2019/10/20
元祖悪たれ少年の話
ポーツマスのストロベリーバンク・ミュージアム、けっこう見ごたえありすぎて全部は回れないほどだったんだけど、一番おもしろかったのが「トーマス・ベイリー・オルドリッチの家」でした。
わたくし全然知らなかったのですが、オルドリッチさんは1836年ポーツマス生まれの作家。
代表作は、1870年出版の半自伝小説『The Story of a Bad Boy(悪童物語)』。
主人公の少年はいろいろとやんちゃの限りをつくすのですが、中でも白眉の悪事は、波止場の古い大砲に火薬をつめ込み、爆発させて町中を大混乱におとしいれたというエピソード。これは、作者の実体験をベースにしているといわれてます。
この小説は、それまでの物語に描かれてきたお行儀のよい子どもではないリアルな悪たれ少年たちのリアルな冒険譚を描く「悪童ジャンル」の元祖になり、マーク・トウェインのトム・ソーヤやハックルベリー・フィンの物語にもにも多大な影響を与えたんだそうです。
マーク・トウェインはオルドリッチの親しい友人でもあって、20世紀はじめにオルドリッチさんがなくなってこの家が記念館になった時にやってきてスピーチをしたんだとか。
若い日のオルドリッチさん。
ちょっと変わった髪型ですけど、なかなかイケメンです。
説明してくれたのは、オルドリッチ家の執事だったという(これがロールプレイングなのかガチなのかを聞きもらしたけど)おじさまで、話がたいへん面白かったです。
この階段の下にぶらさがってるのは消火バケツ。
むかしの日本の隣組みたいに、町内で火事があったらこのバケツを持って消火にかけつけるのが町民の義務だったそうです。
オルドリッチ少年の寝室だった部屋。
当時かなり裕福な家だったはずだけれど、それでもとてもコンパクト。
アメリカの家が今のアメリカンサイズになってきたのは、第二次大戦後、ほんの半世紀ほど前のことなんですよね。
2019/10/19
ピューリタンさんのお家拝見
ポーツマスの清教徒さんの家。
1630年頃、はじめてここに入植した英国の清教徒たちはここを「Strawbery Banke(ストロベリー・バンク)」と名づけたそうです。
その後20年くらいたって、英国のハンプシャーにある港町にならって名前をポーツマスに変えたんだとか。
端正な古い家がたくさん残っているポーツマスですが、
そのなかでも一画まるごと博物館になっているのが「Strawbery Banke」という名前の屋外ミュージアム。
17世紀から20世紀なかばまでの建物が30軒ほど保存されている、非営利団体が運営するミュージアムです。
「江戸東京たてもの園」みたいな感じですが、アットホームで手作り感が濃くて、地元のボランティアの人があちこちにいてガイドを務めています。
家具調度もかなり当時のオリジナルのものがそろっているそうです。
昔の部屋は狭い。ベッドも小さい。
そしてところどころの家には、ロールプレイングのキャストが待っているのです。
この「知事の邸宅」では、
「こんにちは、わたしはミセス・グッドウィン。わたしはここで5人の子どもを育てましたのよ」
といきなり挨拶されて、
「はっ、はぁ…(;・∀・)………」
と、なんて返していいかわからず、しどろもどろになってしまいました。
すてきな料理用ストーブ。
ローラ・インガルス・ワイルダーのシリーズを愛読していた子ども時代、ガース・ウィリアムズさんの素敵な挿絵を見てもこの「黒光りする料理用ストーブ」というものがある台所がうまくイメージできなくて、実物を見てみたいと思ったものですが、この日はイヤというほどいろいろなストーブを見ることができました。
ストーブが普及する前の台所は、直火式。
当時の家では、火の気があるのは台所だけだったそうです。
だから食糧貯蔵室は屋根裏だったのだそうです。
冬はもちろん、かるく氷点下を下回る冷凍庫のような屋根裏が、子どもたちや使用人の寝室でもあったというのです。ひー。
