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2016/06/28

謎の鹽竈神社(奥の細道/塩竃)

仙台からクルマを借りて三陸方面へ向かう途中でまず、鹽竈神社へ。

陸奥の国一の宮。

鹽竈(しおがま)って、書くのはおろか読めませんでした。画数いくつあるんだ!
常用漢字だと「塩釜」。 鹽竈と塩釜では、たしかにまったく違いますね。漢字の世界は奥深い。


ここの表参道は直登202段だそうです。両側はこんもりとした檜の森。
時代劇にそのまま使えそうなたたずまいです。


でも、ピラミッドとは違ってウェルカムな階段、のような気がする。ここはそんなに怖くありませんでした。

とはいえ、自分が足を踏み外し下まで一気に後ろ向きに落ちていく金田一耕助の冒険に出てきそうな映像が一瞬、脳裏をよぎりはした。


遠足か修学旅行の生徒たちが来てました。こわごわ降りる女子中学生。うん、降りるほうが恐いよね。



途中3回休んで息を整えようやく頂上に。これは狛犬のようだが、うちの息子です。


てっぺんから見たところ。


松尾芭蕉先生は『奥の細道』の旅でここに立ち寄っています。

「国守再興せられて、宮柱ふとしく、彩椽きらびやかに、石の階九仞にかさなり、朝日あけの玉がきをかがやかす。かかる道の果、塵土の境まで、神霊あらたにましますこそ、吾国の風俗なれと、いと貴けれ」

都から見れば「かかる道の果、塵土の境」であったにもかかわらず、神社のサイトによると、平安時代にすでに朝廷から手厚い祭祀料をもらっていたのだそうです。



いつ頃のものか説明はなかったですが、狛犬?獅子?像が素晴らしい。
なんだこの歯!!
眉毛がぐるぐるしてるし!
なんというか親しみやすい顔です。
ていうかうちの息子にやっぱ似てるかも!

肩幅ががっちりしていて肉付きがよろしい。


後ろ姿も素敵。ドーナツのような巻き毛がチャーミング。
チャイナな感じが漂っています。いったいどんな人が造ったんだろう。


ちょうど、神前結婚式が始まるところでした。
 

絵巻物のようです。なんと素敵なタイミング。


拝殿できりりとした巫女さんが新郎新婦を迎え、神主の横で鈴を振って儀式を執り行っておられました。


いかにも港町の神社なのだからか、「献魚台」というものが別宮の前に。

実は正面にある拝殿ではなくてこちらの別宮のほうが主祭神なのだそうです。

神社のウェブサイトが面白い。いろいろ謎の多い神社みたいです。

江戸時代まで祭神がはっきりしていなかったとか、破格の祭祀料を受けていたにもかかわらず、全国の格の高い神社リストである『延喜式』神名帳というものに記載されていなかったとか。

「国家的に篤い信仰を受けていたにも拘わらず『延喜式』神名帳にも記載されず、その後も神位勲等の奉授をうけられていないというこの相反する処遇はどう解すべきなのでしょうか」

と、神社のサイト自ら「謎」として問いかけています。

日本国の伊勢神宮とかそういう系統の神社とはまた全然関連のない神社であり、都からすれば僻地にありながら、異常なまでの存在感をはなっていた神社だったということなのでしょう。


大祓のための「形代」が置かれてありました。


本当はこちらがメインの拝殿であるという「別宮」。
主祭神は「鹽土老翁神」。寡聞にして聞いたことのないお名前でした。

「『古事記』『日本書紀』の海幸彦・山幸彦の説話に、釣り針を失くして困っていた山幸彦に目無籠(隙間のない籠)の船を与えワダツミの宮へ案内した事で有名ですが、一方博識の神としても登場しています」

