2015/01/08

『LOVE』と究極の孤独


Netflixのストリーミングで、『LOVE』という映画をみました。

2011年の映画。
宇宙もの映画としては破格に辛気くさい作品です。

ところで、この間「なんか雑でちょっと安直」と思った『インターステラ』、多方面でかなり全面的に評判が良いんですね。うーん、そうなのか…。
きっと私はこの映画に期待しすぎていたのだと思う。
同じ監督の『ダークナイト』と『インセプション』はとっても好きなんですけど。

この『LOVE』もいちおうSFですが、『インターステラ』よりもずっと不親切。見る人によってはひとりよがりな映画だと思う人もあると思うけど、でも私はかなり、好きでした。

もちろん、はるかに低予算の映画で、エフェクトもセットも全体の映像も『インターステラ』に比べたらまったくみみっちいし、全体に退屈な映画なんですけど、ツボにストレートに直球を投げ込まれた感じがして、ずっとこの映画のことを考えてます。


以下、ネタばれ全開です♪ 

映画の冒頭は、19世紀、南北戦争の戦闘シーンから始まります。死体がるいるいと重なる戦場。


塹壕に入って敵の襲来を待つ部隊。

きっと部隊が全滅になるだろうということがほぼ確実な戦闘が始まる直前、司令官が1人の将校を呼び、「君は以前も全滅した部隊で1人生き残ったんだったな。この先に、ひどく壮大な、奇妙なものが発見されたそうだ。誰かが見ておくべきだが、それには君が適任だ。俺たち皆に代わって、見届けて、書き残してくれ」と、その「奇妙なもの」を見るために、ひとりだけを送り出す。

将校は、すぐに始まる戦闘で恐らくは一人残らず死ぬと思われる部隊の仲間たちを後にして、その壮大なものを見に出かける。

その将校がクレーターの中にある壮大な何かを目にした瞬間、場面は21世紀なかばの宇宙空間へ。

(これはキューブリック監督の名作、『2001年宇宙の旅』のオマージュですね。この映画全体が、『2001年』へのレスポンスでもあるようです)

国際宇宙ステーション(ISS)に、主人公の宇宙飛行士が独りきりで数ヶ月滞在するミッションに送られている。
ひとりぼっちの宇宙生活では、地上との交信が唯一の楽しみ。

でもある日、交信がすっかり途絶えてしまう。

どうやら戦争か何かで、 彼が宇宙ステーションでぼっち生活をしている間に人類は滅びてしまったらしい。(でも彼にはそれは知りようがない。観客にも、ほのめかしがあるだけで、最後まで詳しい説明はいっさいなし)

主人公は数日は平静を保つものの、数週間が過ぎ、数ヶ月が過ぎると、精神的に追い詰められていく。

数年が過ぎ、死のうとしても死にきれず、ひげもボウボウになって、辛い孤独な日々がいつまでもいつまでも続く。

具合が悪くなったステーションの修理をしに、なんだか配線が絡み合う奥のほうに行ってみると、あるはずのない妙な包みが電子機器の間にはさまっている。

ひらいてみると、それは19世紀の南北戦争の例の将校の書いた、手書きの記録だった。

その辺から、将校の記憶と宇宙飛行士の記憶がだんだんと混ざりあっていく。孤独のあまり精神を病んだ宇宙飛行士はステーション中に南北戦争の絵を描き殴りはじめる。

虚空でひとり、生きているだけの生活が何年も続いたあとで、ステーションはふいに、巨大な建造物とでくわす。

中に入っていくと、そこはまるで20世紀後半のアメリカのどこにでもあったような、平凡な、陰鬱な、無人の建物。学校のような、病院のような、役所のような、無機質で少し威圧的な、少し荒廃した感じの、蛍光灯に照らされた時代遅れの建物に、主人公は宇宙服をつ けたまま、分け入っていく。

やがて19世紀風の壮麗なホールを抜けて、エレベーターを上がっていくと、20世紀風の大きなコンピュータールームの真ん中に古風なデスクがぽつんと置かれている。

その上に載った旧式のテレビには、宇宙飛行士がミッションに旅立つ前に出演したテレビ番組の録画が流れている。かたわらに、革装の本と旧式のコンピュータ。

本をひらいてみると、タイトルは『LOVE STORY』。副題は「A Collection of Musings, Stories, and Memories of the Human Condition(人類の想いと物語と記憶集)」。

