2015/05/24

アメリカン・スナイパー 羊に殺される牧羊犬の話


レントンのIKEAのすぐ近くにある激安3ドルシアターで、『アメリカン・スナイパー』を見てきました。
シアトルからは離れてますが、けっこう普通の映画館で、大変お得。いつも大体空いてます。

売店で売ってるポップコーンの半額という驚異の入場料金だけに、回ってくる話題作はだいたいDVD化されるくらいの タイミング。

というわけで去年公開された時からみたいと思ってた『アメリカン・スナイパー』をようやく見てきました。
 
予告編は、爆弾を抱えて米兵に向かっていこうとする幼い男の子を狙撃銃のスコープ越しに見て苦悩する場面と、故郷で待つ自分の子どもと過ごす場面が交互にカットバックされるという構成の緊張感溢れるもので、これはきっとPTSDの苦しみを描いた映画なんだろうなと思ったのです。



でも違った。

イーストウッド監督はなぜこの映画を、今、作ったんだろう??と、これを見て以来ずっと考えてます。

日本でももうとっくに公開されてるし、実話に基づいた映画なので以下ネタバレ全開です。長いです。

クリント・イーストウッドという人は、荒野のガンマンを演じていた時から現在に至るまで、「強い者の美学」を変わらずに演じ、監督作品の中でも変わらずに描いて来た人だと思います。

強くて力ある者の、シンプルに、人に与することなく、また弱い者をそしることも傲慢になることもなく、自分の力だけを頼みに生きる美学。

人に何かを押し付けることもないかわり、人に押し付けられることも嫌う、人に理解されることなど期待していない、その代わり人のために自分の流儀を変えようとは一切しない。

サムライに通じる(組織に殉じるサムライとは少々違うものの)ストイックさを中心にもつ美学です。

共和党な人やリバタリアンな人からは自分たちの代弁者みたいに思われているのかもしれませんが、イーストウッドさん自身はイデオロギー的なものや、まして、ひとつの意見に群がるようなことは嫌いなのだと思う。

アジア系移民のファミリーを(最初は敬遠していたものの、最終的には)自分のやり方で守る頑固親父を描いた『グラン・トリノ』でも、自分の力を伸ばすためまっすぐに努力する貧しい女性ボクサーと頑固な老トレーナーを描いた『ミリオンダラー・ベイビー』でも、その孤独な強い者の美学は貫かれていました。

この二作では特に、その題材から、典型的な米国の保守派の立場とは一線を画していることをはっきり示したイーストウッド監督でした。
第二次大戦を描いた『硫黄島からの手紙』と『父親たちの星条旗』では、何万という生命が失われた戦場を2つの作品で両側から描くという、映画史上たぶん誰もやったことのない試みを見せてくれました。

この2作は興行的には大ヒットというわけにはいかなかったようですが、宝のような作品だと私は思います。

二宮くんが素晴らしかった『硫黄島からの手紙』では、 ケン・ワタナベの演じる栗林中将がイーストウッド流の美学を持つサムライとして清々しく描かれていたのが印象的でした。

米国側の『父親たちの…』も、「ヒーロー」にされてしまった兵士たちの困惑と居心地の悪さを通して戦争と国家プロパガンダを描くという、とても地味ながら素晴らしい映画です。(この映画の原作者の方のリサーチを、縁あってハワイにいたころほんのちょっとだけお手伝いさせて頂いたこともあり、個人的にことに感慨深い作品ですが、それを別としても、メインストリームのアメリカ映画で、あのブッシュの戦争の間に作られた作品だと考えると、破格の存在だと思います。)
 
そんなわけでこの『アメリカン・スナイパー』にも、そういった重層的な視点を期待していました。

でも、それがほとんど、強調されていなかった。まったくない訳ではない。でも、気をつけて見ていなければ見過ごしてしまうくらいのほんの一瞬くらいしか描かれていなかったので、観終わったあとにかなり落胆してしまいました。

