車中で地図を見ていたら、高速道路のすぐそばにLittle Big Horn Battlefield National Monument があるのをみつけて、寄ってみることにしました。
ところで、私はカーナビを持っていません。たいがい、知らない町ではグーグルマップに頼っていますが、基本、頭がアナログなのらしい。紙の地図を広げて見るのが好きで、今回も全国版ロードアトラスを買って、暇さえあれば(運転していなければだいたい暇なわけですが)見てました。
カーナビが気に入らない理由のひとつは、目的地に早くつく以外の「余計な情報」の入る余地がないことです。地図には、まったいらな二次元の空間に、消化しきれない余計な情報が整然と詰め込まれています。その中に自分の位置を確認するだけで、何か読み解いたような気がするところが好き。ロードアトラスは、あまり実用にはならなくって、グーグルマップも時々アテにならなかったりちゃんと見てなかったりして道に迷うので、息子には「カーナビ買いなよ(怒」と言われましたけど。(アメリカのカーナビは日本みたいに豪華品じゃなく、200ドルくらいの廉価なものが主流)あと、人に行き順を教えてもらうのが基本的に好きじゃないのかもしれません。
さてリトル・ビッグ・ホーン。先日のアメリカ史の教科書で読んだばかりの、西部で一番有名な戦場です。
入場料は10ドルですが、ここで国立公園共通の年間パス(80ドル)を購入しました。
パーキングの横にいきなりずらっと墓石が並んでいてその数に驚くけれど、これは第二次大戦で亡くなった兵士やその家族などの墓地。ハワイのパンチボウルやヴァージニアのアーリントンと同じ、戦没者のための国立墓地でした。
この戦場で亡くなった兵士たちのお墓は、ビジターセンターの奥のゆるやかな丘の上に散在しています。
1876年、カスター中佐の第七騎兵隊が、インディアン連合軍に壊滅させられた丘陵です。
数時間の短い戦いの間に、600名の騎兵のうちカスター中佐本人を含む260名近い将兵が亡くなった場所。いまはこんなにのどかな風景ですが、アメリカ史上でも有数の血みどろな戦場でした。
クレイジーホースとシティングブルという2大カリスマ酋長も揃っていたこの戦いは、インディアン側の華々しい勝利となりましたが、同時に「last stand of Indians」とも言われています。この後、戦いに参加した部族のほとんどは降伏して居留地に入り、クレイジーホースは翌年リンチ同様に処刑されてしまいました。インディアンが平原を駆け回ることができた時代は、この時に確実に終わったのでしょう。日本ではちょうど西南戦争の頃。
西へ進み続けるアメリカという国と、その近代国家という原理が、平原インディアンにも、日本にも、アジアのほかの国にも、それから太平洋の島々にも、進路に大きな影響を与えたのだと思うと、薩摩士族のラストサムライとインディアンの間に不思議なつながりを感じます。ロマンチックな眼鏡で見るべきではないですが。
ビジターセンターでの説明には、このモニュメントは「memorializes one of the last armed efforts of the Northern Plains Indians to preserve their ancestral way of life(平原インディアンによる、祖先から受け継いだ暮らしを武力によって守ろうとした最後の試みのうちのひとつを記念する)」ものだとあります。この文言は最近書かれたものでしょう。
この戦場はずっと「カスター・メモリアル」と呼ばれていたのを、1990年代になってインディアンの側こそ主役なのだからと「リトルビッグホーン」と名称を改められたそうです。
カスター部隊壊滅の地を散策する草原のトレイルもあり、レンジャーのガイドつきツアーもありますが、ヘビに注意。今回は時間がなく、トレイルを歩くことはできませんでした。
カスター部隊の白い墓石は19世紀に建てられたもので、風雪にさらされて角がとれていますが、その間に真新しい墓石も立っています。同じ1876年の戦いで亡くなった、Cheyenne (シャイアン)族の戦士を記念したものでした。羽根が飾られていました。
カスター部隊の一群の墓石と向かい合うようにして、新しいモニュメントがありました。
「インディアン・メモリアル」です。小さなシアターのような円形の壁の内側に、戦いに参加した各部族の記念碑があります。
1990年代に議会で承認され、2003年にようやく完成したもの。
この戦いには、米国陸軍の斥候としてCrow(クロウ)族などの戦士が雇われて参加して、何人かが戦死しています。
宿敵であり、この戦いでも敵同士だったクロウ族やアリカラ族とシャイアン族やラコタ・スー族が、この記念碑のなかでは「Unity と平和」を記念して一緒に並んでいます。
ビジターセンターに写真がありましたが、クロウ族の斥候がイケメンぞろいでした。
地図を通してふらりと招かれるように訪ねた戦場跡でしたが、行ってよかった。
ビジターセンターもあまりゆっくりと見学できなかったのですが、第七騎兵隊の兵士たちはアメリカに来たての、英語もあまり流暢でない(それこそFOBな)ヨーロッパからの移民が多かったというのが、新鮮でした。
ここまで来る観光客は、ほとんどが白人ばっかり。子ども連れもいたけれど、老夫婦が多かったです。この辺まで来ると、アジア人が珍しいのか、まじまじと見つめられることが多くなる。何か御用でも?と思うくらい、じっと見られることが多々ありました。
うう アメリカって広いなあ。そして、西南戦争のころ
返信削除アメリカ大陸でも起きていたことって 呼応しているような。不思議な感じです。
薩摩士族の話は小さいころから 母から聞いていますので。
アジア人で
かわいいTomoQさんは、どんなふうに彼らの目にうつってるんでしょうね。聞いてみようか。
りょんさん、この1世紀以上前の古戦場が、地平線までほとんどそのまんまの景色で残っているって、ほんとに広いです。でもそれでもインディアンと開拓民が共存できる広さはなかったんですね。
削除ペリーが通商条約を持って浦賀に行ったころ、ちょうど西部でも陸軍を使ってアメリカ議会がインディアンに居留地に押し込めるように条約を押し付けようとしていたことと、その後10数年たって薩摩士族の反乱のころに草原のインディアンが滅びていったこと、同じ流れのなかにあったのだなあと、最近よく思います。
草原のあたりでは、アジア人のちっちゃいおばさんがきっと珍しかったんでしょうねw バーガーキングでも、小さな子どもにじーーっと見つめられました。