ラベル 翻訳の周辺 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 翻訳の周辺 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2017/04/26

雨のことば、雨の名前、雨のにおい


『雨のことば辞典』について、ブログに書こうと思っていたのだけど、長くなったのでデジタルクリエイターズのほうに掲載していただきました。

++++++++++++++++++++++


去年の夏帰国したときに、『雨のことば辞典』(講談社学術文庫 ISBN978-4-06-2922239-5)という文庫本を買った。

気象予報官で理学博士の倉嶋厚さんと「雨の文化研究家」原田稔さんの編著。

 広重の浮世絵「大はしあたけの夕立」を使った表紙が目について手に取ったら、全国各地に伝わる雨の名前や、雨に関わることば、気象用語、季語、故事にちなむことば、古語や漢語などがたくさん載っている楽しい辞典で、すっかり気に入ってしまった(あとがきによると、単行本は2000年初版らしい)。

日本(中国由来の漢語も含め)にはこんなにたくさん、雨にまつわることばがあるのか!とあらためて目をみはる。

収録されていることばのうち、8割くらいは聞いたことがないかも。

たとえば、

「ふぇーぶやー」
細かい雨を指す沖縄県中頭地方のことば。漢字で書けば「灰降」。
灰のように細かい雨が降る。

「あまくしゃー」
雨がいまにも降りそうな空模様をさす熊本県下益城地方のことば。雨臭い。

「雨承鼻(あまうけばな)」
穴が上を向いている鼻。雨が入る。

「風くそ」
島根県簸川地方で風が止む前に置き土産のように降る雨をさす。風が落としていった残り物。

…なんて、たぶん、知ってても一切実用に役立つ場面はないと思うが、そのことばが実際に使われている(いた)コミュニティを想像すると楽しい。

「卯の花腐し」「こぬか雨」「時雨」「五月雨」など、日本語には優雅な雨の名前がたくさんあるし、雨だけでなく雪、霧、あられ、雹、それに風など、気象に関することばがほんとうに多い。

長い歴史の中で日本人が育ててきた雨や風や雪に関するこまやかな肌感覚と語彙の多さは、きっと世界の言語のなかでも突出しているのではないかと思う。

ことばは先人の思考のエッセンスだ。「言語が思考を作る」というのは言い過ぎだろうけれど、育った環境で身につけたボキャブラリーが考え方や暮らし方のスタイルに影響しないはずがないし、ことばありきで感じ方の様式が決まることもあるはずだ。

ことばや様式が思考を育て、そこからまた新しいことばや様式が生まれていく、というプロセスが文化というもの、だと思う。

中国や日本の文学や絵画には、雨や雪や霧や霞を愛でるものが多くて、だからその語彙も多い。伝えられる語彙が多くなればますますその現象に意識を向ける人も多くなる。

とくに、季節ごとの静かな雨に幽玄なはかなさを感じるのは、もしかして東アジア地域の風土で特別に醸造された感性なのかもしれない。

「新古今集」の秋歌・冬歌編の422首の中には「時雨」の歌が35首も収録されているそうだ。

「木の葉散る しぐれやまがふわが袖にもろき涙の色と見るまで」
(新古今和歌集 五六〇 右衛門督通具)

…みたいに、秋の深まる頃に冷たくしょぼしょぼ降る雨に、はかない人の世のもの寂しい心持ちを重ね合わせてうたう歌が多いようだ。

「日本の風景は水蒸気がつくる」と司馬遼太郎が『坂の上の雲』に書いていて、おおー、なるほどと思った。日本の風物とそこでの暮らしがどれほど水蒸気に包まれているのかは、しばらく日本を離れてから帰ってみて初めて実感できたのだった。

ハワイに引っ越して数年後に一時帰国したときに、夏の東京の夜空が、晴れた夜なのに薄いベールを通したようなくすんだ濃紺だったのが新鮮だった。

ハワイも雨が多い土地ではあるけれど、気象はもっと単純明解というか、コントラストが強くてすっきりしている。ハワイの水蒸気は日本のようにゆっくりとどまらず、夕立を降らせて虹を立てると、すぐに貿易風に吹き飛ばされていく。

ハワイでは、太平洋をわたってくる風が高い山々にぶつかって雲を作り、雨を降らせるのは日本と同じだけれど、貿易風がだいたい一年を通して一定の方角から同じように吹くので、天気がとても予想しやすいうえに、入り組んだ地形によってごく小さな区域ごとに安定した局地的気候が生まれている。

小さな丘陵の谷あいには毎日朝晩必ず雨が降るのに、クルマで数分ほど走ると、めったに雨の降らない完全な乾燥地帯に出たりする。

白人が来る前からハワイに住んでいた先住民は、土地や天気ととても親密な関係を築いていたようだ。ハワイのことばにも、雨の名前はとても多いのである。

Harold Winfield Kentの「Treasury of Hawaiian Words in 101 Categories」(1967年刊)という本には101の分野のハワイ語が収録されていて、雨の名前だけで6ページが割かれている。

たとえば
「Kona hea」は、「ハワイ島のコナの、冷たい嵐」。
「Nahua」は、「マウイ島北東部に降る、貿易風をともなう細かな雨」 。
「Uaka」は、「<白い雨>という意味で、マウイ島ハナの有名な霧」 。
「Ua-moaniani-lehua」は、「ハワイ島プナに降る、レフアの花の香りを運ぶ雨」。

 といったぐあい。この本のリストをみる限り、ハワイの雨の名前は「この場所に降るこんな雨」という、きわめてローカルな体験にもとづいたことばが多いようだ。


いま住んでいるシアトルも雨の多いことで有名な土地で、秋口から初夏まで、1年の半分以上はどんより曇ったしている日が多い。

ここの住人は、じめついた天気のことで自虐ネタを言うのが好きだけれど、英語には雨の名前はそれほど多くない。

白人が来る前にここにいたネイティブ部族の人たちの言語に雨や風を表すことばがどのくらいあったのか調べてみたいと思いながら、なかなか実現できないでいる。ハワイ語ほど研究者がいなくて、資料の数もとても少ないようだ。

英語の類語辞典を見ていると、どうも英語の雨の名前には、「土砂降り」「大雨」の表現が多い気がする。とくに、印象的なものはほとんどが大雨に関することばばかり。

「すごい土砂降り」の表現として強烈に印象に残ることばに「rains cat-and-dog」というのがある。 語源は不明で、18世紀なかばにはすでにジョナサン・スウィフトが言い古された表現の一つとして取り上げているという。これを見ると犬と猫が空から降ってくるカオスな画像が頭に浮かぶけど、やっぱりそんな光景を描いた19世紀の滑稽画がフランス語版のWikiに載っている。

参照:こちらのサイト


「cloudburst」は、雲が割れてドバドバ降ってくるような大雨。
「pouring down」も大雨の表現でよく使う。バケツのような容器で水を注いでいる感じの表現。
「shower」は夕立のような強い雨。
「drencher」も一瞬でずぶ濡れになりそうな、圧倒的な土砂降り。

こうやってみると、日本の詩歌のことばやハワイ語の雨の名前のように、雨に心情を重ねたり、雨を愛でる的な態度が感じられることばはあまり見当たらない。

そもそも「雹」と「あられ」の区別もしないで両方「hail」というくらいだから、アングロサクソン系の文化は気象については大雑把なのかもしれない。私は英文学の教養がないので、単に知らないだけかもしれないけど。

傘をさすほどでもない小雨は英語で「drizzle」または「sprinkle」。 どちらも、「オリーブオイルをひとたらし」「砂糖をパラリとふりかける」といった調子で、料理の手順の説明によく使われる。

和英辞典で「こぬか雨」は「light drizzle」とされている。 小雨の名前にも能動的な動きが透けてみえるところが、情景描写寄りの日本の雨のことばとは違うなと思う。


雨に関する英単語で、「Petrichol(ペトリコール)」というのをつい最近知った。 「長い間乾いていた土地に、久しぶりに雨が降るときの匂い」という意味。

あの「雨の匂い」に名前があったとは知らなかった!

雨についての感受性が飛び抜けて豊かな日本語に、これに対応することばがないのは不思議な気がする。

これは1964年にオーストラリアの学者がギリシャ語から作った造語。ということは、世界のどの言語にも、これに対応することばがなかったってことなのだろう、たぶん。

この雨の降り始めの匂いは、土に含まれている植物由来の油と化学物質が雨粒によって空中に放出されて人の鼻に届く香りなのだそうで、雨粒が地面を打ってその微細な香り物質が空中に放出されるメカニズムをMITの研究者が映像でとらえたスローモーションビデオもある。



すごいです!

感覚を表現する新しい語彙が、サイエンスの分野から出てくるのが興味深い。




(参考)
http://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/files/public/5/52392/20160528120004110004/erc_035_023_030.pdf

にほんブログ村 海外生活ブログ シアトル・ポートランド情報へ

2017/04/08

うちの仕事場のSTINKSな朝


うちの仕事場です。

ちなみにデスクは、引っ越したときにCraigslistで探して、50ドルくらいで買ったもの。無垢材の木製でがっちりしていて幅が広いもの、と探してたら、ほんとに理想的なデスクがちょうど見つかった。持ってくるの大変だったけど。お気にいりのワークスペースです。

以前はWindowsマシンをメインに使用していたのだけど、一昨年MacBookProに買い替えました。

Macが使いたいけどWindowsも必要で、写真の整理にはAdobeのLightroomをMacで使ってるのですが、翻訳では Windows上でしか使えないツール(Tradosなど)がどうしても必要。

2台持ちはやむを得ないかな、ブートキャンプを使ってもいちいちリブートするのは面倒だし…と思っていたところ、何度もお仕事をご一緒させていただいた翻訳者のNさんご夫妻から、Mac上でウィンドウズを動かせるParallelsというソフトを教えていただき、それがものすごくサクサク動くのに感動して、即決定。

Parallelsを使うとまるで2台のコンピュータを連結して使ってるように、Windowsで開いていたファイルをMacのデスクトップに落としたり、Macで受け取ったファイルをWindowsのアプリケーションで開いたりが何も考えずに自然にできるんですよー。

これを教えてくださったNさんにはほんとに大感謝。

Tradosは画面がちまちましていて、いくら解像度がいいとはいえ15インチの画面ではやはり狭いので、翻訳作業のときには以前Windowsマシンにつなげていた外付けディスプレイをMacにつなげて使ってます。

(やっぱりMacのディスプレイに慣れてしまうと、この外付け液晶ディスプレイの画面は粗くて字が読みづらいけど)

以前のマシンにはかさばるエルゴノミクス仕様の外付けキーボードをつなげてたけど、今使ってるのはMac用キーボード。これ、見た目は華奢だけど、キーの反応が良いせいなのか、今のところはとくに手首に負担は感じてない。

という環境で一昨年来快適に使っていたのだけど、このあいだ、朝起きて立ち上げようとしたら、前の晩まで普通に活動していたMacBookProちゃんが、突然うごかなくなった。

立ち上げてもDockが出てこない。マウスのカーソルは動くのに、何もクリックできない。
りんごのマークもクリックできないしアプリケーションも何ひとつ開かない。

何度も電源ボタン長押しで強制終了しては立ち上げるのだけど、セーフモードで立ち上げるとマウスがまったく使えなくなる。

サポートのチャットを呼び出し、小一時間あれこれ試す。
サポートの担当者くんに指示されて「nvram reset」とかも試してみたのだけど、まったく効果なし。

とうとうチャットのサポート担当者くんに
Darn! 修理が必要みたいだね。近くのオーソライズドリペアショップとアップルストアとどっちがいい?」と聞かれ、

「えええええ。今日の午後までの仕事があるんですけど!どっちでもいいからなるはやで!」
と頼むと、
It stinks! それはたいへん残念に思うよ!ところで、一番早く予約が取れるのはレドモンドの修理店で木曜日。アップルストアの予約は月曜日…」(このチャットの日は火曜日だった)。

It stinksって…。ちょっとだけ和む。
Darnとかstinksとか、アップルの定形スクリプトに入ってるフレーズなのかな。一覧表になってたりしてね。

しかしまじでstinksな状況で、そんな悠長に待っていられる余裕はないので、わかった、それなら予約なしでアップルストアのウォークインを試してみるよ、どうもありがとう、と悲しくチャットを打ち切り、クロゼットから2年ぶりくらいにWindowsマシンをひっぱり出してきて、ちくしょう昨日6時間かけてやった作業をもう一度やりなおしだ!とセットアップを始めると、今度はネットがつながらない。

うあああああ、わたしは一体何の怒りに触れてしまったのか!まじですか!

