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2019/05/14

聖人の指 <フィレンツェ思い出し日記 その14>


ドゥオーモ美術館でもう一つ、ほぇぇー!とたまげたのが、聖遺物の間でした。

ベネツィアのサンマルコ寺院にも少しあったけれど(聖マルコの遺体が最大の聖遺物というべきでしょうし)、このフィレンツェの聖堂とサン・ジョバンニ洗礼堂には600以上もの聖遺物があったそうで、そのうちのいくつかが展示されています。


このきらびやかな十字架の説明書には「Reliquary of Passion」とあった。
キリストが磔になったその十字架の一部、というわけです。
あまりにもきらびやかに宝石と金箔で飾られているので、いったいどこに遺物があるのかぱっと見ではわかりません。


 よく見ると、中心は真珠と黄金でイバラの冠が表現されてます。


聖遺物はここにあった。十字架の両側、黄金の天使の顔に囲まれたこの石。たぶんこれが、ゴルゴダの丘に立てられた十字架の下にあった石というわけなのでしょう。
十字架の細工は、11世紀から18世紀までさまざまな時代のものだと説明されてました。

 

こちらは「聖アガタのベール」が収められているもの。

聖アガタって知りませんでした。シチリア島で3世紀に殉教した聖女で、両乳房を切断されるという拷問を受けたという(ひー)。

「 そのために彼女は切り落とされた乳房を皿の上に乗せて持つ姿で描かれることが多い。彼女が捧げ持つ乳房の形との関連からアガタは鐘職人やパン屋の守護聖人とされてきたが、近代に入ると乳癌患者の守護聖人ともされた」by ウィキペディア。

パン屋の守護聖人………。



そんな美しい聖女アガタの遺物を収めるいれものは18世紀の細工。




そしてこちらが、「洗礼者ヨハネの指の骨」を収めたもの。


たしかに指の骨らしいものが。
細工は15世紀はじめのもの。アーチがゴシックだ。

聖遺物って、新世界アメリカの教会ではたぶんお目にかかることはないもの。

ローマカトリック教会の分厚い歴史をまざまざと見た感いっぱいになりました。


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2019/05/12

洗礼堂で地獄を見上げる <フィレンツェ思い出し日記 その12>


ドゥオーモの前のサン・ジョヴァンニ洗礼堂。「夢殿」みたいな八角形の建物です。
ロレンツォ・ギベルティ作の扉の彫刻が有名。(写真は撮ってこなかった)
3D効果を強調したレリーフで、ルネサンスの幕開けとなる作品とされてるそうで、若いミケランジェロが感動して「天国への扉」と呼んだそうな。



ドゥオーモよりずっと古く、11世紀に造られた建物。
天井にはモザイク画で「最後の審判」の場面が描かれています。

ルネサンスよりずっと前、ダンテさんもここで洗礼を受け、大聖堂ができるまで礼拝堂だったこの建物に通っていたという。


ダンテさんはここで洗礼盤をたたき壊したこともあるそうです。
洗礼を受けていた幼い子どもが溺れそうになったため。


後に『神曲』を書くことになるダンテ少年が親しく見ていた最後の審判の図なんですねぇ。そう思うと感慨深い。『神曲』読んでないけど…。

そしてですね、この天井モザイク画の中で、キリスト像についでもっとも目を惹いたのが……


この存在。

キリスト像の向かって右下、一番下の層に地獄の図が描かれています。
キリストの左(見る人からは向かって右)が地獄、右が天国のようです。

その地獄の中で大忙しなのがこの……存在。
両手に亡者、口にも亡者、そして耳から生えている蛇?も亡者をくわえている。
蛇はかなり困った顔をしてます。

ダンテが見ていた地獄図ですよ!

ドゥオーモ美術館で絵葉書になっていたので買ってきました。




地獄は大忙しとはいえ、キリスト像は「ジャッジメント・デイ」の図なのだけれど、なぜだかとてもウェルカムな感じで、癒やされる空間でした。

お行儀がわるいけど、ベンチに頭をのせてひっくり返ったようなカッコウでとっくりと眺めさせていただきました。
スタンダール症候群」にならないように…。
様式化された天使たちや植物の模様もとてもきれいで、心が休まる。