主人公は、イラク戦争中160人以上を射殺したという記録を持つ海軍の特殊部隊シールズのスナイパー、クリス・カイル。

映画の冒頭、イラクの戦場で子どもをライフルのスコープに捉え、最大のジレンマに陥っているところで少年時代の回想が挟まれます。

テキサスの少年時代。
弟がいじめられていればいじめっ子を徹底的にやっつけることを自分の義務だと思って疑わない、真っ直ぐな少年だった主人公が、食卓でお父さんに説教されているところ。

お父さんはこう言います。

<人間には3種類ある。まず羊。そしてそれを喰い物にするケダモノであるオオカミ、そして、羊たちをオオカミから守るシープドッグ(牧羊犬)だ。ごく限られた祝福された者だけが、牧羊犬になれるんだ。
この家では、羊は育てていない。そしてお前たちがオオカミみたいなマネをしたら、俺はお前たちを叩きのめしてやる。>

要するにこの兄弟には牧羊犬になる以外に道はないわけですね。そしてこの兄弟は真面目に一生懸命に牧羊犬になろうとする。

これは、まさにクリント・イーストウッドの美学の核心なのだな、と、この場面を見て思いました。
この原作は読んでいないのでまったく未確認ですが、この部分はイーストウッド監督の創作なのではないか、だとしてもうなずける、と思います。
ただし、イーストウッド監督の視点はもちろんそれで終わりではありません。

ナイロビの大使館爆破事件を見て衝撃を受けた主人公は、国を守る牧羊犬になろうと決意して、軍に入隊、特殊部隊の訓練を受け、911のテロの後まもなくイラクに送られます。

妻との出会いのエピソードやロマンス、訓練の場面も『愛と青春の旅立ち』みたいにこまごまと描かれてますが、やはり圧巻は戦場の場面。

いきなり、爆弾を抱えた子どもを撃つか撃たないかという決断を迫られ、恐ろしい逡巡の後、彼は子どもを射殺し、続いてその爆弾を拾い上げて海兵隊員に向かっていこうとする母親らしい女性も射殺する。

4回もイラクへ(後の2回は恐らく自分で志願して)送られ、160人以上もを射殺して英雄と祭り上げられるカイルは、戦争のあいまに帰る故郷で、銃声のような物音に怯え、戦場の記憶を拭い去ることができず、PTSDに苦しみますが、それを一切誰にも相談しようとはしない。妻は、悩みを話してくれない、となじりますが、カイルには絶対に話すことができない。

牧羊犬は羊に相談することなんかできないからです。

ついに、子どもの誕生日パーティーという平和な場で、犬が子どもを襲っているのだと思いこみ、一瞬錯乱してしまったカイルは、精神科医の診察を受けます。

でもそこで、医師の「戦場で、自分がしなければよかったと後悔するようなことが何かあったか」という問いに、カイルははっきりと答えるのです。

「いや、ありません。それは、僕ではない。自分はするべきことをしたんです」

兵士が迷いを持ったら、それはもう兵士ではない。

特殊部隊のカイルの同僚は、 戦場で「俺たちがここでやってることに意味があるのか」と迷いを見せたすぐ後に、敵のスナイパーに頭を撃ちぬかれて死にます。

その葬式の席で、その友人が母親に宛てて死ぬ直前に書いた「勝利はどこにあるのか…」というような、悩みきった手紙を母親が読みますが、カイルは「あの手紙があいつを殺したんだ」と、妻に言うのです。

カイル自身は、イラクで自分たちが「悪いやつら」を一人ひとり片付けることで、アメリカが守られている、と、まっすぐに固く信じています。

それが崩れたら、きっと彼のすべてが崩れてしまう。だから、精神科医にだって、自分の直面している危機を語ることはできない。

まだ続いている戦争に自分が参加していないことだけに焦燥を感じている、自分はもっと多くの人を守れるはずなのに、と、彼はそう医師に言う。

 そこで精神科医は、戦争で大きな障害を負った帰還兵たちと出会うことをカイルに勧めます。彼らを励ますことを通して初めて、カイルは自分の心に負った傷も癒やすことができるようになる。

そしてそんな帰還兵であった海兵隊員の1人に、彼は射殺されてしまうのです。




この映画では、主人公のカイルの視点と対立する視点がいくつか描かれてます。妻の視点、戦場で自分たちの正義に迷いを持って死んだ友人の視点、イラクの人びとの視点、そして、守られる立場の羊たちの視点。

