5月、マロニエが咲いてライラックが咲いて、春の花がひと通り咲き終わって気づけば緑濃い初夏。
ライラックはもうそろそろ終わりです。
日も長くなって、もう9時頃まで明るいし、お天気の日が多くなって、町の人びともなんかフワフワと浮かれたように見えます。
快晴の土曜の午後。近所のスーパーに買い物に行くと、みんな午前中どこかで盛大に日焼けして来たらしく、家族そろってゆで海老のような色になっている白人ファミリーがいっぱいでした。
先日、映画『Ex Machina』を観てきました。
さいきん人工知能に関するニュースを見ない日はないようです。人工知能の第三次ブームなんだそうだ。以前にそんなブームがあったなんて、知らなかった。
80年代の第二次ブームは尻すぼみになってしまったので、今回も尻すぼみになって投入された予算がバブルが弾けるようになくなっちゃうんじゃないかなんて心配している人もいれば、2045年に「技術的特異点/シンギュラリティ」が来ると断言している人もいて、いろいろです。
そのシンギュラリティ預言者の急先鋒がグーグルのレイ・カーツワイルさん。この間NHKスペシャルにも出たそうですが、インタビュー記事が面白かった。
2045年に世界がどうなっているかというと、
「人類の生物学的知性とコンピュータの人工知能を組み合わせた『人類文明の全知性』は、現在に比べて10億倍になっている。そのとき、コンピュータは血液 細胞とほぼ同じ大きさになっている。人類は脳の内部にこのテクノロジーをはめ込み、脳をクラウド上に置き、思考をさらに大きくする――」
というの。
この人の発言をアブナイ科学者の荒唐無稽なトンデモ発言、的な扱いをしている記事がけっこう多いのだけど、これはきっと実現するんだろうなと、 空恐ろしくもしみじみと実感するのです。
19世紀はじめには大陸間を飛ぶ飛行機やロケットや電話が夢の話だったように、今はとてもバカげた空想物語に感じられても、あっと言う間に外堀が固まってきて、知らない間に「脳がいろいろなモノに直接つながる」日々への前段階が実現しているかもしれません。
インターネットが普及して、まだたかだか20年弱。インターネットは人間の学習方法やつながり方をかなり変えたし、考え方や感じ方、発想、意識そのものも、実際かなり変えてるはずです。
こないだ読んだ『日本のデザイン』で原研哉さんが、紙は人間の創造力の触媒となってきた、と書いてました。
「紙の触発力によって、言葉や図を記し、活字を編んでいく能動性が、人間の感覚の内にもたらされた。人間は紙に躾けられてきたのだ」と。
そういう意味では、人類はこの20年で、インターネットに、そしてこの10年でモバイル技術に「躾けられてきた」のじゃないでしょうか。
この次の10年では、「モノのインターネット」、だけじゃなくて、「身体に埋め込む技術」がだんだんとふつうになってきて、ネットと技術が目に見えない「常にそこにある」ものになっていくのだとしても、驚くにはあたりません。そしてその先に自分以外の「知能」や「知識」との融合があっても、ぜんぜん不思議ではないと思う。その頃、人びとの感覚はまたかなり変化しているに違いありません。
機械、人工知能、そしてほかの人びとの意識とへ脳が直接つながるっていうのは、まさに『攻殻機動隊』の世界。
あと30年で実現するかどうかは疑問ですが、100年くらいのうちには実現してそうな気がする。
そうそう『Ex Machina』の話。
この映画は 真面目な?人工知能のお話かと思って期待して見にいったら、ずっこけました。
これは「ピグマリオン物語」ではないか。
マッドサイエンティストが綺麗なお姉さんを作ってどうにかするという話。そしてそのアンドロイドとの間に起こる駆け引きの話。
このあらすじは、結末も含め、もう何度もくりかえし日本のマンガで見た気がする。
映像はとても繊細できれいだったし、主要な登場人物もキャラクターとしてはとても説得力があって素敵だったのですが。踊れる美人板前、キョウコもなかなかのキャラクター。
でもエヴァちゃんは、「新しい他者」というほどの迫力を持って描かれてはいず、これまでのロボット映画の中のどこかにきっと分類できる。
とにかく設定に突っ込みどころが多すぎて…。そんな揚げ足取りをせずに楽しめるものならそうしたいのですが。(以前観た、宇宙空間なのに重力がある映画『LOVE』とかは、「寓話」として納得することにしてそれほど抵抗なく観られたんですけど)
ひとつだけ言うなら、AIのエヴァちゃんがここまで完成しているなら、なぜおうちのセキュリティにそれを組み込まなかったんでしょうか。こんな超秘密基地に「カードキー」なんていう20世紀の技術を使うとは!
今回のマッドサイエンティストは「検索エンジンの会社の創業者で天才エンジニア」という設定なんだけど……。
現実的かどうかという意味では、『日常』というアニメの「ハカセ」と同じレベルだと思う。
(シュールなことが次々起こる「日常」を描いた変なアニメで、「ハカセ」というのは一見女子小学生、なのにちゃっちゃとアンドロイドを作ってしまう天才科学者の少女です。でもその使い道は、ロールケーキを腕の中に格納するという冷蔵庫だったりする…。)
たしかに膨大な検索データの集積は、「ラーニング」の基礎になるものかもしれない。でも、「意志」や「感覚」を持つ脳というのは、今の段階で実用化されている「人工知能」とはまたぜーんぜん次元の違うものですよね。
完全な感覚器官と連動した脳と、完璧な運動能力をもつアンドロイドを1人で作るっていうのは、いくら天才でもそれこそ人間には、どう間違っても、無理。
だってたとえば人間の「眼球」や「皮膚」だけで、感覚センサーがいくつあることか。それを仮に一つ一つ手作りできて脳につなげる技術が開発できたとしても、いったい何億時間かかるのか。
1人で作れるのは、せいぜい頑張っても「人工イモムシ」くらいじゃないかと。それでも大革命だけど。
グーグルがこないだ買った会社にはAIの先端の研究者が12名もいるそうです。
それでもまだ、ヒトはネズミの脳でさえ、(幸いなことに!)作ることはできていません(…多分!)。
でもこの映画のエヴァちゃんは 本当に可愛いので、続編を見てみたい気もします。
エヴァちゃんはとても可憐な、透明感のあるアンドロイド(本当にボディは透明だし)なので、秋葉原方面でも人気がでそうです。
こういう女の子を作ってコレクションしたいという欲望は、ヒトがヒトである限り、なくならないのでしょうか。
Jean-Léon Gérôme「ピグマリオンとガラテア」1890 |
この映画の主役はAIじゃなくてむしろそのような所有欲なのかもしれません。
映画の最初のほうと最後のほうの象徴的な場面で、シューベルトのピアノソナタの21番の出だしがかかります。
この天才エンジニアが1人で住む秘密基地みたいな豪邸のリビングルームでかかっている曲なのですが、この曲って第一楽章の第二主題が「鉄腕アトム」の主題歌の「空をこえて~♪」に似てるので有名です。
もしかしてアトムへのオマージュだったりして?
映画に出てくるのは冒頭の第一主題と第二主題。これから何かが始まりそうだよ~…という静かな予感を感じさせる、ざわざわするような箇所です。
この映画を見てからずっと、YouTubeでこの曲を流しっぱなしのこの頃でした。
初夏の今頃に、良く似合う曲という気がします。
ところで「エクスマキナ」で検索してみたら、なんと、士郎正宗さん原作の同名アニメ映画があるではないですか! こちらも見てみなくては。