観光客であふれる21世紀じゃなくて13世紀のミサの最中に見たなら、きっと違うメッセージを受け取ったに違いないですが。

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2019/04/04

ビューティフル・ハーモニーかよ。



近所のスーパー、バラードマーケットで水仙買ってきました。
鳥たちがいたスカジットヴァレー産かな。
ひと束2ドル。テーブルがぱっと明るくなる黄色。

そんなことより、ビューティフル・ハーモニー。

日経新聞サイトによると

(ここから引用)
外務省は新元号「令和」の意味を英語で表す際に「beautiful harmony(美しい調和)」に統一する方針を決めた。河野太郎外相が3日までに各国在外公館にこの方針に沿って対外的に説明するよう指示した。
同省によると「令」を「命令(order)」と報道する海外メディアもあり、正しい解釈を促す狙いがある。
(引用ここまで)

…だそうです。(太字はわたくしがつけました)

このニュースはきのう、Facebookの翻訳者グループのポストで知ったのだけど、当然ながら外務省のこの翻訳「beautiful harmony」に、コメントしていたプロ翻訳者の(日本在住のネイティブ英語スピーカーの日英翻訳者の方々ばかり)ほとんどの人は冷笑していました。

「……まじで?」
「 翻訳ちゅうのが、結局は好きな解釈を選べるという典型やな」
「MOFAの官僚が知ってる素敵単語がそれだけだったんちゃう?」

というような反応。(うろ覚えです。FBでこの元ポストを15分くらいかけて探したのですが、見つからず。FBの検索エンジンがまったく役に立たないことを知っただけに終わる)

あああ、そしてこの「ビューティフル・ハーモニー」という公式訳語は「日本のポルノアニメゲームの主題歌と一緒だな!」という記事もでてしまったよ。ありがちすぎるよね。

『エコノミスト』で令和が「Order and Harmony」と訳されるなど、海外メディアで「令」が「オーダー(命令)」という意味にのみ取られ、「お上が命令し、民がそれに従順に従い、平和がうまれる」といった官製ストーリーがうっすら透けてみえるような解釈が広がり、日本のイメージにそれが固定されてしまうのは非常にまずい、と外務省の中の人は焦ったのでしょう。

しかし、正しい解釈って何だよ!

翻訳という仕事をしていると、日々、言葉というのはほんとうに重層的で何通りにもカイシャクできるものだと骨身にしみるわけです。

とくに漢字にはいくつも、互いにまったく関係ないような意味があるって、小学校で習いますよね?

漢字を組み合わせた元号は、いってみれば「詩」のようなもんです。
だって元ネタがそもそも中国の詩を下敷きにした、和歌集の序文であるわけでしょ。
数日前の令和ちゃん記事に書いてます。)

ポエムに「正しいカイシャク」はないです。
「メインストリームのカイシャク」はあり、「本人が意図したこと」はあるとはいえ、それは「正しい」とか正しくないとかではない。

ある意味、立場と世界観の問題でしかない。

それに詩歌の場合、本人の意図した以上にその言葉の意味が広がっていくことで、その詩が力を持つようなことが起きる。

詩の言葉は、個人の意図や正邪の判断を軽々と超える力を持っているのです。

元号は「識者」(なんで林真理子が入ってるのか、まったく納得できませんけど)による集合的な美意識が決めたポエムです。

そこには当然、政治的なメッセージもこめられている、のかもしれない。それは識者の選出作業の中にすでにこめられてるんでしょう。(たとえ優れた文学者であっても、ヤバそうなことを言い出したり、体制に真っ向から楯突くことがわかってるような人は選ばれない。林真理子は自民党にとって無難な人選なんでしょうね)

元号は、ポエムでありおそらくは黙示的な(本人たちもあえて言語化しようとしていないかもしれない)政権からのメッセージであると同時に、おそらくもっとも本来的には「次の時代がこうなりますように」という、祈りであるはずです。

で、漢字は、そしてありとあらゆる単語もそうですが、必然的に重層的な意味を持っています。

たとえば法律文のように解釈のゆらぎの少なさを目標に書かれる文章とは違って、意味が厳密に固定されていないポエムの場合には、その重層的な意味が本領を発揮するんです。

万葉はまだそんなでもないと思ったけど、新古今集のあたりの和歌の世界は「シャレ」ばっかりです。これは日本語に多い同音異義語を駆使して、歌の世界にひろがりを呼び込む技術であったようです。 これも言葉の重層性を意識しているからこその技術であり、あそびです。

