にいるだけで映画の格が上がるかんじ。


一人だけなぜか日本語を喋る荒巻部長役のたけしも。原作の部長のキャラとは全然違うのだけど、妖怪的な不気味な存在感があってこれはこれでよかったです。なんかでもヤクザっぽいな。

バトーさんはもうちょっと凶悪そうなほうが良かったなー。ちょっといい奴っぽすぎる。

そして、トグサ役が中国人(香港人かな)俳優というのは、少佐がスカーレット・ヨハンソンというよりもむしろ残念な気がする。俳優さん自体はとってもトグサらしくてよかったんだけど。

あと、フチコマが出てこなかったのがなんといっても残念でした。
フチコマまたはタチコマは、ネットワークにつながっていてうっすらと自我のようなものを持っているという設定の人工知能搭載の多機能のりものです。たしかに、フチコマちゃんを出すとお金かかりそうだし話がややこしくなるわね。

(以下マイルドにねたバレ)

原作の舞台は第4時大戦後、核戦争で東京が消滅した数十年後の日本の「ニューポートシティ」だけど、冒頭に画面に字幕で出てきた説明をちゃんと読まなかったこともあり、映画の舞台はどこなんだかよくわからない。日本にしては国際化しすぎていて、もはや東アジアの大陸に溶解してしまった日本国家の都市という感じ。もしかしたら韓国と北朝鮮と香港とマカオと台湾と日本で合併したのかもしれない。

たけしが一人で日本語で喋ってはいるけど、ほかの登場人物は英語。

日本語、韓国語、中国語の看板が入り混じり、キッチュな巨大人物や鯉のホログラフ映像がビルの谷間にびっしり立て込んでる景色は、なかなか見ごたえありました。

とにかくビルが多くて垂直にせせこましい混沌としたアジア都市は、どうみても近未来香港。

香港チックな漢字の看板いっぱいのゴミゴミした都市は押井守監督のアニメ版をそのまま実写化したかんじだけど、『ブレードランナー』の衝撃的なディストピアのアジア都市の延長線上にあって、ビジュアルでびっくりするようなところはあまりなかった。むしろクリシェな感じ。90年代的な近未来解釈。(ゲイシャロボットも、90年代的なセンスだなと思う)


義体を作っているのは、国家以上の権力がありそうな企業「HANKA」。この企業のロゴとか、ちらっと映る社屋とかもなんとなく90年代ふうであんまりウルトラオシャレじゃなくて、少し残念でした。これも香港風というべきなのか。

たけしが「首相と話してきた」っていう場面が2回あったけど、どんな首相のいるどんな国家体制になってるのかは謎。HANKAの白人男性社長は政府と癒着しているらしいけど、敵としてはうすっぺらすぎて怖さがない。

ハリウッドから見ると、結局中国も日本も韓国もひとまとめにアジアなのねというのが良くわかる。ていうかね、たけしの存在でかろうじて日本の原作に敬意を表してはいるけど、完全に舞台は中国に取られてしまっている感。

きっとコアな日本のファンには、もうそこだけできっと拒否反応のひとがいるのだろうな。
でもね、「俺たちの少佐をかえせー」と言ってももう無駄だと思うだよ。 

DreamWorksなどに続いて、映画の冒頭に制作会社&配給会社のクレジットが何社も続くのだけど、最後の2社は中国のだった。ネットでちょっと調べても出てこなかったので何をした会社かわからないけど。

とにかく制作現場でのパートナーとしても、市場としても、ハリウッドが必死で見てるのは中国なんだな、もう日本は、映画でのたけしの存在が象徴するように、もっともバイタルな存在ではなくなって、シンボル的なものになってきたのかもしれない、とふと実感しました。

ヲタクのひとたちが微妙に右傾化しているらしいのは、世界が、そしてこの東アジアの一画が、もう取り返しのつかないほどグローバル化してしまったことの証明なのだな、と、映画とはまったく直接関係ないけどそんなことを思ったりもした。