火のはいった炉の前で、17世紀〜18世紀の食糧保存事情についてくわしくレクチャーしてくれたおじさん。
この手前にあるロースト器が発明される前は、肉をローストするときには子どもが炉端につきっきりで肉をぐるぐる回していたのだそうです。
コーンミールもいちいちすりつぶして作るのだから重労働。
そしてトウモロコシの芯は、トイレ用にも使われたのだとか…。痛くないのか。
それから時は流れ、なんとまあ便利な世の中になったことよ。
こちらは1940年代の食糧雑貨店を再現したお店。
アメリカのロングセラー商品ってほんとにあんまりデザイン変わってない。
こちらはガス式の料理ストーブ。
ここにも1940年代主婦のロールプレイングをしている方がいらしたのだけど、写真撮らせてもらうのも忘れて、ドキドキしてすぐ出てきてしまいました。
だって1940年代の主婦といったい何を話したらいいのか、途方にくれてしまうではないですか。
2019/10/18
のどかな死後の世界
ポーツマスの町を歩いていたら、お墓があった。
クラブアップルの実が散らばる芝のなかに、薄い石版が無造作な感じに点在していて、みんなちょっとずつ傾いてます。
17世紀の墓碑もあった。あとでググってみたら、ここはポーツマスで一番ふるい墓所なのだそうです。
羽根の生えたかわいいガイコツ(死の天使かな?)が彫刻されてます。気の利いたハロウィンの飾りみたい。
これは、17世紀末、1692年になくなった方のお墓です。
どれをとっても、ガイコツなどの装飾をこらしたオシャレな墓石ぞろいでした。
墓碑には、「ここに(故人のお名前)の身体が埋められている」と、きわめて直截な内容が書かれているのです。
この下に埋められているんだ…と思うと歩くのを遠慮してしまうのでしたが、観光客らしい人がけっこう何人もお墓を鑑賞していて、白人のおじさんが二人、デジタル一眼レフカメラを構えて墓石ににじり寄って写真を熱心に撮ってました。
長いあいだ放置されて荒れるにまかされていたのを、今では市が管理して整備したり、墓石をきれいに洗ったりしているそうです。
後世の人に大切にされている、どことなくのどかで明るい感じがする墓所。
観光客が上がりこんできてパシャパシャ写真を撮っていくのも、まあいいんじゃない、ご覧になっていきなさいよ、と鷹揚に迎えてるような墓所でした。
2019/10/16
ポーツマスのねこ店員と坂の上のねずみ大使
ニューハンプシャー州のポーツマスに来ています。
ボストンからは高速バスでさくっと1時間半。
きのう(火曜日)は快晴。気温は17度Cくらいで、重いジャケットは不要でした。
海軍のシップヤード(造船所・ドライドックなど、船の大掛かりな修理をするところ)がある小さな港町。
清教徒革命以前に清教徒がやってきた、イギリス植民地としても最も古い町のひとつで、そのころの建物も残っています。
いまは、ほぼツーリストタウン。感じのよい海辺の町で、昔から避暑地として人気があったそうです。
保存された町並みのなかに、ギャラリーやブティックや雑貨店やレストランやカフェが並んでる。
ポート・タウンゼントやラ・コナーやポールズボなど、ワシントン州の小さな港町たちによく似た佇まいの町でした。
地元アーティストの作品をおいたギャラリーがあり、クリスタルやドリームキャッチャーを売っていたりするスピ系のお店やヒッピーっぽいカフェがちらほらあるとこも、似ている。
でもさすがにニューイングランド。歴史的建物の数がはんぱないです。町の半分はそっくり博物館みたいな町並み。
こういうなんでもないような扉の金具といったような細部に、歴史の厚み(アメリカなりに…)がにじみ出てます。
ポールズボとはちょっと違う……。200年分の厚み。
頑張って作り込まなくても、そのままでオーセンティックな、余裕を感じます。
こういうふうに極端に細ーい壁板を使っている古い家がいくつかありました。
端正です。手入れもいきとどいてる。
そしてドアのひさしの上にパンプキンをのっけているお家がいくつもあった。
