2021/12/16

バカの壁が立ちふさがっている

 



KindleUnlimitedに入っていたので、養老孟司さんの『バカの壁』を読んでみました。

言わずとしれた大ベストセラーだけれど、いままで読んだことはなかった。




「平成で1番売れた新書」
「450万部突破!」
「129刷超!」
と、帯にどどーんと太く赤い数字が、たくさんついている。

129刷って……!

とてもおもしろかったです。

2003年に刊行された本なので、出版後もう約20年たつのに、今読んでも、とても適切。 

 


というより、今こそ、ますます必要とされている指摘がたくさん含まれていると思いました。

面白かった点はいろいろあったけれど、特に大切だと思うのは、ごくシンプルだけれど深い、次の三つの把握。

*人間は変わるもの、流転するものである一方、情報は永遠に残るもの。(これをあべこべに考えている人が多い。特に「自分」というものは変わらない、と思いこんでいる人が多い)

*社会は「共通理解」でできている。(言語とか文化とか常識とか)

*情報化社会とは、意識中心社会、脳化社会ということ。都市とは、つまり、意識が作った世界。


そして、「人間は変わらない」というまちがった前提を持ち、それに無自覚であることが、「壁」をつくる原因だと、養老先生は言う。

「人は(自分は)変わるもの」というのは、当たり前のようだけれど、実感として理解している人は案外に少ないのではないかと思う。

人は変わるもの、うつろうもの、というのは、2009年に刊行された福岡伸一さんの『動的平衡』にも通じる把握です。当たり前なのだけれど、衝撃的。だと思いませんか?
わたしにとっては、それを思うたびに衝撃的です。

たぶん、それまで何十年かの人生で、人は、自分は、固定されたもの、と無意識に思ってきたからだと思う。でも人間ってじつは、とても流動的なものなのだ、というのは、わたしにとってけっこう大きな革命でした。

わたしたちは、物体としても分子単位で毎秒入れ替わっているし、意識という面でも、決してじっと動かない、完成したものではない。

20年前の自分といまの自分では、完全に別人といってもいい。

なにかを新しく知るということは、自分が変わるということ、自分が違う人になったということであり、つまり、死んで生まれ変わったのと同じこと、と養老先生は言う。

これはとってもよくわかる。

このことを、ガンで半年の命と告知をされた患者にとっては毎年見ていた桜の花が違って見えるというたとえでこれを説明しています。わたし自身がん患者なので、文字通り他人事ではなく、よくわかります。

今だったら、東日本大震災の経験を経て自分が変わった、という実感を持つ人は多いと思う。

ものの見方が更新されるということは、生きる世界が変わるということ。






自分は変わらないと思い込んでいると、「一元論」的な世界に入り込んでしまい、それがバカの壁をつくるもとになる、と養老先生は警鐘を鳴らします。

頭のなかの活動を、養老先生は

Y(出力)=X(脳への入力 )a

というかんたんな方程式であらわしています。出力は、しゃべったり書いたりというだけでなく、脳内で考えることも含まれる、意識的な出力すべて。

入力は、見たり聞いたり、感覚器官から入ってきたあらゆる情報。これに「係数a 」をかけたものが出力となる。

係数a とはなにか。養老先生は、それをいわば「現実の重み」と言っている。

これはちょっとわかりにくいけれど、要するに、フィルターと考えてもいいと思う。
自分がいままで生きてきたなかでつちかわれた、ものごとをどうとらえ、どう反応するかについてのフィルター。

あることについての係数が「ゼロ」だと、どんな入力があっても、出力もゼロ。
そのことについて考えることはいっさいなくなる。

つまり、その人にとって「現実」ではなくなる。

たとえば、イスラエルについての批判は、イスラエルの多くの人にとって係数ゼロがかかっているので、耳にはいらない。

逆に、係数が固定されて「無限大」になっているのが原理主義であり、ある情報が絶対的な現実としてその人の行動を支配する、というのです。

原理主義は典型的な一元論で、「壁の内側だけが世界で向こう側が見えない。向こう側が存在しているということすらわかっていなかったりする」ものの見方。

これは短期的には強さを発揮しても、かならず破綻する、という。

これがまさにまさに、いまわたしの住んでいるアメリカで実際に驚くべきスケールで起きていることだし、日本でも世界中でもここ数年、ますます頻繁に、ますます激しく見られるようになってきたことです。