グローバル化っていうのは「フラット化」なりと主張してたのはトーマス・フリードマンさんだけど、実際にはグローバル経済はこの映画のニューポートシティに描かれるような格差や荒廃を作り出している。でも、意匠や文化のフラット化は進んでいる。日本の「クール」が新しかったのは、きっと90年代までだ。今ではジャパニーズアニメの言語はもう世界のミレニアル世代の共通言語のなかに組み込まれているのだし。本当の「フラット化」というのはもしかしたらこの映画の町並みのような風景のことをいうのかもしれない。
  
(以下盛大にネタバレあり)






原作やアニメ版映画の草薙素子少佐は強くてハードボイルドで、感傷も他者への共感も強いて持とうとしない。これは、ジャパニーズアニメのキャラクターのひとつの典型。

だけど、この映画の「レイチェル」少佐は、ふつうに傷つきやすく、自分の出自に納得していない。

なので少佐の自分探しが映画の本筋になる。

原作世界では、ネットワークにつながる電脳の中に個性または「魂」というべき「ゴースト」がゆるく存在しているという非常にややこしくエキサイティングな設定なのだけど、この映画では、ひとの脳を人工の義体に埋め込み、完全に統合することに初めて成功したのが「レイチェル」ということになっている。

そしてレイチェルには時々、ジェイソン・ボーンのように、過去の記憶が一瞬戻ってくる。いったい自分はなにものなのか?
 

追っていた敵が、実は自分が作られる前の実験体として捨てられた人造人間だったということがわかり、いったい自分の前には何体実験体があったのか、とレイチェルは自分を作ったハカセを問い詰め、ついに真相を知る。

「テクノロジーの暴走に反対する革命分子」みたいな若者グループが、警察の襲撃を受けて国家に拉致され、その若者たちの脳がこのプロジェクトに使われていたのだった。レイチェルの脳は「モトコ・クサナギ」という若い女の子のものだった。

反乱分子が国家に拉致されてその肉体が国際企業の実験に使われる。中国を念頭におくと、何か妙に説得力がある話。

強欲な企業のCEOからレイチェルを逃がすために犠牲になるハカセ(ジュリエット・ビノシュ)と、モトコという娘を失った後、古い高層アパートに一人で住んでいる寂しい母(桃井かおり)という2人の「母」のおかげで、この映画の少佐はかなり人間らしい存在になってる。

原作コミックは、子どもにはちょっとみせられないエロ画像入りで、少佐のコスチュームもかなりエロい。でもこの映画(PG13)のレイチェルのボディは、かなりトーンダウンしていて、わざと作りものっぽい感じになってた。

全体に、映画としてすごく新しいところもなく、ものすごく尖ったところもなく、期待される中の妥当なラインで丸くおさまるように手をうったという感じがする。
映画そのものも少佐も、おっとりした印象だった。

せっかくなら、日本のヲタクたちも、世界のミレニアルたちもぶっ飛ぶような、金字塔的な映画になっててほしい。という淡い期待は裏切られたけど、優等生的にグローバル化した少佐も全然わるくなかった。ホールフーズで売ってる感じだけどな。

でも、本当にせつない近未来の絶望を圧倒的な映像で描く映画が観たい。
と思うと、押井守監督のバージョンをやっぱりもう一度観たくなるのでした。


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2017/03/30

今年のさくら


今年は10月から3月まで、晴れた日が9日しかなかったというシアトル。

例年より遅れてやっと桜が咲いてます。ワシントン大学の桜、満開はこの週末との予報だけど、昨日ついでがあって行ってみたらもう九分咲きくらいになってた。

今日もクラスがあって行ったのだけど、携帯を忘れて写真は撮れなんだ。

週末、お天気が持つといいけど。


去年までは木に登って記念撮影してるひとも多かったけど、もう老樹になってきたこともあり、今年は「登らないでね」と注意書きが。



ライブ動画も配信中ですよ! 遠隔地のかたはこちらからお花見を!

