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2022/02/04

ないなら、ないように


キリコちゃんがニューハンプシャーからのおみやげに買ってきてくれた、フェルト製のブルーバード。

「ブルーバード」って、青い鳥。
西海岸にはいないけど、こういう子らしいです。せなかが青で、おなかがオレンジ。

 



 この正面顔は…。



 綾波レイの朝ごはんかよ!と自分でつっこんだ、今週の「おめざ」セット。

ほとんどがサプリ、マグネシウム、ビタミンですが、青くてちっちゃい子が、じつはいちばん強力なステロイド剤です。こんなちっちゃいなかに、すごい成分がギューッと入ってて、体が睡眠に向かなくなるの、すごい。

ミクロな世界で体は変わり、それがすぐに思考や意思や行動にピキーンと反映される。できることとできないこと、感じ方がすぐに変わる。

 

て、このあいだも『バカの壁』を読んであらためて思ったけれど、 「自分」というのは、そう思いたいほどしっかりしたシステムではなくて、わりとすぐ書き換わっちゃうものなんですよね。

ステロイド剤の服用は、とりあえず、昨日、10回をもって終了しました。



こんなに小さいのにすんごくはたらいてくれているおかげで、1日24時間のうち、2〜3時間くらいずつ合計5時間くらいしか眠れない。

ステロイドがいったい体の何をどうしているのかわたしには理解できていませんが(『はたらく細胞』のステロイドを思い出すのみ↑↑↑)、こんな強力なものはさすがにあまり長期にわたって入れてよいものではないということだけは、わかる。

 


 こちらは、まっとうなアボカドトースト。

 

退院してきた日にたまたまご依頼頂いたちいさな仕事を、先週末かけて1件だけお引き受けしました。

健康時ならば1日半くらいでやるものを、ぼーっとする時間を考慮して、3日分相当の時間を割り当てておいて、ちょうどよかったです。

内容が新しいテクノロジーとビジネスに関するもので、ちょうど興味のある分野の記事だったし、原文がすっきりわかりやすく書かれていたので、かなり楽しかった。

やっぱりわたしは翻訳が好きだなあ、と思いました。

原文に出てくる、知らないコンセプトや、きちんと理解していないコンセプトをまずリサーチして理解する。それを、日本の読者層にあたる方がどのような言葉で表現しているか、日本の媒体でリサーチする。まだ日本語のサイトがヒットしない場合には検索語を変えて周辺からいろいろ読んでみる。

詳しくない分野の(それがほとんどですが)翻訳は、そんなことをしているので、けっこう時間がかかります。

(わたしが翻訳の仕事を始めたのはインターネット時代になってからなので、前世紀のプロの方たちはいったいどんな知識を蓄えていたのだろうか、と思います)。

ひとつの単語について1時間くらいあれこれリサーチして、考え込んでしまうこともあります。

でも、自分が理解した内容を、すっきり読みやすい日本語に置き換えられた、と思えたときは、達成感があってうれしいです。

その出来上がりに、クライアントさんや読者さんがどのくらい同意していただけるかは、わかりませんが。

いまのところ、体力的にフルタイム相当での稼働はちょっと無理で、ピーク時の半分以下の仕事量になっていますが、それでも、こうやってぽつぽつご依頼いただくものに対応できるのはほんとうに嬉しいことです。

朝日新聞デジタル版に安藤忠雄さんのインタビュー記事がでてました。いま80歳で、なんと、8年前に、胆囊、胆管、十二指腸、膵臓、脾臓をがんで全摘したんだそうです。
まさに「五臓のないからだ」。

それなのに「五臓がないなら、ないように生きる――。こう決めて、退院後は1日1万歩歩き、昼食は1時間かけて食べ、その直後は休憩するように生活リズムを整え」て、いまのところ、特に目立った不調がない、という。

それで、五臓がないのに元気なのは奇跡だといって、むしろ縁起が良いからと、中国から仕事の依頼が増えたんだとかwwww 神様化している! 

