2015/08/08

From Hiroshima to Hope


8月6日、シアトルのグリーンレイクで行われたイベント「From Hiroshima to Hope」に行ってきました。広島と長崎に落とされた原子爆弾による被害者を悼み、平和を祈る灯篭流しのイベントです。


近くに住んでいるのに一度も来たことがなかった。1984年から毎年行なわれてるそうです。


「平和、正義、人間の尊厳を祈る」。


歩道には被曝直後の爆心地の写真が展示されていました。


テントの中にはさらに多くの写真が。

アメリカ人の多くは、今でも、原爆投下は「戦争を終わらせるために必要だった」と信じている。

乱暴に言えば、一部の日本人が「日本は仕方なく大東亜戦争に突入したのだ」「アジアのために日本は良いことをしたのだ」と考えたがるのと同じ。

自分の国や自分の属するコミュニティが正しくないことを行ったという考えは、人を苛立たせるもの。

でもどんな国もどんな民族の手もみんな血塗られているのですけど。

戦争の被害者は、いつも個人の生活であって、国ではない。


オレゴン州在住のアーティスト、Yukiyo Kawanoさんの作品が展示されていました。

広島に投下された爆弾「Little Boy」をかたどったもので、被爆者であったYukiyoさんのお祖母様の着物を使って作られています。

そのまわりに、ひらひらと集う舞踏家たち。


緑の公園の一画で風にゆらゆらと揺れる爆弾のインスタレーションは、無言の中にあまりにも多くのことを語っていました。

「リトルボーイ」と名付けられたこのひとつの爆弾で殺された人の数は、後遺症の被害があまりに広範囲で長期にわたるため正確な数字はないそうですが、少なくとも14万人。


70年前の広島のその日は、ちょうどこの木曜日と同じように雲ひとつない真っ青な空の朝だったそうです。


今の米軍が保有している、原子爆弾よりももっと強力な核弾頭は、たったひとつでピュージェット湾地域を壊滅させられるくらいの威力があるといいます。

米軍は今でも7300個の核兵器を保有。全世界では推定16000個の核弾頭があって、そのうちかなりの数が政情不安定な国に。


「There is no right hands for wrong weapons (「(核兵器という)間違った兵器を正しく扱える陣営」というものはありません)」。
というのは国連事務総長、潘 基文さんの言葉。この日のキーノートスピーカーのEstela Ortega さんが語っていました。


尺八演奏はラリー・ローソンさん。アコースティックの柔らかで美しい音。瞑想的な素晴らしい音楽でした。


プログラム冒頭、尺八の調べにのって、舞踏集団がこの「Little Boy」を静かにかかげて舞台の脇に移動させていきました。



舞台の脇にかかげられるLittle Boy。


プログラムの間中、舞台の脇で静かに揺れていました。

約2時間のプログラムは、日蓮宗のお坊さんの儀式、太鼓、バイオリンとピアノ、スピーチなど。


和太鼓のエネルギー。気持ち良さそうです。


芝生の上でピクニックをしながら見ている人びとは、もちろん日系人や日本人もいるのですが、圧倒的に白人その他、つまり一般的なシアトル市民の割合が多かった。

灯篭にはみな思い思いの字を書いていました。ボランティアの方に漢字を書いてもらうだけでなく、自分の文字で祈りの言葉を書く人も。


これは湖畔で出会った白人の60代くらいのおばさまが持っていた灯篭。



この人が寛容という言葉をなぜ選んだのか、聞いてみなかったけれど、他人の考えや自分と違う他人のあり方への寛容、あるいは自分自身への寛容というのが、ほんとうの平和の始まりなのかもしれません。

平和って本当はつまらない、イライラさせられる些細な諍いでいっぱいの毎日のこと。


戦争や革命やゾンビを有無をいわさず退治できる世界のほうがずっと変化とアドレナリンに満ちています。

それでも退屈で苛立たしい日常を、時に怒り、時に嘆きながら、基本的には喜んで機嫌よく過ごすこと。
そして同じ空間と時間を共有している人びとへの想像力と共感を、持とうと努力すること。
くだくだしい話し合いを経て、折り合える着地点を見つけようとすること。

というのが寛容の精神なのかもしれない。平和とは、凡庸で疲れるものなのでしょう。


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