だそうです。日本のポセイドンともいうべき、海の神なのらしい。


主拝殿のうしろに石庭があり、そのさらに後ろには本殿が。
こちらは朱塗りではなく「素木造檜皮葺」の落ち着いた造りです。


朱塗りの門とがっしりした狛犬さんの後ろ姿。素敵。なにもかも行き届いている感でいっぱい。清潔なお社。


この手拝殿の右側にあるのが、芭蕉の時にも既にあり、『奥の細道』に

「神前に古き宝燈あり」「五百年来の俤、今日の前にうかびて、そぞろに珍し」

と書かれている宝燈です。


門と拝殿の間に、すごい桜の老木がありました。

境内は塩竈桜という種類の桜の名所でもあるそうです。

古風でおおらかな感じがとても素敵な神社です。

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2014/04/10

ジャクソン通り アフターアワーズ


ここのとこ数週間の仕事が一段落してほっとしてます。スケジュールはちょいきつかったけど、すごく楽しいお仕事でした。またご縁があると良いなー。


さて、先月で、1年半ほど続けさせて頂いたSoy Source の連載を、しばらくお休みさせて頂くことにしました。
ちょっと立て続けにきついスケジュールの仕事が来ていたのと、色々ほかに片付けたいことが山積みになっているので、先にその長いリストに取り組まないことには。

もともと学校で歴史を専攻したわけでもなく、何のクレデンシャルもない者がぽっと思いつきで始めたものですから、始めてみて大汗。
毎回毎回、試験前夜の付け焼き刃の詰め込み勉強のようでした。資料を読み込んだりあっちこっち行ってみたり、しかしそんな機会でもなかったら手に取らなかった本にも出会えたし、考えてもみなかったことを深く調べてみるきっかけになって、自分的にはとても面白かったです。

間違っていたら後からこっそり修正できるブログ記事と違って、刷っちゃったらそれっきりの印刷物の緊張感も、文字数制限があるのも久々で、なかなか良かったです。

最後の回は、『Hotel on the Corner of Bitter and Sweet』(邦題『あの日、パナマホテルで』)を読んで以来ずっと気になっていた、ジャクソンストリートのジャズシーンについて。

この本をとっても参考にさせて頂きました。

 
 

Jackson Street After Hours (Paul De Barros著)。
1993年出版の本ですが、ペーパーバックも出てます。
(アマゾンのこの本のページには、やっぱり、「この本を見た人はこの本も見ています」に 『Hotel on the Corner of Bitter and Sweet』が。あの小説を読んだら、ジャズ最盛期のジャクソンストリートについてもっと知りたくなるはずです!)

というか、『Hotel on the Corner of…』の作者、ジェイミー・フォードさんも、小説世界を描くにあたって、きっとこの本を参考にしたのは間違いないと思う。
この表紙のピアニストが、シアトルジャズ界の超大物、オスカー・ホールデン。

ナッシュビルで生まれ、ミシシッピ河のリバーボートでルイ・アームストロングと共演していたこともあったという人で、シアトルを訪れるミュージシャンや後進の若者たちにもとても慕われていた、「長老」といった立場の人格者だったようです。

『Hotel on the Corner of…』では、主人公のヘンリーとケイコが路地裏からジャクソンストリートのクラブ「Elks Club」のライブを見ようと忍び込み、オスカー・ホールデンに出会って、特別に店内に入れてもらい、生きた音楽に圧倒されます。
ケイコの家族が収容所に送られ、それぞれ別々の人生を送って年老いたヘンリーとケイコを半世紀の後に結びつけるのも、そのオスカー・ホールデンの幻のレコード、という設定。

この小説の魅力の1つは、チャイナタウンと日本町、そしてジャズ・クラブの並ぶジャクソンストリートという、同じ町内に共存していながら決して交じることのなかった、でも微妙に反応しあっていたに違いないコミュニティが、ケイコの家族、ヘンリーの家族、ヘンリーの友人の黒人ミュージシャン、という3つの視点から描かれているところ。(そしてシアトル住人にとっては、舞台となる実在の通りや建物を立体的に感じられること)。

『Jackson Street After Hours』は、シアトル創設期から「スピークイージー」全盛の禁酒法時代を経て戦中戦後のジャズ黄金期、そしてその後現在に至るまで、シアトルのジャズ史に足あとを残したミュージシャンやクラブを丹念に追ってます。

禁酒法の時代には、ジャクソン通り近辺だけではなく、街の中心を外れた街道沿いにかなりおおっぴらな「スピークイージー」と呼ばれる隠れ酒場があって、もちろんジャズのバンドが夜中過ぎまで演奏していたとか(レイクフォレストパークのあたりに、繁盛店があったそうです)。

