ラベル 脳みそ の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 脳みそ の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2016/04/15

いつか蟻になる日まで


最近、蟻のことをよく考えています。

蟻ってヘンないきものですよね。

人間的な基準で考えると。

ひとりの女王蟻から生まれたクローンみたいな働き蟻たちが、全体のために喜々として、一丸となってはたらいている世界。

蟻の中にも個性があって、あんまり働かない働き蟻とがむしゃらに働く蟻があるみたいですが、それにしても、蟻たちに「自分」という感覚はどのくらいあるんでしょう。

 

蟻の感覚と人間の感覚を比べるのもなんですが、蟻たちには人間のような「自分」の感覚がないのではないか。「自分=全体」という感覚で彼らは生活しているのではないかと思うのです。

そしてそれは蟻たちにとっては幸福なことなんだろうと思います。

だって彼らには彼らの共同体だけが「世界」なんだし。辛い思いをしている蟻は、いないんじゃないか。
「ほんとうは空を飛びたかったのに!」とか「ほんとうは違うことをしていたいのに」とか「あいつのほうがアタシよりいい思いをしている。ちくしょー」なんて、彼らは思っていないから。たぶん。


全体のためにせっせと働くことそのものが嬉しくて嬉しくて仕方ない、営巣工事でも外敵から巣を守る戦いでも、共同体のための活動が直接、「自分」の利益になるセカイ。
そこには犠牲の精神はありません。
だってすることが全部、「自分」のためなんだから。

この間ラフカディオ・ハーン先生の『怪談』を読んでいたら、うしろのほうにアリの話が載っていました。『虫の研究』というエッセイの中の一編『蟻』です。

「社会進化論」「適者生存」という考え方を編み出した哲学者ハーバート・スペンサーの論をひいて、ハーン先生は

「社会進化に関して、この昆虫の方が、むしろ「超人」的に進歩していることを認めるのに、だれもちゅうちょしないであろう」

と言ってます。
そして、

「蟻社会の生態のうちで、われわれの最も注目に値するものは、その倫理的状態である。しかもこれは、スペンサー氏が、道徳進化の理想は「利己主義と利他主義とが、たがいに区別のないまでに融和折衷されている国家」であると述べている、その理想を実現しているのであるから、人間の批評を絶しているのである。いいかえると、非利己的な行為をするという喜びが、唯一の有能な喜びになっている国家である」

とも。

そして、ハーバート・スペンサーの「いずれ人類は、倫理的に蟻の文明と比較のできる、ある文化状態に到達するだろうという信念」を次のように引用しています。

「利己的目的を追求する際に奮起するのと同様、あるいは同様以上に、利他的目的を追求する場合にも、奮然決起することのできる本性を生み出すのは、すでに有機的組織のうちに、それを産み出す可能性があるからだという事実を示している」というのがスペンサーの主張。なるほど。

「有機的組織のうちに、それを生み出す可能性がある」 というのは、すでにもうアリで実現してるんだから、ほかの生物でも実現する可能性があるだろうという意味ですね。

などと考えていたら、愛読している「セーラー服おじさん」のメルマガにも、蟻のことがでてきました。(Otakuワールドへようこそ!4月1日号「自閉症の時代」

 ++ここから引用+++++

「脳内には脳細胞がいっぱい詰まっていて、それらが互いに結びついていて、情報をやりとりすることによって、総体として意識が生じているものらしい。そうだったとしても、脳細胞一個一個の側が、自分が全体の意識の形成のために小さな役割を負っていることを意識できてはいまい。


一匹一匹の蟻は、大した知能をもっているように見えないが、一群の蟻が全体として、意識や意志をもって振舞っているようにみえるときがある。眼前に溝があって、越えなくてはならないとき、蟻自身が材料となって、互いに連結しあって橋をかけたりする。

もしそうだったとしても、一匹一匹の蟻が、群れとしての意識を形成するための一素子の機能を果たしていることを意識してはいないであろう。

もしかすると、人間も、一人一人が脳細胞一個の役割を負い、人の集団が全体として意志をもつように機能しているのかもしれない。もしそうだったとしても、一人一人はそのことに気づいていない。」


+++引用ここまで++++

蟻社会と人間社会のありかた。今の人間の社会でも、もしかして、一人ひとりの人間は気づかないレベルで全体のために動いているのではないかという。うーん、なるほど。

「ガイア」論みたいに、個をぜんぶまとめたところで人類が生命体として活動していて、個人は気づかないうちに役割を振られているという感じか。


でも今のところ、素子同士で忙しく殺しあったり憎みあったり絶望したりで、蟻たちよりずっと幸せ度は低いですね。




 

19世紀の学者であったスペンサーの考え方は、19世紀の人らしく、高尚な倫理の状態に向けて社会は進化していくのではないか、というものでしたけど、倫理とかそういう価値観を別にしたところで、メカニズムとして、蟻社会と人間社会に似たところはあるのでしょうか。

蟻たちが全体のためにまるで一個の生命体のように、自他のインセンティブをまったくひとつにして働いているのと、マクロな視点でみたときの人間社会に、似たところはあるか。

わたしは、そんなにはない、と思う。今のところは。
でもこれから本当に人工知能が発達して、人びとが「繋がる」ようになったら、だんだん蟻的世界になっていかざるを得ないのでは?とも思う。

さいきん、蟻のことをよく考えるのは、技術的特異点(シンギュラリティ)についての「予言」に衝撃を受けてから。2014年のIJETでの斎藤さんの講演を聞いて、世界終末を予告されたような衝撃をじわじわと受け、いろいろと人工知能について読んだりしていましたが、それから2年、メディアでも人工知能についてどんどん取り上げられるようになってきました。いまいち話が咬み合っていない情報が多いですが。

レイ・カーツワイルさんは、

2045年には「人類の生物学的知性とコンピュータの人工知能を組み合わせた『人類文明の全知性』は、現在に比べて10億倍になっている。そのとき、コンピュータは血液細胞とほぼ同じ大きさになっている。人類は脳の内部にこのテクノロジーをはめ込み、脳をクラウド上に置き、思考をさらに大きくする――」

という状況になっているといいます。(NHKのインタビューから)