 「令」には「めでたい」「美しい」という意味もありますが、現代ではそれはほとんどの人が知らず、「命令」の意味を思い浮かべる人が多いはず。

「令」の字がそういう宿命を負った字であることを、選ばれた「識者」も政治家も当然知っています。

ひとつの言語の単語に訳語を当てるというのは、解釈作業です。

単語に重層的な意味があるから、詩の翻訳はむずかしいんです。

「令和」はそこそこよくできたポエムかもしれないけれど、「ビューティフル・ハーモニー」はそのポエムの訳語としては、その広がりを全く表現せず、含意をチラ見せすらしてないってことで、合格点とはとてもいえません。

ふだん法律文書にばかり触れてる官僚さんが、「誤解なく簡単に世界の人民にあまねく分かるように!」て作ったのかもしれませんが。言葉の感性が美少女アニメポルノと一緒じゃん、というのをはからずも露呈してしまいました。

もし官僚の人たちが、これが今の日本を代表する感性です!て主張するならそれはそれでちょっとまた別に考える必要のある問題がでてくるけど。

漢詩が一般教養だった明治の官僚だったらもっとマシな、格調を感じさせる訳語を作ったであろうものを。

言葉は文化そのものです。一国の文化というのはすぱっとキレイに単色で表現できるものではないですよね。もっとグチャグチャしたものです。

いろんな人がいていろんなことを考え、主に言葉でそれを伝達しようとしている、それが文化ですよね。

「そして、この令和には人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つという意味が込められております」

という安倍首相談話(そもそも万葉集の漢文部分から引いてきたということにも一切触れてないし)をきいて、ケッ、と思う人もいるわけですが、それも文化というものです。

そもそも文化というのは、排除装置でもあるんですよね。

文化は知識と美意識の集成であり、「正しい解釈」をよしとしなかったり知らなかったりする人を社会が排除するときの、素敵な言い訳にもなってきた。

ひとつの文化についてこられない人を排除したり、自分たちの文化を知らないよその土地の人を虐殺したり強姦したり略奪することに黄門さまの印籠のような正当化の力を発揮してきた。

文化が単一の価値観に翻訳されて、そこに権力がのっかると、たいていそういうことになるようですね。

文化のそういうダークサイド面の運用についても真摯に心を寄せないかぎり、本当に美しい和の社会なんて、絶対に到来しないでしょう。

話がそれたけど、美しく心を寄せ合うには、どこかの誰かがきめた「和」に無理に迎合したりさせたりするのではなく、文字や言葉には(つまり人の意図や意識には)常にものすごく幅広い世界が隠れているのだということを、自分らにはまだ知らない、まだ理解できない世界があるということを、恐れずに認めることがとても重要なのだと思いますのよ。

そうして得られる「理解はたいへんだ」ということの理解のあとに、一人ひとりの中に、そしてお互いの間にあらわれてくるのが、ほんとうの<和>ではないでしょうかね。


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2019/03/27

旧世界の中心の金色の聖堂 <ヴェネツィア思い出し日記 その6>


ヴェネツィアでいちばんおどろいたのは、何といってもサン・マルコ大聖堂でした。

だいたいこの入り口からして、なんという過剰さ。
アーチと柱と装飾がいったい何重になっているのか。
いったいなぜこんなにたくさん柱が必要なのだ。


玉ねぎを重ねたような美しいクーポラ、優雅な尖塔。

10世紀頃から建設が始まり、内側も外側も何世紀もかけてどんどんアップデートされていったという建物です。

正面ファサードの上のアーチの部分は17世紀、下の大理石の柱は13世紀ころのものだという。

日本の古い建物はみんな木造だし、こうやって原型がわからなくなるほどまでどんどん上書きしていくという発想は、ほとんどないのでは。

伊勢神宮だって、20年ごとにすっかり新しく建て直してしまうではないですか。

「まっさらにして香りも新しく新規まきなおし」というのが木の文化なら、上にどんどん重ねて、重くしていくのが「石の文化」っていうものなのか。

「石の文化」って漠然と聞いてはいたけど、ほんとうにこう目の当たりにすると、その重みに圧倒されます。



色とりどりの大理石。柱の色がみんな違うのですね。とにかく、派手。とにかく過剰。
そしてこれでもか!という装飾。

12世紀に第四回十字軍としてコンスタンティノープルを陥落させたあとで東方から大理石がざくざく手に入るようになったので、このファサードを大理石で覆ったそうです。
内部にも大理石がふんだんに使われてます。