トランプが意識的にやっているのがまさにそれで、架空の壁をつくりあげ、その向こうにいる人たちを徹底的に悪認定する。ありとあらゆる罵詈雑言でけなし、貶めることで感情的に盛り上がる。

どんなに現実と矛盾していても、壁の内側の現実だけを絶対視して、それと矛盾すること、対立するものを徹底的に排除しようとする。

これは原理主義にほかなりません。

原理主義が育つ土壌を、養老先生は「楽をしたくなる」気持ちだといいます。

「楽をしたくなると、どうしてもできるだけ脳内の係数を固定化したくなる。aを固定してしまう。それは一元論のほうが楽で、思考停止状況が一番気持ちいいから」(143ページ)

養老先生は、考えることというのは「重荷を背負うこと」であり、人生は崖登りのようなもので、手を離したら真っ逆さまに落ちてしまう、と言います。

つまり、自分の頭のなかにある係数はなんなのかをつねにチェックし、必要であれば更新していくこと、そのために現実と自分と正直に向き合っていくこと、が必要、ということなのだと思います。

「学問とは、生きているもの、万物流転するものをいかに情報という変わらないものに換えるかという作業 」と、養老先生は言います。それはしんどいけれど、とてもエキサイティングな作業でもあるはずです。

学問に限らず、生きている以上、ヒトである以上は、それが大切な仕事なのだと思います。

それを怠ると、たちまちバカの壁に囲まれてしまう。気持ちがよいけれども、壁の向こうから攻撃を受けることをつねに恐れ、攻撃しようと構え続ける状態に、陥ってしまう。

バカの壁は、2021年のいま、ますます厚く、高くなり、とくにこのアメリカという国のまんなかに、堂々とたちふさがっているのです。

では原理主義に対抗できる普遍原理はなにかといえば、それは人間であることの普遍性、人として何をよきこととするか、という「常識」ではないか、と養老先生は結びます。




ほかにも、とても面白い、的を得ていると思った指摘がいくつかありました。


*都市に住む人の多くは、自分の身体に向き合う機会を持たない。

これは、とくに今の日本の若い人の書いたものを読んでいると、真実だと思うし、ますますその傾向が加速していくのだろうと思います。

日本の若い男性の4割が恋愛経験をまったく持ったことがないというのも、それを裏づけていると思うし、メタバースとかの仮想経験が普及すればさらにその傾向が強まるのでしょう。


*都市宗教は必ず一元論化していく。都市の人間は弱く、頼るものを求める

プロテスタントのほうが原理主義に近く都市型、というのは、いまのアメリカの内陸部、「ハートランド」つまり田舎で、原理主義的なプロテスタントの信仰のありかたが奉じられているのを考えると、面白いと思います。

アメリカでは逆に、沿岸の大都市の環境が、自然に近いのかもしれない、と思いました。
ニューヨークとかサンフランシスコのような都市では、あらゆる人種や階層がせまい地域に入り混じり、さまざまな「他者」との共存(または「併存」)を強いられる。
これは一種ジャングルのようなもので、個人はいつも係数aの更新を求められます。

養老先生のいう人工的な、一元的な環境は、アメリカではむしろ郊外や田舎にあります。


*「共通理解」を求められつつも意味不明の「個性」を求められるという矛盾した要求の結果派生してきたのが「マニュアル人間」。

個性というのは探しにいくものではなくて、生まれつき備わっている「身体」そのものである、「意識」のほうに個性を探そうとするのは間違い、というのももっともだと思うし、日本の社会のなかで意識的に「個性」を探せというのは、まったく無茶な話、というのも納得です。 

 

*戦後の日本では共通理解のもとになる共同体が一方で残り、一方で壊れている。

「結局、日本の社会は機能主義に共同体の論理が勝つ」
「現代ではかつてあった大きな共同体が崩壊し、会社や官庁など小さな共同体だけが残っている。小さな共同体の論理しかわからなくなっているので常識がなくなった」