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2017/03/27

最近のトレーダージョーズさん


最近のTrader Joe's さんでのお気にいり。
オーガニックラズベリースプレッド、アメリカのジャム系製品にしては驚きの甘くなさ!
どちらかというと酸っぱめである。
クリームチーズと合わせるとうまいです。


最近ご当地バッグを展開しているらしく、「Evergreen State」ワシントン州限定の、ポエムな感じのバッグが出てましたよ。99セント。



年末になるとトレジョは季節限定のギフト商品が出て、危険。ついギフトでなく自宅用にヘンなものを買ってしまう。
これは去年のクリスマス前につい買ってしまった7色ソルトつめあわせ。このパッケージといい、内容といい。
これでたしか、8ドルとかそういう感じだった。


レジ脇で「クランチ」といわれた日には買ってみないわけにはいかなかった、モチライス・ナゲッツ。
ちょっとしょっぱいけどまずまずでした。


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2017/03/26

相撲取りの使いみちと、本当は怖くない真田広之


暮れに絵描きのNちゃんからいただいた相撲取りマスキングテープの使いみちを考えあぐねていたのだが、ここに活用できました!

まるでこのテープのために作られたかのような白いボトルをカスタマイズ。
自慢のスモウボトルです。うふ。

ひさびさにようやくまとまった時間ができたので、さー映画だ!と行ってきたのが『LIFE』。


んんんんー。わたしはこの映画、好きじゃない。
真田広之さん、頑張ってらっしゃいましたが。

良かったところ:

キャラクターは国際宇宙ステーションらしい現実味があって(地味で)良かった。
一番先に死ぬ人が意外だった。
特撮(というのか)も素晴らしく、私の愛する低予算映画『LOVE』(宇宙ステーションの話なのに重力があるw)とは違って、完全に無重力状態を再現しててすごかった。

好きじゃない理由は今すぐに5つくらい思いつくけど、単純に、SF映画だと思って行ったらホラー映画だったという。
とりあえず、私はやっぱりホラー映画は基本的に嫌いです。

ホラー映画が嫌いな理由は、ほんとうに退屈だから。
ホラー映画のほとんどは全然怖くなくて、知らない人のホームビデオを見るより疲れる。

それとも、みんな、笑いがほしくてホラー映画を見るのかな?

この映画の最後は意外な、というかやっぱり、な結末なのだけど、それを見た隣の席のカップルがヒステリックに笑っていて、それがなんだかイヤな後味だった。

多分、ホラー映画が嫌いなもう一つの理由は、その視点が徹底的に他人事だからだわ。
橋田壽賀子劇場も私にとってはホラー。

同じような筋書きのホラーSFでも、『エイリアン』のほうがわたしはずっと好きだなー。猫が生き残るから、というのも理由のひとつだけど。

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2017/03/25

シアトル夕景のカード


BallardのダウンタウンにあるVenueというギャラリー&雑貨屋さんで、こんなカードをみつけました。
ここは地元アーティストたちのアート作品、ジュエリー、雑貨を主に扱ってるオシャレショップ。

ピュージェット湾で遊ぶらっこたちの絵と、ノスタルジックな色合いのシアトルスカイラインの夕暮れの絵に、がっちりわしづかみにされた。

このカードは2枚とも、ウォルター・シェアさんという絵描きさんの絵です。 サイトはこちら

左手にキングストリート駅の時計台、スミスタワーの三角屋根とダウンタウンのビル群、右端にスペースニードル。ビル群の後ろにはフェリーが浮かぶ静かな湾。

インターナショナルディストリクトの上のほうから見た景色だけど、空港の方から帰ってくる時に見えるシアトルは、だいたいこんな感じ。
しばらく旅行してて数週間ぶりとかにシアトルに戻ると、このビル群を見て、あー帰ってきた、と思う。

8年住んで、すっかりこの景色が「おうち」の記号に刻み込まれた。

こぢんまりしたダウンタウンだけど、背景に海と山が揃ったドラマチックな景色に恵まれたきれいな街だと思う。
夕方はほんとに、この絵のとおりにキレイですよ!