このひさしは短すぎて庇の役に立ってないとおもうんだけど、ただの飾りかな。
かと思えば、海辺の町らしくファンキーな面もあり。
パンプキン君たちが町の広場の一画を占拠してました。
メインストリートにはレストランやカフェ、雑貨屋などのほかにタトゥーパーラーと書店が3軒ずつくらいあり、不動産屋さんと投資コンサルティングの事務所も同じくらいの数ある。
ヒッピー系と、若者と、リタイアメント世代が穏やかにまざりあってる感じでした。
平日だから当然だけど、観光で来てるのはシニア世代が多かったです。
デジタル一眼レフカメラをぶらさげている人がとても多いのが印象的だった。
もうちょっと北に行くと、スティーブン・キングさんのホームグラウンド、メイン州。
ということもあり、ニューイングランドの小さな町ってハロウィンが似合うなあ、と思いました。
すてきなマグロ看板。なんだかおいしそうな、FISH Cafeというレストランでした。
行かなかったけど。ハッピーアワー行きたかったなー。
裏通りにある小さな本屋さんSheafe Street Books。
書店の看板ねこ、ペチュニアちゃん。11歳だそうです。
この町に来た目的は、この方へのインタビュー。(嘘です)。
とてもおとなしい、生まれながらの書店員ねこ。
「外にも出ていかないし、お客さんも怖がらないし、本屋むきのねこだよ」
と、店主さんが言ってました。
小さい本屋さんだけど品揃えがけっこうツボでした。
古本と新品とどちらも、店主さんが好きなのを揃えてるようです。
窓際には村上春樹の新品がそろってた。翻訳されたばかりの『騎士団長殺し』も。
ペチュニアちゃんに会いたくて2日続けて行っちゃったけど、2日目はペチュニアちゃんお昼寝中で会えず。悲しかった。
扉にもキャラクターがありました。座り心地よい椅子もおいてある。
夢のような本屋さんです。
ポーツマスといえばポーツマス条約。
1905年、アメリカのルーズベルト大統領の仲介で、日露戦争を終わらせるための講和会議がここで行われ、条約が締結されたんでした。
日本から特命全権大使としてやってきたのが、小村寿太郎(コムラジュタロウ)さん。
町のまんなかの広場にこの↑解説板があって、条約が締結されるまで、町をあげて日本の代表団をおもてなししたのである、と書いてありました。
ルーズベルト大統領って日露戦争を仲裁して停戦にこぎつけた功績でノーベル平和賞受賞してたんですね。へー。知らなかった。
1905年にジュタロウさんたちがやってきたのはこの町だったんだ、とおもうと感慨深かったです。
ロシアと日本の代表団が宿泊したのはこの町のなかではなくて、河口にあるニューキャッスル島の「Wentworth by the Sea」という豪華ホテル。
(1980年代に老朽化した取り壊される寸前だったところ、保存運動により再生して、今ではマリオット系のホテル&スパになってます)
条約締結は海軍シップヤードで行われました。
この写真の右上の、川(湾だと思ったら河口なんだそうです。ちょっと行くとすぐ海だけど)の向こうにある、クレーンが見えているところが、その条約締結の舞台となった米国海軍シップヤードです。
講和条約の記念館があるらしいけど、車じゃなかったのでそこまでは行かなかった。
一説によると身長143センチしかなかったという、小村寿太郎さん。
この前列の矢印の人。ちっちゃ!(親近感)
ちっちゃな体格に不似合いなほど立派な長いひげをたらしていて、全体に貧相な姿ではしりまわっていたので、「チュー公」とか「ねずみ公使」とか呼ばれていたという…。
司馬遼太郎の『坂の上の雲』、読んだのはいつだったかな。
明治初期の日本のエリートたちってなんてかっこいいんだろうか、と涙を流しながら読んだのだった。
そして小説の中では脇役ながら、登場人物の中でとくに強烈に印象に残ったのが小村寿太郎でした。
ねずみ男爵ジュタロウさん。
ちっちゃくて貧相な体にモーニングコートを着込んで、どんな嫌味を言われてもまるで平然として自信のカタマリのように西洋世界のなかに突っ込んでいった、超人的に頭が切れてハラの座った人。