シンギュラリティをあまりのホラ話だと言う人もいるけど、そういう人こそ本当にどうかしていると思う。


30年後ではないかもしれないけど、100年のうちにはいずれそのくらいのことは起きるのだろうと思います。

AIがほんとうに完成して(いまの時点で実用化されている「人工知能」ではなくて「知性」を持った存在として)「脳がクラウドに直結」することが可能になったとき、「人類対人工知能」の戦いが起きるのではないかと恐れている人もいるようだけど、それも違うと思うのです。

そうではなくてむしろ、「旧人類(いまの人類)」対「新しい人類 powered by 人工知能」の対立になるのではないだろうか。

AIとつながることを絶対に拒否し続ける人びとと、つながってしまった人びと&人工知能のカタマリとの間のどうしようもない断絶が、しばらく続くのではないでしょうか。

互いにほっておければいいのだろうけど、そうでなければ小規模なハルマゲドンみたいなものがあちこちで勃発する。 ISISとかみたいな過激な原理主義的グループが荒野や山に立てこもって、データセンターを破壊しようとゲリラ戦を繰り広げたりする。

そしてつながってしまった人びとは、蟻的な存在に「進化」する。
つまりスペンサーが予言した「倫理的に蟻の文明と比較できる文化状態」に。

なーんて思うんですけどね。

極端な二極化じゃなくて、その中間の「部分的にAIとつながる人類」っていうのもアリなのかなあ。

クラウドに脳のナカミをアップロードしてっていうのが本当に可能になったとしたら、その時点でもうその個人は、今の常識でいうところの「人間」ではなくなり、今のわたしたちが考えるところの「個人」であることも終わるはずですよね。

いまの「人間」というのは、感覚器官をそなえ、常に身体の中と外の情報をその感覚器官から得て、細胞をめまぐるしく再生しつつ、物理的空間の中で自分なりのセカイを構築しつつ動いている、生きものですから。生きものである以上、身体というユニット単位で「個人」がある。そのユニットを隔てる壁がなくなってしまうということ。

クラウドにつながった「脳」というのは、身体をなくした、いわばユウレイのような存在ではないのか。世界中に存在する膨大な感覚器官から絶え間なく情報を受取るのにしても、身体に閉じ込められた「個体」であることをやめたときに、「個人」と「全体」の境界は、今の人間が自分について抱いている感覚よりも、ずっとずっとずっと薄いものになっているはず。

蟻の感じている「身体性」というのは、もしかしたら「個体」ではなくて「全体」にシンクロしている部分が多いんじゃないかしら。

クラウドにつながった「次の人類」は、きっと蟻の巣のように考え、行動するのではないか。

あるいは、私たちがまだ知らない、全体の中の個のあり方があるのかもしれませんが。

21世紀はじめの今の社会でも、すでにだんだんとSNSや携帯デバイスを介して人はつながってきていますけど、この流れが徐々に脳内情報ダダ漏れの時代へと「進化」していくのか、どうか。

いまの私たちが、個人情報ダダ漏れの危険に目をつぶってもグーグルなどの便利なサービスを手放せなくなっているように、人は脳内ダダ漏れと引き換えに、身体能力や知識を拡大させていくことを選ぶようになっていくのではないか。

『マトリックス』でトリニティーが数秒でヘリの操縦方法を仮想脳内にダウンロードしたみたいに、だんだんと「学ぶ」方法や「経験」ということの意味が変わっていくのかもしれません。


蟻の写真はなかったので、だいぶ前のスペースニードル写真でした。鳥居のような色の野外彫刻はアレキサンダー・リーバーマンの「Olympic Iliad」。


にほんブログ村 海外生活ブログ シアトル・ポートランド情報へ

2016/02/12

幸せのフロー理論


2月前半はなんだか嵐のように過ぎていきました。ハワイから友人が来てくれたり、近辺の友人たちに声かけてブランチをやってみたり、相変わらず学校の宿題にうなされたり。そんなにたいした仕事をしてるわけでもないのに、なんでこう時間がないのだー。もっと高速回転できる脳がほしいなあ。そのうち、Best Buyとかヤマダ電機みたいなところで、脳の増量用メモリとか、それをつけると脳が高速回転しはじめるスペックの高いプロセッサとかを売るようになるのかなあ。でも、「申し訳ございません、こちらは2000年以降に生まれた脳向けで、お客様の型式には対応していません」とかいわれたら、しんそこ悲しい(涙)。

妄想はともかく、固有名詞とか新しくみた単語のスペルとか、もう覚えるのを脳が拒否しているわけですが、この人の名前も見た瞬間に脳が拒絶した。

ミハイ・チクセントミハイさん。
でも声に出してみると、なんだか可愛い名前だ。

ハンガリー出身の心理学者で「フロー」理論の提唱者です。


この間仕事で翻訳していた記事の中にお名前がちらりと出てきたので検索して初めて知ったのですが、このTED Talk を見て、とてもシンプルに「幸せとはなにであるか」を図解した理論なのを知り、ほんとに感動しました。

15分のビデオは長すぎると思う人は、最後の5分だけでいいから見てみてくださいねー!

もうすでにぽんず単語帳のほうにも「意識がうろうろ」について書いたのですが、あまりに感動したのでこちらにも続きです。

人が幸せを感じるのはどんな時か、ということを研究してきたチクセントミハイさんは、クリエイティブな人びとが、いわゆる仕事に「のっている」「没頭している」ときに最高に幸せを感じていることに気づき、いろいろなそういう人びとにインタビューした結果、自分を忘れるほど没頭できる状態にはいくつかの共通する条件があると結論したといいます。
その忘我の幸せ状態を「フロー」と呼びます。

<必要なスキルも難易度も高く、かつ、それを自分ができると確信できる事柄>に夢中で取り組んでいるとき、人はフローの状態に入る、というのです。

フローの正反対にあるのが「無気力」状態。何かに挑戦してもなく、スキルもない、自信も手応えも何も感じられない。出口がない。辛いです。


ではどうしたらフローに簡単に入れるようになるのか。

マット・キリングワースさんという心理学者は、ずばり「意識を集中してなにかに取り組んでいること」、意識をうろつかせないこと、で幸せ度が増すといっています。

でも、数日前に単語帳のほうで「意識がうろうろ」について書いてみてからちょっと考えていたのですが、ほんとうに意識がウロウロしているときに自分は幸せではないかというと、決してそうでもないんですよね。