これはもうほんとにその通りで、最近の官僚のスキャンダルなどを見ていても、そうなんだろうなあ、としか思えないです。

つまりここでいう「常識」というのは、人としての大きな視点に立った「倫理」なのでしょう。組織のために生き続けてきたので、ヒトとしての善悪がわからなくなってしまうという。

*日本語の助詞「は」は定冠詞

英語を学びはじめたときにぶちあたる難しい概念のひとつに、定冠詞と不定冠詞の違いがありますが、これはなにも、日本語の世界にはまったく存在しない概念ではなくて、日本語では助詞として存在している、という。

「あるところにおじいさんとおばあさんがおりました」
というのは不定冠詞(a、an)で、特定のおじいさんを導く。
そのうえで
「おじいさんは、山へ柴刈りに」
というときの「は」は、特定のお爺さんが動き始める定冠詞の役割を果たす。

これは目からウロコでした。なるほどー。日本語では、英語ほどハッキリとしたかたちでそれが認識されていないということなんですね。

 

いろいろ示唆にとんだ本でした。語りおろしで、まとめた編集者の人も凄腕だなあ、と思います。




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2021/12/15

ことしのツリー

 

 

ことしはツリーなしでもいいかな、なんて思っていたのだけれど、クリスマスまであと10日ばかりになった月曜日、ようやく「トリイ」を買いにいきました。

去年とおなじ、近所のツリー屋さんへ。

ちょうど日本で年末になるとお正月飾りを売る屋台が出るみたいに、11月末のサンクスギビングころになると、街角のあちこちに、クリスマスツリーの店があらわれます。

 



 売っているもみの木の種類は5つくらいあって、ダグラスファー(ベイマツ)、ノーブルファー(ノーブルモミ)、グランドファー(グランディスモミ)、フラセリーファー(フラセリーモミ)など。

お値段は種類によって多少違い、けれど、5フィート(150センチくらい)で80ドルくらい。



ツリーのあいだを歩くと、山のなかに来たみたいな、針葉樹の香りでいっぱい。
ミニ森林浴ができます。

ハワイでは、スーパーの駐車場に設置された冷蔵コンテナのなかでツリーが売られていたので、こんなにたくさんのチョイスはありませんでした。

去年は葉っぱが平べったくて一番香りが良いグランドファーにしましたが、今年はもっと葉が小さくて、「ザ・クリスマスツリー」という風情のある(と、思う)ノーブルファーにしました。




今年は小さめの4フィートのツリー。それでも森のすがすがしい香りが楽しめます。



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2021/12/14

『トーベ』とちびのミイ


 先日いただいた、建築家Y子さんの新作。ひろってきたモミジの赤い葉が不気味なかんじに枯れて、海藻みたいで、似合います。ムーミンパパがある日突然ニョロニョロたちといっしょに旅に出てしまうお話があるのですが、その物語にでてくる、うら寂しい海岸の景色のように。

このあいだ、ムーミン原作者のトーベ・ヤンソンの伝記をもとにした映画『TOVE/トーベ』をストリーミング(Amazon)で観ました。ことし、2021年公開の映画。



淡々とした語り口で、なかなかステキな青春映画でした。

主演の女優さんは写真で見るトーベさんとよく似てる。

長年の『ムーミン』シリーズ大ファンなのに、わたしはトーベさんのことはほとんど知らず、彼女がバイセクシャルで、なくなるまで長いあいだ、女性のパートナー(ムーミンシリーズに出てくる「おしゃまさん」のモデル)と暮らしていたということも知りませんでした。

映画にもちらっと出てくるその彼女、『ムーミン』読者なら、一見して、あ、おしゃまさん(英語名はToo-Ticky、スウェーデン語はToo-tickiで、だ、とわかるくらいそっくりでした。

 英語のMoominサイトには、モデルになったTuulikki Pietiläさんとトーベさんの楽しそうな写真も載ってました。



ついでにお宝自慢。

そのむかし、いまのようにグッズを一手にグローバル展開しているMoominとは別の、独立系のムーミンショップというのがホノルルにありまして、オーナーさんはまだご健在だったトーベさんに直接交渉してオリジナルのグッズをいくつか作っているのだと自慢してました。
トーベさんからの直筆のお手紙がお店に飾ってありました。