「ないなら、ないように」生きる、という姿勢。希望を自分で作り出すこと。

希望とは「生きる誇り」であり、それは安藤さんの場合、建築の仕事を通して社会とつながること、スタッフの生計を支えること、大阪人としての誇り、だといいます。

幸せとか希望とか、生きがいとか、いろいろ言い方はあるけど、自分が充実することって、やっぱり、自分の思いと行いを通して社会/ほかの人、世界、とつながること、でしかないのだな、と思います。

ほんのすこしでも人の役に立てたっていう実感は、うれしいものですねー。



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2021/12/22

ドライブ・マイ・カー


 SIFF UPTOWNに、CTちゃんご夫妻と青年といっしょに、日本映画『ドライブ・マイ・カー』を観に行きました。

映画の前にお向かいのハンバーガーショップ、Dick’sに行ったら、店内のテーブルや椅子がすっかり取り払われていて、体育館のようになっていて驚いた。

これは、しばらくは、ウィズコロナの時代だ、っていう宣言なんでしょうか。

お店としては、いちいちワクチン接種の確認ができる業態でもないし、たしかに、店内で食べてもらうメリットはないわけだよね。

しかたなく、まるで放課後の中学生か高校生のように、お店の外で立ってハンバーガーを食べる。 

 

 


 

ロビーに貼られたポスターにはもれなくサンタの帽子がくっつけられていましたww
西島秀俊さんにも。

赤いサーブによく似合うサンタ帽子。こういうデザインのポスターなのかと思っちゃった。

なんと上映時間3時間の長編映画と聞いて、いったいあの短編(村上春樹『女のいない男たち』所収の『ドライブ・マイ・カー』)からどうやって3時間の映画が、と思ったけど、なるほどー。

静かで淡々とした(さいきん、気に入った映画にはこの形容ばかり使っている気がする)語り口で、3時間たいくつしませんでした。お尻はちょっと痛くなったけど。

場面転換がとっても上手で、だからそれぞれの場面はとても静かなのだけど、全体がテンポ良く感じます。

カメラワークも、わざとらしいような美麗さは狙ってないけれど、なんていうか、安定していてビシッと決まっている。とっても控えめな詩情というか。


以下多少ネタばれあり。

原作の短編に、別の作品のエピソードも織り込まれ、さらに劇中劇としてチェホフの『ワーニャ伯父さん』がものすごく効果的につかわれていて、わたしはチェホフの、ソーニャのセリフで泣きました。

チェホフも10代のときに読むはずだった名作シリーズ。帰ってきてさっそく、青空文庫にダウンロードしました。

役者たちが、チェホフ劇をそれぞれ自分の母語で演じるという多言語舞台は、原作にはない映画だけの設定。

ひとつの舞台で、ひとつの物語が、日本語、韓国語、中国語などで進行していくという、不思議な多言語舞台を、主人公の家福さん(西島秀俊)が演出するという設定です。

あらかじめ、コミュニケーションが成り立たない設定のなかで、普遍的な物語を紡いでいく舞台。

同じ言語を使っていてさえ、どうしてもすれ違い、どんなに近くても完全に理解することができない、わたしたちのコミュニケーションというものの不完全さを象徴しているような。

でも、言語が違っていてさえ、同じ場、同じ時を共有するものの間に、つたわるもの、つながるものもある。それはなにか、同じ時代を生きている人間のあいだに普遍的なもの、ということなのだと思います。チェホフの劇にはそれが表現されているし、そういうものがあるということは救いです。

帰ってから原作を読み直してみたら、ハンサムな役者、タカツキ(映画では岡田将生が演じ、原作よりもずっと若くてずっとわかりやすく問題をかかえて派手めに壊れている人という設定です)が主人公の家福に語るセリフは、原作のままでした。

「どれだけ愛している相手であれ、他人の心をそっくり覗き込むなんて、それはできない相談です。そんなことを求めても、自分がつらくなるだけです。しかしそれが自分自身の心であれば、努力さえすれば、努力しただけしっかり覗き込むことはできるはずです。ですから結局のところ僕らがやらなくちゃならないのは、自分の心と上手に正直に折り合いをつけていくことじゃないでしょうか。本当に他人を見たいと望むのなら、自分自身を深くまっすぐに見つめるしかないんです。僕はそう思います」

そして家福と高槻は「お互いの瞳のなかに、遠く離れた恒星のような輝きを認め」あうのだけれど、二人が会うのはそれが最後になる。
映画ではさらにドラマチックな展開になっていきます。

 