第四回十字軍…。

同じキリスト教国だったビザンチン帝国の首都を攻撃し略奪のかぎりを尽くしたという、キリスト教の有名な黒歴史のひとつですね。

宗教的な意義は名目ですらなかったこの第四回十字軍がコンスタンティノープルの破壊と略奪の末に持って帰ってきたお宝が、ここの聖堂にはたくさんおさめられています。

この遠征のあと、ヴェネツィアは地中海の貿易を手中におさめてますます栄えたそうです。

この頃の都市国家の政治家や商人と教会、教皇の力関係って、なんていうかもうほんとにムキダシですね。

そこに都合よく持ち出される神様…。


わたくし、ここに行くまで知らなかったのですが、サン・マルコ大聖堂って、あの福音書の著者!聖マルコの遺体がある聖堂だったのですね〜〜!

828年、当時イスラム圏であったエジプトのアレクサンドリアから、これまたヴェネツィア商人が聖マルコの遺体を(遺骨か)、「豚肉の樽」の下に詰めてひそかに運び出したそうです。イスラムの人には豚肉は不浄のものだったので、樽の下までは調べないだろうと。

聖人の遺骨を豚肉の樽に詰めて密輸。ヴェネツィア商人、大胆です。

ヴェネツィアに運ばれた遺体は、ローマの法王ではなくて、当地のドージェに「こんなんもって来ました!」と報告・献上され、おお、それではヴェネツィアの守護聖人として手厚くまつろう、というわけで教会が建設され、その後何世紀もかけて大聖堂に成長していったんだそうです。

福音書の著者の遺体を守るというのは、キリスト教圏の都市国家として破格のステイタスを得るってことですよね。

その破格の遺物があればこそ、この聖堂が何百年にもわたって過剰なまでに絢爛豪華なアップデートを重ねていった、というのも分かる気がしました。



聖堂そのものの入場は無料ですが、中には上階の美術館、奥の右手の宝物館、そして一番奥の、聖マルコの遺物をおさめた棺が安置されている場所に入るにはそれぞれ別料金が必要です。

聖堂内は撮影禁止。そして半ズボンやビキニでも入場できません。
観光名所とはいえ祈りの場ですので、お行儀に対しては厳しいです。わたしの目の前でも、なにか指示に従わなかったらしい中国人男性が聖堂内から追い出されてました。

で、明るい広場から聖堂の中に一歩入ると、「どわぁぁぁぁぁ!」となるのです。
そのようすはこちらのビデオでぜひごらんください。




すべてが金色!
これ全部、金箔を張ったモザイクです。わたくし全く前知識がなかったので、腰をぬかすほど(<やや大げさ)驚きました。

平泉の金色堂の100倍は迫力がありますよ〜!比べるべきものでもないけど、金色ということでいうなら。

とにかくこのボリューム、それも石、大理石の重み。そして金。圧倒されます。

「新世界」のアメリカやメキシコでいくつかの大聖堂を訪ねたことがあるけど、こんな空間を体験したのは初めてでした。
旧世界すげえ。

モザイク制作も12世紀から始まり、何世紀もかけて完成していったものだそうで、よく見るとそのスタイルもまちまちだし、物語が特に堂内オーガナイズされているわけではなくて、旧約聖書や新約聖書の物語や聖書外の聖人があちこちにわりとまとまりなく描かれています。

堂内撮影禁止なので、お堂の中で買った小冊子より。


中央手前のクーポラの内側に描かれている、聖霊が降臨した「ペンテコステ」の図。
ドームのてっぺんから使徒の頭にそれぞれ天頂から白い道が通じて、ダウンロードされてる感がでています。

入り口付近にはノアの方舟の図。奥の正面壁にはもちろんキリストの姿。

この聖堂もモザイクも、ビザンチンの影響を強く受けてるそうです。

ヴェネツィア建築には東西文化が融合している、と教わりましたが、この聖堂には東ローマ帝国の要素、つまりコンスタンティノープルを通ってきた東方の要素がすごく濃いんですね。