むしろ意識がウロウロしていて全然オッケーなこともある。

たとえば、散歩しているとき。歩くことだけに鬼のように集中していたら、きっと全然楽しくないです。クルマを運転中や、掃除をしているとき、台所で洗い物をしているときなども、かなり意識は遠く離れたところをうろついていますが、それはわたしにとってはとても楽しい状態です。

意識の30%くらいを使ってればいい単純な作業をしているとき、頭のほかの部分はいろいろとりとめのない考え事をしていて、そんなときにふっとアイデアが浮かんだりもする。
ニュートンが万有引力に「気づいた」のも、(自分の台所での思いつきと並べるのはおこがましいですけど)そんなふうに、意識がウロウロしているときじゃなかったか。

翻訳に行き詰まって頭も体も固まってきたとき、立って洗い物をしながら意識をウロウロさせるのは、わたしにとってはかなり大切な、こりをほぐす時間です。

逆に意識がウロウロすることで不幸せになるのはどんなときかというと、それはもう、仕事中や勉強中に予定通りに集中できないで時間を無駄に使ってしまうとき。というよりも、無駄に使ってしまった時間にがっかりするとき。これは自分のダメな行いまたはダメな能力に対する、自分からのネガティブなフィードバックです。
それから「目の前の現実がこうじゃなければいいのに」と、不満を持っているとき。

要するにウロウロする意識が、自分のしていることや自分自身にネガティブにかえってくるとき、わたしは幸せを感じていないのです。

目の前のことに集中するのはたしかにワザのひとつではあるけど、それだけじゃないのだと思う。キリングワースさんにも教えてあげたいんだけど、わたしは以前にもここで紹介したバイロン・ケイティさんのメソッドのが、もっと包括的で手っ取り早い「幸せになる方法」だと思います。

まずは、ものごとを自分の問題か、自分の問題でないかに切り分けること。
そして自分の問題ならば、それを一歩離れて見てみる。

それから、目の前を流れていくものを全力で楽しむ。嬉しく思う。

わたしはほんとうに年取ってよかったと最近思えるようになったのは、10年前の自分よりも、ましてや20歳のころの自分よりも、今の自分のほうがずっと自分を機嫌よくしておくのが上手になてきたと確信できるからです。

単に、年とって言いくるめられやすくなってきたのかもしれませんけれど。

余計なつかえがないと、「フロー」の方向に自分を向けやすくなるのではないかと思っています。


にほんブログ村 海外生活ブログ シアトル・ポートランド情報へ

2015/06/21

機械翻訳とハワイの雨



ニューヨーク・タイムズの今月初めに掲載された「Is Translation an Art or a Math Problem?(翻訳は芸術か数理問題か?)」という記事が、翻訳者のフォーラムでも話題になってました。

この記事によると、機械翻訳の始まりは、アメリカの諜報部の科学者が第二次大戦中のチューリングマシンによるエニグマコード解読について知り、ロシア語の論文を同じように機械で翻訳できないか、と思いついたのが最初なんだそうです。
ロシア語で書かれた文書が「キリル文字で暗号化された英語の文書なんだ!」という発想に立ったのだと。

しかし1950年代のコンピュータは非力すぎ、処理できる情報量が少なすぎたためにそんな「解読」には歯が立たなかった。

機械による翻訳を使いものになるレベルで実用化するには、その言語のコンテクストを判断できる専門家が必要、というのが常識だった時代が30年ほど続いた。

そして、1988年、IBMの音声認識技術の研究者が編み出した全く新しいアプローチが、原文の言葉の「意味」を「考える」のではなく、大量の原文と訳文のデータの中から「似たもの」を拾いだしてくるという方法。
現在のグーグル翻訳もスカイプ翻訳もこの延長にあるもの。


…という背景と、現在の人間翻訳者と機械翻訳研究者の見解を少しずつ紹介してます。

More than once I heard someone at the marathon refer to the fact that human translators are finicky and inconsistent and prone to complaint. Quality control is impossible. As one attendee explained to me, “If you show a translator an unidentified version of his own translation of a text from a year ago, he’ll look it over and tell you it’s terrible.”
<「機械翻訳マラソン」(5月に開催された1週間のハッカソン)では、参加者が人間の翻訳者は気むずかしくて一貫性がない、と言っているのを一度ならず耳にした。人間の翻訳では品質管理は不可能に近いというのだ。ある参加者はこんなことを言っていた。

「翻訳者に、誰のものだかを隠してその人が1年前に翻訳した訳文を見せたら、こりゃひどい訳文だっていうに違いないよ」>

翻訳に「正解」はない。だってその証拠に英語版の『ドン・キホーテ』は20種類もある。一人の翻訳者だって迷うのに、正確さを問題にして何になるだろうか、としたあとで、この記事の著者は、しかし、少なくとも人間翻訳者は「この文章の目的はなに?」と尋ねるだろう、と書いています。
「正解」の訳だけを探す機械にとっては、誰が何の目的で書いたかなどという問題はまったく意味のないこと。

The problem is that all texts have some purpose in mind, and what a good human translator does is pay attention to how the means serve the end — how the “style” exists in relationship to “the gist.” The oddity is that belief in the existence of an isolated “gist” often obscures the interests at the heart of translation.