映画は、ぜんたいに、村上春樹の原作よりもずっとストレートに、人の痛みと、前向きなもの、つながりへの信頼的なものを描いていると思う。

 映画も原作もそれぞれ素敵です。

小説は、心のつまづきのようなものを、はっきりした形で示さずに、染みのようにぼんやりと体感させてくれる。

映画は各キャラクターの痛みとつまづきを、率直に、一定の距離から描く。

広島という都市の痛みも、とても控えめに静かに描かれていました。

役者さんも素晴らしくて、とくに無口なドライバー役の三浦透子と、奥さん役の霧島れいか、初めて見たけど素敵でした。

あと韓国の俳優さんたちも、すごくよかったです。

いい人っぷりが顔じゅうに輝いている、演劇祭の世話役の人(アンパンマンが実写で演じられそう)、そして、ソーニャを演じた女優さんがめちゃくちゃ存在感あって、見ているだけで飽きませんでした。

おすすめでーす。お尻が痛くなるけどね。

 


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2021/12/20

ぜいたく貧乏

 



Sさんからお借りしている森茉莉の『贅沢貧乏』を読みました。

とっくに読んでいたはずだったのに、実は読んでいなかった数多い本のひとつです。10代後半のころ、読まくちゃと思っていたのに。どうして読まなかったんだろう?

文豪・鷗外の愛娘であり、かつては髪を洗うのさえお手伝いさんにやってもらっていたご令嬢であった茉莉さんが、風呂もなく台所も共同の安アパートに住みながら、圧倒的な美意識でもって「豪華の空気」をつくりだし、そのなかで陶酔の日々を送る生活を描いた、すさまじいエッセイです。

 痰を吐き散らかしパンツ一丁であるきまわる同宿の住人たちに怒りつつ、ほかの人の目から見ればたんなる安アパートの貧寒な部屋のなかで、うっとりとして、かつて遊んだ巴里、ヨーロッパの幻と、華麗にかがやく美の世界に住む「魔利」さん。

魔利は、魔利を取り囲むもろもろの物象の中に横たわり、朝の光、睡りを誘い出す午後の明るさ、夜の灯火の、罪悪的な澱み、それぞれの中で、花と硝子と、菫を浮かべて白く光る陶器。壁の、ボッティチェリ、ルッソオの画に目を止め、陶酔の時刻(とき)をおくっているのだが、もし魔利が陶酔しているのだということを人が知ったら、その人間は(何処が陶酔?)と失笑し、しかる後おもむろに魔利の顔をみて、魔利の精神状態に懐疑を抱くに違いない。
(8P )

 




昭和の世の東京で、小金持ちたちが住む「貧乏臭い新興階級の、読みもしない本棚、手品師の布のような紅い絨毯」にかこまれた「空虚な空間」を忌み嫌う茉莉さん。

「ぼこついた」「番茶で染めたような色の」畳の部屋に、「進駐軍払い下げ」の、「薄汚れた、ニスを塗った木製の寝台」を美しくしつらえ、「空壜の一つ、鉛筆一本、石鹸一つの色にも、絶対こうでなくてはならぬという鉄則によって」選びぬいた自分だけの夢の空間をつくりだす。



 

自分の美意識にふてぶてしいまでの自負を持ち、空き壜や空の色に恍惚とし、ボッティチェリの色あせた複製画のなかに光り輝く春の色彩と洗練を幻視する。

美とそのまぼろしにひたる喜びは、まじりけのない幸せです。

それを描写する茉莉さんの美しい言葉を読んでいると、幸福感が伝染してきます。


自分のものさしをしっかり持っていること、感覚に正直でいることの強さ。

ひとのものさしで自分を測って、一喜一憂しない強さ。

茉莉さんにはとても及びはつかないものの、見習いたいものです。



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2021/12/16

バカの壁が立ちふさがっている

 



KindleUnlimitedに入っていたので、養老孟司さんの『バカの壁』を読んでみました。

言わずとしれた大ベストセラーだけれど、いままで読んだことはなかった。




「平成で1番売れた新書」
「450万部突破!」
「129刷超!」
と、帯にどどーんと太く赤い数字が、たくさんついている。

129刷って……!