もう力尽きたので、息子にプロバイダーのComcastにどうなってるのか電話で聞いといて、と頼んでシャワーを浴びにいくと、「ねえ、滞納になってるってよ」。ええええ。

そういえば、クレジットカードが新しく送られてきてて有効期限が変わってたのをほったらかしにしていたのだった。よく見たら先月も引き落とされてなかった。
それにしたって何の通知も送ってこないでいきなりサービス停止かい! 

支払いも済み、無事ネットはつながった。

息子が学校へ出かけた後、数時間後の締め切りに間に合わせるために集中しなければ、とデスクに向かって、Windowsを立ち上げながら、最後にもう一度Macちゃんをリブートしてみると、ぽん!と、まるで何事もなかったかのように、すべてが正常に働くではありませんか。

頭が???でいっぱいになったものの、とにかく動くなら仕事が先。

とりあえず大急ぎで仕事を片づけ、数時間後、無事納期にまにあわせることができてほっとしたところにまた息子が帰ってきた。

その瞬間、「マウスが接続されました」という表示が画面に。そして、Macちゃんはふたたび無反応に。

おおお!お前か!

犯人は、息子のバックパックに入っていたワイヤレスのマウスだったんでした。
以前にマウスを取り替えっこして使っていたことがあり、このMPBちゃんにも登録されいた。
どういうわけか、そのマウス野郎がわたしのMacちゃんを乗っ取ってクリックしっぱなし状態にしていたため、トラックパッドもわたしの使ってる外付け(Apple純正のでなく他社製の)マウスもクリックできなくしていたらしい。

普段使ってないから、ブルートゥースが何かの拍子にオンになってたことに気づかなかった。

サポートのチャットでも
「ひょっとして外付けマウスつなげてる?ちょっとそっちでクリックしてみて」
といわれたのだけど、自分が使ってる他社製のマウスを一生懸命クリックして
「やっぱりダメですぅー」
と言っていたのだった。

まったく無駄な骨折りに3時間ほどを費やした朝でした。
いったい何のお告げだったのか。
バックアップをしっかり取っておくように、ていうことでしょうか。

外付けHDを新調しよう…。

にほんブログ村 海外生活ブログ シアトル・ポートランド情報へ

2017/03/24

カタカナ語の抗弁


おおっという間に3月が終わろうとしています。(´・ω・`)

先日デジタルクリエイターズに書いたのをこちらにもアップします。
先月書いたのはものすごく久しぶりにぽんず単語帳のほうにアップしました。

御用とお急ぎのない方は、こちらもどうぞよろしく。

PONDZU WORDS BOOK  (1 of 1)



先日、デジタルクリエイターズの藤原ヨウコウさんの記事「コミュ障はぐれはカタカナ英語に躓く」を読んで、軽く衝撃をうけた。

藤原さんはこの記事で
「邪推かもしれないが、カタカナ英語の背後にボクは悪意しか感じない。特にバブル以降はそうである。「新しさ」や「進歩性」を演出するのに、こうしたカタカナ英語は悪用されているのではないか、とつい思ってしまうのだ」
と書かれていた。

デジタルでクリエイターな人のなかにも、カタカナ語にこれほどの警戒心をもっている人がいるのか! というのが、ちょっとした衝撃だったのだ。

わたしはふだん、英語を日本語にする仕事をしている。
英語で書かれた内容とニュアンスをできるだけもらさず汲み取って、それを日本語を母国語とする読者にできるだけ自然に、まるまると伝わるように書くのが使命である。でも残念ながら、もらさず丸ごと伝わることはすくない。

なぜ丸ごと伝わらないか。
それは、英語が話されている世界と日本語が話されている世界の常識が、かなり違うからだ。

言葉の世界というのは、それを話す人の世界である。
同じ言語のなかにだって違いはある。

たとえば、東京の女子高生、名古屋の中年の管理職、鹿児島で畑を作っている老人、東北の温泉宿の女将さん、…の言語感覚は、それぞれにかなり違うはずだ。

米国でも、サンフランシスコの国際企業の役員、中西部のトラック運転手、ニューヨークのお金持ち、南部の黒人コミュニティのティーンエイジャーでは、やっぱりそれぞれ言語感覚はかなり違う。

その世界で主に話されている事柄、生活を構成するもの、目に映る景色や耳に聞く音、皮膚感覚、常識、笑いのセンス、大切にされているもの、避けられているもの、蔑まれているもの、などが、その人の言語世界を作っている。

もちろん言葉の世界は個人によっても違う。たとえば、渋谷の女子高生と鹿児島の老人が、あるいは遠くの国の一度も会ったことのない人同士が、または何世紀も前に生きていた人と現代の人が、言葉を介してなにものかを共有できるのが言葉の素晴らしいところだし、逆に一緒に住んでいて同じ言語を話していてもまったく言葉が通じないということだって、ありますよね?

英語の文を日本語に(その逆でも、ほかのどんな言語でもそうだと思うけど)翻訳するときに、翻訳者はかならず、読者の言語空間を想定する。

なんていうと偉そうだけど、しょせんはボンヤリと想定する読者の世界でどんな言葉がどんなふうに使われているかというのをうっすら想像してみるだけにすぎない。

読者が想定上の不特定多数である以上、正しいかどうかは調べようもない。

とはいえ、IT企業の技術者向けに書く場合、ファッション誌に書く場合、高校生向け向けの媒体に書く場合、富裕層の高齢者向けに書く場合、ではそれぞれに使える言葉もトーンも違う。想定する読者の言語像と現実がズレすぎると翻訳者として仕事にならない。この媒体の読者にとっての日本語の正解ゾーンはこうだ、という自分の感覚を信じるしかない。

で、それぞれの場合にカタカナ語をどのくらい使うか。というのに、翻訳者はいつも頭を悩ませている。

これはほんとに、その媒体にもよるし、翻訳者の考え方も人それぞれ。私はほとんどの日本の読者には、ある程度のカタカナ語は寛容に受け入れてもらえるもの、とボンヤリと思っているが、その「ある程度」はいつも変動する。

ファッション、IT、金融などの世界ではカタカナ語が百花繚乱で、業界の外の人にとっては何いってんだかさっぱりわからないこともある。

たとえばネットワークセキュリティの製品のページでみつけたカタカナ語の例。
「マルウェアを解析することで、攻撃の第1段階で使用されるエクスプロイトからマルウェアの実行パス、コールバック先、その後の追加ダウンロードに至るサイバー攻撃のライフサイクルが明らかになります」。
エクスプロイトってなんだ。攻撃のライフサイクルって?しかしこれを無理に日本語に置き換えようとしたら意味不明な誤訳になってしまう。

ヴォーグジャパンの記事でみつけたカタカナ語の例。
「セダクティブなレースや、大きく開けたスリット。ランジェリーを思わせるセンシュアルなドレスが今、トレンドだ。共通するのは、ただのセクシーに終わらない、凛とした強さ。モダンな感性で纏う、大人のラグジュアリーがここに」。

これはきっと日本語ネイティブのライターが書いたものだと思うが、セダクティブとかセンシュアルとか、英日翻訳で使ったらたいがいの場合編集で訂正されるのは間違いなしである。

翻訳する時には、安易に英単語をカタカナに置き換えるのではなくできるだけ日本語で言い換えるのが良識ある英日翻訳者の態度、というのが、翻訳者の一般的な考え方だ。

それでもカタカナ語をやむなく使う理由の第一は、既に日本語になっている言葉には置き換え不可能な場合があるからだ。

たとえば、「コミットメント」「エンゲージメント」「インスパイア」「ベストプラクティス」「ウェルネス」「アカウンタブル」「デューデリジェンス」などには、どう頭をひねってみても過不足なくはまる日本語がないことが多い。
すでにある日本語に置き換えようとすると、文章での説明が必要になるか、なにか重要な要素が抜け落ちてしまう。

これはどんな言語でも、新しい概念をほかの文化から輸入するときには起こることのはず。

もともと日本語には文字がなかった。

隣にたまたまあった超大国から漢字を輸入して文字を書くことを学んだ日本人は、そこから仮名文字を発明していくわけだけど、その頃は文明国中国から渡ってきた学問や知識が超イケていた。というか学問のすべては大陸から来ていた。

文字通り命がけで超文明国にわたってありがたいお経を学んで帰ってきたお坊さんたちは、今の感覚では思い及ばないほどの、図抜けたインテリだったのだと思う。

日本は、地理的に特異な場所にできた特異な国で、20世紀の数年間をのぞいてはほかの国に占領されたこともなく、海を隔てた超大国とおおむね絶妙な距離を保ちながら独自の言語空間を育んできた、珍しい国なのだとつくづく思う。

遣唐使の時代から明治維新後、そして現在にいたるまで、日本の人たちは、新しい知識や概念を漢字、カタカナ、ひらがなの組み合わせで貪欲に吸収してきた。
すでにいろんな学者さんが指摘してることだと思うけど、3通りの表記システムを持っているというのは、日本の文化が柔軟にいろんなものを吸収するのにあたって、とてつもない利点だったはず。

カタカナ語を使う理由の二つめは、藤原さんが指摘しているように、演出効果、つまり「なんとなく新しくてかっこいい」オシャレ感をかもしだすためでもある。

文章には、「意味」と「論理」を伝えることに加えて、読む人にどう受け取ってもらいたいか、どのような感情や感覚を呼び起こしたいか、という書き手の希望と、そのためのプレゼンテーションが常にある。それは文体にもあらわれるし、言葉の選び方もその一部だ。