NHKで『坂の上の雲』がドラマ化されたときには、竹中直人さんが演じてました。あまりにもぴったりでカッコよかったけれど、少々元気がよすぎるような気もしました。
それだけ肚の座った人が、ポーツマス条約の締結後、ホテルで号泣していたという逸話もあるそうです。
景気よく日本海海戦でバルチック艦隊を破り、日本国民は大帝国を相手にした大勝利に酔っていたけれど、ポーツマス条約で日本がロシアから得たのは樺太の一部と満州などの租借権にとどまり、ロシアは日本国民が期待していた戦争賠償金をびた一文出そうとしませんでした。
ロシアにたんまり賠償金を払わせようという、日本国民の期待どおりの結果にならなかったために、条約締結後には東京では暴動が起こり、寿太郎さんも国を出るときには歓声で見送られたのに帰って来た時には売国奴扱いをされたとか。
そうそう、そういえば15年位前か、ホノルルにいたときにリサーチの仕事をもらって、ハワイ大学の図書館に通って明治時代のホノルルの日本語新聞をマイクロフィルムで読みまくっていたことがありました。ポーツマス条約の会議がまさに進展中の記事で、ロシアの全権代表ウィッテが小狡い策略家として罵倒されていたのが印象にのこってます。
それは当時の日本本国のメディアに煽られた国民感情をそのまま反映したものだったはず。
老獪な列強とわたりあいつつ、日本は戦勝国として体面を保つのが精いっぱいであること、日本国民が無邪気に期待するような賠償金をとってくるのは望み薄であることを、寿太郎さんは日本を出る前からよくわかっていた。
ウィキからの引用になりますけど
「すでに日本の軍事力と財政力は限界に達しており、にもかかわらず日本の国民大衆はそのことを充分認識していないという状況のなか、ロシアの満州・朝鮮からの撤兵という日本がそもそも日露戦争をはじめた目標を実現し、新たな権益を獲得して強国の仲間入りを果たした」(木村汎)
という結果を引き出した、冷静な外交官だった寿太郎さんでした。
最近の政治家と比べるまでもなく、明治の政治家は人間のスケールが違うなと思う。
ニューイングランドの町の広場の白黒写真でちっちゃいジュタロウさんの姿を見て、ああそうだったそうだった、ほんとにお疲れ様でした、と思ったのでした。
2019/10/15
リトルイタリーの細長ハウスとスフォリアテッラ
もうちょっとだけボストンにいます。
葉っぱの色が変わってきました。でもまだそんなに寒くない。
日曜日、リトル・イタリーにちょっとだけ行ってみた。
ここでも家がもれなくぴったりとくっついています。そしていろんな素材がパッチワークみたいに使ってあって面白い。
こういう、外壁の一部が装飾をこらした金属(ブロンズ?)で作られている建物をあちこちでよくみかけます。これがいっとき最先端の流行りだったのかな。
この上のビルは、その金属の外壁部分が、構造的に大丈夫なのか、なんてちょっと心配になるほど、かなり張り出してます。1世紀以上大丈夫だったんだよね。
これはきっと、なにかのお店だったんでしょう。
「SEGEL」とブロンズの庇になってる部分の一番下に打ち出しされてる。シーゲル商会だったのか。
(拡大図)
ラーメンどんぶりのフチについているようなこの中華っぽい四角い渦巻き模様も、とてもよくみかけます。角のベーカリーにちょっと入ってみたら、甘そうなものがてんこもりでした。
「スフォリアテッラ」を買ってみました。1こ3ドル。
外がわは軽いパリパリの生地だけれど、ずっしり重量がある。
なかにはリコッタチーズとカスタードがはいってます。
パン屋のお父さんが、「これは作るのにたいへん時間がかかるのだ。これをおいてる店はほかにはそんなにないんだ。作るのに時間がかかるからね」と熱く語っていました。
でも甘くって半分しか食べられなかった。ごめん。
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