先日、ボランティア公園のシアトル・アジア美術館に「NEO POP」展を見に行ってきました。4月5日まででした。
日本人アーティスト「Mr」の展覧会。 入り口から、もう萌えてます。
左側の帽子をかぶった男の子キャラはファレルだそうです。
ビデオでコラボレーションをしておられる。
展示室の入り口に突然あるのがこのゴミの山。
ああ、なんかこのカオスは見覚えがあるよ。というのが、第一印象。
ウチの弟Aの部屋が少しこんな感じだったし、ほかにもこういうカオスの部屋は何度か見たことある。
解説には、このインスタレーションは「東日本大震災にインスピレーションを得た」と、ありました。
A reminder of the debris that blanketed the Tohoku area in the aftermath of 3.11 tsunami and earthquake, the installation embodies the post-disaster fear and frustration of the Japanese people since the catastrophic events.
(3月11日の津波被害により東北地域を覆った瓦礫を思わせるインスタレーションは、この天災の後に日本の人びとの心に長くのこる恐れとフラストレーションを体現するものなのです)
ううううーん、そう?
私はこのインスタレーション自体は面白いと思ったけど、大震災にそういう形で直結させちゃうのはちょっとどうなの?やや安直じゃないの?と思わずにいられませんでした。
だってこの部屋、見たことあるもの、昭和の末に。
震災うんぬんは後付けじゃないかと思うなあ。分かった気になってもらいやすい説明、て気がするんですけど。
むしろこのカオスは「数十年来の、僕の頭の中の状況です」って言うほうが、迫力あると思うんですけど。
このカオスは、天災を再現しようというものとは感じられないのです。
形あったものが天災でひっくり返された、という状況ではない。
だんだんに増えてきたモノが収集つかなくなって崩れてしまった、というさまに見えます。
自分の中に前から巣食っていたものが、震災を機に、明るいところに出てきてしまいました。という意味なのだったら納得できる。
そしてこの汚部屋、カオスは、たぶん昭和の日本に生きた人の中には、程度の差はあれいくらかずつは埋め込まれているのではないかと思うのですよ。
天災に対してではなくて、もとからあったこの片付けようのないカオスにいいようのないフラストレーションを感じる。
でもそのイライラさせるところが素直に面白かった、インスタレーションでした。
この風景も見たことがある。昭和の悪い夢の中でw
ところどころにある三文印鑑のケースは、匿名性というか、だれにでも所有可能であること、または無名性、の象徴ってことなのかしら?
このMr.という人の名前は、この展覧会について知るまでまったく聞いたことなかったのですが、村上隆氏の「お弟子さん」で、最近注目されてるのだそうです。
美術館での単独の展覧会はこれが初めて。
ほかの作品は「大きなパネルに描かれた、とても良くできた萌え絵」でした。
アニメな女の子のキャラはすごく可愛い。可愛さに隙がないけど間が抜けててイノセントで元気はつらつ。
非常に優秀で洗練された萌えキャラです。
しかしこの画面への情報の盛られ具合には、冒頭のインスタレーションと同じような圧迫感があります。
昔の雑誌の表紙のような体裁のこの2つのパネル絵にも、よく見ると脈絡のない看板だとか80年代的なロゴだとかが隙間のないほどに盛られている。
あのインスタレーションのゴミの山と同じような、たまりにたまって捨てられないでいる消費物、シンボル、標識、標語、意味のない情報の数々。
主役の女の子は可愛くてキラキラしているのだけど、その世界を構成しているのはなんだかとてもドロドロしたカオス。
たしかにこれは日本の「カワイイ」の世界です。日本のバラエティ番組のよう。
ハイパーで明るくて、この閉じた文脈の中では完璧に洗練されていて、何もかも予定調和の中にきれいに着地していて、水も漏らさないほど完成されているのだけど、中身はからっぽ。
この「からっぽ」こそ、でも、「カワイイ」の正体なんだなと思ったのです。
会場でもらったパンフに、「カワイイと萌え」についての解説がありました。
<シュールレアリスム運動のリーダーであったアンドレ・ブレトンがアーティストたちに対して無意識を解放せよと奨めたように、Mr.のメンターである村上隆はMr.に「可能な限り本当の自分自身に近づいて」作品の中に複雑な心理を解放するよう奨めました。>
<「キュー ト」という意味の「カワイイ」は、日本のポップカルチャー、特にマンガやアニメにおいて中心的位置を占めます。本展で展覧しているMr. の一連の近作は、日本のポップアートにおけるカワイイを「萌え」という新たな次元へもたらすものです。Mr.が表現する「萌え」な少女たちは、プラ トニックな理想像であり、従来的な感覚でのエロスではなく、思春期の少女のイノセンスに向けられた誇張されたファンタジーを体現しています。フィクション の可愛らしいキャラクターが表現する「萌え」は、若さや若々しい活力への希求を物語っています。これは日本の若者のサブカルチャーが生んだ概念であり、ファン タジーとバーチャル体験を重視し、権威、社会が期待するあり方、あるいは政治的な活動などに反抗する姿勢をあらわしています。>(拙訳)
温泉街で草間彌生の水玉カフェに行き、そのあとグラバー由美子さんの個展を見て以来、「カワイイ」と「萌え」についてずっと考えているんですが、カワイイや萌えが権威への反抗(rebellion)というこの解説はピンと来ませんでした。
ヲタク青年たちを思い浮かべると、それは「反抗(rebellion)」というような積極的な態度ではなくて、関与を拒否(refuse)または無視(ignore)くらいではないか、と最初思ったのですが、カワイイの主人公である少女たちについて考えてみると、「からっぽ」であること、あくまでも上っ面だけの存在(カワイイだけ)に徹すること、というのは、権威の否定といえばいえる。
これまでの社会、従来の規範が要求する「ナカミ」の重要性を否定すること、ナカミなんて意味がなくなるほど上っ皮が圧倒的に完成されていること。
期待されている「ナカミ」というのは、社会の文脈に従った成長ということ。カワイイというのはそんな期待どおりの成熟を拒否することが前提になっていて、従来の価値観をすべて(すくなくともその一瞬)チャラにすることができるカードなのだな、とも思ったのでした。
ゲームのほかのルールをすべて無効にしてしまう、ジョーカーのようなカード。これを出すと、それまでの世界がぐらっと変わってしまうのです。
その力は本質的には「エロス」であるはずなんだけど、そうストレートにはいかないのがカワイイの世界。
驚いたことに、ドーナツを頭につけた女の子たちが見にきていました。
なにかのコスプレ、なのか、オリジナルなのか不明ですが、全身萌え萌えでした。
この展示は、Mr.が作った短編映画『誰も死なない』に使われた衣装。
この映画は会場で上映中だったものの、席がなかったのでちょっとだけ見て出てきてしまいました。
男性アーティストが「女性美」を描いた作品には19世紀のものからこの「萌え」に至るまでイラっとさせられることが多いです。が、それはまた別の機会に。