そのうちのひとつがこのシルバーのアクセサリー類で、ペルーの職人さんに作らせているのだといってました。

当時はほんとに洒落にならないくらいの赤がつく貧乏であったため、たしか6000円かそのくらいだったこのちびのミイのピアスになかなか手が届かなかったのですが、結局そのお店が閉店することになって、その閉店セールで半額になったときに、頑張って買った覚えがあります。

つけてるとどうしてもミイが逆立ちしてしまうんですけど、ここぞというときのお守りピアスです。

ちびのミイはいつも笑っているか怒っているかのどちらか。いっさいの忖度をしないし、本質を見抜いて、かしこく、何ひとつ恐れず、どんな状況でも完全に楽しみ、完全に自分に正直で、自分のしたいことをよく知り、ときどきウジウジしているムーミンをいじめるけれど、底意地が悪いわけではなくて、遠くで見守ってときどき面倒をみてやったりもする、ハードボイルドなキャラクター。リアルライフの人間が同じことをしたらかなり大変な人格になってしまうので、やはりポケットや砂糖つぼにおさまるサイズであるからこそのキャラですね。

でもいつも隣にミイがいて話し相手になってくれたら面白いなあ。

トーベさんも、ミイは自分がそうでありたい分身だと言っていたそうです。


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2021/12/13

書店の美麗ラッピングと小さなきつね



このあいだ行った放射線科のクリニックに飾ってあった、サケ君。かわいいなあ。このウロコの手作り感がいいですねー。




ひさびさに、キャピトル・ヒルのThe Elliot Bay Book Companyに行ってきました。

本好きのシアトルの人びとで、かなり盛況でした。
全米で、これほどリアル書店が元気に生き残っている街も少ないのではないか。


いまここで本を買うと、ギフト用に無料で綺麗にラッピングしてくれます。
それがまた、びっくりするほどセンスよく、オリジナルステッカーとリボンつきです。

 

 



この厚めのざらざらした紙も温かみがあって嬉しい。

ホノルルで、少年サッカーチームの遠征資金あつめのためにいろんな活動をしていたなかに、ショッピングモール内の書店でのギフトラッピングというのもありました。(洗車から電話帳配達まで、ほんとにいろいろやったなあ…。)

「アメリカ人は不器用」と勝手に思いこんでいたので、女性コーチのジンジャーちゃんはじめ、チームのママたちが驚くような技を次々に繰り出して、とても無理!と思うような大型で正方形とか長方形ではない難しいかたちのギフト(本屋なのに、なぜかぜんぜん関係ない店のギフトを持ち込む人が続出していました)を次々にラッピングしていく手腕に目をみはったものでした。

いまだに「キャラメルづつみ」しかできないわたくしです。



故U.K.ル・グウィンさんのコーナーで目を惹いた、「The Books of Earthsea」。

日本では『ゲド戦記』として知られているシリーズの全作に未発表短編が加わった、イラストつきの豪華版です。



書店員「ローラ」ちゃんと「ローレン」ちゃんのおすすめポップがつけられていて、心がなごむ。

「1)アイコニックな作品だし、2)現実からひとときデリシャスな世界にエスケープできるし、3)欲と腐敗と嫌悪の力に対するとってもパワフルな、解毒剤」

という紹介には、拍手をおくりたいです。年末に腰を据えて読み直すのもいいし、未読の短編も気になるのだけど、このまさに電話帳級(もはや2000年代生まれには電話帳っていっても通じないんだろうなあ)のボリュームに尻込みしてして、やめました。



そして来年の手帳を購入。迷ったすえに、MOLESKINEの『星の王子さま』のきつね柄のおめでたい赤手帳にしました。

ええ、数えで58歳ですが。赤いちゃんちゃんこを、先取り的な。

来年は、ますますおめでたい年になるに違いないのです。

 


 

 手帳の「腰帯」に、切り取って折り紙にせよという指示がついていました。小さいキツネができるはずだというのです。

しかし日本人にあるまじき不器用さにより、なんとなく、疲れたかんじのきつねになってしまいました。 幼稚園のときから折り紙はニガテです。折れるのは鶴だけです。

 