 < 問題は、すべてのテクストはそもそも目的を持って書かれているということだ。優れた翻訳者なら、手段が目的をどう達成するか、つまりその「スタイル」がその「要旨」とのどのような関連において必要なのか、ということに注意を払うものだ。>

…と、この記事は結んでいます。

スタイルと要旨が関連しているのは当然で、だって言語は文化そのものだから、常に時代と場所と読む人、書く人によって揺らぎが出るものです。

本来、文学作品であればその「スタイル」と「要旨」は、分かちがたくからみあっているものです。

血を流すことなく内臓を取り出すことができないのと同様、文学作品から「要旨」だけを取り出したら、それはオリジナルとはまったく別の存在になってしまう。

文学作品の翻訳に訳した人のフィルターがかかるのは当然です。

同じ日本語内でだって、たとえば『源氏物語』の現代語訳がこんなにたくさんあるのはなぜかってことになる。正解があったら谷崎潤一郎だって3度も源氏物語を「翻訳」し直してない。

「スタイル」の方でいうと、たとえば広告や広報の文章やメディアの文章では、それぞれの企業やターゲット顧客や読者層によって語りかけるスタイルが違う。たとえば「日刊ゲンダイ」と「東洋経済」と「暮らしの手帖」と「CanCam」ではそれぞれの読者に合わせた異なる言葉の体系を持っています。

いってみれば、そのテクストを読む人びとが期待する場の「空気を読む」というのがスタイルの決定には必要。そしてその空気を読むには、そこで共有されている体験を漠然とでも理解していなければなりません。

書き手が出したい雰囲気と読み手が期待する形にはある程度の「正解ゾーン」があって、それをはみ出すと妙に居心地が悪くなって意味そのものが伝わらない。
重要なのは、「正解ゾーン」は読み手と書き手の期待が作るということです。
 
 一対一の正解はないけど、常に時代や場所やいろいろな要素により揺れ動く正解ゾーンは確かにあるので、それをうまくたぐりよせるのが(人間)翻訳者の仕事。

人間翻訳者は、原文の「要旨」と「スタイル」をこれまでの経験という膨大な情報をもとに、ほとんど直感で理解しながら読み、それをまた経験をもとに、期待されるスタイルに直感的に当てはめていくわけですが、その理解に必要な情報量と処理プロセスがそっくり機械に置き換えられる日が、いつの日かやって来るのは間違いないのでしょう。



グーグル翻訳はたしかに現在の段階では人にとってかわるほどの技量は全然なくて、このニューヨーク・タイムスの記事へのコメントでも「役に立たないよ」みたいな発言が多かったけれど、 グーグルやマイクロソフトが参照する訳文・原文ペアのデータが恐ろしい量で増え続け、それと同時に人工知能の学ぶ機能が飛躍していくのは目にみえているので、たぶん私が生きているうちにかなり精度の高い翻訳マシンが完成するだろうなと思います。

大量データの中から「意味を考えず似たものを拾ってくる」というのが現行の機械による翻訳だけれど、そのうち大量のデータから「コンテクストを拾う」「意味を理解する」ということも出来るようになることでしょう。

というか人間の思考プロセスも、細分化していけば「似たものに気づく」という単位の集積なのではないでしょうか。

人間の持つ直感的な理解というのが、何と何が関連しているか、ということの細かな積み重ねだとしたら、情報量が膨大で有機的にからみあっているからまだ機械で再現はできないけれど、いつかきっと解析または模倣されるに違いないわけで、その解析が可能になる日というのはつまり機械が「直感」といえるような思考プロセスを持つ日の一歩手前。

人工知能に言語の抽象的な思考力が備わる日には、スタイルを理解でき選べる翻訳マシンも可能となる、てことですよね。逆にそれまでは出来ないってことでもあるけど。

それで思うのだけど、完全に翻訳可能な文章、ほかの言語で置き換え可能な文章というのは、背景が画一的ってことなんですね。

たとえば、ジャワ島の密林に住む部族の先祖の言い伝えを現代英語にしたら、そのニュアンスや感情や意味合いはほとんど失われてしまう。

ハワイ語には雨の名前だけで何十種類もあるというのは良く言われることです。

きわめて予測しやすい、安定したマイクロ天候が多いハワイという土地では、たとえば「マノアの谷のこのへんに降る雨」というような、局地的な雨の名前がとても多いのだそうです。
ハワイ大学の人が作った雨の名前リストがありました)

そういう雨を実際に肌に感じたことのない人の言葉に翻訳すれば、そこにある経験は決定的に失われて、もっと抽象的なものになる。

古代ハワイの人たちは「その場所に降る雨」を現代の私たちとはまったく違う受け取り方で感じ、見ていたのだと思います。

日本語だって、雨の名前はアメリカ英語よりずっと多いですよね。
こぬか雨、卯の花腐し、夕立、時雨。

『歳時記』にある言葉の多くは、もう解説なしじゃ現代の日本人には理解できなくなっている、立派な「死語」になっちゃってます。
 「端居」とか「水飯」「振舞水」なんて、今じゃさっぱりわかりませんが、その時代の人には聞いただけで一定の情景と情緒を呼び起こす、きわめて喚起力の高い言葉だったわけです。

 言葉は共通の体験に基づいたもので、情緒と論理がいっしょくたになっています。
きっとその両方のコンテクストの理解が、アートなんでしょう。




コンピュータのマニュアルやフランチャイズ店の経営方法や法律体系ならその多くが損なわれずに翻訳できるのは、それが資本主義社会とか技術とか司法という抽象世界への共通の理解と認識を前提としているからです。

これは今では当然のようだけど、考えてみれば、200年前には離れた地域に住む人がこれほど容易に相互の考えを理解し合えることはなかった。文化はもっとずっと多彩で多様で排他的で互いに相いれなかった。
「文明開化」が文化の中にブルドーザーのように平坦な場所を作って、共有の「文明」というコンテクスト、経済と科学技術のコンテクストができたから、翻訳可能な部分が広がってきた。
文明開化は同調圧力であって、それは今も進行中で、やっぱり文化はどうしようもなく全世界的にフラットになっていくしかないんだなあ、とあらためて思ってしまいました。

現時点のグーグル翻訳ですんなり通じる話は、フラットなのです、きっと。

「翻訳は数理問題かアートか」という問題の正解は「内容により、読み手により、どちらでもある」です。

その文章がどの程度のコンテクストを背後に持っているか
読み手と書き手がどの程度コンテクストを共有しているか

により、コンテクストが多ければ多いほど表に出てない情報(コンテクスト理解)を必要とし、スタイル解読と選んだスタイルでの表現という「複雑」な作業を要する「アート」の域に近くなる。

