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2013/10/30

クボタ・ガーデン



Soy Source (10/25号)でもご紹介しましたが、窪田ガーデンに行ってきました。


前から気になっていた、サウスシアトルにあるジャパニーズガーデン。




新しい立派な門が。

ここは、日系の造園家だった窪田ファミリーが20世紀前半からこつこつと築いてきた庭園で、1987年になってシアトル市が買い取り、公園にしたもの。

年中無休、無料公開です。(日没閉園)
 


窪田ファミリーの一代目はフジタロウさんという高知出身の親父さんで、1907年に20代でアメリカに単身わたってきて、独学で造園を学んだという人。


当時のアメリカでは、日本人だったらほとんど無条件で誰でも庭師になれたなんて話を聞いたことがある。
かつての日本で英米人なら誰でも英会話教師になれたのと同じような大雑把さな話だけど、細やかな草木の手入れというのは日本の農家の息子であってみれば当然の基礎教養だったのでしょう。


シアトル市内外の造園業で成功した窪田フジタロウさんは、ここに広大な苗木園と自宅を構え、家族とお客さんのために少しずつ庭園を増築していったところに、第二次大戦が起こり、家族そろってアイダホの収容所に送られた。

戦争中の4年間、この庭園は放置されていたそうです。

終戦後、息子さんと一緒にまた造園業を再開、庭園にも築山を作ったり滝を作ったり、充実させていった。フジタロウ氏(と息子さんも)ライフワークだったんですね。
 

この庭園は、「作品」としての精緻な日本庭園じゃなくて、大木が囲み、ピクニックに最適な芝生広場もあり、あちこちにベンチが配されている、おおらかなガーデン。



ここも70年代後半、フジタロウ氏が亡くなった後でデベロッパーがコンドミニアムにする話もあったのを、有志が働きかけて市の歴史的ランドマークに指定、のちにシアトル市が公園として買い取るまでいろいろコミュニティが働いた。
開発を阻止するために歴史的建造物とかランドマークに指定してしまうというのは、60年代後半からパイクプレイスマーケットなどいろいろなところで使われてきた手段。

こうやって長く近所の人に愛される庭を遺すというのは、なかなか素敵な人生だ。



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2013/09/28

ウィング・ルーク博物館


先日(もう随分前だけど)、インターナショナル・ディストリクトのウィング・ルーク博物館に行ってきました。
今月のソイソースのほうにも書いてます。


現在の建物には2008年に転居したそうで、20世紀初頭建設の古いホテルを徹底的に改装した、きれいなミュージアム。

1階のシアターには、その昔ニホンマチにあった「日本館劇場」(『あの日、パナマホテルで』にも出てきました)で使われていた緞帳が、ばーん!と再生されていて、椅子に座ってこの緞帳を見ているだけで、ニホンマチの賑わいが伝わってくる。

この中にある「まねき」レストラン、今でも営業してるんですよね!



ウィング・ルークさんは、中国生まれアメリカ育ちのとっても優秀な青年で、シアトルの高校に通い、高校在学中に第二次大戦に招集され、勲章を貰って帰って来てワシントン大学で学び、弁護士となって、1962年に30代半ばでシアトル市の市議になった人。

意外な気がするんだけど、西海岸で、アジア系が公職に就いたのは彼が初めてだったそうです。

ハワイではまさにその頃、テリトリー(準州)から州になるのと同時に、若きダニエル・イノウエ議員が州代表としてワシントンDCに入ったんでした。イノウエ議員もウィング・ルークさんと同様に大戦で一兵士として戦い、帰還後GIの奨学金で大学からロースクールに進み、政治家を目指した人。同時代の同じくらい優秀な民主党のホープ同士として、太平洋をはさんで交流もあったことだろうと思います。



イノウエ議員が州代表として国政に参画していた同時期に、この米国本土西海岸ではルークさんが州の議員どころか市議になるのもおおごとで、61年の選挙では人種差別的な中傷が繰り広げられていたのに対して、若い人(たぶんワシントン大学の関係者が多かったと想像)を中心に1000人規模のボランティアが後押ししたなんてところ、規模は小さいけど2008年のオバマさん陣営みたいな熱気があったんでしょうね。