とてもおもしろかったです。

2003年に刊行された本なので、出版後もう約20年たつのに、今読んでも、とても適切。 

 


というより、今こそ、ますます必要とされている指摘がたくさん含まれていると思いました。

面白かった点はいろいろあったけれど、特に大切だと思うのは、ごくシンプルだけれど深い、次の三つの把握。

*人間は変わるもの、流転するものである一方、情報は永遠に残るもの。(これをあべこべに考えている人が多い。特に「自分」というものは変わらない、と思いこんでいる人が多い)

*社会は「共通理解」でできている。(言語とか文化とか常識とか)

*情報化社会とは、意識中心社会、脳化社会ということ。都市とは、つまり、意識が作った世界。


そして、「人間は変わらない」というまちがった前提を持ち、それに無自覚であることが、「壁」をつくる原因だと、養老先生は言う。

「人は(自分は)変わるもの」というのは、当たり前のようだけれど、実感として理解している人は案外に少ないのではないかと思う。

人は変わるもの、うつろうもの、というのは、2009年に刊行された福岡伸一さんの『動的平衡』にも通じる把握です。当たり前なのだけれど、衝撃的。だと思いませんか?
わたしにとっては、それを思うたびに衝撃的です。

たぶん、それまで何十年かの人生で、人は、自分は、固定されたもの、と無意識に思ってきたからだと思う。でも人間ってじつは、とても流動的なものなのだ、というのは、わたしにとってけっこう大きな革命でした。

わたしたちは、物体としても分子単位で毎秒入れ替わっているし、意識という面でも、決してじっと動かない、完成したものではない。

20年前の自分といまの自分では、完全に別人といってもいい。

なにかを新しく知るということは、自分が変わるということ、自分が違う人になったということであり、つまり、死んで生まれ変わったのと同じこと、と養老先生は言う。

これはとってもよくわかる。

このことを、ガンで半年の命と告知をされた患者にとっては毎年見ていた桜の花が違って見えるというたとえでこれを説明しています。わたし自身がん患者なので、文字通り他人事ではなく、よくわかります。

今だったら、東日本大震災の経験を経て自分が変わった、という実感を持つ人は多いと思う。

ものの見方が更新されるということは、生きる世界が変わるということ。






自分は変わらないと思い込んでいると、「一元論」的な世界に入り込んでしまい、それがバカの壁をつくるもとになる、と養老先生は警鐘を鳴らします。

頭のなかの活動を、養老先生は

Y(出力)=X(脳への入力 )a

というかんたんな方程式であらわしています。出力は、しゃべったり書いたりというだけでなく、脳内で考えることも含まれる、意識的な出力すべて。

入力は、見たり聞いたり、感覚器官から入ってきたあらゆる情報。これに「係数a 」をかけたものが出力となる。

係数a とはなにか。養老先生は、それをいわば「現実の重み」と言っている。

これはちょっとわかりにくいけれど、要するに、フィルターと考えてもいいと思う。
自分がいままで生きてきたなかでつちかわれた、ものごとをどうとらえ、どう反応するかについてのフィルター。

あることについての係数が「ゼロ」だと、どんな入力があっても、出力もゼロ。
そのことについて考えることはいっさいなくなる。

つまり、その人にとって「現実」ではなくなる。

たとえば、イスラエルについての批判は、イスラエルの多くの人にとって係数ゼロがかかっているので、耳にはいらない。

逆に、係数が固定されて「無限大」になっているのが原理主義であり、ある情報が絶対的な現実としてその人の行動を支配する、というのです。

原理主義は典型的な一元論で、「壁の内側だけが世界で向こう側が見えない。向こう側が存在しているということすらわかっていなかったりする」ものの見方。

これは短期的には強さを発揮しても、かならず破綻する、という。

これがまさにまさに、いまわたしの住んでいるアメリカで実際に驚くべきスケールで起きていることだし、日本でも世界中でもここ数年、ますます頻繁に、ますます激しく見られるようになってきたことです。

トランプが意識的にやっているのがまさにそれで、架空の壁をつくりあげ、その向こうにいる人たちを徹底的に悪認定する。ありとあらゆる罵詈雑言でけなし、貶めることで感情的に盛り上がる。

どんなに現実と矛盾していても、壁の内側の現実だけを絶対視して、それと矛盾すること、対立するものを徹底的に排除しようとする。

これは原理主義にほかなりません。

原理主義が育つ土壌を、養老先生は「楽をしたくなる」気持ちだといいます。

「楽をしたくなると、どうしてもできるだけ脳内の係数を固定化したくなる。aを固定してしまう。それは一元論のほうが楽で、思考停止状況が一番気持ちいいから」(143ページ)

養老先生は、考えることというのは「重荷を背負うこと」であり、人生は崖登りのようなもので、手を離したら真っ逆さまに落ちてしまう、と言います。

つまり、自分の頭のなかにある係数はなんなのかをつねにチェックし、必要であれば更新していくこと、そのために現実と自分と正直に向き合っていくこと、が必要、ということなのだと思います。