そのどれもが、ほんのちょっとだけのスケッチでしか描かれていない。さすがにイーストウッド監督だけあって、一瞬だけでも印象が深いのですが。

武装勢力の中に、カイルのライバルといってもいいような凄腕スナイパーがいて、そのスナイパーとの対決が映画の1つの山場になってます。

シリア出身の若いスナイパーは、とってもかっこ良く描かれてます(イケメンですし)。

家の中に射撃の選手だった時の国際大会の表彰台の写真が飾られていたり、生まれたばかりの赤ちゃんを抱いた若い妻の姿も描かれ、彼には彼のストーリーがあることが示されるものの、映画はそちら側にはそれ以上踏み込みません。彼にはセリフは1つもなく、カイルに感情移入して観ていれば、単に影のような「悪者」の1人として見ることもできるはず。多分、この映画に感動したアメリカの人の大部分はそう見ているような気がする。

イーストウッド監督はこのスナイパーにも、強い者の美学をまとわせています。ストイックで、自分に与えられた運命に逆らわず、忠実にするべきことを最大限の力を発揮して粛々と行う、牧羊犬。

でも、硫黄島の映画のような奥行きはここには与えられていません。

そのほかのイラクの人びとも、陰影深く描かれてはいるものの、戦地に送られたアメリカの若者から見た光景でしかありません。

もう1つ、羊の視点、というよりも、牧羊犬になりきれなかった羊の視点。これは、ほんの2コマ。

カイルの弟も志願して海兵隊に入隊し、イラクに送られます。カイルの部隊の輸送機がたまたま空港でこれから本国へ帰る弟の部隊と鉢合わせします。

久々に会った弟は、数ヶ月の戦場で疲れきっていて、すでに100人殺しの「レジェンド」として有名になっている兄にも複雑な思いを抱いているようです。

「『レジェンド』だってね…俺はもう疲れたよ。早く帰りたいだけだ」と、投げやりな弟。

 父さんもきっとお前を誇りに思うよ、と言うカイルに向かって、弟は
「to Hell with this place (こんなクソみたいな場所)」
と言い捨てて、飛行機に乗ってしまいます。


弟には、この戦争にカイルほどのやりがいも意味もみつけられず、単に傷ついて帰還する、ということが暗に示されています。

そして、最後にカイルを殺すことになる海兵隊員の暗い視線。
カイルが帰還兵たちとの交流を通してPTSDを乗り越えて、愛でいっぱいの家庭が戻ってきた、というハッピーな家族の描写のあとに、不吉な予言のように、暗い目をした海兵隊員が彼を迎えに来る。

映画はそこで、この海兵隊員にカイルが射殺されたという事実を淡々と述べて終わります。

最後の数分間は彼の葬儀の様子や、沿道で星条旗を振りながら棺を見送る人びとの実際の映像が流され、英雄であったスナイパーへの賛辞で終わるのです。

この映画は主人公のクリス・カイルの自伝を原作としていて、2013年に彼を殺した元海兵隊員の裁判が今年の2月にあったばかりです。(有罪判決となり、終身刑が言い渡されました)

裁判の前に封切りになったために、裁判に影響を与えたという批判もあったようです。

このカイルを殺害した海兵隊員が戦場で何を見たのか、どのように傷つき、混乱し、錯乱していたのか、映画はひとつも描いていません。


牧羊犬になれるのは、ほんの一握りの選ばれた人だけ。
牧羊犬になろうとして羊にしかなれなかった人は、理不尽なあらゆることに対する怒りを牧羊犬に向けるかもしれない。

いじめっ子から守られていた弟は、本当は兄を恨んでいたかもしれないし、その感情を自分で憎んでいたかもしれない。
 
…ということも、ほんのすこし、ほのめかされるだけ。

わりに共和党派のアメリカ人の知り合いは、この映画を絶賛してました。

カイルを殺した海兵隊員の視点やシリア人のスナイパーの視点に踏み込んだ映画になっていたら、きっとここまでヒットしなかったことだろうと思う。

この映画は、アメリカ人に、まだ全然癒えていないイラクでの戦争の「redemption /贖い」を提供したんだと思います。

(つい数日前に「redemption」ということについて別ブログで記事を書いたばかり。よろしければお目汚しください)