禁酒法時代の酒場、スピークイージーはたびたび警察の手入れを受けたものの、ほとんどお目こぼし状態だったのに、まるでニューヨークの「コットンクラブ」のような人気店だった店の黒人オーナーのみが実刑を受けて刑務所に送られたとか。本人も歴史家も、そのオーナーが当時白人しか住んでいなかった住宅街(マウントベイカー)に家を買ったために、白人エスタブリッシュメントの怒りを買ったのだと信じていたとか。

黒人ミュージシャンが演奏できる店と白人の店は暗黙の了解ながらはっきりと分かれていて、ダウンタウンにあった大きなクラブの舞台は白人ミュージシャンのみだったとか。
白人ミュージシャンと黒人ミュージシャンの組合が統合されたのはやっと1958年になってからだったとか。

サードストリートの、今のベルタウンのあたりには、5000人を収容できる大きなジャズホールがあって盛況だったのだ、とか。

そんな話が満載の労作です。




(これは現在のベルタウンの唯一のジャズクラブ、Jazz Alley前)。

今ではもう、ジャクソン通りにはジャズの店はかげも形もなく、あるのはベトナム料理店や中国マーケットばかり。

でもシアトルのジャズの伝統は、音楽そのものがロックンロールやポップスに追われて隅っこのほうに場を占めるようになってからも脈々と続いてます。

シアトルに来て1年め、息子の進学関連でルーズベルト高校に用事があって行ったとき、たまたま、学生のジャズアンサンブルが音楽室(とても立派)でプチ演奏会をしているのに行き当たって、本当にぶったまげた。これ高校生? なにこの学校??? 普通の公立だよね? と頭がクエッションマークでいっぱいになった。しばらく後で、このルーズベルトとガーフィールド(クインシー・ジョーンズとジミヘンの出身校でもある。ジミヘンは卒業しなかったけど)高校というのは長年、全米の大会で毎年優勝争いをしているほどジャズに力を入れてることを知ったのでした。 
 
今でもこの2校は、才能ある音楽家を送り出してます。

シアトルは、こんな国の端っこにあるにも関わらず、何か図抜けた人が出てくる確率が高いようです。 「水に何か入っているに違いない」って話も(笑)。私は、きっと火山のせいだと密かに思ってます。
 


これは去年、ジャズ・アレイに見に行った、パット・マルティーノのバンド。

サックスはジェームズ・カーター。シアトルの人たちじゃありませんけど。

まるで銀行家のように冷静で正確でストイックなギターと、飛んだり跳ねたり踊ったりのサキソフォンの会話が、かっちりいきいきしたリズムに乗ってて、めちゃめちゃカッコよかったです。
パット・マルティーノさんはCDで聴いた分にはあまりぴんと来なかったんだけど、ライブで聴いたらとんでもなくすごかった。

来週はバラードで小さなジャズ祭りがあるもよう。行けたらちょっと覗いてみたいです。




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2014/02/28

バラードの北欧博物館




Nordic Heritage Museum (ノルディック・ヘリテージ・ミュージアム)に行ってきました。

北欧タウン、バラードのご町内にある。うちから車で5分もかからなかった!

この界隈に4年半住んでいて、今まで行ったことがありませんでした。
住宅街の真ん中にぽつんとある建物。

あまりにほかに何もない場所なので、グーグルマップを何度も見直してしまいました。



昔は小学校だったそうです。20世紀初頭につくられた重厚な建物でした。




いきなり塀にバイキングが登場。  


こちらが正面入口でした。スウェーデン、ノルウェー、デンマーク、フィンランド、アイスランドの5カ国からの移民の歴史を振り返り、功績をたたえ、北欧の芸術や文化を理解してもらおうという趣旨。

3階建ての建物に常設展示とアートギャラリーが入っていて、かなり充実の内容。


建物は地味ながら、なかなか活発に活動してるミュージアムです。
数年後にはバラードのダウンタウンに新しいビルを建てて転居すべく、ただいま資金集め中。もう土地は買ってあるそうです。




1階の展示『Dream of America』は、19世紀の北欧諸国の農民の厳しい暮らしの紹介から、船旅のようす、アメリカに着いてからのやっぱり厳しい暮らしのようすを立体展示。