「学問とは、生きているもの、万物流転するものをいかに情報という変わらないものに換えるかという作業 」と、養老先生は言います。それはしんどいけれど、とてもエキサイティングな作業でもあるはずです。

学問に限らず、生きている以上、ヒトである以上は、それが大切な仕事なのだと思います。

それを怠ると、たちまちバカの壁に囲まれてしまう。気持ちがよいけれども、壁の向こうから攻撃を受けることをつねに恐れ、攻撃しようと構え続ける状態に、陥ってしまう。

バカの壁は、2021年のいま、ますます厚く、高くなり、とくにこのアメリカという国のまんなかに、堂々とたちふさがっているのです。

では原理主義に対抗できる普遍原理はなにかといえば、それは人間であることの普遍性、人として何をよきこととするか、という「常識」ではないか、と養老先生は結びます。




ほかにも、とても面白い、的を得ていると思った指摘がいくつかありました。


*都市に住む人の多くは、自分の身体に向き合う機会を持たない。

これは、とくに今の日本の若い人の書いたものを読んでいると、真実だと思うし、ますますその傾向が加速していくのだろうと思います。

日本の若い男性の4割が恋愛経験をまったく持ったことがないというのも、それを裏づけていると思うし、メタバースとかの仮想経験が普及すればさらにその傾向が強まるのでしょう。


*都市宗教は必ず一元論化していく。都市の人間は弱く、頼るものを求める

プロテスタントのほうが原理主義に近く都市型、というのは、いまのアメリカの内陸部、「ハートランド」つまり田舎で、原理主義的なプロテスタントの信仰のありかたが奉じられているのを考えると、面白いと思います。

アメリカでは逆に、沿岸の大都市の環境が、自然に近いのかもしれない、と思いました。
ニューヨークとかサンフランシスコのような都市では、あらゆる人種や階層がせまい地域に入り混じり、さまざまな「他者」との共存(または「併存」)を強いられる。
これは一種ジャングルのようなもので、個人はいつも係数aの更新を求められます。

養老先生のいう人工的な、一元的な環境は、アメリカではむしろ郊外や田舎にあります。


*「共通理解」を求められつつも意味不明の「個性」を求められるという矛盾した要求の結果派生してきたのが「マニュアル人間」。

個性というのは探しにいくものではなくて、生まれつき備わっている「身体」そのものである、「意識」のほうに個性を探そうとするのは間違い、というのももっともだと思うし、日本の社会のなかで意識的に「個性」を探せというのは、まったく無茶な話、というのも納得です。 

 

*戦後の日本では共通理解のもとになる共同体が一方で残り、一方で壊れている。

「結局、日本の社会は機能主義に共同体の論理が勝つ」
「現代ではかつてあった大きな共同体が崩壊し、会社や官庁など小さな共同体だけが残っている。小さな共同体の論理しかわからなくなっているので常識がなくなった」

これはもうほんとにその通りで、最近の官僚のスキャンダルなどを見ていても、そうなんだろうなあ、としか思えないです。

つまりここでいう「常識」というのは、人としての大きな視点に立った「倫理」なのでしょう。組織のために生き続けてきたので、ヒトとしての善悪がわからなくなってしまうという。

*日本語の助詞「は」は定冠詞

英語を学びはじめたときにぶちあたる難しい概念のひとつに、定冠詞と不定冠詞の違いがありますが、これはなにも、日本語の世界にはまったく存在しない概念ではなくて、日本語では助詞として存在している、という。

「あるところにおじいさんとおばあさんがおりました」
というのは不定冠詞(a、an)で、特定のおじいさんを導く。
そのうえで
「おじいさんは、山へ柴刈りに」
というときの「は」は、特定のお爺さんが動き始める定冠詞の役割を果たす。

これは目からウロコでした。なるほどー。日本語では、英語ほどハッキリとしたかたちでそれが認識されていないということなんですね。

 

いろいろ示唆にとんだ本でした。語りおろしで、まとめた編集者の人も凄腕だなあ、と思います。




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2021/12/14

『トーベ』とちびのミイ


 先日いただいた、建築家Y子さんの新作。ひろってきたモミジの赤い葉が不気味なかんじに枯れて、海藻みたいで、似合います。ムーミンパパがある日突然ニョロニョロたちといっしょに旅に出てしまうお話があるのですが、その物語にでてくる、うら寂しい海岸の景色のように。

