2012/03/20

Multiculturalism の死?



Multiculturalism
n. 多文化性、単一社会における異文化の共存 (研究社『リーダース英和辞典』)

10年以上アメリカに住んできて、いろいろな文化が共存するというのは当然の事だと思っていたのだけれど、ヨーロッパではそうではないらしい。

「多文化社会は完全に失敗した」と、2010年にドイツのメルケル首相も宣言してて、かの地では「多文化化」には臨終宣告が出ているらしいのです。知らなかった……

アメリカでいう Multiculturalism とヨーロッパ各国のとは、定義が少し違うようです。


先週提出した学校の期末ペーパーは、Christian Joppke  というUCバークレー出身の教授がイスラム移民のベールに対するヨーロッパ各国(仏・英・独)の反応について書いた『Veil』という本のレビューでした。これに関連していろいろ思ったのでちょっとだけその件について。

ヨーロッパで今移民に対してひどく排他的になってきているのは、実際に移民が増えたのと同時に、失業率が高止まりしている上に、戦後以来の体制だった福祉社会を含む「これまでのウチの国」の存続が危ぶまれているからで、その不安に乗じてウヨク政党がこれまでリベラルで先進的だといわれてた北欧諸国でまで、驚くべき速さで中央に進出してきています。

実際にモスリムの住民による事件も先日あったばかりですが、これまでの伝統と調和を乱す異文化と暴力を持ち込まれた、という感情が高まってるのは事実のようです。


前述のメルケル首相の発言も、念頭におかれているのはモスリムの移民です。

フランスでは2004年に、イスラム教のベールをつけて公立校に登校してはいけない法律ができました。
でもこれは宗教的シンボルを目立つような形で身につけてはいけない、という決まりであって、同時にクリスチャンの十字架も禁止しています。

これは20世紀初頭に政教分離に成功してからずっと長い討論を続けてきたフランスの伝統に基づいた議論であって、「laicite」 という概念に乗ったものだというのです。

子どもが、生まれた背景や伝統や因習から「解放」されて、「進歩的な」中立的な場で学ぶためには、学びの場所に各自の宗教を持ち込んではいけない、という決まりを作るしかない、という考え方。アメリカ的感覚からするとずい分極端で無理があるように見えますが、とにかくスジは通っています。

これは「多文化化」ではなくて、世俗化という一つの価値観を一種聖域化した、「統合」を重視した考え方。「多文化化」とはむしろ反対を行っているとJoppke先生は言ってます。

翻って英国の場合は、実は政教分離が中途半端な形でしか進んでいない。英国では実に3分の1の公立校は教会が経営しているうえ、全部の公立校に「祈りの時間」があるほど、宗教色が強い。教会(英国国教会とカソリック教会)が教育への影響力を手放さなかったために、移民が増えた80年代になって、イスラム教などほかの宗教に対しても 同じ権利を授与しなければならなくなった。結果、イスラムの公立学校もできたし、モスリムの住民はますますモスリムだけの学校に集まるようになってしまい、「お互いに全く無関心な閉鎖的な文化が、たがいに関わりを持たずに並んでいるだけ」な状況になってしまったというのです。

しかも英国というのはその中心に成文化されたミッションや思想がないのが弱点で、多文化化もなし崩し的に進んできたため、移民の側からの「極端なクレーム」にいちいち対応しなくてはならないんだ、と Joppke先生は言います。

だから真に先進的な文明的な国家に移民を統合していくためには、フランスのようなモデルでがっつりした決まりのある社会を提示していくべき、移民はそれに合わせるべき、というのが主張のようです。




フランスのモデルは確かに立派で哲学的な実験ではあるけれど、結局背後にあるのはイスラム原理主義に対する肌で感じる警戒感が主な理由です。

Joppke先生の著作は、イスラム移民全体を原理主義とひとからげに捉えて論じているところと、ベールの禁止令について女性の権利問題として論じてしまっているところがどうにもこうにもイライラしました。
モスリムから転じて反イスラムの闘士となって原理主義者から命を狙われているHarsi Ali のような女性を持ち出してきて、ベールは女性を服従させる封建的シンボルだからいかんといい始めるのは、どうにも看板のすり替えのような気がします。
だってヨーロッパのおじさんたちが本気でモスリムの女性の人権のためだけに憤ってるとは思えません。

 そうではなくて、主に旧植民地だった地域からの移民が本国にたくさん流れ込んで来て、経済格差に不満を持って暮らしていて、それがイスラム原理主義と結びついて社会不安になるから、イスラム主義を助長するようなベールをかぶった女の子たちが増えると困る、だってイスラムって時代錯誤的でヨーロッパの価値観と折り合わないし、てことではないですか。後者の方はつけたし的理由であって主な動機じゃないでしょ?と思ってしまいました。

シアトルにも結構モスリムの人口が多くて、ベール姿の女性はあちこちで目にします。
特にソマリアからの難民はシアトル周辺で3万人くらいいて、全米で第三番目に大きなソマリア人のコミュニティがある地域なのだそうです。

息子の学校にもモスリムの子はかなり多く、ベール女子もよく目にするけれど、ベールが何かの問題になったことはまったくなし。問題になり得るという感覚がたぶんアメリカ人には理解不能だと思います。
あの911のテロのすぐ後でさえ、むしろモスリムの住民に対する嫌がらせを心配する声のほうが多かったように思います。

Multiculturalism はアメリカの自負心の中心近くにあるのだと思います。

というか、アメリカ文化には、奴隷制度の遺産て形ですでに異文化が埋め込まれていたから、いやおうなしにリクツにあった「中間の場所」を確認していかなければならなかった。公民権運動で「アメリカの理想」は何なのかが激しく問われて、その結果、たとえ多くの場合タテマエであっても、きちんと明文化されて、アメリカのアイデンティティになっている。

次々に流れ込む文化を消化できるだけの国土の広さとリソースも、自負心になってると思います。

ソマリア人の子たちはやっぱりあんまり学校でほかのグループと混ざり合わないらしいけど、それこそ「FOB」とか陰で言い合いながらも、アメリカの若者文化には求心力があるんじゃないかと思います。

ていうかそれだけまだ社会に余力があるってことなのか、北西海岸の若者たちは、意外とのんきです。


日曜日、近所のショップの壁に例のOBEYの人のグラフィックがはがれかかってて良い感じだったのでお買い物帰りに息子を前に立たせてみるも、ぜんぜんドラマチックにならず。むしろなんか道に迷った人みたい。ププッ。


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