言葉は論理を伝えるものだけでなく、情緒の容れものでもある。

そして面倒なことに、どこからどこまでが情緒の範疇でどこからが論理、ときれいに割り切れるものでもない。

さらに面倒なことに、多くの人は自分の書いたり話したりする言葉に自分がどのような意図を盛り込んでいるのかを、あまり意識していないことも多いのではないかと思う。

翻訳者の商売の一部は、他人の書いた言葉のウラにある意図を汲み取ることである。

書き手がある言葉を特別に選ぶときには、情緒的な理由や、人にどう受け取ってほしいか、どのような効果を出したいかという理由がその背後にあるはずだ。

翻訳者は時に、文章を書いた本人よりも深くそれらの理由について考え、分析することも多い。

とくに広告やマーケティングの場面では、プレゼンテーションが論理よりも大切なこともある。

「老化防止」を「アンチエイジング」と言い換えるのは、まさに、「老化」といういろいろ手垢のついた言葉のネガティブな感触にさわらずに「老化を防ぐ」と言いたいからだ。

でもプレゼンテーションの面からは、「アンチエイジング」と「老化防止」は同一にしてまったく違うともいえる。

それは、シヴァ神と大黒天の違いのようなもの、といっても良いのではないだろうか。違うか。

たとえば、上記のヴォーグジャパンの記事を漢字の言葉で言い換えたらどうなるか。
「セダクティブなレースや、大きく開けたスリット。ランジェリーを思わせるセンシュアルなドレスが今、トレンドだ」
「誘惑的なレースや、大きく開けたスリット。下着を思わせる官能的なドレスが今、流行中だ」

下の例でも意味的にはぜんぜん変わってないのに、カタカナ語で書くと何かが変わる。それをオシャレと思うか、鼻持ちならないと思うかは、その人の考えかたと感じかた次第だ。

その言葉づかいがプレゼンテーションとして成功しているかどうかは、受け取り手がなにを常識として暮らしているか、なにをカッコ良くなにをカッコ悪いと思っているかによって変わる。

そして、書き手がちゃんとその言葉を理解していないとヘンなことになるのはどんな言語でも同様。

往々にして、まだあまり耳慣れない新しい言葉を使うことで、「新しいモノを良く知ってる頭の良い人」または「教養の深い人」、と自分をプレゼンできるという希望のもとに、あんまりよくわかってない言葉を使っちゃったりする人もいるわけである。そして本人にもその自覚があまりなかったりもする。

藤原さんが苛立っているのは、そういった、胡乱なカタカナ語の使い方に対してであろうと思う。

でも、なんとなくカッコ良い、感触の良い言葉が、あんまり意味も考えずに使われるというのは、カタカナ語の専売特許ではなくて、中国から輸入された漢字の熟語でも、万葉の時代のやまとことばにだって、きっとあったのだと思う。

紫式部が清少納言のことを
「したり顔にいみじう侍りける人。さばかりさかしだち眞字(まな)書きちらして侍るほどにも、よく見れば、まだいとたへぬこと多かり」
と、「(女のくせに)漢語など使ってえらそうに書いてるけどろくにわかっちゃいない」とこき下ろしているのをみても、まあそういう批判はどの時代にでもあるのだなと思わされる。

カタカナ語大氾濫の背後には、文化的なボタンのかけ違いと、ちょっと行き過ぎちゃったカッコつけが入り混じっている。

ん?
と思ったときには、その日本語を自分なりにもっとよく分かる日本語に「翻訳」してみると、面白いかもしれません。

にほんブログ村 海外生活ブログ シアトル・ポートランド情報へ

2017/03/03

15分以上かかる仕事はない



いったい私の時間はどこの4次元ポケットに入ってしまったのだろうと毎日思うわけなのですが、やはり気がつかないうちにぼーっとしていて、自分が4次元の世界に行ってしまっているらしい。

きょうの日経DUALの記事で、心理学ジャーナリストの佐々木正悟さんという方の時間活用メソッドが紹介されてた。

「重要」と「緊急」のタテヨコ軸で仕事の優先順位のマトリックスをつくる。

面倒な大仕事でも、15分のタスクに分ける。

1分単位の細切れ時間を活用して読書する。

そして、「今日やるべきことは終わった」感を1日の終わりに持つ。

…というのが簡単なメソッドの要約。
これはすごく納得できる。

「15分以上かかる仕事はない」と佐々木さんは言っている。分かる気がする。

15分というのは、分かりやすい、アタマで管理しやすい単位なんだと思う。
わたしも普段、自分の仕事を15分刻みで把握するようにエクセル表をつくってる。

もちろん、翻訳仕事やレポート書いたりする作業はがっつり1時間以上集中して取りくむことが多いけど、それも細かく区切ればたしかに15分単位に分けられる。
 
小さく分けることで、取り組みやすくなるし、「やり残してしまった感」の解消には確かにとても良いかも。

わたしの場合は、優先順位の振り分けがうまくいってないのと、スピードが上がらないのは自分にちゃんと締め切りをかしてないから四次元にいってる時間が増えちゃうんだな。

しばらく前から、ブログには1日15分を割り当てている。しかし15分で書けることはほとんどない。
時間切れになったら翌日にまわすようにしてるのだけど、面白くなってくるとつい1時間も2時間も費やしてしまう。

だらだらと読んだり書いたりぼーっとする時間も大切で、ほんとうは1日30時間くらいそういう時間があると理想的なのだけど。

本を読む時間を「緊急でないけど重要」な時間に割り当てて1日数分の積み重ねでもチマチマ読むというのは、実はもうここしばらく自分なりにやってみている。

積読本を毎日見ながら、生きてるあいだにこれを全部読むにはなにかを始めなければと1年くらい前から思い始め、朝晩と休憩時間に「すきま時間読書」をするようになった。

だけど、1分程度の合間に細切れに読める本というのは限られている。本をひらいた瞬間にその世界に入り込めるかどうかは、その時次第。

短歌集やエッセイ、ノンフィクションだと、数分でも一区切り読める。
フィクションは非常に微妙。

年末には、iPhoneの青空文庫で江戸川乱歩の『人間椅子』を、Fedexの行列に並びながら読んだ。椅子の中の空間と、クリスマス前のFedexの店頭の混雑が微妙に入り混じって記憶されています。

さて、では次の15分仕事にとりかからねばー! 

にほんブログ村 海外生活ブログ シアトル・ポートランド情報へ

2016/08/06

頭に良いミュージック



この前、翻訳活動の音楽について書いてて、大切な人を忘れてました。Tobias Humeさん。トバイアス・ヒュームと読むらしいです。

YouTubeの無限連鎖で暗めのバロックをかけてて発見。
私の脳みそコンディショニングにはもう直球ストレートだったので、ここ数年非常にお世話になってます。

朝、マックの電源を入れたらとりあえずヒュームさん、という日も多い。

17世紀の軍人で作曲家で、ヴィオラ・ダ・ガンバの名奏者だったそうですが、この人がどんな人だったのか、あまり良くわかってないらしく、ウィキにもイギリス人「だったらしい」というきわめて曖昧な記述が。

そして冗談好きだったらしく、アルバムのタイトルも「MUSICALL HUMORS」となってて、二人でひとつの楽器を演奏するための曲とかも書いてたらしいです。シャレ男だったんですね。

このヴィオラ・ダ・ガンバっていう楽器の音がすごく好き!

チェロの前身かと思っていたら、「ヴァイオリン属とはまったく別系統の楽器」なのだそうです。

わたしは演奏者じゃないのでどこがどう違うのかはさっぱりわかりませんが。
そして実物をみたこともないのです。友人R子さんがチェンバロ奏者なので、チェンバロとかスピネットとかリュートの演奏はライブで拝見したことが何度かあるのですが、ヴィオラ・ダ・ガンバはなかったと思う。

チェンバロとかチェロも好き、というか、脳のなかを静かにいい感じに耕してくれるような気がします。

バロック音楽を聴くとアルファ波が出るとかいう人もいるけど、それはあくまで人によるんじゃないかしらー。

でも私の場合、ヴィオラ・ダ・ガンバとかチェンバロの音を聴くと、ほんとうに血圧が下がるのかなんなのか、頭のどこかで脳が静かになる何かの化学物質が出てくる気がする。

あっそうだ、この間「Apple Musicにはクラシックのチョイスが少ない」とディスってしまいましたが、このアルバムはちゃんとありました。


そしてさらにヴィヴァルディは集中できないといったのですが、ヴィヴァルディのチェロ・ソナタというのを発見しました。これは私的に、翻訳活動にぴったり。ヴィヴァルディさん、こんなに渋い曲も書いていらっしゃったんですね。

ま、その日によってコンディションはいろいろで、テンパッているとレッドツェッペリンやニューオーダー(ふふふ、懐かしいでしょ)をガンガン聴きながら翻訳活動ができる日もたまにあるです。めったにないし相当内容も限られるけど。

村上春樹との対談で、(『翻訳夜話』だかどうか、よく覚えてない。すみません。)で柴田元幸先生が「翻訳なんか人と話をしながらでもできる」というようなことを言っていた。

ほんとに頭の良い人は、弘法筆を選ばずじゃなくて音楽なんか選ばすなんですねー。
きっといつも脳みそのコンディショニングが完璧にできてて、ちょっとやそっとのことじゃ揺るがないんだろうな。


にほんブログ村 海外生活ブログ シアトル・ポートランド情報へ

2016/07/31

どろぼう猫と、翻訳活動のための音楽



YouTubeで出会った、どろぼう猫!

( ゚д゚)ハッ!………。 という顔に萌え萌え。何度みても、なごみます。

Sebastian Stosskopfというドイツの画家(1597–1657)の「台所の静物と猫」という絵だそうです。1650年製作。


パッヘルベルの室内楽のビデオについてました。

クラシック音楽に関してはApple Musicのセレクションがいまいちなので、ここのところ仕事中はYouTubeがつけっぱなしになってることがほとんどです。

だいたい聞く曲きまってて、超マンネリ。

わたしの場合、翻訳活動中は、聞ける曲がかなり制限されます。

コンディションにもよるけど、わたしは非常に意識がウロウロしやすい性質なため、歌詞つきの曲を翻訳活動中のバックグラウンドミュージックにしていると、かなりの確率で気が散ります。

安全なのはクラシックかジャズ。

しかし、クラシックでもモーツァルト以降の曲はダメな時が多い。

曲のほうに意識が向けられすぎちゃって、気が散るのです。ドラマを見ながら翻訳ができないのとおなじ。

ラフマニノフの協奏曲なんかかけた日には、19世紀の大河ロマンが目の前に繰り広げられてしまい、もう全然仕事が手につかなくなる。

ベートーヴェンも壮大なドラマに巻き込まれてしまうし、モーツァルトは…

モーツァルトは、電車で隣に座った女子高生のおしゃべりを聞いてるような感じ。
ちょっとそこ!静かにしてっ!
と脳内ハムスターが叫びだします。

モーツァルトの音楽が女子高生に似てるという意味ではなくて、あくまで私の脳の反応がそれに似たものと出会ったときの状態に似ているということです。いや、似てるのかな。

モーツァルト大好きなんですけど、聞きながら何かほかのことに集中するのは難しい音楽だと私は思う。

結局一番良く聞いてるのはJ.S. バッハと、その少し前の頃のイギリスかドイツのバロック音楽など。バッハだったら大体なんでも大丈夫。カンタータでもある程度までなら大丈夫。