 

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2021/12/11

野生のランタン


近所のウッドランドパーク動物園で開催中の「WILDLANTERNS」に行ってきました。

うちの青年、もと彼女キリコちゃん、ジェニファーちゃんと。




思ったよりも大がかりで、動物園の敷地いっぱいに「ランタン」(提灯)の動物、鳥、昆虫、恐竜、植物、それに中国のドラゴンや巨人が飾られています。






こちらが「石の巨人」。うずくまった姿勢から伸び上がってくる巨人に、こどもたちがくぎ付け。

このコーナーには煙を仕込んだシャボン玉や、煙の輪っかが飛んでくるしかけや、光るブランコもあって、小さな子どもたちが大騒ぎでした。




巨大カメレオンもインタラクティブで、手前の星を踏むと色がかわるしかけ。





赤の星と青の星をいっしょに踏むと、


…紫色に。なかなか楽しいです。





こちらはちょっとシリアスな顔つきの、キツネザル。

「ランタン」のデザインも、それぞれに不気味スレスレのリアリティがあって、ぜんぜん子どもだましではなく、ステキでした。



こちらは、なぜか兵馬俑……。始皇帝もこうやって「ランタン」になると、なんだかクリスマスっぽい。





めずらしく晴れた夜で、半月がきれいでした。ペンギンの上に月。


かなり寒かった(4度C)ので、ジーンズの下にタイツ、セーターの下にハイネックを重ねて、5レイヤーにボウシもかぶり、ブーツを履いていきましたが、正解でした。

園内に3か所くらい、飲みものと軽食を売る売店が開いているので、ホットチョコレートを買って、おしゃべりしながらのんびり2時間半くらいかけて一周したのですが、最後のほうではつま先がかなり冷たくなってきました。

途中、あまりにも冷えてきたのでギフトショップに避難して暖をとったり。


ミーアキャットに出てこられては、いっしょに写真を撮らないわけにはいきませんでした。
なぜか海賊顔の青年と、いろいろ着込んでちょっとモグラっぽい感じのわたくし。



キングコブラ。




アフリカの鳥やピューマ。




1月30日まで開催中。

人数制限をかなりしているらしく、かなり早く売り切れるので、平日でもほとんど当日券はないようです。そのぶん、園内はそれほど混雑してません。

12歳以上はワクチン接種の証明書または72時間以内のPCR検査の陰性証明が必要。





楽しい冬の遠足でした。

 

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2021/12/09

えのきが高い


さいきん、ご近所スーパー、バラード・マーケットで売りはじめた10ドルのミニ花束がかわいいので、食卓用に買ってきました。

ここにはスーパーといえどなかなかステキなお花屋さんがあって、以前は1本ずつ1ドル50セントだかでバラ売りしてくれていたのですが、最近は束単位での販売だけになっちゃって、20ドルとか30ドルとかの花束を自分用に買うのは節約中につきハードルが高く、ちょっと悲しかったのですが、このミニブーケはセンスも抜群だし、かなり充実の内容で嬉しい。

テーブルの上に明るい黄色やオレンジがほしいなあ、と思っていたわたしのために作ってくれたような配色です。

目の前にきれいなものがあるとすぐにとりあえず幸せになれるので、10ドルはコスパがいいです。

最近は仕事をあまり積極的に受けていなくて、以前はメイン3社プラス飛び込みで入ってくるいろいろなお仕事をありがたいことにほとんど途切れずにいただいていたのですが、かなりスローダウンしたためお断りする案件も多く、このところは1週間まったく仕事せず、ということもたびたびあります。

でもそのぶん青年が仕事をかけもちして働き、生活費を入れてくれているので、なんだか結局うまく回っている。ありがたいありがたい。

でも、物価がじわじわと上がってきましたね。



このあいだ、日系スーパーでえのきが1パック7ドル99セントで売られていて、かたまりました。

高級食材だわこりゃ、正味量換算で肉より高い。

白菜とか大根とかごぼうとか、ほかの和野菜も、全体に高くなってる。アメリカの国内産でも、やはり流通が影響しているのでしょうね。

日本の食料品はいま、どうなんでしょう。

 