きっとそのまま活躍していたら、いずれは州や国政にも進出していたに違いないルークさんでしたが、市議になって3年後、わずか40歳で、飛行機事故で亡くなります。
カスケード山中に墜落した遺体が見つかったのは3年後だったそうです。

館内ツアーのガイドさんは、そのルークさんの甥御さんだそうで、この博物館はルークさんの捜索のために集まった資金をもとに創設されたんだと話してくれました。




1階の乾物屋さんは、ちょっと数週間バケーションで休んでましたっていう感じの、すぐに主人が戻ってきて営業を再開しそうな風情で、干しえびまでそのまま。




ここは、20世紀初頭からほとんど改装されずに営業していた中国人の家族経営のお店がそっくりそのまま、売りものの干しえびまで含めて寄付されて、ミュージアムの一部になっているというライブな展示です。



この建物、中国人有志が株式会社のように資金を出し合って建てたという、アジア(日本、フィリピン、中国)からの出稼ぎ単身労働者向けのホテルで、インターナショナル・ディストリクトが寂れていた70年代以降、放置されて鳩やネズミの巣になっていたのを大改装したのだそうです。


復元された宿泊者用の部屋。館内ツアーで見られます。
どの部屋に窓があって、意外に居心地よさそう。単身労働者の部屋っていうと「蟹工船」みたいな環境を想像してしまうけど、20世紀初頭とはいえ、そこはさすがアメリカというべきか、建築基準によって各部屋に窓を備えなければならなかったため、建物の真ん中に明かり取りの「light well (光井)」が作られてます。



労働者の仕事の場所は鮭の缶詰工場などが多かったようです。


最上階にあるのは中国人アソシエーションの集会場。


白人の銀行は移民を相手にしてくれなかったため、事業経営におカネを出し合ったり、人や仕事を斡旋したりという互助会のような組織がたくさんあったのだといいます。



ユニークな顔をした獅子? なんだか誰かに似ている。
うちの息子はこの獅子を異常に怖がった。


当然ながら雀卓も。

気づいてみると、インターナショナル・ディストリクトの古い建物の最上階には、こういうアソシエーションのものらしい立派な出入り口がほかにもいくつかあるのでした。




1階の展示には、さまざまなアジア諸国からの移民のアメリカでの歴史や生活のひとこまがフィーチャーされていて、日系移民の大戦中の収容所生活についても展示があります。

 Wing Luke Museum of the Asian Pacific American Experience という長い名前にこめられているのは、なかなかひと言では説明しきれない複雑な歴史。

ウィング・ルーク博物館

719 South King Street, Seattle, WA 98104
(206) 623-5124
入館料:大人12ドル95セント
10am-5pm (月曜休館)

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2013/04/03

博覧会


今回のSoy Source 記事には、1909年にシアトルで開催された『アラスカ・ユーコン・パシフィック博覧会(Alaska-Yukon Pacific Exposition)』のことを書きました。


ワシントン大学キャンパスで開催されて、キャンパスの基本設計にも寄与した博覧会。

建物のほとんどは石膏製の短期用で、会期が終わるとすぐに取り壊されてしまったものの、キャンパスで長期使用することを前提に建設されたものもいくつか、現役で残ってる。

会場のキモだった、レーニア山が見える噴水広場「レーニアビスタ」も。晴れた日のあの噴水越しのレーニア山の眺めは感動的だけど、1世紀前の万博会場の一部だったというのを知った時にはちょっと驚いた。

スザロ図書館には壁に大きな博覧会当時の写真が飾られているけれど、ワシントン大学の学生も、キャンパスが万博会場だったというのはあんまり知らないようです。



大日本帝国出資の「ニッコー・カフェ」、写真はaype.net より。賑わってますね。

文明開化の日本国は張り切って欧米の万博に出展しただけでなく、国内でも盛んに博覧会を開催していた。

夏目漱石先生の『虞美人草』を読んでいたら、ちょうど小説が新聞に連載されていた1907年に上野公園で開催された東京勧業博覧会が出て来てた。

(引用)
蛾は燈に集まり、人は電光に集まる。輝くものは天下を牽く。金銀、砂礫、瑪瑙、 瑠璃、閻浮檀金、の属を挙げてことごとく退屈のひとみを見張らして、疲れたる頭をがばとはね起こさせる為に光るのである。…