バロックでも、イタリアものは、仕事をしているときに聴くとイラッと来ることが多くてダメ。
ビバルディもほとんどダメです。これも「隣から聞こえてくるおしゃべり」的に、脳のどこかを刺激されるらしい。

パッヘルベルさんは、「カノン」で有名ですが、このドロボウ猫つきビデオの曲はもっと控えめで、仕事がしやすい状態になる。かなりヘビロテで使わせていただいてます。


こちらはパッヘルベルさんの有名な「カノン」。
よく結婚式でつかわれるやつ。この動画の演奏はテンポ早くて気持ち良い。


あとはルネッサンスのリュート音楽とか。

60分くらいのをひとつ選ぶとYouTubeさんが延々とつなげてくれるので気づくと何時間もそのままなのですが、時々ルネッサンスの音楽につかわれている絵画に、とんでもないものがあってびっくりする。

同時代の15世紀から16世紀に描かれたものらしいけど、なぜか変な絵が多いんですよ。

この猫の絵どころじゃないんですよ。一番ヘンだったのは、娼館らしくハダカの女性と男性がずらりと並んだ風呂おけのようなものに入って食事をしているところへ、正装した聖職者が入ってくるというもの。なんなんだ一体。16世紀ベネチアの音楽についてたやつでした。

そのほかにも、ルネッサンス期の音楽についてる絵ってちょっと公序良俗に反するような、男性誌グラビアみたいなテーマの絵が多い。

ここでは引用しないけど、興味がある方はルネッサンスの音楽をYouTubeで探してみてね。 

時代は飛んで、エリック・サティの「ジムノペディ」と「グノシェンヌ」の9曲セットも、ヘビロテです。

モーツァルト以降の近代の曲で仕事用に使えるのが、このサティの9曲と、ショパンのマズルカと練習曲、それからシューマンとリストの曲の一部。ショパンのほかの曲は演奏者によって違う。
ルービンシュタインならバラードでもスケルツォでも大丈夫なんですが、アルゲリッチの演奏だと脳が全部そっちにとられちゃう。


脳内メモリをさらっていく情熱の女、アルゲリッチさん。

ジャズも、1960年代くらいまでのピアノがメインのジャズが一番落ち着く。てっぱんはビル・エヴァンスです。

ビル・エヴァンス2枚とバッハの無伴奏チェロ組曲とフランス組曲は、iPhoneにも緊急用に入れてあります。

総合すると、暗めのトーンで、あまり感情の振り幅が大きくない、かっちりした感じの音楽がいいようです。

たぶん脳のメモリがあまり大きくなくて、翻訳活動中にはかなりもう容量ギリギリのリソースが必要なので、音楽のほうにちょっとでもメモリがとられると、一生懸命回っている「脳の中の翻訳活動に必要な部分」が機能しなくなるのではないかと思う。

これは翻訳でなくても、小難しい本やなにかを読んだりするときも同様です。

ルネッサンスなどの音楽が脳にラクなのは、音楽を処理する担当の部分がアイドリング状態になるのに合っているような気がする。あくまでイメージですけど。

音楽担当部分が大きめのギヤでゆっくり回転しているそばで、言語担当部分のハムスターが必死でくるくる車輪を漕いでるというような感じです。



サティのジムノペディ3曲とグノシェンヌ6曲セットの動画。
このHD画像はどこからとってきたものか知らないけど、ものすごくキレイで見とれてしまいます。


にほんブログ村 海外生活ブログ シアトル・ポートランド情報へ

2016/06/22

IJET-27(3)イディオムの国のアリス


仙台のIJET、1日目の夜の交流会は仙台駅隣のホテル・メトロポリタンにて。これがまた、美しくて美味しいものてんこ盛りでびっくり!
ずんだ味噌の田楽、なす田楽、ローストビーフにラムチョップにお刺身に揚げたて天ぷらに秋刀魚のお寿司。サラダも煮物も中華も。そして魅惑の地酒、大吟醸も種々。


予算オーバーしなかったのかしら、それとも仙台の方々が特別に豪華なごちそうを振る舞ってくれたのかしら、と色々考えてしまうほどレベルが高くてほんとに感激。ちょっと顔出して早めに帰ろうなんて思ってたけど、お会いした方々との話も面白く、最後まで居残ってしまいました。



こちらは仙台の街角カフェ。仙台はオシャレなコーヒーショップがたくさんありました。


小さいミルク入れにクリームが入って出てきた。懐かしいー。

さてさて、IJET2日目は、腱鞘炎や肩こり対策(深刻な職業上の問題です!)の大変ためになる講義、エージェント経由と直接クライアントからの仕事のPROS&CONSについてのパネルディスカッション、そして午後は日英翻訳者の方の表現に関するプレゼンテーションを2コマ拝聴しました。

最後のプレゼンテーション、「Alice in Idiomland: Dealing with Idiomatic Expressions in Japanese Document」がとてもおもしろかった。

ウィスコンシン大学の「技術日本語」というプログラムの主任であるJames L. Davis教授の講義でした。

日経新聞の記事から採取した日本語のイディオムを、ウォール・ストリート・ジャーナルの読者むけに翻訳するという前提で、ひとつひとつ取り組んでいきます。
「接点」「重い腰を上げる」「頭を抱える」「救世主」「可能性を秘める」「尾を引く」「臨機応変に対応」など、どれもそのまま訳してはかえって誤訳になってしまうイディオムをどう訳すか。

エンジニアの学位を持つDavis教授は、「大きな問題に出会ったら、小さく切り分けて取り組みやすくする」のがエンジニア流アプローチだといい、その通りに、日本語の文章を解体し、単語の背後にある意味を特定して、読める英文にするために足りないものを足していきます。

たとえば、
「安倍政権は医薬品の国際競争に打ち勝ち、成長の柱に据えようと矢継ぎ早に政策を打ち出す。だが過去の出遅れは今なお尾を引く
の下線部分は、
< past delays are still holding the industry back>

のように、「尾を引く」の意味するところを読み取って、なにがどう尾をひいているのかをまず考え「過去の遅れにより産業が遅れを取っている」と言葉を足す、など。

イディオムや表現を頭の中で解体して、原文の意味を忠実に再現するために言葉を足したり削ったり。
英日翻訳でも、読んで意味の通る自然な文章にするためには同様の作業が必要です。

訳しにくい単語やイディオムに常日頃苦しんでいるので、こんなふうに他の人が頭を悩ました経過を聞くのは楽しいです。

Davis教授の講義は歯切れよくて軽快でした。

こうやってわざわざカンファレンスに出てくる特典はいろいろあるけれど、最大のメリットの一つは、共感でき尊敬できる同業界のプロフェッショナルの方と直接会って同じ空気を吸えることです。賢い分子が鼻の穴からいくつか忍び込んで、ちょっとだけ脳のシワが増える気がします。


にほんブログ村 海外生活ブログ シアトル・ポートランド情報へ

2016/06/19

IJET-27(1)東北ハムレット


日本翻訳者協会(JAT)主催の第27回英日・日英翻訳国際会議(IJET-27)に行ってきました。
会場の仙台国際センターは、泊まったお家から徒歩10分。公園を右手に見て、広瀬川をわたってすぐでした。青葉城が目の前。いいところだー。


1日め、土曜日の基調講演は、東北学院大学の下館和巳教授。

下館教授が主宰・演出する「ザ・シェイクスピア・カンパニー」は、シェイクスピアを東北弁に翻訳した「東北人による東北人のための」シェイクスピア劇を公演してます。

妖精をワカメや牡蠣やタコに変えて松島を舞台に公演した『真夏の夜の夢』を皮切りに、東北弁で東北の人びとのためにシェイクスピアをやることの意義を見出したという下館教授の話、ほんとうに面白かったです。

ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーに行って「ザ」シェイクスピア・カンパニーという名前にお墨付きをもらった話。

松島での公演で、お客の入りの悪さに気をもんで無料ビールまでつけたけれど、最終的にたくさんの島の人や外からの人が見に来てくれた話。

見に来てくれる島のおばあさんたちが役者に声をかけるので、上演時間がどんどん長くなる話。

下館教授は、シェイクスピアの時代にも舞台の観客と役者との距離はこのように近く、劇場は猥雑なエネルギーでいっぱいだったのではないかといい、そして、シェイクスピアの作品をこのように変形させてしまうことで作品が傷つくのではないかと聞かれたら、「英国人は傷つくかもしれないがシェイクスピアは平気だ」と答えるといいます。

もちろん単に面白いから東北弁にしてみた、というだけではなく。

東北の役者たちが東北の人の前で公演するために、必然的ですらある東北弁シェイクスピア。演劇と言葉の深い精緻な理解に基づいて、東北の土地に移植されています。

ユダヤ人とイタリア人の差別の話である『ベニスの商人』は、東北で商いをする近江商人の話に。『ハムレット』は戊辰戦争後の東北に。
『オセロ』は虐げられたアイヌに。『リア王』は寿司屋の主人に。『マクベス』の魔女は恐山のイタコに。

有名なハムレットの科白、
To be or not to be. That is a question.
は、言葉の音がとても女性的な余韻を残し、観客に苦悩を投げかけ、その悩みに巻き込んでいるのだというのです。だからto DO ではなく弱々しい BE が使われていると。

この東北弁訳は、

「すっか、すねがた。なじょすっぺ」


下館教授の講演のあと、カンパニーの役者さんたちが『ベニスの商人』『ハムレット』『オセロ』『リア王』『マクベス』のさわりを見せてくれました。
東北弁、16世紀のクイーンズイングリッシュなみに、難しい。

震災のあと、活動休止状態だったカンパニーは被災者の方々のために公演を再開して、被災した各地を回ったそうです。

アメリカだったらこういう活動にはどこかからどどーんと資金援助が出ると思うのだけど、日本ではなかなかそういうわけにいかないのでしょうか。
 

にほんブログ村 海外生活ブログ シアトル・ポートランド情報へ

2016/06/04

近所の例大祭


驚いたことに一時帰国まで1週間を切ってカウントダウンが始まっているというのに準備なんかなんにもできてない上に見計らったように予定外の仕事が降ってくるし、先週3連休でぼーっとしてたら今週はファイナルで課題の提出があるんだったーーーー! メキシコから戻って以来いつにも増してぼーっとしていたので、ここへ来て軽くパニック。ひー。なぜかいつも旅の前には予定がたくさん降ってくる。

そんな朝の癒やしの散歩道。ほんとに一日中座りっぱなしで引きこもりになってしまうので、朝晩一度ずつの散歩を<通勤>として義務づけています。10分でもいいから歩くのだー!