 

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2021/12/08

ほんとうに面白い「What if...」シリーズ

 


近所の道に落ちていた、なんだかわからない赤い実。

このへんは果樹や木の実のなる樹が多いので、鳥たちやリスたちには安心安定の環境なのだと思う。
けっこうより好みもあるようで、まったく見向きもされていない果樹や実もたくさんあるかと思うと、思い出したようにある日とつぜん大群がやってきて食べ始めることも。不思議です。


AppleTV+で『For All Mankind』シーズン1と2を一気に観ました。

これが実は、『ファウンデーション』よりも、はるかに面白かったです。

いま盛んに宣伝してるトム・ハンクス主演の近未来SF映画『Finch(フィンチ)』よりも、ずっと面白かった。

脚本も演出も、けた違いに素晴らしいです。

キャラクターも陰影と説得力があっていいし、演技も素晴らしいし、ストーリーのテンポもいいし、会話のスクリプトもいいし、美術もいいし、非の打ち所がなくてほんとうに楽しめました。このシリーズを観ていたら、正直なところ『ファウンデーション』はかなり頑張って観ていたことに気づかされてしまいました……。

もしも米ソの宇宙開発競争が途中で止まらず、どちらの国も予算をじゃんじゃんつぎ込んで開発を続けていたら……という設定の、現実とは違う1960年代後半〜1970年代と1980年代を描く「歴史改変SF」です。

邦題は『ニクソンの女たち』。シーズン1のエピソード3のタイトルをそのまま使っているのですが、この邦題はよくないと思う。

ニクソン大統領の強い希望というか命令により、女性宇宙飛行士たちの訓練が始まり…というお話なのですが 、シーズン2の舞台は1982年〜で、大統領は(テッド・ケネディを破って、実際の歴史よりも4年早く1977年に就任したという設定の)2期目のロナルド・レーガンです。

いかにもレーガンが言いそうな「レーガン節」や、いかにもレーガンがしそうな行動がすごく巧みに織り込まれ、登場人物と世界の運命に影響していきます。

シーズン2の時代には、もはやニクソンのことなんか誰も覚えていないのです。

『ニクソンの女たち』はシリーズ内のひとつのエピソードのタイトルとしては気が利いていて、内容にも合っててとてもよいと思うけれど、このシリーズ全体をあらわすタイトルとしては意味が弱く、物語のほんの一部しか語っていないし、全体の構想の壮大さがまったく伝わっていません。

このシリーズは政治ドラマの部分はもちろんあるけれど、それは魅力の3分の1くらいでしかないのに、「ニクソン」と「女」というのを強調しすぎて、しかも「の女」と所有格がパワーゲームとジェンダー問題まで匂わせて、内容にそぐわないドロドロ感を醸し出してしまっていると思うのです。それに、女性宇宙飛行士は重要な要素だけれど、このドラマの主題はそれだけじゃないし。

 このタイトルだけみて観るのをやめちゃう人がいるとしたら、あまりにもったいないです。

シーズン1の後半以降、宇宙飛行士だけでなく、女性が長官とかオペレーションディレクターといったトップに進出していき、現在でさえまだ実現されていないほど、重要な地位を女性たちが次々と占めていくのも、シリーズの見どころです。

(ひとつだけ難をいえば、ドラマの中で女性が破竹の進撃をしているのに比べて、黒人、ラティーノ、アジア系が主要登場人物に占める割合が少ないことです。それぞれのマイノリティからまんべんなく一人か数名ずつ印象深いキャラクターが出てきて、さらには同性愛者の主要キャラもいて、それぞれのストーリーをちょっとずつ見せる。それぞれ真摯に扱われていて説得力があり、そつがないなあ、という印象を受けましたが、だからこそもう一押し!)