ダウンタウンは今、いくつも高層ビルが建築中だから、もうすぐこのスカイラインもすっかり変わってしまうことでしょう。



このシアトル夕景のカードは、東京に引っ越してしまったCT夫妻に送りました。そろそろこの景色が懐かしくなってないかな。

東京のサラリーマンになったミスターCT、東京ではミルクも水も最大1リットルでしか売ってないのに、ウイスキーはガロン入りボトルで売ってる!と妙なことに感動しているらしいです。


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2017/03/24

カタカナ語の抗弁


おおっという間に3月が終わろうとしています。(´・ω・`)

先日デジタルクリエイターズに書いたのをこちらにもアップします。
先月書いたのはものすごく久しぶりにぽんず単語帳のほうにアップしました。

御用とお急ぎのない方は、こちらもどうぞよろしく。

PONDZU WORDS BOOK  (1 of 1)



先日、デジタルクリエイターズの藤原ヨウコウさんの記事「コミュ障はぐれはカタカナ英語に躓く」を読んで、軽く衝撃をうけた。

藤原さんはこの記事で
「邪推かもしれないが、カタカナ英語の背後にボクは悪意しか感じない。特にバブル以降はそうである。「新しさ」や「進歩性」を演出するのに、こうしたカタカナ英語は悪用されているのではないか、とつい思ってしまうのだ」
と書かれていた。

デジタルでクリエイターな人のなかにも、カタカナ語にこれほどの警戒心をもっている人がいるのか! というのが、ちょっとした衝撃だったのだ。

わたしはふだん、英語を日本語にする仕事をしている。
英語で書かれた内容とニュアンスをできるだけもらさず汲み取って、それを日本語を母国語とする読者にできるだけ自然に、まるまると伝わるように書くのが使命である。でも残念ながら、もらさず丸ごと伝わることはすくない。

なぜ丸ごと伝わらないか。
それは、英語が話されている世界と日本語が話されている世界の常識が、かなり違うからだ。

言葉の世界というのは、それを話す人の世界である。
同じ言語のなかにだって違いはある。

たとえば、東京の女子高生、名古屋の中年の管理職、鹿児島で畑を作っている老人、東北の温泉宿の女将さん、…の言語感覚は、それぞれにかなり違うはずだ。

米国でも、サンフランシスコの国際企業の役員、中西部のトラック運転手、ニューヨークのお金持ち、南部の黒人コミュニティのティーンエイジャーでは、やっぱりそれぞれ言語感覚はかなり違う。

その世界で主に話されている事柄、生活を構成するもの、目に映る景色や耳に聞く音、皮膚感覚、常識、笑いのセンス、大切にされているもの、避けられているもの、蔑まれているもの、などが、その人の言語世界を作っている。

もちろん言葉の世界は個人によっても違う。たとえば、渋谷の女子高生と鹿児島の老人が、あるいは遠くの国の一度も会ったことのない人同士が、または何世紀も前に生きていた人と現代の人が、言葉を介してなにものかを共有できるのが言葉の素晴らしいところだし、逆に一緒に住んでいて同じ言語を話していてもまったく言葉が通じないということだって、ありますよね?