アメリカに移民が押し寄せた19世紀、北欧の農村の生活の貧しさは、同じ時代の明治日本の、女工哀史の農村と同様。まだ社会保障もなにもない時代ですものね。

家畜小屋の片隅に作られた粗末な寝床の展示があって、説明には

「きみがもし10歳で、この時代に生まれていたら、他人の家の家畜小屋に住み込んで働かなくちゃいけなかったかもしれないよ」

なんていう感じのことが子ども向けに書いてあった。

新世界へ移民することだけが、食べるものにも事欠く貧しさから脱出する、唯一の望みだった。とはいえ何人もの子どもを連れて移民するのには、莫大な資金が必要。
一家の希望を託して、子どもたちのうち何人かだけを送り出した家もあったのだそうです(涙)。



片道切符を買って船に乗り込んでも、ぎゅうぎゅうづめの船倉での長旅は楽ではなかった、という展示。
 
やっと着いたニューヨーク、エリス・アイランドの移民局が再現されていました。

移民たちが財産を詰めて渡ったというほんもののトランクが積まれていて、しみじみしちゃいます。

以前に書いた、蓄音機を抱えて海を渡った花嫁の映画『Sweet Land』を思い出す。



バラード町に白人開拓者が入植したのは1852年からというから、シアトルの「パイオニア」たちとほとんど変わらない時期。当時はフィニーの丘もレッドシダーの大木がそびえる森にこんもり覆われていて、現在のバラードダウンタウンの裏にあるサーモン湾沿いに木材業が栄え、たちまちシアトルと並ぶ町に発展したそうです。

その後20世紀にシアトル市に合併するまでは、独立自治体の「バラード町」だった。
20世紀初頭の人口は、約1万人。



その頃のバラードダウンタウンの景色。仕立て屋さん、鍛冶屋さん、など、北欧の母国で身につけた技術で店を開いたパイオニアたちのライフストーリーが語られている。
移民一世の生涯は、どこの国の人のも、みんなドラマ。


 

シアトルのダウンタウンからバラードまで、市電も伸びてたんですね。
いまの14th Avenue NWのとこまで。いまも、まだ線路のきれはしが残ってます。
ずっと前にこれはなんだろうと思ったことがあった。



路面電車だけじゃなく、蒸気機関車だって来ていたのでした。

グレート・ノーザン鉄道の「バラード駅」が、今のバラード水門手前あたりに開通したのは1893年だそうです。

2階の展示は、バラードの2大産業だった木材産業と漁業が、それぞれ独立した部屋に展示されてます。

これはかなり念のいった展示で、面白かった。

19世紀後半にはレッドシダーを使った屋根のこけら(シングル)生産が主要産業になり、20世紀初頭には、こけら生産ではバラードが全米一だったんだそうだ。

こけらタウンだった名残は、バラード高校のイヤーブックの名前『シングルズ』に今でも残ってるんだそうです。



漁師のおじさんたち。いい写真ーーーー。

北欧の人たちはそれぞれ祖国に伝わる漁の歴史があるので、技術を持った移民がバラードの漁業の初期には活躍したようです。ハリバット、サーモン、タラなど、漁の手法によってそれぞれ得意分野があったらしい。

木材から漁業に産業の中心が移っていったのは、バラードの水門と運河が完成して、ピュージェット湾とユニオン湖〜ワシントン湖がつながったあたりから。
こけら産業の工場からは、水門と運河の完成で水位が上がってそれまで使っていた施設が使えなくなるという苦情もあったらしい。しかし時代の流れには逆らえず…。結局木材業が廃れるのと漁業の興隆とが入れ替わりだったみたいです。


漁師さんたちは運河ができて大喜び。今でもバラード橋のとこにある淡水の漁業基地ができて、本格的な産業になっていったとのこと。今でも、全米有数の漁船集団。

 ディスカバリーチャンネルの「Deadliest Catch」にもバラード発のカニ漁船が登場するけど、カニ漁がポピュラーになったのは50年代から。

あのカニ漁船の船長もノルウェーだったか北欧移民の末裔(3世かな?)で、昔のバラードダウンタウンは漁業グッズを売る店が並ぶ漁師の町だったのに、オサレになってしまった今のバラードは「何売ってんだかわかんねえ店ばっかり」とこぼしているのが何かの記事に載っていた。