このあいだ、ムーミン原作者のトーベ・ヤンソンの伝記をもとにした映画『TOVE/トーベ』をストリーミング(Amazon)で観ました。ことし、2021年公開の映画。



淡々とした語り口で、なかなかステキな青春映画でした。

主演の女優さんは写真で見るトーベさんとよく似てる。

長年の『ムーミン』シリーズ大ファンなのに、わたしはトーベさんのことはほとんど知らず、彼女がバイセクシャルで、なくなるまで長いあいだ、女性のパートナー(ムーミンシリーズに出てくる「おしゃまさん」のモデル)と暮らしていたということも知りませんでした。

映画にもちらっと出てくるその彼女、『ムーミン』読者なら、一見して、あ、おしゃまさん(英語名はToo-Ticky、スウェーデン語はToo-tickiで、だ、とわかるくらいそっくりでした。

 英語のMoominサイトには、モデルになったTuulikki Pietiläさんとトーベさんの楽しそうな写真も載ってました。



ついでにお宝自慢。

そのむかし、いまのようにグッズを一手にグローバル展開しているMoominとは別の、独立系のムーミンショップというのがホノルルにありまして、オーナーさんはまだご健在だったトーベさんに直接交渉してオリジナルのグッズをいくつか作っているのだと自慢してました。
トーベさんからの直筆のお手紙がお店に飾ってありました。

そのうちのひとつがこのシルバーのアクセサリー類で、ペルーの職人さんに作らせているのだといってました。

当時はほんとに洒落にならないくらいの赤がつく貧乏であったため、たしか6000円かそのくらいだったこのちびのミイのピアスになかなか手が届かなかったのですが、結局そのお店が閉店することになって、その閉店セールで半額になったときに、頑張って買った覚えがあります。

つけてるとどうしてもミイが逆立ちしてしまうんですけど、ここぞというときのお守りピアスです。

ちびのミイはいつも笑っているか怒っているかのどちらか。いっさいの忖度をしないし、本質を見抜いて、かしこく、何ひとつ恐れず、どんな状況でも完全に楽しみ、完全に自分に正直で、自分のしたいことをよく知り、ときどきウジウジしているムーミンをいじめるけれど、底意地が悪いわけではなくて、遠くで見守ってときどき面倒をみてやったりもする、ハードボイルドなキャラクター。リアルライフの人間が同じことをしたらかなり大変な人格になってしまうので、やはりポケットや砂糖つぼにおさまるサイズであるからこそのキャラですね。

でもいつも隣にミイがいて話し相手になってくれたら面白いなあ。

トーベさんも、ミイは自分がそうでありたい分身だと言っていたそうです。


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2021/12/13

書店の美麗ラッピングと小さなきつね



このあいだ行った放射線科のクリニックに飾ってあった、サケ君。かわいいなあ。このウロコの手作り感がいいですねー。




ひさびさに、キャピトル・ヒルのThe Elliot Bay Book Companyに行ってきました。

本好きのシアトルの人びとで、かなり盛況でした。
全米で、これほどリアル書店が元気に生き残っている街も少ないのではないか。


いまここで本を買うと、ギフト用に無料で綺麗にラッピングしてくれます。
それがまた、びっくりするほどセンスよく、オリジナルステッカーとリボンつきです。

 

 



この厚めのざらざらした紙も温かみがあって嬉しい。

ホノルルで、少年サッカーチームの遠征資金あつめのためにいろんな活動をしていたなかに、ショッピングモール内の書店でのギフトラッピングというのもありました。(洗車から電話帳配達まで、ほんとにいろいろやったなあ…。)

「アメリカ人は不器用」と勝手に思いこんでいたので、女性コーチのジンジャーちゃんはじめ、チームのママたちが驚くような技を次々に繰り出して、とても無理!と思うような大型で正方形とか長方形ではない難しいかたちのギフト(本屋なのに、なぜかぜんぜん関係ない店のギフトを持ち込む人が続出していました)を次々にラッピングしていく手腕に目をみはったものでした。