貿易都市のパワーっていうのはこういうものなのか!と、この聖堂を見てしみじみその規模を実感しました。

ヨーロッパ、中東、アジアの貿易の要所で、当時、文字通り世界で一番豊かで情報通でもあった都市。

ローマの権威を牽制しつつの、一切の躊躇なしの、世界一の都市としてのこの自負。

ドヤ感まるだしです、ヴェネツィア。

すべてが、「ここが世界の中心である」と宣言しているようです。

聖堂の奥のほうにある聖マルコの祭壇(その下に遺骨が安置されている)もきらびやかな大理石で何重にも飾られていて、その後ろにはこれまた黄金の衝立てが。


こんなかんじで祭壇があって、その奥にあるのがキラキラの…


この衝立てです。

ここには聖母子や福音書の人物、聖マルコの遺体奪還の場面などが金の上にエナメルで描かれていて、宝石がたくさん埋め込まれてます。
これだけでも腰を抜かすほどきらびやか。

この衝立ては「パラ・ドーロ」という名前(固有名詞)なんだそうで、これもまた12世紀から何百もかけてアップデートされ、コンスタンティノープルからの略奪品もつぎはぎされて完成したそうです。

ちなみに、右手にある宝物館にも、精緻な金銀の細工物のほかに「キリストの磔になったときの十字架の土台石」とか、「茨の冠のかけら」といった聖遺物が保管されています。


モザイクを間近で見られるのは、上階の美術館。
階段がめっちゃくちゃ急で、まったくバリアフリーではないのですが、ドームの内側を間近で見られるだけでも行く価値はあり。


カトリックの大聖堂というのは、中がいくつものエリアに分かれていて、祈りの場所が複数設けられているのですね。

たぶん多方面に語弊があるとは思うのだけど誤解をおそれずに言うと、カトリックの大聖堂っていうのは日本の仏教寺院に似ているなと思いました。

キリストと三位一体の神様が中心にあるのだけれど、そのほかにも実にたくさんの存在がいる。聖母マリア。天使。旧約聖書の人物たち。十二使徒と新約聖書の人物たち。その土地にゆかりの深い聖人。

仏教寺院で、釈迦如来や大日如来のほかに、菩薩、明王、天部、それに開祖の僧や、歴史上の人物(聖徳太子など)がいるのと、とても良く似ていると思います。

信仰する庶民にとってはアクセスポイントが多いのです。

そしてこの聖堂は、何百年にもわたる政治的なあれこれとはまた別に、というかそれと並行して、本当に生きている、とても強い祈りの場だなあと実感しました。

堂の左手にはイコン的な小さな聖母子像の絵画の前に小さな礼拝堂が設けられていました。
美しい聖母子像なのだけど、これもまたコンスタンティノープルから略奪されたものだそうです……。
イコン的、じゃなくてほんとうにイコンだった。マドンナ・ニコペイアという固有名詞がついていますが、これは「勝利の導き手」という意味だとか。

福音書著者の聖ルカが描いたという言い伝えもあるそうで、ヴェネツィアの人々には古くから厚く信仰されているそうです。


画像はハギア・ソフィア大聖堂についてのサイトより。
コンスタンティノープルで崇拝されていたイコンだったが十字軍の際略奪されヴェネツィアに奪われたのだそうです。

このイコンの前の一角は堂内でも「祈りの場」として別枠になっていて、椅子が何列か設置されてます。

その奥にはまた別のチャペルがあって、そこは観光客はオフリミット。2度めに行ったときにはベールを被った信者さんたちの震えるほど美しい合唱が聞こえました。

聖母子像の前には左右にロウソク台があり、好きなだけの献金をしてロウソクを灯すことができます。

血なまぐさい歴史にもかかわらず、ここは、ありとあらゆる悩みや願いを持ってくるであろう人びとをまるごと癒やすような、ものすごく優しい場所でした。


ここは確かに祈りがきかれ、確かに癒やしと恵みが注がれる場でもあるのです。
それはここで祈っていると確かに感じられる、濃い〜〜恵みです。

圧倒されるほどの略奪品に囲まれた場、力の政治と、圧倒されるほどの力強い恵み。
同じ場にあってまったく相いれないように見えるものが絡まり合っている歴史。

とても簡単に理解なんてできない旧世界の厚みに、やられっぱなしでした。


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2018/11/06

ロスコ・チャペル



ヒューストンで半日の自由時間。どこに行こうか検索していてまず見つけたのがここ、ROTHKO CHAPEL (ロスコー・チャペル)でした。

美術史の授業か何かで、その存在を聞いた覚えがうっすらあった。そうかヒューストンにあったんだ、これはなにがなんでも絶対に行かなくちゃ!と、優先順位の第一位に置きました。