 文明を刺激の袋の底に篩い寄せると博覧会になる。博覧会を鈍き夜の砂に漉せば燦たるイルミネーションになる。いやしくも生きてあらば、生きたる証拠を求めんがためにイルミネーションを見て、あっとおどろかざるべからず。文明に麻痺したる文明の民は、あっと驚く時、始めて生きているなと気が付く。

(引用おわり)

シアトルの博覧会はこの2年後だからほぼ同時代。真夜中まで会場を燦爛と飾ったというイルミネーションは、「疲れたる頭をがばとはね起こさせ」たんでしょう。

「文明 」がまだ新しくてピカピカの、金箔つきの唯一無二の価値であった時代。日本は日露戦争でとほうもない数の戦死者を出したけれど、とにかくロシアに勝って、強国になったと鼻息荒かった。欧州も米国も、まだ世界大戦を知らない。
 



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2013/01/28

Swan House



アトランタ歴史センター(Atlanta History Center )に行きました。

博物館のすぐ隣にある「Swan House」は、1920年に建った、当時のアトランタ有数の大富豪の邸宅。


一日に数回、ガイドつきのツアーが開催されていて、中を見ることができます。
博物館の入場料$16.50に、おうち拝見ツアーも含まれています。


 これが表の正面玄関。一番上の写真は裏側のお庭から見たところです。

中は撮影禁止で写真を撮れませんでしたが、センター作成の動画があります。

『風と共に去りぬ』に出て来たのとおんなじような優雅な回り階段は、南部の邸宅のお約束。持ち主の富豪夫人が白鳥好きだったらしく、邸宅のいたるところに白鳥の意匠があるので「スワンハウス」と呼ばれています。夫人が亡くなる前に、屋敷をこのままの形で保存したいと、センターに破格の安値で提供したそうです。



 これは20世紀に入ってから建った家で、この家の主は直接プランテーションを経営していたのではなく、祖父や親の代が綿事業で築いた財産を受け継ぎ、政界にも進出していた資産家でした。

タランティーノの新作『DJANGO』に出て来る、ディカプリオ演じる極悪農園主の邸宅「シュガーランド農園」も、ほぼおんなじ造りでした。

「スワンハウス」も「シュガーランド農園」と同じく、1階に優雅な(伊万里のフルセットが飾ってあった)メインダイニング、男性用の図書室兼サロン、女性用のサロンがあり、2階は吹き抜けの階段をはさんで客用と主人用の寝室があります。

そして、表の華麗に飾り付けられた部屋とは壁一枚隔ててくっきり分かれた使用人たちの領域があり、メインの仕事場である機能的な広ーい台所がとても印象的でした。



センターの敷地には、この邸宅のほかに、19世紀半ばに建った小さな農園の建物が移築されて展示されています。この「スミス農園」、母屋はごく素朴な造作で西部の開拓小屋と大差ありませんが、小農園ながら14人の奴隷が使われていたといいます。敷地内に奴隷小屋のレプリカがあり、奴隷の生活がイラストつきで解説されていました。

 

 「スミス農園」の母屋入口。


 菜園や離れの台所、燻製小屋、鍛冶場なども再現されています。


アトランタは、南北戦争でこてんぱんにやられたんでした。

センターの博物館本館には、南北戦争の顛末を詳細に解説する常設展示「Turning Point: The American Civil War」があります。短い映画もいくつも用意されていて、じっくり見るとかなり面白い。

アトランタには南軍に物資や武器を供給する工場が集中していたために、北軍はアトランタを潰せば南軍は落ちる、とみたのだそうです。アトランタ陥落は南軍に対して、ロジスティクス上だけでなく精神的にも大きなダメージを与えたといいます。



19世紀の戦争。戦死者はなんと62万人で、米国人の戦死者では第二次大戦よりも多い。


"There is no middle ground to be occupied.  It is right and just that the black race should be held in bondage, or it is wrong and sinful."   Nathaniel Macon, Alabama planter, 1860
「中立的な立場はあり得ない。黒人を奴隷にしておくのが正当で良いことなのか、あるいは不当で罪深いことなのか、どちらかだ」1860年、アラバマの農場主の言葉。