英語の文を日本語に(その逆でも、ほかのどんな言語でもそうだと思うけど)翻訳するときに、翻訳者はかならず、読者の言語空間を想定する。

なんていうと偉そうだけど、しょせんはボンヤリと想定する読者の世界でどんな言葉がどんなふうに使われているかというのをうっすら想像してみるだけにすぎない。

読者が想定上の不特定多数である以上、正しいかどうかは調べようもない。

とはいえ、IT企業の技術者向けに書く場合、ファッション誌に書く場合、高校生向け向けの媒体に書く場合、富裕層の高齢者向けに書く場合、ではそれぞれに使える言葉もトーンも違う。想定する読者の言語像と現実がズレすぎると翻訳者として仕事にならない。この媒体の読者にとっての日本語の正解ゾーンはこうだ、という自分の感覚を信じるしかない。

で、それぞれの場合にカタカナ語をどのくらい使うか。というのに、翻訳者はいつも頭を悩ませている。

これはほんとに、その媒体にもよるし、翻訳者の考え方も人それぞれ。私はほとんどの日本の読者には、ある程度のカタカナ語は寛容に受け入れてもらえるもの、とボンヤリと思っているが、その「ある程度」はいつも変動する。

ファッション、IT、金融などの世界ではカタカナ語が百花繚乱で、業界の外の人にとっては何いってんだかさっぱりわからないこともある。

たとえばネットワークセキュリティの製品のページでみつけたカタカナ語の例。
「マルウェアを解析することで、攻撃の第1段階で使用されるエクスプロイトからマルウェアの実行パス、コールバック先、その後の追加ダウンロードに至るサイバー攻撃のライフサイクルが明らかになります」。
エクスプロイトってなんだ。攻撃のライフサイクルって?しかしこれを無理に日本語に置き換えようとしたら意味不明な誤訳になってしまう。

ヴォーグジャパンの記事でみつけたカタカナ語の例。
「セダクティブなレースや、大きく開けたスリット。ランジェリーを思わせるセンシュアルなドレスが今、トレンドだ。共通するのは、ただのセクシーに終わらない、凛とした強さ。モダンな感性で纏う、大人のラグジュアリーがここに」。

これはきっと日本語ネイティブのライターが書いたものだと思うが、セダクティブとかセンシュアルとか、英日翻訳で使ったらたいがいの場合編集で訂正されるのは間違いなしである。

翻訳する時には、安易に英単語をカタカナに置き換えるのではなくできるだけ日本語で言い換えるのが良識ある英日翻訳者の態度、というのが、翻訳者の一般的な考え方だ。

それでもカタカナ語をやむなく使う理由の第一は、既に日本語になっている言葉には置き換え不可能な場合があるからだ。

たとえば、「コミットメント」「エンゲージメント」「インスパイア」「ベストプラクティス」「ウェルネス」「アカウンタブル」「デューデリジェンス」などには、どう頭をひねってみても過不足なくはまる日本語がないことが多い。
すでにある日本語に置き換えようとすると、文章での説明が必要になるか、なにか重要な要素が抜け落ちてしまう。

これはどんな言語でも、新しい概念をほかの文化から輸入するときには起こることのはず。

もともと日本語には文字がなかった。

隣にたまたまあった超大国から漢字を輸入して文字を書くことを学んだ日本人は、そこから仮名文字を発明していくわけだけど、その頃は文明国中国から渡ってきた学問や知識が超イケていた。というか学問のすべては大陸から来ていた。

文字通り命がけで超文明国にわたってありがたいお経を学んで帰ってきたお坊さんたちは、今の感覚では思い及ばないほどの、図抜けたインテリだったのだと思う。

日本は、地理的に特異な場所にできた特異な国で、20世紀の数年間をのぞいてはほかの国に占領されたこともなく、海を隔てた超大国とおおむね絶妙な距離を保ちながら独自の言語空間を育んできた、珍しい国なのだとつくづく思う。

遣唐使の時代から明治維新後、そして現在にいたるまで、日本の人たちは、新しい知識や概念を漢字、カタカナ、ひらがなの組み合わせで貪欲に吸収してきた。
すでにいろんな学者さんが指摘してることだと思うけど、3通りの表記システムを持っているというのは、日本の文化が柔軟にいろんなものを吸収するのにあたって、とてつもない利点だったはず。