結局、飛行機の時間がすこし遅めになったので、ヒューストン美術館もはしごできたのでした。

ヒューストン美術館からUBERで7分。

閑静な住宅街にあります。入場は無料。


 なかは撮影禁止なので、NPRのサイトからお借りいたしました。

これはどのような施設かというと、ロシア生まれのユダヤ系アメリカ人画家、マーク・ロスコの絵を全面にはりめぐらせた「チャペル」。

チャペルとはいえ特定の宗教団体のものではなく、キリスト教から仏教までさまざまな宗教や団体がイベントに使ったりしています。(当初はローマ・カトリックの聖堂として計画されていたらしいです)

マーク・ロスコについてはこのサイトなどが詳しいです。

わたしは行ったことがありませんが、千葉の川村記念美術館にもロスコ・ルームがあるんですね。行ってみたーい。

ロスコさんは最初はシュールレアリズムなども追求していたそうですが、具象から抽象画に転じ、ポロックなどと同時代の1940年代〜50年代のニューヨークで頭角をあらわします。

そして表現を模索していくなかで、いっさいの具体的イメージをはぶいた、ほんわかした四角形の色彩だけで構成した大画面の作品というスタイルを確立していきます。

このチャペルを飾るのは、パリからヒューストンに移住した大金持ちのデ・メニル夫妻がロスコに依頼したオリジナル作品です。

というか、はじめからロスコの作品を中心に祈りの場としてつくった建物で、チャペルそのものもロスコが設計にかなり関与したそうです。

自分の絵は1枚だけ飾るのではなく、複数の絵でつくった空間で見てもらいたいと主張していたロスコさんにとっては、最高のオファーだったに違いありません。

ロスコは、大画面の色の世界を制作することで、見る人がその中に包み込まれるような体験をすることをめざしたといい、自分の絵が描いているもの、提供しているものを「崇高な体験」と呼んでいます。

シアトル美術館にも素敵なロスコ作品があります。


 (シアトル美術館サイトより、「#10」、1952年)

わたしはこのシアトル美術館収蔵の作品など、50年代のロスコ作品がとっても好きで、見ているとほんとに気分が上がるし癒やされるのだけど、このチャペルの作品はそれよりずっと暗かった。

なので、入った瞬間にちょっとびっくりしました。「うわっくら〜〜!」と思った。

 
こちらのサイトからお借りしてます。


60年代後半の、最晩年の作品。
このあと、ロスコさんはチャペルの完成を見ずに66歳で自殺してしまっているのです。健康を害し、結婚生活も破綻したとのこと。

正面の「絵」は、3枚からなっています。もともと、ローマ・カトリックのチャペルにする計画であったといい、ローマ・カトリックの伝統的な祭壇画(まんなかに十字架のキリストや聖母子をおいた三連の画)を踏襲している構成だそうです。


 たとえばこんなやつ(ロヒール・ファン・デル・ウェイデン画、1443年)