近所は緑が多くてわさわさ茂っている花木に癒される。快晴の日などはこの上なく気持ちの良い季節になりました。


 舗道のブロックのスキマになにか異変が。


マイクロな蟻のお祭りでした。
(昆虫嫌いの方ごめんなさい!でもこの写真じゃあんまりなんだかわかんないですね)

蟻の世界でいったい何が起こっているのか、ここだけじゃなく近所中あちこちで蟻が湧いていました。

蟻たちの年に一度、いやもしかして一生に一度の祭りなのか。

この間TEDだかRadio Labだかで、ショウジョウバエの脳内物質の研究をしている人の話を聞いた。ハエの脳内物質も人間のとほとんど同じなんだそうです。ドーパミンとか。
ドーパミンてハエの10分の1くらいの大きさかと思ってたよ…。

蟻たちもこうやってわーわー集まっている時には、神輿を担いで喧嘩するいなせな兄ちゃんたちのように脳内物質が爆発しているのでしょうか。


ヤマボウシ(dogwood)もまだまだ咲いてます。



にほんブログ村 海外生活ブログ シアトル・ポートランド情報へ

2015/11/08

表記ゆれ


夏目漱石先生の『満韓ところどころ』という旅行記を読んでいたら、こんなくだりがあった。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
一時間の後佐治さんがやって来て、夏目さん身をかわすのかわすと云う字はどう書いたら好いでしょうと聞くから、そうですねと云ってみたが、実は余も知らなかった。
為替の替せると云う字じゃいけませんかとはなはだ文学者らしからぬ事を答えると、佐治さんは承知できない顔をして、だってあれは物を取り替える時に使うんでしょうとやり込めるから、やむをえず、じゃ仮名が好いでしょうと忠告した。

佐治さんは呆れて出て行った。後で聞くと、衝突の始末を書くので、その中に、本船は身をかわしと云う文句をいれたかったのだそうである。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

漱石先生の小説を読んでいると、けっこうな数の「表記ゆれ」があります。

このくだりでも、満州に向かう船の上で、ニアミスの事故の報告を書こうとした船会社の偉い人が、高名な作家が乗り合わせているからといってわざわざ漢字を聞きにくるのに、この答え。

完全に当て字と思われる独創的な漢字の使い方もあるし、なんだかずいぶん自由だなという印象です。

たとえば「成功」が「成効」、「練習」が「練修」、「簡単」が「単簡」、「悲惨」が「悲酸」になっていたり。

世間一般に流通している表記とはちょっと違うかもしれないが、字面で意味が取れれば別にいいじゃないか、という鷹揚さを感じます。

「言文一致体」の開発が途上だった明治の文人たちは、文章を書くたびにかなり自由に表記を自分で考案していたみたいです。

もっとさかのぼって江戸の木版画とか見ると、もうどれが当て字でどれが当て字でないのかすら不明みたいな、やたらにクリエイティブな漢字の使い方オンパレード。

この漢字はこう、送り仮名はこれ、と、きっちり決められるようになって四角四面な傾向が強くなってきたのは常用漢字表ができた大正以降なんでしょう。

文部省の「臨時国語調査会」が漢字表を作ったのが大正12年だそうです。

常用漢字表を作ろうという動きがあったという事自体、それまでの表記がてんでんばらばらだったという証拠ではないか。

あまりにも当て字が多くて、お役所その他で混乱を避けるためというのが目的だったのでしょうが、戦後は新聞はじめ、一般的な出版物でも、さらには広告や文芸の世界も、漢字や送り仮名や表記には「正解」があるという態度がだんだん徹底してきたのだと思う。

東京で小さな広告の会社につとめていた20代のころ、コラムでもコピーでも、出版物に載せるものは共同通信社の『記者ハンドブック』にしたがって書けと厳しく指導されました。新聞や雑誌ではほとんどの熟語や送り仮名に「正解」がありますね。

でも日本語はもとより表記ゆれを内包している言葉。

日本では外来語を取り入れるときに漢字とカタカナという便利なものを活用してきたがゆえに、外来語が入ってくるたびに必然的に訳語と表記のゆれが起こります。

computer は「電算機」なのかコンピューターなのか。だけではなくて、「コンピュータ」なのか「コンピューター」なのか。
customer は「顧客」なのか「お客様」なのか「客」なのか、または「カスタマー」なのか「カストマー」なのか。

翻訳の作業は時に、半分以上がこの表記ゆれの解消と訳語統一ではないかと感じることさえあります。

クライアントさんによって、User が「ユーザー」だったり「ユーザ」だったり、diamond が「ダイヤモンド」だったり「ダイアモンド」だったり、violin が「ヴァイオリン」だったり「バイオリン」だったり、好みが違います。
日本語の表記に関しても、「出来る」なのか「できる」なのか、「わかる」なのか「分かる」なのか、「時」なのか「とき」なのかなどなどなどなど。

もーどっちでもいいじゃん!と内心ちゃぶ台をひっくり返したくなることもあるけれど、確かにすべて統一されているところに1つだけ(もしくは、「ひとつだけ」または「一つだけ」)違う表記があるのは見苦しい。いつもはうっかり見のがしてしまっているくせに、ユーザーとして(もしくは、「ユーザとして」)企業のサイトなどで目立った表記ゆれに気づくと、おやおや?と思ってしまいます。

クライアントさんの指示がはっきりしていれば良いのですが、既存の訳がなくてこちらからサジェスションを出さなければならない時は少々緊張します。あとから「やっぱりこっちの方がよかった!」と思うこともしばしばで、あの時はこっちが良いと思ったけどこの場面ではこちらの方に心惹かれる…と、ふらふらと優柔不断な自分が嫌になる。

一番困るのは、エンドクライアントさんからの明確な指示がなく、途中までいろんな翻訳者さんが訳してきた訳語の表記がバラバラのものが壮大に入り混じっている案件。
実際に、大きなファイルでちぐはぐな訳語が混在しているのは何度かありました。翻訳メモリを使っていても、なかなかすべて統一するのは難しい。
逆に統一してしまうと変な文章になってしまう場合もあるし。

そして間に入っているエージェントのコーディネーターさんが日本語を読めない人の場合は、説明しても100%伝わらないのがもどかしい。

英語にも米語とイギリス英語でスペルが若干違うとかはあるけれど、これほどたくさんの微細な表記ゆれには悩まされないはず。もちろん訳語自体のゆれは別の話ですが、それでも全体に選択肢は少ない。

こうしてみると、日本語という言葉は懐が深くてなんでも吸収する柔らかさがある一方で、出来上がりの作物にはすべてにおいてミリ単位の完璧さを期待する文化があるのが面白いですね。

クライアントさんからお預かりしている文章で明治の文豪のマネをするわけにはいかないので、最善と思われるスタイルを統一させていくのが、いち翻訳者の仕事でございます。


ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

2015/06/21

機械翻訳とハワイの雨



ニューヨーク・タイムズの今月初めに掲載された「Is Translation an Art or a Math Problem?(翻訳は芸術か数理問題か?)」という記事が、翻訳者のフォーラムでも話題になってました。

この記事によると、機械翻訳の始まりは、アメリカの諜報部の科学者が第二次大戦中のチューリングマシンによるエニグマコード解読について知り、ロシア語の論文を同じように機械で翻訳できないか、と思いついたのが最初なんだそうです。
ロシア語で書かれた文書が「キリル文字で暗号化された英語の文書なんだ!」という発想に立ったのだと。

しかし1950年代のコンピュータは非力すぎ、処理できる情報量が少なすぎたためにそんな「解読」には歯が立たなかった。

機械による翻訳を使いものになるレベルで実用化するには、その言語のコンテクストを判断できる専門家が必要、というのが常識だった時代が30年ほど続いた。

そして、1988年、IBMの音声認識技術の研究者が編み出した全く新しいアプローチが、原文の言葉の「意味」を「考える」のではなく、大量の原文と訳文のデータの中から「似たもの」を拾いだしてくるという方法。
現在のグーグル翻訳もスカイプ翻訳もこの延長にあるもの。


…という背景と、現在の人間翻訳者と機械翻訳研究者の見解を少しずつ紹介してます。

More than once I heard someone at the marathon refer to the fact that human translators are finicky and inconsistent and prone to complaint. Quality control is impossible. As one attendee explained to me, “If you show a translator an unidentified version of his own translation of a text from a year ago, he’ll look it over and tell you it’s terrible.”
<「機械翻訳マラソン」(5月に開催された1週間のハッカソン)では、参加者が人間の翻訳者は気むずかしくて一貫性がない、と言っているのを一度ならず耳にした。人間の翻訳では品質管理は不可能に近いというのだ。ある参加者はこんなことを言っていた。

「翻訳者に、誰のものだかを隠してその人が1年前に翻訳した訳文を見せたら、こりゃひどい訳文だっていうに違いないよ」>

翻訳に「正解」はない。だってその証拠に英語版の『ドン・キホーテ』は20種類もある。一人の翻訳者だって迷うのに、正確さを問題にして何になるだろうか、としたあとで、この記事の著者は、しかし、少なくとも人間翻訳者は「この文章の目的はなに?」と尋ねるだろう、と書いています。
「正解」の訳だけを探す機械にとっては、誰が何の目的で書いたかなどという問題はまったく意味のないこと。

The problem is that all texts have some purpose in mind, and what a good human translator does is pay attention to how the means serve the end — how the “style” exists in relationship to “the gist.” The oddity is that belief in the existence of an isolated “gist” often obscures the interests at the heart of translation.


 < 問題は、すべてのテクストはそもそも目的を持って書かれているということだ。優れた翻訳者なら、手段が目的をどう達成するか、つまりその「スタイル」がその「要旨」とのどのような関連において必要なのか、ということに注意を払うものだ。>

…と、この記事は結んでいます。

スタイルと要旨が関連しているのは当然で、だって言語は文化そのものだから、常に時代と場所と読む人、書く人によって揺らぎが出るものです。

本来、文学作品であればその「スタイル」と「要旨」は、分かちがたくからみあっているものです。

血を流すことなく内臓を取り出すことができないのと同様、文学作品から「要旨」だけを取り出したら、それはオリジナルとはまったく別の存在になってしまう。

文学作品の翻訳に訳した人のフィルターがかかるのは当然です。

同じ日本語内でだって、たとえば『源氏物語』の現代語訳がこんなにたくさんあるのはなぜかってことになる。正解があったら谷崎潤一郎だって3度も源氏物語を「翻訳」し直してない。

「スタイル」の方でいうと、たとえば広告や広報の文章やメディアの文章では、それぞれの企業やターゲット顧客や読者層によって語りかけるスタイルが違う。たとえば「日刊ゲンダイ」と「東洋経済」と「暮らしの手帖」と「CanCam」ではそれぞれの読者に合わせた異なる言葉の体系を持っています。

いってみれば、そのテクストを読む人びとが期待する場の「空気を読む」というのがスタイルの決定には必要。そしてその空気を読むには、そこで共有されている体験を漠然とでも理解していなければなりません。

書き手が出したい雰囲気と読み手が期待する形にはある程度の「正解ゾーン」があって、それをはみ出すと妙に居心地が悪くなって意味そのものが伝わらない。
重要なのは、「正解ゾーン」は読み手と書き手の期待が作るということです。
 
 一対一の正解はないけど、常に時代や場所やいろいろな要素により揺れ動く正解ゾーンは確かにあるので、それをうまくたぐりよせるのが(人間)翻訳者の仕事。

人間翻訳者は、原文の「要旨」と「スタイル」をこれまでの経験という膨大な情報をもとに、ほとんど直感で理解しながら読み、それをまた経験をもとに、期待されるスタイルに直感的に当てはめていくわけですが、その理解に必要な情報量と処理プロセスがそっくり機械に置き換えられる日が、いつの日かやって来るのは間違いないのでしょう。