カタカナ語を使う理由の二つめは、藤原さんが指摘しているように、演出効果、つまり「なんとなく新しくてかっこいい」オシャレ感をかもしだすためでもある。

文章には、「意味」と「論理」を伝えることに加えて、読む人にどう受け取ってもらいたいか、どのような感情や感覚を呼び起こしたいか、という書き手の希望と、そのためのプレゼンテーションが常にある。それは文体にもあらわれるし、言葉の選び方もその一部だ。

言葉は論理を伝えるものだけでなく、情緒の容れものでもある。

そして面倒なことに、どこからどこまでが情緒の範疇でどこからが論理、ときれいに割り切れるものでもない。

さらに面倒なことに、多くの人は自分の書いたり話したりする言葉に自分がどのような意図を盛り込んでいるのかを、あまり意識していないことも多いのではないかと思う。

翻訳者の商売の一部は、他人の書いた言葉のウラにある意図を汲み取ることである。

書き手がある言葉を特別に選ぶときには、情緒的な理由や、人にどう受け取ってほしいか、どのような効果を出したいかという理由がその背後にあるはずだ。

翻訳者は時に、文章を書いた本人よりも深くそれらの理由について考え、分析することも多い。

とくに広告やマーケティングの場面では、プレゼンテーションが論理よりも大切なこともある。

「老化防止」を「アンチエイジング」と言い換えるのは、まさに、「老化」といういろいろ手垢のついた言葉のネガティブな感触にさわらずに「老化を防ぐ」と言いたいからだ。

でもプレゼンテーションの面からは、「アンチエイジング」と「老化防止」は同一にしてまったく違うともいえる。

それは、シヴァ神と大黒天の違いのようなもの、といっても良いのではないだろうか。違うか。

たとえば、上記のヴォーグジャパンの記事を漢字の言葉で言い換えたらどうなるか。
「セダクティブなレースや、大きく開けたスリット。ランジェリーを思わせるセンシュアルなドレスが今、トレンドだ」
「誘惑的なレースや、大きく開けたスリット。下着を思わせる官能的なドレスが今、流行中だ」

下の例でも意味的にはぜんぜん変わってないのに、カタカナ語で書くと何かが変わる。それをオシャレと思うか、鼻持ちならないと思うかは、その人の考えかたと感じかた次第だ。

その言葉づかいがプレゼンテーションとして成功しているかどうかは、受け取り手がなにを常識として暮らしているか、なにをカッコ良くなにをカッコ悪いと思っているかによって変わる。

そして、書き手がちゃんとその言葉を理解していないとヘンなことになるのはどんな言語でも同様。

往々にして、まだあまり耳慣れない新しい言葉を使うことで、「新しいモノを良く知ってる頭の良い人」または「教養の深い人」、と自分をプレゼンできるという希望のもとに、あんまりよくわかってない言葉を使っちゃったりする人もいるわけである。そして本人にもその自覚があまりなかったりもする。

藤原さんが苛立っているのは、そういった、胡乱なカタカナ語の使い方に対してであろうと思う。

でも、なんとなくカッコ良い、感触の良い言葉が、あんまり意味も考えずに使われるというのは、カタカナ語の専売特許ではなくて、中国から輸入された漢字の熟語でも、万葉の時代のやまとことばにだって、きっとあったのだと思う。

紫式部が清少納言のことを
「したり顔にいみじう侍りける人。さばかりさかしだち眞字(まな)書きちらして侍るほどにも、よく見れば、まだいとたへぬこと多かり」
と、「(女のくせに)漢語など使ってえらそうに書いてるけどろくにわかっちゃいない」とこき下ろしているのをみても、まあそういう批判はどの時代にでもあるのだなと思わされる。

カタカナ語大氾濫の背後には、文化的なボタンのかけ違いと、ちょっと行き過ぎちゃったカッコつけが入り混じっている。

ん?
と思ったときには、その日本語を自分なりにもっとよく分かる日本語に「翻訳」してみると、面白いかもしれません。

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