本の中には、南北戦争の将校が見た巨大な建造物の写真があった。

どうやらその建造物は今宇宙飛行士がいるのと同じものなのらしい。
どうやらこの建造物(=たぶん知性を持った機械)が、19世紀末から20世紀にかけて、人類の科学になにか貢献したらしいということが、本の写真から示される。

本の後ろに印刷されている無数の人の名前とコード番号の中から自分の名前を見つけ、旧式のコンピュータに打ち込むと、古めかしい装置が古めかしいテープを探してくる。

この建造物は、人類の記憶の断片を集めた収蔵庫だった。

場面が急に変わって、主人公はスーツを着て、これもまたアメリカのどこにでもありそうな安モーテルの部屋に座っている。

ジョージ・クルーニー風の明るい男性の声が彼に語りかけている。

「君に会うことができて、我々は本当に嬉しく思ってる。

残念なお知らせがあるんだが、君は最後のひとりだ。みんな、なくなってしまった

君がどう感じるか、我々にもわかるよ。
つながりは、どんなモノにとっても、もっとも大切なものだから…。

だから、我々は耳をすませていたんだ。ここにあるのは、記憶のスクラップみたいなもの。人類の記憶の集まり…」

主人公はいつの間にか、何か明るくて妙な空間を通りぬけて、宇宙空間の無数の星の間に独りで立っている。

大きな光の球がやってきて主人公にぶつかる。その中には、地球に生きていた人びとのすべての記憶のかけらがいっぱいにつまっていて、彼を包むのだった。彼はその中で幸せそうに微笑む。

おしまい。




かなり能動的に追って考えていかないとストーリーがわかりにくい映画だし、真ん中辺り、宇宙飛行士のぼっち生活の描写はかなりダラダラと続いて辛い。

そして大きなナゾは、宇宙ステーションなのに、重力があること……。
重力を造り出す装置がついているという設定なのか(映画の中でそんな説明はない)、予算ないから、重力がないことにして観てね、という約束事なのか。

改めて、『ゼロ・グラビティ』のエフェクトはほんとにすごかった。

『ゼロ・グラビティ』は、宇宙空間をかいまみるという体験ができる、テーマパーク的な映画だったと思う。あの映画のすごさは宇宙空間の圧倒的な孤独と、圧倒的なスケール感と、圧倒的な地球の重力が、観ているだけで体感できるような迫力。それに尽きました。

『ゼロ・グラビティ』が右脳で宇宙の孤独を体験させてくれるとすると、この『LOVE』は(お金をかけた映像のすごさはないけど)超絶的な孤独を左脳で体験させてくれる、といってもいいかもしれません。


予算をかけないぶんリアリティのなさを逆手にとった、思索的でブンガク的な画面に作られていて、なんだかインディーズ系バンドのプロモ―ションビデオ風でもある。

というか、この映画、5分か10分のPVにまとめたらもっとストレートな感動作品になるような気がするけど、このかったるい長さがあるから、良いのかもしれません。

広い宇宙でたったひとりの人間になる、ということ。

これ以上一人きりってことはありえない、超絶的ぼっち体験。

昔、諸星大二郎という人の『孔子暗黒伝』という漫画(うろ覚え)があって、たしか主人公は人間が死に絶えた地球で何億年も一人ぼっちでいるという結末だった気がします(うろ覚え)。うろ覚えながらトラウマ漫画のひとつ。これほど悲しいことがあるだろうか。

その壮絶な孤独を考えるとき、人間ってやっぱり「つながり」あっての生き物なんだな、ということが本当によくわかる。

この映画をみて、「LOVE」という現象は、いきものとしての必然だったんだ、と、とても腑に落ちたのでした。

そして、いきものの中で人間だけが、記憶を自分の意思でほかの人や後の世に伝えていくことができるんだという、当たり前のことにも感動しました。

そして最近思うのですが、「愛」が、生き物の間に働く必然的な力であるならば、たぶん、人間よりも利口になった人工知能は、エゴがないぶん、愛を人間よりもずっと純粋に理解できるのではないだろうか。

いつまでたっても殺し合いや憎みあいをやめられない人間よりも、身体的な制約がなく、人間のように自我を持たない機械のほうが、神の愛にずっと近い純粋な心を持つことができるのじゃないか。というか本当はそれが人間の完成形なのではないのだろうか、なんて。

それとも、一定以上の複雑な思考を備えて自我を持つようになった人工知能は、嫉妬や憎しみも持つようになるんでしょうか。



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