グーグル翻訳はたしかに現在の段階では人にとってかわるほどの技量は全然なくて、このニューヨーク・タイムスの記事へのコメントでも「役に立たないよ」みたいな発言が多かったけれど、 グーグルやマイクロソフトが参照する訳文・原文ペアのデータが恐ろしい量で増え続け、それと同時に人工知能の学ぶ機能が飛躍していくのは目にみえているので、たぶん私が生きているうちにかなり精度の高い翻訳マシンが完成するだろうなと思います。

大量データの中から「意味を考えず似たものを拾ってくる」というのが現行の機械による翻訳だけれど、そのうち大量のデータから「コンテクストを拾う」「意味を理解する」ということも出来るようになることでしょう。

というか人間の思考プロセスも、細分化していけば「似たものに気づく」という単位の集積なのではないでしょうか。

人間の持つ直感的な理解というのが、何と何が関連しているか、ということの細かな積み重ねだとしたら、情報量が膨大で有機的にからみあっているからまだ機械で再現はできないけれど、いつかきっと解析または模倣されるに違いないわけで、その解析が可能になる日というのはつまり機械が「直感」といえるような思考プロセスを持つ日の一歩手前。

人工知能に言語の抽象的な思考力が備わる日には、スタイルを理解でき選べる翻訳マシンも可能となる、てことですよね。逆にそれまでは出来ないってことでもあるけど。

それで思うのだけど、完全に翻訳可能な文章、ほかの言語で置き換え可能な文章というのは、背景が画一的ってことなんですね。

たとえば、ジャワ島の密林に住む部族の先祖の言い伝えを現代英語にしたら、そのニュアンスや感情や意味合いはほとんど失われてしまう。

ハワイ語には雨の名前だけで何十種類もあるというのは良く言われることです。

きわめて予測しやすい、安定したマイクロ天候が多いハワイという土地では、たとえば「マノアの谷のこのへんに降る雨」というような、局地的な雨の名前がとても多いのだそうです。
ハワイ大学の人が作った雨の名前リストがありました)

そういう雨を実際に肌に感じたことのない人の言葉に翻訳すれば、そこにある経験は決定的に失われて、もっと抽象的なものになる。

古代ハワイの人たちは「その場所に降る雨」を現代の私たちとはまったく違う受け取り方で感じ、見ていたのだと思います。

日本語だって、雨の名前はアメリカ英語よりずっと多いですよね。
こぬか雨、卯の花腐し、夕立、時雨。

『歳時記』にある言葉の多くは、もう解説なしじゃ現代の日本人には理解できなくなっている、立派な「死語」になっちゃってます。
 「端居」とか「水飯」「振舞水」なんて、今じゃさっぱりわかりませんが、その時代の人には聞いただけで一定の情景と情緒を呼び起こす、きわめて喚起力の高い言葉だったわけです。

 言葉は共通の体験に基づいたもので、情緒と論理がいっしょくたになっています。
きっとその両方のコンテクストの理解が、アートなんでしょう。




コンピュータのマニュアルやフランチャイズ店の経営方法や法律体系ならその多くが損なわれずに翻訳できるのは、それが資本主義社会とか技術とか司法という抽象世界への共通の理解と認識を前提としているからです。

これは今では当然のようだけど、考えてみれば、200年前には離れた地域に住む人がこれほど容易に相互の考えを理解し合えることはなかった。文化はもっとずっと多彩で多様で排他的で互いに相いれなかった。
「文明開化」が文化の中にブルドーザーのように平坦な場所を作って、共有の「文明」というコンテクスト、経済と科学技術のコンテクストができたから、翻訳可能な部分が広がってきた。
文明開化は同調圧力であって、それは今も進行中で、やっぱり文化はどうしようもなく全世界的にフラットになっていくしかないんだなあ、とあらためて思ってしまいました。

現時点のグーグル翻訳ですんなり通じる話は、フラットなのです、きっと。

「翻訳は数理問題かアートか」という問題の正解は「内容により、読み手により、どちらでもある」です。

その文章がどの程度のコンテクストを背後に持っているか
読み手と書き手がどの程度コンテクストを共有しているか

により、コンテクストが多ければ多いほど表に出てない情報(コンテクスト理解)を必要とし、スタイル解読と選んだスタイルでの表現という「複雑」な作業を要する「アート」の域に近くなる。

コンテクストが少なければ、またはコンテクストが両側で共有されていれば、考慮する必要のある情報量は減るから、より単純な作業になる。

 「算数かアートか」というのは、結局のところ処理している情報量の差ではないのだろうか、という気がします。 短い単純な数式なのか、高次な複雑な数式なのか。


そしてこれから発展してくる人工知能は、人々の記憶をもとにどんどん高次で複雑な翻訳をすることになる。

もう10年近く前になるのか、翻訳者のフォーラムで機械翻訳についてのトピックがあり、「私たちの仕事が機械翻訳にとって替わられる日には、ほかの多くの職業も同じ運命になっているはず」と、いささか楽観的な書き方で多くの人が納得していたのを思い出しますが、それが本当に現実として迫ってきた。カウントダウンになってきたなという感じがします。

あと20年くらいは人力翻訳が必要な時代が続いてほしいなと思うのは、楽観的すぎるのかもしれません。

「人工知能に奪われる仕事は何か」というような記事を毎日のように目にするようになりました。弁護士や医師といった仕事もそのうち置き換わるだろう、その前に中間管理職が大量に不要になるだろうといわれてます。

意外に思っているよりも早く、まずはセグメント化された高度な専門領域から、かなり精度の高い機械翻訳が完成しそうな気がします。



にほんブログ村 海外生活ブログ シアトル・ポートランド情報へ

2014/11/10

ゆずみそとは




ブログのタイトルを変えました。

ハワイからシアトルに引っ越してきて5年が過ぎて、このブログももう、いつのまにか丸4年が経過!

読んでくださっている方がた、本当にありがとうございます。


まったく大した情報はご提供できてませんが、少しでも気晴らしや何かのたしになっていれば嬉しいです。

シアトル周辺のいろいろ雑記として書き始めたブログですが、だんだんと内容がノースウェストにおさまらなくなってきたので、ちょっと箱の形を変えてみました。

なかみはたぶん、一緒です。
でももう少し、(食べたものと散歩情報のほかに)翻訳の周辺で考えたことやツール話とか、読んだ本や映画の話、日々つらつら思うこと、を書き留めておくメモ的なものが増えると思います。



ゆずみそとは、柚子の香りいっぱいのお味噌です。田楽にも、ふろふき大根にのせてもおいしいですね。

Yuzuwords は、シアトルに来てからフリーター、じゃないフリーランスの仕事を始めるにあたって作った会社(社員全1名)の名前でございます。

シアトルは日本の食材がほとんど何でも手に入りますが、柚子だけは、ほとんど見かけない。
会社登録をするんで名前を考えていたときに、ちょうど、ああ残念、柚子があったらお鍋がおいしくなるのに、と柚子で頭がいっぱいだったのです。

柚子の原産地は中国だそうですが、日本の食生活に深く根を下ろして、大きな風呂敷を広げると、日本の美意識の一端を代表するといっても良い食材ではないだろうか!と思います。

ゆずの香りはライムともレモンとも違う。ゆずがあるとなしとではふろふき大根もお雑煮も紅白なますも、洗練度がまったく変わってしまいます。

なくてもそれなりに料理にはなるものの、あるとなしでは大違い。柚子の香りは、平凡な一品にキリッとした華やかさを添えて、別次元のものにしてしまうのです。

翻訳での私の得意分野は広告、PR、ニュース記事、文芸など、幅広い人びとが読むものです。
だから、正確なのはもちろんですが、原文を本当に理解して、書いた人の意図を汲み取って日本語にするという過程で、キリッとした「ゆず的な要素」のある翻訳にしたいと思っています。


「なくてもそれなりではあるけれど、あると天と地ほど違う」要素というのは、文章でもデザインでも映像でも、ほかのあらゆる表現にも必ずあるものだと思います。

それは、やたらに華美なフレーバーや砂糖をこれでもかとふりかけてデコデコと飾ったりすることではなくて、その反対に、不要なものを削り、必要なものを徹底的に磨く、という作業を繰り返したのちに初めて活きてくる、素材をキラリと光らせる、何らかのエッセンスであるはず。そういう「ゆず的要素」は、思いつきでは駄目で、素材に精通していなければ使うことのできない、引き出し得ないものだと思うのです。

翻訳は原文という素材がある仕事ですから、料理に似てます。熱を通し過ぎたり味を濃くしすぎたりしてせっかくの食材を台なしにしないためには、よーく素材を観察して理解しなければなりません。
そうすると、最後に必要な量だけのゆず的エッセンスが自然に備わった良い訳文になる、はず。

まあ素材との相性もあることですし、濃い味にしすぎたり煮過ぎたり生煮えだったり焦がしてしまったり、たまに砂糖と塩を間違えたりも、ないあるのではありますが、こころざしだけはビシッと持っていきたいものだと思っています。


にほんブログ村 海外生活ブログ シアトル・ポートランド情報へ



こちらもよろしく! 今回は脳が幸せになる言語「ペアレンティーズ」について書いてます。


PONDZU WORDS BOOK  (1 of 1)

2014/07/17

文芸翻訳者の使命 <IJET その5>


6月にIJETで参加したセミナーの報告、続きです。

<翻訳者は何ができるか、何をすべきか> 越前 敏弥さん(文芸翻訳者)

2日目の午後に参加した、楽しみにしていた講演。越前さんはダン・ブラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』の翻訳者さんで、ダン・ブラウンものをはじめミステリーの訳書をたくさん出版されています。

翻訳業20年目という越前さんは、1994年から翻訳の勉強をはじめ、翌年に初の訳書を出版。2004年の『ダ・ヴィンチ・コード』の大ヒットを機に専業になられたとのこと。

『ダ・ヴィンチ・コード』は単行本と文庫本がのべ1000万部を超えるというあり得ないほどのモンスターヒットでした。現在では文庫でも初版1万部を切ることもあると聞きますから、それはそれは気の遠くなるような数字です。そんなヒット作を持つ翻訳者として、越前さんが出版翻訳の世界を牽引する責任を感じ、後進を育てるだけにとどまらず、読者をも育てようとしている、真摯な姿勢が理解できたセミナーでした。

出版翻訳の現状は、どこでも聞くことですが、厳しいものです。(翻訳物に限らず出版全体ですが)

15年前は文庫1冊の定価が700円で印税は8%が普通で、初版発行部数は2万部。単純計算で110万円くらいの印税収入だったそうです。
現在では定価が平均900円で印税は7%、発行部数は平均12,000部となっているので、これを計算すると67万円ちょっと。

1冊を訳すのにはどうしたって平均3ヵ月はかかります。重版がかからなければその3ヵ月の作業に対する見返りは、それだけ。月割にして20万円台??

