夏に訪ねた高野山、その2。
宿坊の朝は早い。朝6時からの勤行が、お坊さまたちのメインのお仕事のひとつなんですね。
朝のお坊さまたちは、前の夜の作務衣とは違い、ぱりっとした正装の法衣をまとっていました。
勤行をするお堂は宿坊のお座敷の隣にある別棟。宿泊者もこの朝の勤行に招待されます。
「強制」ではありませんが、「ぜひともご参加ください」と、宿坊に泊まって勤行に出ないなんてありえないでしょ、という無言の了解を求められる感。
もちろん、よろこんで!参加させていただきましたよ。
お公家さんの菩提寺というだけあって、天井も絢爛豪華です。
宿泊者席は畳に正座ではなくて椅子席でした。
この正面にご住職が座って、両脇にもう二人ずつお坊さんが向かい合い、お経を上げる。
男声5名のお経は力強く、迫力満点で朗々と響き、心地良かったです。
ほんとに読経とかグレゴリオ聖歌とか、チャント系が大好きなんです。
下がり藤は、ここが菩提寺だというお公家さんの九条家の紋。
そういえばうちの実家も下がり藤だったけどちょっと違う。
空海先生の像。なぜか、大根とさつまいもと人参が供えられていました。
お坊さんたちが座ってお経を上げる中央ステージみたいなとこ(なんというのか、名前はあるのだろうけど)の回りに、空海先生像はじめ、各種如来像、菩薩像、不動明王像などが飾られ、そのまわりにたくさんの位牌が置かれています。
高野山では大根や芋を立てて供えるのが伝統らしい。
なにか意味があるのか聞いてみたけど、伝統だというだけで教えてくれませんでした。
きっと、かんたんにあかせない秘密があるに違いない(違?。
歓喜天/聖天という天部の神様が大根好きという話がウィキに載っているけれど、真言宗と関係あるのかどうかわかりません。
ものすごく恐ろしい形相のブラックな不動明王様。
ここは、部屋全体が大きなお仏壇のようなものなのだな。と思いました。
部屋に戻ってすてきな朝食(またお坊さんが上げ膳据え膳してくれる)をとったあと、ご住職(でいいのかな)が指導する阿字観瞑想というのに参加しました。
瞑想以前に、半跏坐ができなくてがっくり。
あれは、足の太い人にはできないのではないか。
と思ってご住職に「一生できる気になりません」と弱音を吐いたら苦笑された。
ご住職はみやびで知的な、大学教授みたいな感じの方だった。いかにも京都の方、という物腰。お公家さんの家筋なのかしらー。
瞑想セッションから戻る途中で、お庭のわきに神棚を発見。
お寺の境内に神社があるのは見たことがあるけど、お寺の(宿坊だけど)内部に神棚があるとは思わなかったのでびっくり。
天照大神の御札が貼ってありました。
ちょうどご住職が通りかかったので聞いてみると、
「さあ誰が貼ったのやら、どの神社の御札かわかりませんけど、真言宗では大日如来と天照大神は同じと考えております」
と、やわらかな関西弁で答えてくれた。
おおお。本地垂迹ってやつ!
わたしこの考え方は大好きです。神の名前や現れ方はその場所でいろいろに変わる、というの。
とても実用的だと思うし、信仰のあり方としてとても前向きじゃないかと思う。
原理主義の人にはもうとても我慢できない考え方だと思うけれど。
神と仏のどちらが正しいとかいう問題じゃなくて。
あらゆる存在は、名前も、あり方すらも、その場その場で必要に応じて変わるものだと思うので。
力や個性も、時と場と相手を得てゆるやかに、時には激しく変わっていくもの。
人も。神々も。植物も、鉱物も、惑星も、恒星も、宇宙も。
だってすべては空であり色でもあるとブッダ先生も言っているではないですか。
仏教の先生や神道の先生からしたら、ちょっと曖昧すぎる解釈なのかもしれませんが。
あっ、念のため、私はキリスト教徒ですよ!教会の人からみたら、かなり道に迷った間違ったクリスチャンだと思うけど。
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