3階には北欧5カ国それぞれの展示室がある。
廊下には模型のバイキング船。


2階は北欧工芸品と、特設展示のアートギャラリー。
ショップにはムーミンの本もありました。


バイキング的な工芸品。しびれる。

 ギャラリーでは北欧の若手ガラスアーティスト数名の展示が開催中でした。


私はまったく知らなかったんですが、毎年クリスマスにはこの博物館で工芸品セールをやるので、それはそれは大賑わいなんだと『ソイソース』編集長さんが教えてくださいました。



そのほかにも、2月には子ども向けの『長くつ下のピッピ』イベントがあったり、スモーガスボードと室内楽の夕べをやってたり、ほんとコミュニティに支えられてるらしい、活動的な博物館です。

1階にはウッドショップもあって、木工のクラスが開催中でした。


休憩スペースの家具も北欧らしさいっぱい。
コーヒーと紅茶が用意されてますが(寄付をお忘れなく)、この紅茶がとても懐かしいレモン味だった。

新しい博物館は2016年の完成を目指して活動中で、最近ますます若者タウン化しているバラードにふさわしく明るいモダンな建物になるらしいですが、この古い建物と手作り感あふれる展示も味わい深いですよ。いまのうちにぜひどうぞ。

場所や開館時間などはこちら!




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2013/12/07

スクアミッシュ博物館 



 Suquamish Museum (スクアミッシュ博物館)に行こうと思ったのは、Seattle Times に載ったオルカの記事をみたからだった。(先月のソイソース記事でも紹介しました。)

ワシントン大のBurke Museum(バーク博物館)に保管されていたSuquamish(スクアミッシュ)部族の遺物500点ほどが、部族が運営する新しいミュージアムに返還されることになって、ピュージェット湾を隔てたシアトルの町からその遺物を載せたフェリーがスクアミッシュの居留地に近いベインブリッジに近づいた時、どこからともなくフェリーをオルカの群れが出迎えた、という記事

3ダース近い群れが現れたって。

フェリーには何度も乗ってるけど、オルカなんかそうそう見られるものじゃない。アザラシなら見たことあるけど、オルカなんか一度も見たことがない。

ピュージェット湾に住んでいる群れがいくつかあって、そのうちの2つだったと記事にはあった。

オルカ出現の時、たまたま別の用事で同じフェリーに乗り合わせていた部族の長老は、
「We believe the orcas took a little break from their fishing to swim by the ferry, to basically put a blessing on what we were on that day.

(オルカたちは漁をちょっと休んで、フェリーに祝福に来てくれたんでしょうね)」

と言っていた、という。

先祖の遺物を運んできた船をそんなにたくさんのオルカが出迎えるなんて、これは部族の人にとってはどれほど嬉しい祝福だっただろう。


 
スクアミッシュは、ベインブリッジ島とキトサップ半島に挟まれたせまい Agate 水道に面したあたり、白人がポート・マディソンと名づけた地域に集落を持っていた部族。


ここです。

ちょうど、バラードのちょっと北、ブロードビューのあたりからまっすぐに湾を横切ってキトサップ半島につきあたったあたり。

シアトルに名を残したシアトル酋長の父方の部族が、スクアミッシュ。

シアトル酋長の母方の部族は、その対岸、今のシアトルダウンタウンの南からワシントン湖、サマミッシュ湖のほうまで勢力が広がっていたというDuwamish(ドゥワミッシュ)族だった。



19世紀半ばに白人の政府が「テリトリー」の総督を送って来て、この辺一帯のインディアンに、白人の使いたい土地を明け渡して平和裏に居留地に移れ、そのかわりに無料の医療や教育やその他いろいろ文明的な援助をしてあげましょう、という条約を交わそうとした。

その時に、ドゥワミッシュとスクアミッシュを両方代表していたシアトル酋長が語ったというのが、有名なシアトル酋長のスピーチだった。

この2部族は戦わずに合衆国政府の差し出す条件を呑んだのだけど、大規模ではないけれど戦争を選んだ部族もあった。…もちろん、あっという間に殲滅された。シアトル酋長は、その運命をよく理解していた。

