夏目漱石先生の『満韓ところどころ』という旅行記を読んでいたら、こんなくだりがあった。
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一時間の後佐治さんがやって来て、夏目さん身をかわすのかわすと云う字はどう書いたら好いでしょうと聞くから、そうですねと云ってみたが、実は余も知らなかった。
為替の替せると云う字じゃいけませんかとはなはだ文学者らしからぬ事を答えると、佐治さんは承知できない顔をして、だってあれは物を取り替える時に使うんでしょうとやり込めるから、やむをえず、じゃ仮名が好いでしょうと忠告した。
佐治さんは呆れて出て行った。後で聞くと、衝突の始末を書くので、その中に、本船は身をかわしと云う文句をいれたかったのだそうである。
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漱石先生の小説を読んでいると、けっこうな数の「表記ゆれ」があります。
このくだりでも、満州に向かう船の上で、ニアミスの事故の報告を書こうとした船会社の偉い人が、高名な作家が乗り合わせているからといってわざわざ漢字を聞きにくるのに、この答え。
完全に当て字と思われる独創的な漢字の使い方もあるし、なんだかずいぶん自由だなという印象です。
たとえば「成功」が「成効」、「練習」が「練修」、「簡単」が「単簡」、「悲惨」が「悲酸」になっていたり。
世間一般に流通している表記とはちょっと違うかもしれないが、字面で意味が取れれば別にいいじゃないか、という鷹揚さを感じます。
「言文一致体」の開発が途上だった明治の文人たちは、文章を書くたびにかなり自由に表記を自分で考案していたみたいです。
もっとさかのぼって江戸の木版画とか見ると、もうどれが当て字でどれが当て字でないのかすら不明みたいな、やたらにクリエイティブな漢字の使い方オンパレード。
この漢字はこう、送り仮名はこれ、と、きっちり決められるようになって四角四面な傾向が強くなってきたのは常用漢字表ができた大正以降なんでしょう。
文部省の「臨時国語調査会」が漢字表を作ったのが大正12年だそうです。
常用漢字表を作ろうという動きがあったという事自体、それまでの表記がてんでんばらばらだったという証拠ではないか。
あまりにも当て字が多くて、お役所その他で混乱を避けるためというのが目的だったのでしょうが、戦後は新聞はじめ、一般的な出版物でも、さらには広告や文芸の世界も、漢字や送り仮名や表記には「正解」があるという態度がだんだん徹底してきたのだと思う。
東京で小さな広告の会社につとめていた20代のころ、コラムでもコピーでも、出版物に載せるものは共同通信社の『記者ハンドブック』にしたがって書けと厳しく指導されました。新聞や雑誌ではほとんどの熟語や送り仮名に「正解」がありますね。
でも日本語はもとより表記ゆれを内包している言葉。
日本では外来語を取り入れるときに漢字とカタカナという便利なものを活用してきたがゆえに、外来語が入ってくるたびに必然的に訳語と表記のゆれが起こります。
computer は「電算機」なのかコンピューターなのか。だけではなくて、「コンピュータ」なのか「コンピューター」なのか。
customer は「顧客」なのか「お客様」なのか「客」なのか、または「カスタマー」なのか「カストマー」なのか。
翻訳の作業は時に、半分以上がこの表記ゆれの解消と訳語統一ではないかと感じることさえあります。
クライアントさんによって、User が「ユーザー」だったり「ユーザ」だったり、diamond が「ダイヤモンド」だったり「ダイアモンド」だったり、violin が「ヴァイオリン」だったり「バイオリン」だったり、好みが違います。
日本語の表記に関しても、「出来る」なのか「できる」なのか、「わかる」なのか「分かる」なのか、「時」なのか「とき」なのかなどなどなどなど。
もーどっちでもいいじゃん!と内心ちゃぶ台をひっくり返したくなることもあるけれど、確かにすべて統一されているところに1つだけ(もしくは、「ひとつだけ」または「一つだけ」)違う表記があるのは見苦しい。いつもはうっかり見のがしてしまっているくせに、ユーザーとして(もしくは、「ユーザとして」)企業のサイトなどで目立った表記ゆれに気づくと、おやおや?と思ってしまいます。
クライアントさんの指示がはっきりしていれば良いのですが、既存の訳がなくてこちらからサジェスションを出さなければならない時は少々緊張します。あとから「やっぱりこっちの方がよかった!」と思うこともしばしばで、あの時はこっちが良いと思ったけどこの場面ではこちらの方に心惹かれる…と、ふらふらと優柔不断な自分が嫌になる。
一番困るのは、エンドクライアントさんからの明確な指示がなく、途中までいろんな翻訳者さんが訳してきた訳語の表記がバラバラのものが壮大に入り混じっている案件。
実際に、大きなファイルでちぐはぐな訳語が混在しているのは何度かありました。翻訳メモリを使っていても、なかなかすべて統一するのは難しい。
逆に統一してしまうと変な文章になってしまう場合もあるし。
そして間に入っているエージェントのコーディネーターさんが日本語を読めない人の場合は、説明しても100%伝わらないのがもどかしい。
英語にも米語とイギリス英語でスペルが若干違うとかはあるけれど、これほどたくさんの微細な表記ゆれには悩まされないはず。もちろん訳語自体のゆれは別の話ですが、それでも全体に選択肢は少ない。
こうしてみると、日本語という言葉は懐が深くてなんでも吸収する柔らかさがある一方で、出来上がりの作物にはすべてにおいてミリ単位の完璧さを期待する文化があるのが面白いですね。
クライアントさんからお預かりしている文章で明治の文豪のマネをするわけにはいかないので、最善と思われるスタイルを統一させていくのが、いち翻訳者の仕事でございます。
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