たまたま、行った日は雨が降ったりやんだりで、ヒューストンにしてはとても暗い日だったこともあって、スカイライトだけの室内はことのほか暗かった。

帰りに受付のお姉さんに聞いてみると、こんなに暗い日はめったにないとのことでした。

質素な木のベンチのほかに、床にクッションがいくつかおいてあって座れるようになっています。

三々五々、人が静かに入ってきて、ベンチや床でしばらく静かに座って出ていきます。
わたしもベンチと床に、かなりの時間座っていました。

ここで瞑想していると、壁からロスコさんが出てきました。
…というのは嘘ですが、ああ、暗いけどやっぱり癒やされる、と思いました。

50年代のロスコさんの絵とは違い、楽天的な要素はありません。
明るい救済の絵でもありません。

むしろ、最初は陰鬱ささえ感じる、固く塗り重ねられた、息苦しいほどの密度のある画面。

でもそこには、はっきりとした意思を感じました。

自分の人生をはるかに超える「崇高さ」との出会いを、リアルに提供しようという意思。
静かな空間に、ナレーションなしでその崇高さを再現しようという意思。

その強さに、そしてそれを信じようとする人たちの希望の切なさに、もう本当に泣けてくるのです。

デ・メニルさんは、ロスコさんが色彩だけの画面で表現しようとしてきたことを正確に理解して、その理想が最善の形をとれるように、このチャペルを提案したのだと思う。


それを何と呼んでもいいけれど、多くの人は「崇高なもの」とのつながりを必要としています。

さまざまな宗教を通して示されるその崇高な体験と価値は、言葉と物語にからめとられて、ときにはよその人を残忍に殺すための理由にもなります。

このチャペルは、その崇高さへの希求を否定することなく、それを歴史のなかのあらゆる物語から解放するための試みなのだと思います。

宗教を断罪するひとたちは、宗教が人にもたらす体験をあまりにも軽視しすぎていることがあまりにも多い。

もちろん宗教は、恐ろしくたくさんの血を流してきたし、人を抑圧するシステムとしてもものすごく有効に機能してきました。

でも、人はまだ祈りを手放す準備はできていないし、手放すべきでもないとわたしは強く思います。

祈りを通してしか実現しないものが世の中にはあると思うから。



ロスコさんも救われたらよかったのにと思うけれど。それはまた別の物語。

このチャペルの近くに住めるならヒューストンに移住してもいいやとまで思った。
(この周辺がまた、素敵な住宅街なのです)
また行きたいです。 できればもっと明るい日に。




チャペルの前にある池。

バーネット・ニューマンさんの作品「ブロークン・オベリスク」 。この人もロスコさんとほぼ同年代で、ほぼ同時期に亡くなってます。

この彫刻は!ものすごく見覚えがある!

ワシントン大学のシアトルキャンパスにあるのとおそろいですよ!

(これはワシントン大学のレッドスクウェアにあるやつ。画像はウィキペディアより)



近くに由来が書いてありました。1969年、ヒューストン市が現代彫刻を購入しようとしていたときに、デ・メニルさんがこの作品を選び、市庁舎の前に設置することと、当時暗殺されて間もなかったマーティン・ルーサー・キング・ジュニアにこの作品を捧げることを条件に資金を半分提供することを申し出たそうです。

しかしヒューストン市は、市役所前に設置することには同意したものの、キング牧師に捧げることを拒否。

そこでデ・メニルさんはオファーを取り下げて、自己資金のみで作品を買い取り、建設途中だったチャペルの前に設置することにしたのだそうです。

かっこよすぎる。しびれるー。

テキサスはバーベキューとカウボーイだけの土地ではありませんでした。
デ・メニル夫妻の美術館が、またもう本当にびっくりする内容でした。つづく。


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2018/08/04

七夕の上賀茂神社


脈絡なく京都日記のつづきです。

雨が時々激しく降っていた七夕の日、上賀茂神社に行くと、きれいな竹飾りが。

これを見て、そうだ今日は七夕だった、と思い出したのだった。




葵(「二葉葵」)の葉をかたどった、ハート型のきれいな短冊が用意されていました。


上賀茂神社、「賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)」というのが正式名称だそうです。

とても雅な感じのする神社。



入ると、まず目につくのがこの「立砂」。
これは「憑代」でもあったそうで、古代っぽい。

本殿の北北西2キロのところにある「神山」という山に降臨した神さまを祀っているといい、造営は白鳳時代、678年。って、また天武天皇の時代だ〜!



この境内にある建物はどれも、定期的に屋根を檜皮で葺き替えているそうです。
以前は伊勢神宮のように建て替えていたのだけど、国宝と文化財に指定されているので今は取り壊して建て直すことはせず、屋根を葺き替えるだけになったと。

この屋根の形!なんてキレイな曲線なんでしょうか。



屋根の隅がきゅう!と上がっているところがぐっとくる。

ちょうど特別拝観実施中だったので、国宝に指定されている本殿も拝見できました。
本殿のほうはカメラ禁止だったけど、なんというか、本当に古い都の断片をちらりと拝見した感じ。

「流造」の原型といわれている建築で、今の建物は文久に建ったものだけど、おそらく白鳳時代の形をとどめているらしい。



摂社のひとつ、片岡社は、紫式部さんが通ったそうで、新古今集におさめられている歌

ほととぎす声まつほどは片岡のもりのしづくに立ちやぬれまし

はここのお社を詠んでいるのだそうだ。
 


絵馬はハート型(葵の形なのだろうけど)で、紫式部さまのお歌と十二単の絵柄。
雅ですねー。


すみずみまで行き届いていて、清々しい境内。


境内に水が流れているのも、浮世離れした風情をますます濃くしています。



深山幽谷の気配まである。

ちょうど雨が降ったりやんだりの天気だったので、よけいにしっとりとした風情で、なかなか立ち去りがたい、素敵な場所でした。



バスで四条の町へ出ると、大雨でした。


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