全滅か、白人に土地を明け渡して細々と生き延びるか。ほかには選択肢がなかった。

戦おうにも、ほかの大陸からもたらされた疫病で、数十年のうちに人口激減していた。

博物館の展示では、このへんのSalish 言語を話す部族は18世紀末には200万人いたのが、 1855年には7000人か8000人になっていた、と説明されていた。 285分の1だ。

何度聞いても、とにかくその人口激減のすさまじさに、愕然としてしまう。
 
スクアミッシュの部族の土地には幸いまだ白人が町を建てようとしていなかったので、祖先が代々住んできた土地を追われずに済んだ。これは18世紀から19世紀にかけて徹底的に土地を追われたアメリカインディアン史上、非常に珍しいケースじゃないかと思う。

ドゥワミッシュの人々はそんなにラッキーではなく、スクアミッシュの土地へ行って一緒に住めと命じられた。

スクアミッシュの部族も、めでたしめでたしで終わったわけではなくて、合衆国政府が約束したはずの補償は結局期待したほど得られず、「家族単位で小さな家に住み、土地を耕す」というアメリカンスタンダードな生活を押し付けられて、それに馴染めないというかきっと理解できなかっただろう家族が、次々にせっかくの土地を手放してしまい、居留地が目減りしていくという現象も起きたという。

町から近いウォーターフロントの地面をデベロッパーが放っておくはずはなかったのだった。

しかも19世紀の「無料の教育」というのは、「同化」の強制を意味していた。
アイヌの人もハワイの人も同じ時代同じような目にあった。

祖先から受け継いだ言葉も文化も、「未開で野蛮」とひとくくりにされて、いけないものとして禁止されてしまう。

スクアミッシュの子どもたちは、ほかのインディアン部族同様、遠い寄宿舎に送られて、アメリカンな文明生活を身につけることを最上として教育された。

ノースウェストのネイティブ部族の社会には「ロングハウス」という、そのまんまだけど「長い家」というのが中心的な役割を果たしていたという。

スクアミッシュの人たちの村にも、水辺にOldman House と呼ばれた巨大な集合住宅兼集会所があって、近隣でも有名だったらしい。
さしわたし、60メートルもある長い家だったと記録されている。

これが、条約締結から10年か20年後、アメリカ政府の手で焼き払われてしまった。

「オールドマンハウス」に住みついて昔ながらの生活様式を捨てようとしない住民に、白人の役人たちはイライラしていたようだ。

ワシントン大学に保管されていて、今回このミュージアムに還ってきたというのは、その焼けたオールドマンハウス跡で1960年代に発掘された遺物。


 このミュージアムも、ちょっとその「ロングハウス」を模したかんじのデザインだった。

スクアミッシュ部族は90年代以降にカジノを建設し、おそらく主にその収益で、オールドマンハウスのあったあたりに、去年、昔の様式を模した近代的なコミュニティセンターを建てた。


このミュージアムも80年代に建った旧館から去年、この新しい建物に引っ越した。

展示もタブレットで立体的。

デザインも最先端で、ほんとにちっちゃいけど、気概を感じる博物館です。



工芸品の籠がとっても素敵。



カヌーをかつぐスクアミッシュの人々の像。手前が現在の人たち、真ん中が昔の人たち(先祖)、そして最後が「かわうそ」。


かわうそ君。

いにしえの万物はすべて自由に姿を変えられた、というのがスクアミッシュの人たちの信仰だったそうです。だから、カワウソは「太古の、始まりの時の人」を代表してカヌーをかついでいるのだそうだ。

奥のほうに見えている年表の展示は、レッドシダー(米杉)の板に印刷してある。

レッドシダーはこのへんの住民にとって、なくてはならない貴重なマテリアルだった。
もちろんロングハウスだってカヌーだってレッドシダー製だし、



服も出来たのだった。

レッドシダーの木の皮を何時間も気長に叩いて、赤ちゃんのおむつにもなる、ガーゼのような柔らかい布も作ったという。


スクアミッシュ博物館、祝日以外は今のところ年中無休です。「来年はちょっと変わるかもしれないけど」と、受付嬢かと思ったらディレクターだったJanetさんが言ってました。

開館時間、入館料などはこちら

シアトルから来た遺物たちは、来年夏ごろに展示にお目見えの予定だそうです。





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