『宇宙兄弟』が好きな方にはぜひぜひみてほしいなあ。 「宇宙もの」全般が好きな人には全力でおすすめです。

 



あと、詳しく知っていなくても面白く観られますが、1960年代以降のアメリカ現代史をざっとおさらいしてから観れば、さらにさらに楽しめると思います。

わたしも20年以上アメリカに住んでいるとはいえ、そしてわりに最近(20年前とかではなく)大学でアメリカ現代史の授業を2コマ受けたにもかかわらず、なにしろ記憶力がアレなもので大統領の順番くらいしかろくに覚えておらず、観終わってからウィキペディアでいろいろ確認したりしてました。

歴史を知ってると「あら、これは…」と、現実とは違う設定がいろいろとチラチラ出てくるのが楽しめるし、そのときの状況を新鮮な方角からみてみることもできるのが面白いです。凶弾をあぶなくかわして生き延びたジョン・レノンが平和コンサートを開いているニュースが流れたり、電気自動車が80年代に実用化されていたりといった小ネタがちりばめられています。

うちの青年は、シリーズ1で宇宙飛行士たちが運転しているコルベットにくぎづけで、「この時代のコルベットは最高にかっこよかったんだよなー」と言ってました。
いまのコルベットやムスタングには馬力だけがあって思想がない、いかにも退屈なミッドライフクライシスの車、という位置づけだそうです、彼のなかでは。

ドラマに登場する女性宇宙飛行士のなかで、訓練生中トップの成績に輝くモーリー・コッブというめちゃくちゃかっこ良いキャラクターがいるのですが、この人には実際のモデルがいます。

ジェラルディン・コッブという人。
シーズン1のエピソード4は、この人に捧げられています。

わたしもぜんぜん知らなくて、さっそくウィキペディア先生におたずねしてみました。

そしてびっくり。本当にリアルにすごい女性だったのでした。

1950年代〜60年代、20代のときに飛行の世界記録を3つもうちたて、アメリカ初の友人宇宙飛行をめざしたマーキュリー計画で、男性と同様の試験に合格していた女性たちがいて、コッブさんはその中でも、男性を含むすべての候補者のなかで上位2%の成績を示したのだそうです。

この「マーキュリー13」と呼ばれる女性たちのことは、わたしはまったく知りませんでした。

 しかし「社会的秩序」を重んじる60年代のおっさんたち(ジョンソン大統領を筆頭に)やおばさんたちに阻まれ、女性宇宙飛行士の訓練は実現せず。

その後、コッブさんは30年にわたり、アマゾンで宣教活動と航空機による支援活動を行い、ノーベル平和賞の候補にもなっています。熱心なクリスチャンだったのですね。

『For All Mankind』のモーリー・コッブは、たぶん実際のコッブさんよりもずっと行儀のわるい、口もわるい人。でもねじまがったところのない、人間味のあるヒーローです。「竹を割ったような性格」の人という言い方が日本にはありますが、まさにそれそれ。

彼女の旦那さんは自分の感情を(フェミニンな面を)恐れずにさらすことのできる、素晴らしいキャラクター。2021年になってもなかなかお目にかかることのできないタイプの男性です。

わたしはこのカップルが大好きで、旦那さんが登場するたびに嬉しくなってました。

シーズン3はもう撮影が終わっていてポストプロダクションに入ってるそうなんだけど、公開は来年5月の予定だと!ポストプロダクションってそんなに時間がかかるのか!

シーズン2のエンディングにはNIRVANAの曲『Come As You Are』が流れ(いや〜本当にかっこいい曲だなあ)、チラ見せの場面に「1995年」というテロップが流れました。シーズン1が1970年代、シーズン2が1980年代なら、やっぱり次のシーズンはその10年後ですよねー。

あの登場人物はまだ生きているのか、あの人はほんとに政界入りしたのか、あの夫婦は結局別れたのか、あの人はあの学校に入ったのか、その後のキャリアはどうなったのか、まるで友人のその後のように、いやそれ以上に、気になるー!

そして、このパラレル世界の1990年代では、ソ連は崩壊ずみなのか、ベルリンの壁はどうなったのか、大統領はクリントンなのか、もしかして共和党政権なのか。技術がかなり前倒しになっていて、1980年代なかばの設定で携帯電話が登場しているので、90年代なかばでもうスマートフォンの第一世代が出てきているかも…。スティーブ・ジョブズはまちがいなく登場するに違いない!でもどんなふうに? 

早くリリースしてくれー!お願いApple!




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