コンテクストが少なければ、またはコンテクストが両側で共有されていれば、考慮する必要のある情報量は減るから、より単純な作業になる。

 「算数かアートか」というのは、結局のところ処理している情報量の差ではないのだろうか、という気がします。 短い単純な数式なのか、高次な複雑な数式なのか。


そしてこれから発展してくる人工知能は、人々の記憶をもとにどんどん高次で複雑な翻訳をすることになる。

もう10年近く前になるのか、翻訳者のフォーラムで機械翻訳についてのトピックがあり、「私たちの仕事が機械翻訳にとって替わられる日には、ほかの多くの職業も同じ運命になっているはず」と、いささか楽観的な書き方で多くの人が納得していたのを思い出しますが、それが本当に現実として迫ってきた。カウントダウンになってきたなという感じがします。

あと20年くらいは人力翻訳が必要な時代が続いてほしいなと思うのは、楽観的すぎるのかもしれません。

「人工知能に奪われる仕事は何か」というような記事を毎日のように目にするようになりました。弁護士や医師といった仕事もそのうち置き換わるだろう、その前に中間管理職が大量に不要になるだろうといわれてます。

意外に思っているよりも早く、まずはセグメント化された高度な専門領域から、かなり精度の高い機械翻訳が完成しそうな気がします。



にほんブログ村 海外生活ブログ シアトル・ポートランド情報へ

2015/05/12

エクスマキナ、美人アンドロイド、シューベルト


5月、マロニエが咲いてライラックが咲いて、春の花がひと通り咲き終わって気づけば緑濃い初夏。
ライラックはもうそろそろ終わりです。

日も長くなって、もう9時頃まで明るいし、お天気の日が多くなって、町の人びともなんかフワフワと浮かれたように見えます。

快晴の土曜の午後。近所のスーパーに買い物に行くと、みんな午前中どこかで盛大に日焼けして来たらしく、家族そろってゆで海老のような色になっている白人ファミリーがいっぱいでした。


先日、映画『Ex Machina』を観てきました。

さいきん人工知能に関するニュースを見ない日はないようです。人工知能の第三次ブームなんだそうだ。以前にそんなブームがあったなんて、知らなかった。

80年代の第二次ブームは尻すぼみになってしまったので、今回も尻すぼみになって投入された予算がバブルが弾けるようになくなっちゃうんじゃないかなんて心配している人もいれば、2045年に「技術的特異点/シンギュラリティ」が来ると断言している人もいて、いろいろです。

そのシンギュラリティ預言者の急先鋒がグーグルのレイ・カーツワイルさん。この間NHKスペシャルにも出たそうですが、インタビュー記事が面白かった。

2045年に世界がどうなっているかというと、

人類の生物学的知性とコンピュータの人工知能を組み合わせた『人類文明の全知性』は、現在に比べて10億倍になっている。そのとき、コンピュータは血液 細胞とほぼ同じ大きさになっている。人類は脳の内部にこのテクノロジーをはめ込み、脳をクラウド上に置き、思考をさらに大きくする――

というの。

この人の発言をアブナイ科学者の荒唐無稽なトンデモ発言、的な扱いをしている記事がけっこう多いのだけど、これはきっと実現するんだろうなと、 空恐ろしくもしみじみと実感するのです。

19世紀はじめには大陸間を飛ぶ飛行機やロケットや電話が夢の話だったように、今はとてもバカげた空想物語に感じられても、あっと言う間に外堀が固まってきて、知らない間に「脳がいろいろなモノに直接つながる」日々への前段階が実現しているかもしれません。

インターネットが普及して、まだたかだか20年弱。インターネットは人間の学習方法やつながり方をかなり変えたし、考え方や感じ方、発想、意識そのものも、実際かなり変えてるはずです。

こないだ読んだ『日本のデザイン』で原研哉さんが、紙は人間の創造力の触媒となってきた、と書いてました。

「紙の触発力によって、言葉や図を記し、活字を編んでいく能動性が、人間の感覚の内にもたらされた。人間は紙に躾けられてきたのだ」と。

そういう意味では、人類はこの20年で、インターネットに、そしてこの10年でモバイル技術に「躾けられてきた」のじゃないでしょうか。

 この次の10年では、「モノのインターネット」、だけじゃなくて、「身体に埋め込む技術」がだんだんとふつうになってきて、ネットと技術が目に見えない「常にそこにある」ものになっていくのだとしても、驚くにはあたりません。そしてその先に自分以外の「知能」や「知識」との融合があっても、ぜんぜん不思議ではないと思う。その頃、人びとの感覚はまたかなり変化しているに違いありません。

機械、人工知能、そしてほかの人びとの意識とへ脳が直接つながるっていうのは、まさに『攻殻機動隊』の世界。

あと30年で実現するかどうかは疑問ですが、100年くらいのうちには実現してそうな気がする。 



そうそう『Ex Machina』の話。

この映画は 真面目な?人工知能のお話かと思って期待して見にいったら、ずっこけました。

これは「ピグマリオン物語」ではないか。
マッドサイエンティストが綺麗なお姉さんを作ってどうにかするという話。そしてそのアンドロイドとの間に起こる駆け引きの話。

このあらすじは、結末も含め、もう何度もくりかえし日本のマンガで見た気がする。

映像はとても繊細できれいだったし、主要な登場人物もキャラクターとしてはとても説得力があって素敵だったのですが。踊れる美人板前、キョウコもなかなかのキャラクター。

でもエヴァちゃんは、「新しい他者」というほどの迫力を持って描かれてはいず、これまでのロボット映画の中のどこかにきっと分類できる。

とにかく設定に突っ込みどころが多すぎて…。そんな揚げ足取りをせずに楽しめるものならそうしたいのですが。(以前観た、宇宙空間なのに重力がある映画『LOVE』とかは、「寓話」として納得することにしてそれほど抵抗なく観られたんですけど)



ひとつだけ言うなら、AIのエヴァちゃんがここまで完成しているなら、なぜおうちのセキュリティにそれを組み込まなかったんでしょうか。こんな超秘密基地に「カードキー」なんていう20世紀の技術を使うとは!