奴隷制度は国を分裂させるに足るだけの巨大な矛盾だったのだということを、あらためてリアルに感じることができます。人が人を所有することが常識だった社会が、ほんの150年前には確かにここにあったんでした。

歴史センター、おうちツアーも博物館も見ると半日かかりますが、南北戦争ブームな人にはとってもお勧め。


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2012/12/25

パナマホテル再訪


今回の Soy Source には、パナマホテルと消滅したニホンマチ(日本町)のことを書いています。

パナマホテルのティールームは大好きでこれまでも何度も行っていましたが、はずかしながら、ここの建物がまだ現役のホテルだということは知らなかった。

ティールームの隣にあるガラスの扉を開けて階段を上っていくと2階にフロントがあって、暇そうなお兄さんが気軽に案内してくれました。

小さな部屋が並ぶ細い廊下、古めかしいバスタブのある共用バスルーム。

20世紀初頭、独身者専用に寝るだけのスペースを提供していたホテルで、まるで寮のようです。
ニホンマチには、故郷をあとに単身渡ってきた独身男性が圧倒的に多かったので需要がたくさんあったのでした。

消えてしまった日本町の記憶を留める重要な歴史的建造物として、今ではヒストリカル・プリザベーションに登録されています。



ここのホテルの地下に、強制退去させられた日系人が置いていった荷物がいまでも保存されていて、ティールームからその一部が見えます。

コラムでも触れた、Jamie Ford 著『Hotel on the Corner of Bitter and Sweet』(邦訳、『あの日、パナマホテルで』前田一平訳、集英社文庫)は、ホテルの地下に残された荷物が発見されたところから始まる物語。 

この小説、シアトルにお住まいの方には絶対のおすすめです。作者自身(ジェイミー・フォードさん、名前は白人系だけれど実は中国系)育ったこの界隈が舞台なので、実在の地名やお店の名前がたくさんでてきて、ジャズクラブが賑やかだった頃のジャクソンストリートや、日本語の看板が並んでいた頃の活気ある日本町の景色が見えるようです。






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2012/11/25

old red light district


 シアトルが元祖だというスキッド・ロウの話は前にもブログに書きましたが、今回の『Soy Source』ではシアトル発祥の地、パイオニア・スクエアにスキッドロウができた頃のことを書いてます。

よかったらご覧くださいませ。


シアトルに白人が移り住み始めたころの唯一の産業は、たくさん生えていた巨木を伐り出す木材ビジネス。

そして第二のビジネスは、世界で一番古い商売だとよく言われる売春宿。

いまのパイオニア・スクエアのあたりはベッドひとつの独身宿と売春宿の密集地帯だったという話です。

世界最大の売春宿もあったというシアトル。


パイオニア・スクエアの建物はいまもほとんどが当時のままで、オシャレなカフェやギャラリーが入居したりしてますが、19世紀から20世紀初頭の「スキッド・ロウ」界隈って、どんな騒ぎだったんでしょうね。


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2012/08/25

らっこ受難の話 


『ソイソース』、本日8月25日発行の号には、「らっこ」についてのお話を書いています。

「お父さんかららっこの上着が来るよ」

と、『銀河鉄道の夜』のジョバン二は学校の友達にからかわれて心を痛めますが、賢治が執筆していた大正頃には、すでにらっこは禁猟の対象になってました。初稿では、ジョバンニのお父さんはオホーツク海でらっこの密猟をして捕まったという設定であったらしいのです。

らっことオットセイが禁猟の対象になったのは、なんと1915年。明治時代です。動物を保護の対象にしようというアイデア自体が、まだとても新しいものだったはず。それだけらっこ達は大変な目にあってたのですが。

大航海時代から怒濤の19世紀をへて、乱獲によってドードーやら旅行バトやら、いくつかの種が絶滅してしまったあとで、ようやく保護の必要性が説得力を持ったのでしょう。バッファローもらっこも、かろうじて絶滅をまぬがれて、よかった。


シアトルご在住の方、よろしかったらぜひご笑覧くださいませ。

そして、らっこの運命やらっこ貿易についてもっとお読みになりたい方は


これお勧めです。Otter Skins, Boston Ships, and China Goods.
表紙の、怒った顔のらっこがなんとも言えない。そりゃー怒りたくもなりますよね。わかります。
18世紀〜19世紀のノースウェスト沿岸の部族の生活や、捕鯨以前の太平洋航路、らっことクック船長、ハワイとノースウェストとらっこと白檀貿易の関係などについての話がいっぱいです。
アカデミックの人なのでまだるっこしいところも多々ありますが、巻末のデータはとても充実してて、見やすいです。