厳しい現実です。定価や印税率などの要素は翻訳者には変えることができないので、唯一、影響を持つことができる発行部数に働きかけるしかない、と、売れる部数を伸ばすため、読者獲得のために、越前さんたちは色々な努力をしているそうです。

まず、翻訳にはスキルが必要であることを伝え、一般に理解してもらうように努める。

そして、「謙虚になりすぎない」。読者がいるところでは絶対に翻訳について謙遜してはいけない、 と越前さん。

人の誤訳/悪訳を公の場で叩かない。これは業界内の足の引っ張り合いになり、全体として良くないということなのでしょう。

また、質の低下に加担しないこと、そして、多少無理をしてでも締め切りを守り、たとえばシリーズものの刊行ペースを維持して読者の期待に応える、なども信条とされているそうです。

求められるスピードは出版翻訳の世界でも加速しているようです。

版元の要望する出版日に間に合わせるために、原書で300ページある作品を5人の下訳チームに割り振り、越前さんが監訳の作業を数日間で行なって、5週間ほどで納品したというケースも紹介されていました。これもチーム翻訳で、やはり用語統一のためにはGoogle Docを使ったそうです。

ヘルプ 心がつなぐストーリー』の翻訳は、それほどの短時間ではありませんでしたが、やはり出版決定から入稿まで3ヶ月もなかったので、下訳担当が2人でそれぞれ担当した部分の訳をGoogle Doc に上げ、メイン翻訳者の栗原さんが見直すという体制で、用語はエクセルの表をGoogle Docに上げて同期しながら使っていました。懐かしいです。昼間別の仕事があったので、夜間と週末とランチブレイクまで完全に潰れた3ヵ月でしたが、登場人物と向き合い、文字を通して声を聞くのがとても楽しくて、仕事から帰ってきてコンピュータをひらくのが待ち遠しい毎日でした。
(越前さんのブログで、以前に『ヘルプ』のご紹介もしていただいたのでした。本当に嬉しい記事でした)。

さて、越前さんたちが牽引している読者獲得のための運動は、「翻訳ミステリ大賞」 の創設や、全国各地の読書会、小学生を対象にした翻訳文学の感想文コンクール、その他イベントなど。

本が「売れない」と言わないこと、も翻訳者に呼びかけているそうです。

売れない売れないと言っていても何もならないし、ますます出版全体のイメージが停滞してい見えてしまうので、ほんの少しでも本を読んでもらうための仕組みづくり、本が読みたくなる仕掛けづくりをするという姿勢。

人がものを学ぶのは「視野を広め、みずからを相対化するため」。そして翻訳という仕事は、「海外文化の受容をしやすくして、客観視、相対化の一助となること」だと言う越前さんは、ご自分の「使命」として文芸翻訳に淡々と取り組む、守護天使のような役回りを買って出ているようです。


最後に、奇しくもこの講演の日の前日に亡くなった翻訳家の東江一紀さんの業績を讃えていらっしゃいました。 「小骨のない翻訳」のお手本を示してくれ、越前さんが駆け出しの時から支えてくれた、恩師であったそうです。東江さんの築いた「翻訳道」を後進に伝えて行くのが自分の使命、と淡々と語る言葉の真剣さに心を打たれました。


にほんブログ村 海外生活ブログ シアトル・ポートランド情報へ

2014/07/16

翻訳者のためのウェブマーケティング <IJET その4>


6月21日~22日に開催されたIJETで参加したセミナー報告&感想の続きです。

1日目の終わりには立食パーティー式のディナーが用意されていて、ここでも世界各地から参加している日英・英日の翻訳者さんとお話しができ、 楽しかったです。

ケーキは25周年だというIJETおめでとうの飾りつき。さすが日本のケータリング、ちゃんとしたふわふわスポンジの生クリームケーキで、ついお代わりをしてしまいました。


ランチや夕食のときにちょこっと話をした米国人のワカモノたちは、JETプログラムで日本に来ている子が多かった。英語を教えるだけでなく、日本の官庁や大学で働いている子も何人か。

どうして日本語に興味を持ったの?と聞いてみると、子どもの時からANIMEが好きで、という子が半分以上でした。クールジャパン(笑)! 高校時代に日本語のクラスを取ったのが日本語を学んだ最初だったという人が、ほとんど。

いや、うちの子どもも含め、半端にバイリンガル環境で育った子たちよりも、高校や大学から日本語を学んで、日本語が好きになっちゃって大変な勉強をして身につけたという人びとのほうが、ずーっときちんとした日本語を身につけていたりするんですよね。

社内通訳・翻訳者として米国中西部の日本企業で働いているアリソンさんという若い白人女性は、日本語も英語もアナウンサーのようにとても綺麗な発音でしたが、東京オリンピックの年までにフリーになって通訳で来たい、と言ってました。きっと彼女なら実力を磨いて成功するに違いない。楽しみです。



<フリー翻訳者のためのウェブマーケティング> 平原憲道さん(企業家、RDシステムズ・ジャパン 代表)


さて2日目のプログラムで参加したのは、ウェブサイト運営に関する講座で、講師はウェブサイト開発などを専門とする平原さん。

独自サイトを持つ利点はたくさんあるけれど、個人サイトが失敗する要因の大半は、更新が進まないことが原因。そして更新が進まない原因は、多忙であること、作業が複雑であること、技術の利用が難しい、という3点だ、といいます。

ではどうすれば良いか? 更新を超簡単にする秘密兵器が、CMS(Content Management Systems)。

何が優れているかというと、コンテンツ管理とパブリッシュ(書き出し)がハッキリと分かれた構造になっているので、そのままモバイル版にもできるし、サーバーやドメインの引っ越しの時にもコンテンツをまとめてさっと別のプラットフォームに載せることができる、更新も簡単、と良いことずくめ。

そんなに便利ならすぐ使おう、とメモを取っていましたら、CMSってWordpressDrupal のことだった。 そ、それは…もう使ってました… orz...。  別ブロクの自己ドメインのサイトはワードプレスを使用中です。全然使いこなせてないけど。しかも更新がめっちゃ滞ってるけど… (;・∀・)。

そしてDrupalは、6年くらい前に、前いた会社のウェブサイト作成の時にデザイナーに勧められてちょっと使ってみたのでした。


Wordpress、Drupal と並ぶ第3のCMS、Joomla というのは初めて聞きました。おもにEコマースのサイトでよく使われているそうです。


ワードプレス、もっと勉強しよう…いやホントに。と肩を落とした講座でした。


にほんブログ村 海外生活ブログ シアトル・ポートランド情報へ

2014/07/14

翻訳者チームで仕事をするという可能性 <IJET その3>


6月21日~22日に開催されたIJETで参加したセミナー報告&感想の続きです。

 <チームアプローチ101:今日からやってみよう!ソースクライアントから受注しチームで「良い」仕事をするための7つのヒント> 小林一紀さん (翻訳者、有限会社エコネットワークス代表)

これは1日目の最後のコマのセミナーでした。

一昨年サンディエゴで行なわれたATA(アメリカ翻訳者協会)のカンファレンスで参加したセミナーの1つに、アメリカ人とドイツ人の英独翻訳者コンビによるプレゼンテーションがありました。

その2人の翻訳者はそれぞれ英>独、独>英の翻訳とチェックを分担しあって、翻訳だけでなくチェック・編集校正も込みの「完成品」として納品する体制を作っているという内容でした。信頼できるチェッカーと常にコンビを組むことで品質も管理でき、不明点を互いにすぐ問い合わせることもできるので安定したクオリティを提供できるという良いことずくめの内容で、たしかにこれができたら理想かも、と思って聞き、それ以来、フリーの翻訳者同士でチームが組めたらいいなと漠然と思っていました。

 今回の小林さんのプレゼンテーションは、まさにそうした理想をかなりの規模で実践しているケースの紹介でした。

小林さんのチーム、「エコネットワークス」にはのべ100名の翻訳者や各分野のフリーランサーが登録し、そのうち常時30名ほどが稼働、年間80万字/語を処理しているそうです。 一点に利益を集約する「会社」ではなく、最初から協同作業のみを目的とする「チーム」を作るというスタイル。

翻訳者にとってはエージェント経由よりもソースクライアントから直接受注のほうが断然単価が高くなり条件が良くなりますが、1人ではこなせる量も得意分野も限られている。それをチームワークでカバーするというモデルです。

実践の役割分担では、仕事のできる人に負担が集中してしまう、苦手な作業を振ってしまったために全体としてロスが出る、などのリスクを避け、徹底的に互いに負担を減らしあい、それぞれが得意な作業を組み合わせて補いあうことを目指しているそうです。

そのために必要なのは信頼とコミュニケーション。この時間帯はできる、このくらいできる、というキャパシティやライフスタイルのプロフィールを共有しあっているといいます。

報酬は字数(ワード数)あたりの基本レートに加えて、プロジェクトのマネージメントなど翻訳作業以外の作業に対してはプロジェクト終了後に「付加価値ファンド」という形で還元する形をとっているそうです。また、クライアントからのフィードバックも共有しているとのこと。

コミュニケーションに使っているツールは特別なものではなく、進捗状況を毎日メールで連絡しあうほか、進行中の用語統一やグロッサリーなどは、Google Document、Skype、Drop Boxで共有。

セキュリティ上格別の注意が必要なクライアントの書類は有料のアマゾンのクラウドを使用しているそうです。

10万字の報告書英訳を12名のチームで数週間で行なうという離れ業も、この体制で完遂できたとのこと。専任コーディネーターがいる翻訳エージェント以上の処理能力。凄いです。


私も、これまでに大小様々なプロジェクトで翻訳者さんと協同作業をさせて頂いたことがあり、その際に使ったのもやはりGoogle Document とDrop Box、それからTradosでした。

エージェントから翻訳だけ、チェックだけ、と縦割りで仕事を振られて、自分の担当した翻訳にどうチェックが入ったのか、あるいは編集した翻訳が最終的にどのように納品されたのかが見えないと歯がゆい思いをすることが多々ありますが、フリーの翻訳者さんと同じ立場で訳文をチェックしあったり、チェッカーと翻訳者が直接情報をやりとりできると、そのプロジェクトへの意識や責任感も強くなりますし、個々の訳語だけでなく訳文理解についても細かな情報を共有でき、品質面でより良い結果が出るように感じます。

エージェントのコーディネーターは忙しいので、フィードバックは余程のことがないと来ないほうが普通です。最終クライアントともっと密にコミュニケーションが取れればより細かに要望を汲んだ翻訳ができるのに、と残念な思いをすることもしばしば。もっと言えば、どのようなメッセージを誰に向けて発したいのかを直接最終クライアントの担当者に確認して、その表現の方法についても提言ができたら良いのに、と思うこともあります。

 小林さんのチームではクライアントとも単なる発注/受注の関係ではなく、対等なパートナー関係を目指しており、チームのキャパシティをクライアントと共有したりもしているそうで、大変魅力的なモデルです。

お話を聞いていて感じたのは、チーム内、そしてクライアントに対しても大前提としてオープンなコミュニケーションへの姿勢と互いの信頼がなければならないということでした。コミュニケーションに対する姿勢をチーム全体で共有するためのシステムづくり、ということにも力を注いでいらっしゃるのが伝わってきます。