今回のマッドサイエンティストは「検索エンジンの会社の創業者で天才エンジニア」という設定なんだけど……。

現実的かどうかという意味では、『日常』というアニメの「ハカセ」と同じレベルだと思う。

(シュールなことが次々起こる「日常」を描いた変なアニメで、「ハカセ」というのは一見女子小学生、なのにちゃっちゃとアンドロイドを作ってしまう天才科学者の少女です。でもその使い道は、ロールケーキを腕の中に格納するという冷蔵庫だったりする…。)




たしかに膨大な検索データの集積は、「ラーニング」の基礎になるものかもしれない。でも、「意志」や「感覚」を持つ脳というのは、今の段階で実用化されている「人工知能」とはまたぜーんぜん次元の違うものですよね。

完全な感覚器官と連動した脳と、完璧な運動能力をもつアンドロイドを1人で作るっていうのは、いくら天才でもそれこそ人間には、どう間違っても、無理。

だってたとえば人間の「眼球」や「皮膚」だけで、感覚センサーがいくつあることか。それを仮に一つ一つ手作りできて脳につなげる技術が開発できたとしても、いったい何億時間かかるのか。

1人で作れるのは、せいぜい頑張っても「人工イモムシ」くらいじゃないかと。それでも大革命だけど。

グーグルがこないだ買った会社にはAIの先端の研究者が12名もいるそうです。

それでもまだ、ヒトはネズミの脳でさえ、(幸いなことに!)作ることはできていません(…多分!)。

でもこの映画のエヴァちゃんは 本当に可愛いので、続編を見てみたい気もします。

エヴァちゃんはとても可憐な、透明感のあるアンドロイド(本当にボディは透明だし)なので、秋葉原方面でも人気がでそうです。

こういう女の子を作ってコレクションしたいという欲望は、ヒトがヒトである限り、なくならないのでしょうか。

Jean-Léon Gérôme「ピグマリオンとガラテア」1890


この映画の主役はAIじゃなくてむしろそのような所有欲なのかもしれません。



映画の最初のほうと最後のほうの象徴的な場面で、シューベルトのピアノソナタの21番の出だしがかかります。

この天才エンジニアが1人で住む秘密基地みたいな豪邸のリビングルームでかかっている曲なのですが、この曲って第一楽章の第二主題が「鉄腕アトム」の主題歌の「空をこえて~♪」に似てるので有名です。

もしかしてアトムへのオマージュだったりして?

映画に出てくるのは冒頭の第一主題と第二主題。これから何かが始まりそうだよ~…という静かな予感を感じさせる、ざわざわするような箇所です。




この映画を見てからずっと、YouTubeでこの曲を流しっぱなしのこの頃でした。
初夏の今頃に、良く似合う曲という気がします。





ところで「エクスマキナ」で検索してみたら、なんと、士郎正宗さん原作の同名アニメ映画があるではないですか! こちらも見てみなくては。


にほんブログ村 海外生活ブログ シアトル・ポートランド情報へ

2015/02/07

イミテーション・ゲーム 心優しい人工知能





『The Imitation Game』(イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密)を観てきました。

おもしろかったです。

第二次世界大戦中、ナチスドイツが使用していた超難しくて解読は不可能と言われていた暗号「エニグマ」を解読するため、コンピュータの前身であるマシンを開発した中の人、アラン・チューリングさんのお話。

もの寂しい、美しいドラマに仕上がっていました。

以下ちょっとネタばれです。 

ベネディクト・カンバーバッチの演じる天才数学者チューリングさんは、頭は超人的に良いけれど他人のことはハナクソ同然に扱う『シャーロック』とほとんど同じ路線のキャラクターとして描かれていました。あの冷血でシャープなテレビのシャーロック・ホームズをもっと繊細にした感じ。

この映画のチューリングさん像は、人付き合いの才能がほぼ完全に欠落していると同時にきわめて繊細な神経の持ち主で、しかも同性愛者であったために後年不遇な目に遭う、孤独な人。

自分が開発したマシンに、若くして死んでしまった親友(寄宿校時代に恋心を抱いていた相手)の名前をつけて、「クリストファーは、ずいぶん賢くなって来たんだ」なんて語るような、ロマンチックなところを見せて、腐女子魂をくすぐります。

実際のチューリングさんは、もっとオープンでユーモアがあって、友人も多く、機械に名前をつけて呼ぶようなことはなかったそうですが。

同性愛が1950年代の英国では違法行為であったことは、事実。

そして、たった半世紀前にそんなことが、とちょっと今からは信じられないようですが、同性愛を治療すべき病とみなして、違反者にホルモン治療が義務付けられていたのも事実。

そしてエニグマ解読が国家機密として戦後50年間隠されていたのも事実です。

映画では、戦争が終わって10年近く経とうとしている1950年代、エニグマ解読というチューリングさん達の偉業を当然ながら何も知らないロンドンの刑事が「なんだかこの教授は怪しい。スパイじゃないのか」と、周辺を嗅ぎ回りはじめます。

そして同性愛行為で逮捕されたチューリングさんに、 いろいろ質問するのです。

その刑事にチューリングさんが答えて、エニグマ解読マシン開発の秘密を打ち明けるという形で話が進んでいきます。



話を聞いて心動かされた刑事が、マシンは人のようにモノを考えるようになるか?と質問します。

チューリングさんは、こういいます。

それは下らない質問だ。
マシンはもちろん人のようには考えることはできない。マシンは人とは違う。
マシンは人間とは違う考え方をするのだ。
興味深い質問は、こうだ。
何かがあなたと違う方法でものを考えるとしたら、それは考えていないということになるのだろうか?

 この映画に描かれた孤独なチューリングさんは、論理の通じない人間との間には心を通じさせることが出来ず、むしろ、自分が生み出した考えるマシンとの間に絆を感じているようです。

最近、特に去年ウィリアム斎藤さんのレクチャーで「技術的特異点(シンギュラリティ)」について話を聞いてからというもの、人工知能の成長具合と、マシンと人間の行く末についてとても興味を惹かれています。

ホンモノのチューリングさんは、

「機械が思考する方法がひとたび確立したならば、我らの如きひ弱な力はすぐに追い抜いて行くだろう」

と予言していたそうです。(byウィキペディア

人工知能というのは『マトリックス』に描かれたような、人間を支配するようになる底知れない恐ろしい力か、良くても冗談の通じない人のような、個性もひらめきもない味気のないもの、というイメージだったんですが、このところ、もしかして進化した人工知能は人間よりもずっと「ヒューマン」な心を持つようになるのではないかと思えてきました。