それから、1960年代に出て絶版になっている本ですが、クック船長の航海に参加したアメリカ人を主人公にした小説仕立ての本、Sea Otters and China Trade も、なかなか面白いですよ (まだ途中までしか読んでないんですが)。シアトルの図書館で借りられます。

3年間の航海をしている間に、アメリカが英国から独立しちゃっていて、航海中に新しい祖国が出来ていたっていうのも、すごい話ですよね。



ぜひ行ってみたいのは、オリンピック半島の沖合に浮かぶ Destruction Island 。
むかしは灯台があった島ですが、いまは無人。保護区域で、らっこ天国になっているそうです。




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2012/07/27

シアトル酋長続き エコ派のシンボル&市のマーク

(酋長つづき)

シアトル酋長のスピーチは、1960年代から70年代にかけて、後代の人が大幅に書き直したものが有名になりました。

今でも「シアトル酋長のスピーチ」といったらそっちのほうがよく知られているし、子ども向けの本の題材になっているのもこの書き直しバージョンのほうです。

まずWilliam Arrowsmithという古典文学の教授が、「ヴィクトリア英語から現代英語への翻訳」を試み、それをベースにTed Perry というこれも文学の教授がエコロジー関連のノンフィクション映画のために書き起こしたものが最もよく流通している「シアトル酋長のスピーチ」。

Ted Perry バージョンには、たとえば以下のようなメッセージがあります。



Will you teach your children what we have taught our children? That the earth is our mother? What befalls the earth befalls all the sons of the earth.
This we know: the earth does not belong to man, man belongs to the earth. All things are connected like the blood that unites us all. Man did not weave the web of life, he is merely a strand in it. Whatever he does to the web, he does to himself.

『われらが子どもらに教えて来たことを、あなた方の子どもたちに伝えてくれるだろうか? 大地はわれらの母だということを?
大地に注ぐものは、大地の子どもたちの上にも等しく注ぐのだということを?
大地は人のものではない。人が大地に属しているのだ。すべてはつながっている。血がわれらをつなげているように。人は命の糸を紡いではいない。ただその中にからめとられているだけだ。』

ウェストシアトルにあるChief Shealth 高校正面です。


いかにも「インディアンの最後の酋長が言いそう」といった感じのエコロジーなメッセージです。
ジブリ映画のテーマのようですね。
が、これはスミス博士のバージョンには影も形もない、完全な創作。

19世紀のスミス博士も、70年代のエコロジーな人々も、酋長の中に「きっとこうであったに違いない」理想の自然人の姿をみたのでしょう。



アメリカ人が(そして彼らの目を通してほかの国の人たちも)自分の国にかつて存在し、消えていった(追われたんですが)文化やスピリチュアリズムをロマンチックにとらえるのは今に始まったことではなく、まだ各地で「インディアン問題」がホットであり、居留地への移動がまだ進行中だった19世紀半ばから、すでにその傾向はあったようです。


(ウェストシアトルにあるこの高校は、「シアトル」ではなく、オリジナルの発音に近い「チーフ・シールス」という名前で、酋長をたたえています)

Albert Furtwangler著『Answering Chief Seattle』は、酋長のスピーチとされるスミス博士のテキストの信ぴょう性を様々な角度から検証し、このスピーチが問いかけるものに、人々がどのように応えただろうか、という視点で、ジェファーソン大統領、ウォルト・ホイットマン、ホーソーンによるインディアンのとらえ方なども掘り下げた労作です。

書き方はまだるっこしいことこの上ないのですが、スティーブンス知事のエピソードなど面白い話がけっこうあります。


ダウンタウンを歩いていたら、ここにも ↑ シアトル酋長がいました。


1869年とあります。現在のロゴ ↓ よりも写実的ですね。





この現在のシアトル市のロゴは、プラハ、ロンドン、メルボルンなどと並んで、DzineBlogで2010年に「世界の市のロゴ、ベストデザイン21」に選ばれていました。




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