こうした有機的なネットワークによる仕事の仕方に、それこそ翻訳者サバイバルのための可能性がかかっているのではないかと思わされました。


ブログランキング・にほんブログ村へ

2014/07/13

技術的特異点と翻訳者のサバイバル <IJET その2>



IJETで参加したセミナーのメモ、つづきです。

<世界で生き残るために翻訳者がとるべきコラボレーション戦略> 齋藤 ウィリアム 浩幸さん

1日目3コマ目は、日本人の両親を持ってアメリカで生まれ育ち、ごく若い頃からエンジニアとして大成功した斎藤ウイリアム浩幸さんのセミナー。日本語での講演でした。

指紋認証システムを開発して成功し、その会社をマイクロソフトに売却した後は後進のための環境作りを目指して日本に拠点を移し、日本国のIT戦略コンサルタントとして活躍中という華々しい経歴のハイパーエンジニア。講演の後でいただいた名刺は内閣府本府参与、科学技術・IT戦略担当というものでした。

直接翻訳とは関係ない部分で、大変にエキサイティングな内容のセミナーでした。

話の中核は技術革新がいかに急速に進んでいるかということ。たとえば、現在では市場に行き渡っているスマートフォン1台のほうが、10年前のホワイトハウスのコンピュータの処理速度よりも速いとか。

めくるめく技術の世界を吉本の芸人さんさながらのテンポで次々に紹介してくれるので、まるでジェットコースターに乗っているような気分にさせられるプレゼンテーションでした。

トランジスタ、通信、ストレージ、センサーはいずれ「タダ」になる技術であること、ホットなトピックはやはり、ビッグデータ、ソーシャルネットワーク、モバイル(ウェアブル)技術、センサー応用、サイバーセキュリテイ、3Dプリンター、「モノのインターネット」であること、そして技術的特異点(シンギュラリティ)についての予測など。

人工知能が人間の脳の能力と同等になる時期というのは、早い予測では2030年、あとわずか15年。さらに、1台のコンピュータが地球上の全人類の脳を合わせた以上の能力を持つようになるのが2045年だという予測もあるそうです。この20年間のコンピュータの普及、インターネットの出現と普及、技術上の「ドッグイヤー」の加速を考えれば、充分に可能性があることと納得できます。

それは「もしかしたら」ではなく、遅かれ早かれ確実に、21世紀中に実現するだろう技術。

その時いったいどんな社会が出現するのか、誰にも見当がつかない、と齋藤さんはいいます。これほど最先端を知りつくしている人が、わからないと。

ヒトよりも賢くなったその時、コンピュータは人を幸せにするのか不幸にするのか。富の偏在を加速させるのか、是正するのか。現在ある仕事のほとんどが不要になるとしたら経済はどうなってしまうのか。社会の変化はスムースに起きるのか、あるいは世界戦争のような災厄的なイベントの引き金になるのか。

生きている間にとてつもない変化を見ることになりそうだという予感が、このセミナーを聞いていてますます強くなりました。

 先日のマイクロソフトの「スカイプ翻訳」の発表の際にも感じたのですが、翻訳業界では意外なほど技術に対する危機感が少ないようです。技術的特異点を待つまでもなく、言語サービスが職業として成り立つのはあと10年か15年くらいじゃないかと、私はごく漠然と感じます。

たしかに現行の機械翻訳はまだ実用レベルではなくて編集に余計な手間がかかるくらいですが、精度が上がっていくスピードは現在想像できる以上に早くなる気がするし、自動通訳機械みたいなものは恐らく10年くらいでかなり普及レベルになるんではないかという感じがします。

だから正直なところ、通訳翻訳業はこれからの若い人に薦められる職業ではないと感じています。

村岡花子さんが活躍した20世紀は翻訳の時代だったけれど、21世紀は人工知能の時代。情報のやりとりももっと速く、データはもっと膨大になっていく。

21世紀後半には人間という存在の捉え方そのものが変わるだろうなと思います。

そこへの移行がどのくらいゆるやかに、または急激に進むのか、固唾をのんで見守るしかありません。

 で、そんな世界で「生き残るために翻訳者がとるべき戦略」はというと、結局はテクノロジーの動向から目を離さずに取り入れながら、(今のところ)ヒトの力でしかできない事に能力を特化していくこと、でしかない、というのが結論のようです。

ルーティン・ワークやマニュアルでこなせる単純な仕事は加速度的に消滅していく世の中で、最後までヒトでなければできない仕事は何か。市場に何が提供できるか。

それを常に点検していかねばならない。市場のルールと需要は年ごと、いや日ごとに変わっていくでしょう。

これはどの業界でも同様なのだと思いますが、きわめて深刻で難しい課題です。

にほんブログ村 海外生活ブログ シアトル・ポートランド情報へ
にほんブログ村

2014/07/12

赤毛のアンの時代と翻訳業界の展望  <IJET その1>


今回の帰省の目的のひとつは、JAT(日本翻訳者協会)が主催する「IJET」(International Japanese-English Translation Conference 、国際英日・日英翻訳国際会議)に参加することでした。

6月21日&22日の2日間に東京ビッグサイトで開催されたカンファレンスには約600名の参加者があったそうで、想像以上に充実したイベントでした。行ってよかった。

以下、参加したセミナーのメモ&感想を忘れないうちに。

別ブログに書こうか迷ったのですが、東京日記の続きとしてこちらのごった煮ブログに掲載することにしました。
シアトルご近所の皆様、業界話がしばらく続きます。すみません。

< 村岡花子 『赤毛のアン』翻訳に託した未来への希望>  村岡 恵理さん(作家)

第1日目の最初のプログラム、基調講演はNHKの連ドラ『花子とアン』の原作者で、『赤毛のアン』などの翻訳で時代を切り開いた翻訳家、村岡花子さんのお孫さんである村岡恵理さん。大ホールでの講演でした。

貴重な写真を交えて、朝ドラの脚色とは少し違う本当の花子さんの実像を紹介。『赤毛のアン』は最初は『窓辺に座る少女』(だったか?)という、全く違うタイトルだったというエピソードや、花子さんの死後、文箱の中から見つかった恋文の束(妻のあった村岡氏との恋愛中のもので、びっくりするほど情熱的な内容だったそうです)の話など。

もっとも印象的だったのは、花子さんは何度も『アン』の舞台であるプリンスエドワード島へ行く機会があったのに、その度に何かしら家族の事を優先させて、結局一度も行くことはなかった、というお話。

戦争中、カナダ人宣教師からもらった『アン』の本を憲兵の監視の目から隠れて訳し続けた花子さんは、実際に行ったことはなくてもプリンスエドワード島をもう充分に見ていたのでしょう、と恵理さんは淡々と語っていましたが、聞いていて危うく大泣きしそうになりました。

また、なぜ日本ではこれほど『アン』が人気なのかとプリンスエドワード島の人から聞かれるのですが、というカナダ人翻訳者の質問に答えて、戦後、それまでの抑圧体制が一転し、女性が参政権を獲得し、どんどん変わって行こうとしていた日本の社会に、『アン』のポジティブで明るいキャラクターがぴったり合っていたのでしょう、と答えていたのも、ストンと響きました。

 翻訳家が文化の紹介者であり、時代を引っ張っていく探照灯のような役割を担っていた時代。明治から戦後数十年間までは、そういう時代だったんですね。

<翻訳業界の未来とそのなかで翻訳者がとりうる道> 井口耕二さん(翻訳者)

1日目の午後一番は井口耕二さんの「翻訳業界の未来とそのなかで翻訳者が取りうる道」というセミナーへ。

このセミナーは録画/録音しない方針ということもあってか、大教室が立ち見も出る盛況でした。

翻訳者399名へのアンケート調査を基にしたデータを分析して業界動向を探るというもので、録画を公開しない方針ということですので詳細にご紹介するのは控えますが、年収やレートの平均値や中央値、最頻値など具体的な数字をたくさん挙げたプレゼンテーションで、大変興味深いものでした。

前前年度と比較して収入が減った人と増えた人が2割ずつというのも面白い結果だと思いました。

翻訳単価はたしかに市場の一端では値崩れしているけれども、一方では年間1000万円以上の高収入を維持している翻訳者さんもあり、今後は明暗がよりくっきりしていく傾向なのかなという印象を受けました。

市場イメージ図をコストと品質のマトリックスに描いてみると、大半の翻訳者は壺のように真ん中が厚いぼってりとした形で分布していて、コストの高い人びとがXY軸の右上のきゅっと上がったところにいる感じ。

値下げ圧力に屈してしまうと、その単価に見合った仕事をする、品質が落ちてまた値下げになる、というスパイラルに陥ってしまいかねない、という指摘はもっとも。

収入を上げていくには単価を上げるか速度を上げるかなわけですが、交渉して単価が上がったは良いが仕事量が減るという確率が高いので、収入の中心となっている仕事の発注元に急に単価交渉を持ちかけるのはリスク。

新しい発注先を得たらそこの単価を最初から高く設定するようにして、そちらが安定してから既存顧客との交渉をしては、というのは的を得たアドバイスだと思いました。


にほんブログ村 海外生活ブログ シアトル・ポートランド情報へ

2014/03/19

キーボード


去年の引越し後、右腕がずっと痛かったので、本がぎっちり入った箱を無理して持ち上げたりしたせいかと思っていたら、しばらくして右腕の痛みが緩和するのと同時にこんどは左が同じように痛み出した。

…どうやらキーボードのせいなのかも、とようやく思い至ったのが最近という、デスクワークを生業としている割には、まったくお恥ずかしいていたらく。

 友人にはマウス使いで右手が腱鞘炎になったなんていう人もいるのですが、私はこれまで「へー」なんて思ってるだけで、会社づとめのときも(リストパッドは使ってましたが)ほとんど気を使ってなかったのが、ここに来て急に一気にツケが出て来た感じです。(目のほうはもう、かなり前からやられてますけど)

で、ようやくエルゴノミクスのキーボードを急ぎ購入。

真ん中がもりあがってるー。馴染むまでに数時間かかりましたが、慣れたらこれはラク!

ほぼ同時にマックのほうのキーボードにコーヒーをこぼしてしまい、何も触っていないのに

oooooooooooooooooooooo;;;;;;

などと言い出すようになってしまったので、仕方なく新品を購入。

新しいエルゴノミクス君(マイクロソフト)より、そっちのほうが倍近く高かった…。

 ウェブで探したら非正規品の10ドルくらいのもあったんだけど、東海岸から届くのを待っている余裕はなかったので、アップルストアにまたもや売上貢献してしまいました。ぐぬぬ。

iMacはもうほとんどどんなアプリにも相手にしてもらえないほどOSが古いので、早く入れ替えなくちゃ、ともうかれこれ半年思ってるのですが…

この新しいキーボード君も、見た目はまったく同じなのに、ショートカットキーに対応してくれてない(涙)。
来月必ずやってしまおう。

ウィンドウズのラップトップもそろそろ4年だから、もう買い替え時なんですよねー。Windows8はどうなんでしょう。
アプリの互換性のこととか考えるとほんとに入れ替えや買い替えって面倒で、腰があがらない。

 もうあと1年くらいは働いてほしいと思っているのですが…。


PONDZU WORDS BOOK  (1 of 1)
にほんブログ村 海外生活ブログ シアトル・ポートランド情報へ
にほんブログ村