この映画でも、いじめられっ子だったチューリングが

「人はなぜ暴力に訴えると思うかね?気持ちが良いからだよ」

と同僚に言う場面があります。

本能とホルモンともろもろの身体の制約に縛られている私たち人間と違って、マシンは暴力を気持ちよいと思うことは少なくともないはずだし、自分のせせこましいエゴを満足させるために人や自分より小さなものをいじめたり、国や制度のためだと言いはって暴力手段や拷問を正当化するようなこともないはず。

人が求める愛や、ヒューマニズム、社会的平等というのが、もし、ある種の進化的な到達地点なのだとしたら、人工知能は何かの形でそれを完成させるように働くようになるのが必然、と考えることだって、できるのではないか。

人間は他者を愛することもできるけれど、残忍で、無神経で、エゴイスティックで、強欲な生きものでもあります。
でも機械には残忍さやエゴはあえてプログラムしない限り、ない。

記憶が私たちの一部であるとすれば、人工知能は人間が生み出す第二の人類、または人類のエクステンション、といえなくもない。

コンピュータの先祖であるマシンに向き合うこの映画のチューリングさんは、コンピュータの中にそんな無垢な、ちょっと天使のような存在を感じて、友情を抱いていた人として描かれていました。


にほんブログ村 海外生活ブログ シアトル・ポートランド情報へ

2014/12/05

猫と大魔神



ソファに、猫ボール発見。

りんちゃん(男子、6歳)は、わたしがそろそろ寝るよ-、とリビングを片付けて下の階に行くと、待ちかねていたようにとっとっとっと階段を降りてついて来ます。

そうして、ベッドのわたしが寝ている場所のよこのいつもの場所に落ち着く。

使わせてもらってるゲストルームのベッドはだだっ広いんだけど、ほかの猫たちが近くに来るのを彼は好まない。
でもタマラ(女子、6歳)は、いつの間にかベッドのもう一方の端でおしりをこちらに向けてひっそりと眠っています。

しんちゃん(男子、6歳)は、寝室に入ってくるとりんちゃんに追い出されるので、いつもひとりで上の階の猫タワーで眠っているのだけど、わたしが朝寝坊をしていると、いい加減に明るくなった頃降りてきて、ものすごくゴロゴロいいながら頭の横によこたわる。りんちゃんも朝は爆睡しているので手を出さない。

寝ているだけで男子2名、女子1名が寄って来るという、人生最大のモテ期な毎日です。



なぜこの猫たちはこれほどまでにヒトが好きなんだろうか。



この間、この猫たちのおとうさんがニューヨークタイムズの面白い記事を送ってくれました。

わたしたちの猫とわたしたち」(直訳)というもの。

犬が人間と暮らし始めてから3万年になるけれども、化石にのこっているところでは、猫が家畜化されたのはずっと新しくて、もっとも古いもので9500年。だから犬は人間の友になりたがるけど猫はそうでもないのもうなずけるよね、という話になりがちだけれども、ヤマネコと家猫のゲノムをくらべてみると、これが意外なほど違うんだそうです。ニューロンの発達に関するとこが違うらしい。

1万年のあいだに、ヤマネコに較べてイエネコ(または「わたしたちの猫たち」)の脳は小さくなり、野生動物だったときよりも、のんびりした性格になった。身の危険にビクビクしなくても良い比較的安全な環境で、常にごはんが出てくる生活をしているので、生存に全精力を使わなくてもよくなった結果だというのです。

「結局のところ、猫たちは私たち人間に適応してきたのだ」

とこのコラムの著者(




















にほんブログ村 海外生活ブログ シアトル・ポートランド情報へ

2014/07/13

技術的特異点と翻訳者のサバイバル <IJET その2>



IJETで参加したセミナーのメモ、つづきです。

<世界で生き残るために翻訳者がとるべきコラボレーション戦略> 齋藤 ウィリアム 浩幸さん

1日目3コマ目は、日本人の両親を持ってアメリカで生まれ育ち、ごく若い頃からエンジニアとして大成功した斎藤ウイリアム浩幸さんのセミナー。日本語での講演でした。

指紋認証システムを開発して成功し、その会社をマイクロソフトに売却した後は後進のための環境作りを目指して日本に拠点を移し、日本国のIT戦略コンサルタントとして活躍中という華々しい経歴のハイパーエンジニア。講演の後でいただいた名刺は内閣府本府参与、科学技術・IT戦略担当というものでした。

直接翻訳とは関係ない部分で、大変にエキサイティングな内容のセミナーでした。

話の中核は技術革新がいかに急速に進んでいるかということ。たとえば、現在では市場に行き渡っているスマートフォン1台のほうが、10年前のホワイトハウスのコンピュータの処理速度よりも速いとか。

めくるめく技術の世界を吉本の芸人さんさながらのテンポで次々に紹介してくれるので、まるでジェットコースターに乗っているような気分にさせられるプレゼンテーションでした。

トランジスタ、通信、ストレージ、センサーはいずれ「タダ」になる技術であること、ホットなトピックはやはり、ビッグデータ、ソーシャルネットワーク、モバイル(ウェアブル)技術、センサー応用、サイバーセキュリテイ、3Dプリンター、「モノのインターネット」であること、そして技術的特異点(シンギュラリティ)についての予測など。

人工知能が人間の脳の能力と同等になる時期というのは、早い予測では2030年、あとわずか15年。さらに、1台のコンピュータが地球上の全人類の脳を合わせた以上の能力を持つようになるのが2045年だという予測もあるそうです。この20年間のコンピュータの普及、インターネットの出現と普及、技術上の「ドッグイヤー」の加速を考えれば、充分に可能性があることと納得できます。

それは「もしかしたら」ではなく、遅かれ早かれ確実に、21世紀中に実現するだろう技術。

その時いったいどんな社会が出現するのか、誰にも見当がつかない、と齋藤さんはいいます。これほど最先端を知りつくしている人が、わからないと。

ヒトよりも賢くなったその時、コンピュータは人を幸せにするのか不幸にするのか。富の偏在を加速させるのか、是正するのか。現在ある仕事のほとんどが不要になるとしたら経済はどうなってしまうのか。社会の変化はスムースに起きるのか、あるいは世界戦争のような災厄的なイベントの引き金になるのか。