大量破壊兵器なんかなかったし、サダムを取り除けたら地獄の釜の蓋があいてしまってもう何がなんだか収拾のつかないことになっていて、一体なんのための戦争だったのかということもわからないまま、アメリカ人の多くは中東地域のことなんか一刻も早く忘れたいと思っている。

同時に、 多くの若者が命を失ってしまったし、手足を失ったり精神に異常をきたした帰還兵がたくさんいる。そのこともアメリカ人の多くは、できれば忘れてしまいたいと多分思っている。というのが現状。


イーストウッド監督がなぜ今、このタイミングでこの映画を作ったのか、もちろん本人に聞いてみないとわかりませんが、ひとつにはこのクリス・カイルという人の物語は、同じ美学を持つ牧羊犬として、ほかの誰でもなく自分が代弁するべきだと感じたんじゃないかと思う。

そして、何があってもアメリカ人はこの帰還兵たちを忘れるべきじゃないというメッセージもあるのかもしれない。

私は、本当はイーストウッド監督はもうすこし「あちら側」=非牧羊犬の側、錯乱した牧羊犬である殺人者の海兵隊員や、イラクの側の牧羊犬ストーリーも、本当は描きたかったんじゃないかと思うのです。でもそれをしたら、カイルの話ではなくなってしまうし、映画の世界が分裂してしまい、多くのアメリカ人にはきっととても受け止めきれない暗すぎるものになってしまう。

硫黄島2部作の映画は、戦後半世紀以上経って、初めてできたもの。
戦後間もない1950年代に、あんな映画はもちろん作れなかったことでしょう。

フランシス・コッポラ監督の『地獄の黙示録』は、ベトナム戦争が終わってからたった3年後に作られてます。あの映画も、「アメリカ人から見たベトナム」でしかなく、ベトナム人の視点は入ってないですが、あのジャングルの戦争の狂気をとんでもないスケールでアメリカ人の内側から再現してみせた、ものすごい映画でした。あの映画が当時のアメリカでどう捉えられたのかはわからないけど、70年代後半、世論は「ベトナムは間違いだった、ラブ&ピース」、と厭戦ムードになっていたのは事実。




今の米国に、あれほど戦争の意義そのものを否定する映画はきっと受け入れられないと思うのです。

払った犠牲に対していったい何が手に入ったのか、さっぱりわからない点ではベトナムと変わりないけれど、それを今、正面きって大通りで言う人はあまりいないし、いても耳を傾けてもらえそうもない。

帰って来た現実に適応できない帰還兵の物語は、『ランボー』や『タクシー・ドライバー』のように直接的な形じゃなくて、「こんなスゴイ英雄を殺した最悪のやつ」の話として、一瞬だけ描かれる、というか、ほんの一瞬だけしか描かれない。

イーストウッド監督はリアリズムの人で、安直な「意見」は描いていない。本人も確かどこかで、「ありのままを描きたい」と語っていました。

だけどやっぱりこの映画は、語らないことで立場を、「意見」を、選んでしまってると思います。

もうあと数歩、踏み込んでほしかったですよ、とイーストウッド監督に言いたい。お願いしますよ!!あっ英語で書かなきゃだめか!

ものすごーく長くなってしまいました。あースッキリした。

読んでくださった奇特な方がいらっしゃったら、お付き合いくださって、本当にありがとうございます。

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2 件のコメント:

  1. ゆずみそさん、こんにちは!読みがいのある文章でした。クリント・イーストウッドは多くのアメリカ人の気持ちを表現したんでしょうね。

    ゆずみそさんのブログ、私のブログにリンク貼らせていただきました。宜しくお願いしまーす。

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    1. りょうこさん、ありがとうございます。こんな長文読んでくださって嬉しいです。
      イーストウッド監督は共感をよんでいる反面、右の人にも左の人にもわりあいに誤解を受けやすい人なのではないかなという気がしてます。
      リンクもありがとうございます!

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