2014/08/03

伊予松山、道後温泉、ホトトギス


いまさら日本帰国の記。
6月末、伊予の国、松山に行って参りました。

今回は日程も詰まっているし、遠出は出来ないなと思っていたのですが、日本に行ってからとんとんとんと話が決まり、大阪の美女M嬢と2人で、松山在住の美女、マダムNを訪ねることが決定。

この美女2名は、ハワイ大学で通訳の夏期集中講座を受けときの同期生です。ええ、もちろん、仕事ですとも!業務!打ち合わせ!たまたま温泉がそこにあっただけですよ!

M嬢と東京駅前から出る夜行バスで松山へ。世界をマタにかけて飛び回っている大阪女のM嬢、行動力が半端でない。今回も温泉に浸かったあとは、四国某所で商談に飛んで行きました。

夜行バス、なかなか良かったです!新幹線の半額以下だし、飛行機のエコノミー席よりずっと広くてラクラク。
3列になっていて隣の座席の間に通路があるタイプだったので、知らないおじさんと隣同士ということもなく、くつろげました。


夏目漱石と『坂の上の雲』の大ファンなので、かなり前から一度は必ず行きたいと思っていた松山・道後温泉。こんなにひょこっと叶うとは。

2泊3日の急ぎ足でしたが、とても収穫の多い旅でした。本当に行ってよかった。

道後温泉、素敵すぎる! 松山って規模は小さいけれど秀才を輩出している、文化都市です。

ぜんぜん、「田舎」って感じがしなくて、街の人がみんな温和で洗練されている印象でした。




2014年中は道後温泉内のあちこちで、世界中の一流アーティストが参加してる「ONSENART(温泉アート)」が開催中です。

それもあってか、なんだか温泉街なのにやたらに洗練されていて、無理なくオシャレ。


松山駅から道後温泉までは、この素敵な路面電車で(「坊っちゃん列車」は見かけなかった)20分くらいですが、今回はマダムNが車で案内してくださったので、乗る機会はなし。



道後温泉駅前の、「坊っちゃんカラクリ時計」(画面の左はし)。なんだかディズニーランドの「イッツ・ア・スモール・ワールド」を思い出しますが。


とりあえず、まず温泉に浸かってから、午後は温泉街の外れにある子規記念博物館へ連れていっていただきました。

建物の表には、子規の俳句改革運動の中心となった雑誌『ホトトギス』の表紙デザインが使われています。今見ても古臭さのまったく感じられない、ものすごくオシャレなデザインです。


『坂の上の雲』でも、秋山兄弟と共に第3の松山出身のヒーローとして描かれている正岡子規。

壮絶な闘病後、 三十四歳の若さで亡くなる直前まで、現役で文学の第一線で戦い続けた人。

カリエスで体の自由が効かなくなり、背中にいくつも穴が開いて毎日激痛に苦しむという想像を絶する境涯に暮らしながらも、決して文章にその悲痛は写さず、のどかな心境さえ感じさせる俳句や文章を書き続けた子規の、亡くなる前日に色紙に書いたという直筆の3つの遺作が飾られていました。

をとゝひの糸瓜の水も取らざりき
痰一斗糸瓜の水も間にあはず
糸瓜咲て 痰のつまりし仏かな

松山に行くということが決まってから急いで子規の歌集と『歌詠みに与ふる書』を買って読んだのですが(;´Д`A ```)、明治歌壇を敵にまわして斬っては捨て斬っては捨て続ける、その毒舌の激しさと鋭さとユーモア、そしてあくまで真摯な姿勢に圧倒されました。
否定のための否定ではなく、理想があっての攻撃。
 
 司馬遼太郎は『坂の上の雲』で、秋山真之の言葉として、
「子規のこの闘志は、そのあたりの軍人などが足元にもよりつけるものではないことだけはわかった。軍人流にたとえれば、子規の戦いの主題と論理はつねに明晰である。さらに戦闘にあたっては、一語一語のつよさがあたかも百発百中の砲門からうちだされる砲弾のようである」
とたとえています。

漱石や虚子、碧梧桐など、多くの友人や弟子に囲まれていた子規。亡くなるまで、病床の周りに人が集まり続けた。

学業では落第ばかりで、子どもっぽい食い意地が張った仕切りたがり屋だったようですが、にくめない人だったんでしょう。激しいエネルギーと文学への野心と闘志を持つだけでなく、清々しい透明感のある人だったに違いないと思います。

大義のために生きるという、 この時代の日本のエリート青年が持っていた光り輝くような透明感。『坂の上の雲』の登場人物たちに共通している、現代からすると目がくらみそうな衒いのなさ。(それが『坂の上の雲』の大きな魅力でもあるわけですが)


私は漱石の俳句も小説も大好きなのですが、子規の影響で俳句を始め、子規の死後、小説を書き始めて後に文豪と言われるようになった漱石の文学に子規の存在がどれほど大きく影響していたのか、恥ずかしながらこの松山に来るまで実感できずにいました。

単に「若いときの友達」というだけじゃなくて、死生観や文学に対する姿勢にも、子規の影響があったはず。実は物凄い教養と洞察に裏打ちされていながら、とぼけていて、温かく、すこんとした明るさのある作品群は、子規との交友がなかったら生まれなかったかもしれないんですよね。

後に漱石は、自分たちは幕末の志士のように生命を張って文学をやっているのだ、ということを言ってますが、その言葉の後ろには、壮絶な戦いを終え、飄々と糸瓜の句を残して亡くなった子規の姿があったのではないかと、この子規の絶筆の色紙を見たあとで思うようになりました。




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