生きている間にとてつもない変化を見ることになりそうだという予感が、このセミナーを聞いていてますます強くなりました。

 先日のマイクロソフトの「スカイプ翻訳」の発表の際にも感じたのですが、翻訳業界では意外なほど技術に対する危機感が少ないようです。技術的特異点を待つまでもなく、言語サービスが職業として成り立つのはあと10年か15年くらいじゃないかと、私はごく漠然と感じます。

たしかに現行の機械翻訳はまだ実用レベルではなくて編集に余計な手間がかかるくらいですが、精度が上がっていくスピードは現在想像できる以上に早くなる気がするし、自動通訳機械みたいなものは恐らく10年くらいでかなり普及レベルになるんではないかという感じがします。

だから正直なところ、通訳翻訳業はこれからの若い人に薦められる職業ではないと感じています。

村岡花子さんが活躍した20世紀は翻訳の時代だったけれど、21世紀は人工知能の時代。情報のやりとりももっと速く、データはもっと膨大になっていく。

21世紀後半には人間という存在の捉え方そのものが変わるだろうなと思います。

そこへの移行がどのくらいゆるやかに、または急激に進むのか、固唾をのんで見守るしかありません。

 で、そんな世界で「生き残るために翻訳者がとるべき戦略」はというと、結局はテクノロジーの動向から目を離さずに取り入れながら、(今のところ)ヒトの力でしかできない事に能力を特化していくこと、でしかない、というのが結論のようです。

ルーティン・ワークやマニュアルでこなせる単純な仕事は加速度的に消滅していく世の中で、最後までヒトでなければできない仕事は何か。市場に何が提供できるか。

それを常に点検していかねばならない。市場のルールと需要は年ごと、いや日ごとに変わっていくでしょう。

これはどの業界でも同様なのだと思いますが、きわめて深刻で難しい課題です。

にほんブログ村 海外生活ブログ シアトル・ポートランド情報へ
にほんブログ村

2014/02/23

犬の脳 人の脳





犬と人間の脳をくらべた実験のおもしろい記事をよみました。

もと記事はこちら


犬(もちろんビーグルとかじゃなくて、ラブラドールとボーダーコリー、リトリーバー)11匹をMRIに入れて、ヘッドフォンで犬の声や人間の声、悲しい声や嬉しい声を聞かせて、脳のどのへんが活動しているかを見、同じ条件でMRIに入れた人間の脳の活動と比べてみるという実験をしたら、ほぼ同じ領域が反応していたという話。


MRIの中で数ミリでも動いたらやり直しになるので、犬たちをじっとさせておくために科学者たちは根気よく訓練したらしいです。さすが、3大お利口さんの犬たち。
MRIの中でじっとしてる犬たちが悶えるほどかわいらしいーーーー。
 
こういう動物実験だったらどんどんやってほしいですね。



霊長類以外の動物の脳と人間の脳の活動を比べてみたのは初めてなんだそうだ。
犬と人間が暮らしはじめてから推定1万8000年から3万2000年たつんだそうです。
随分大幅に違う推定だけど、とにかく最低1万8000年以上。

「犬は人間の感情に反応する」
なんて、犬と暮らしたことがある人には当然、「赤ちゃんはおなかがすくと泣く」くらいに自明のことだと思うけど、これが科学的に証明されるというのは、また別の話らしい。

数十年前まで、動物は「反応」するだけで人間ほど複雑な「感情」はないと主張していた科学者も多かったというし。その「感情」の定義って、一体なんなんだ。

分解すれば人間の脳で起きていることだって化学反応なのだから、多少容積と構造が違うとはいっても、哺乳類が共有している部分はかなり、あるはずだよね。

犬と人類の祖先が枝分かれしたのはおよそ9000万年〜1億年前だそうです。

上記の Current Biology 記事より。
Our findings also reveal that sensitivity to vocal emotional valence cues engages similarly located nonprimary auditory regions in dogs and humans. Although parallel evolution cannot be excluded, our findings suggest that voice areas may have a more ancient evolutionary origin than previously known.
また本研究では、音声に含まれる感情に対する感応が、犬と人間の脳でそれぞれ近似した位置にある一次聴覚野以外の聴覚野において見られることが明らかとなった。平行進化の可能性も無視はできないが、本研究による発見は、音声に反応する領域の起源がこれまで考えられて来たよりも進化上古い可能性をも示している。(試訳、用語はてきとーです)




なつかしの、ラニカイビーチ。うちの息子が中学生のとき。CT3号は変わらないけど、うちの息子はでかくなった。沖が火山活動の「VOG」で煙ってます。

科学的に証明されるのはもう少し先のことなのかもしれないけど、犬たちはたしかにヒトの言葉を理解するだけじゃなく、言葉によらないサインも恐ろしく敏感に読み取って、先回りして行動しようとしますね。たとえばCT3号は、皆が出かける支度をしていると、ものすごくそわそわして、置いてきぼりにならないように必死でドアの前に立ちふさがっていたりした。

犬とヒトの間には、たしかにお互い口にできないけど(しゃべれないから)わかってる部分があります。こんなにひたむきにヒトの出すサインを読み取ろうとする動物は、ほかにはない。(猫はそんなに人間に興味ない。)言語はなくても犬も猫もヒトに対するコミュニケーションの手段は良く知っている。耳とかしっぽとか、もう総動員で。

ごはんのお皿が空だと、皿の前に無言で座って片手で皿をひっくり返すしんちゃん(猫5歳)は、「Nah」「Yeah」「whatever」しか言わないティーンエイジャーよりも雄弁かもしれない。犬の吠え方、猫の鳴き方だって何通りもあって、それは間違いなく意味をなしている。なんかそういう人間とくらべた認知行動の研究はきっとあるんだろうけど、こうやって脳を調べてみたらおんなじでした、というのは本当になんだか、うーんそれだけ?て気がしないでもない。


3万年前の言語ってどんなだったんだろうか。
最初に犬たちに話しかけたヒトたちは、どんな言葉で話しかけたんでしょうね。





こちらもよろしく
PONDZU WORDS BOOK  (1 of 1) にほんブログ村 海外生活ブログ シアトル・ポートランド情報へ