いまだに「キャラメルづつみ」しかできないわたくしです。



故U.K.ル・グウィンさんのコーナーで目を惹いた、「The Books of Earthsea」。

日本では『ゲド戦記』として知られているシリーズの全作に未発表短編が加わった、イラストつきの豪華版です。



書店員「ローラ」ちゃんと「ローレン」ちゃんのおすすめポップがつけられていて、心がなごむ。

「1)アイコニックな作品だし、2)現実からひとときデリシャスな世界にエスケープできるし、3)欲と腐敗と嫌悪の力に対するとってもパワフルな、解毒剤」

という紹介には、拍手をおくりたいです。年末に腰を据えて読み直すのもいいし、未読の短編も気になるのだけど、このまさに電話帳級(もはや2000年代生まれには電話帳っていっても通じないんだろうなあ)のボリュームに尻込みしてして、やめました。



そして来年の手帳を購入。迷ったすえに、MOLESKINEの『星の王子さま』のきつね柄のおめでたい赤手帳にしました。

ええ、数えで58歳ですが。赤いちゃんちゃんこを、先取り的な。

来年は、ますますおめでたい年になるに違いないのです。

 


 

 手帳の「腰帯」に、切り取って折り紙にせよという指示がついていました。小さいキツネができるはずだというのです。

しかし日本人にあるまじき不器用さにより、なんとなく、疲れたかんじのきつねになってしまいました。 幼稚園のときから折り紙はニガテです。折れるのは鶴だけです。

 

 

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2021/11/24

不気味でかわいいものたち

 


このあいだマダムMにいただいたお宝、ヒグチユウコさん絵皿。 

すこしホラーでかわいい細密画、好きです。

 

 

不気味かわいい細密画といえばこちらも。


ことしの初夏に、海辺の小さな本屋さんで見つけて即買いしたお気に入りの言葉のない絵本『WANDERER』。

日本語版が、今月出版されたようです。ぐうぜんアマゾンでみつけました。


訳者は岸本佐知子さん! やはりタイトルの訳か!
解説かエッセイを寄せているのかな。

日本語タイトルは『旅する小舟』という、とてもロウキーな、けれんみのない選択で、なるほどさすがですね、と納得。

求龍堂という出版社からです。ほんとに不気味で詩的でステキな本なので、書店でみかけたらぜひ手にとって見てみてくださいね。

USのアマゾンでは、なんとKindle版も出ています。でもやっぱりこれは紙でないと!!

 

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2021/11/16

だいぶ違うけどそれなりに



きょうも朝のうち灰色の雨が降ってびゅうびゅう風が吹いていましたが、午後から久しぶりに快晴に!なんとまあ、違う惑星にいるかのような明るい色彩であることよ。

 


あともう数日の紅葉。

先日デンワを買ったら、おまけにApple TV+のサブスクリプションが3か月無料でついてきたので、いま『ファウンデーション』を観ています。

とりあえずのシーズン1は10話完結で、最終回は今週金曜日に配信。

 


 

やはりやはり、アイザック・アシモフの原作とはかなりかけ離れた内容です。

原作はシリーズ1冊めしか読んでいませんが、だいたい50ページくらいごとに50年くらいの時間が経過し、そのたびにすっかり登場人物が入れ替わる壮大な時系列の話なので、そのままドラマにするのはかなり困難と思われ、やはり原作にはまったくないテロや撃ち合いや恋愛や殺人がドラマを添えています。

中学生のときに原作を熱愛していたという経済学者のポール・クルーグマンさんなどは、このあいだのニューヨーク・タイムズのニューズレターで(『デューン』を激賞する一方で)あまりにも原作と違っているので「オレはもう観るのをやめた」と言ってらっしゃいましたが、まあそう捨てたものでもありませんよー。

帝国のクローン皇帝たちは面白いし、ビジュアルも、そりゃ『デューン』とくらべものにはならないにしても、主人公のひとりガールの故郷の水の惑星なんかとてもキレイでした。

トランターとターミナスの描写は原作よりもかなりスケールダウンしていて、目の回るような壮大さまでは感じられないのが残念だけど。とくにターミナスのファウンデーションは10万世帯が移住して、少なくともつくば学園都市くらいの規模があるはずなのに、ちょっとスケールが小さすぎてがっかりでした。でもトランターの図書館はステキ。

それとタイトルのタイプフェイスがかわいい。



 

この間、ドラマを見る前にも書きましたが、原作はなにぶん1951年、戦後まもなくの出版で、科学万能の時代の楽観主義にあふれています。

科学の子・原子力の子『鉄腕アトム』の楽観主義と同じ色合いの楽観主義。

なにしろ原作は、人類の科学の知を守るファウンデーションが近所の野蛮な惑星に対して、科学技術を神秘の宗教として印象づけ、その司教たちを派遣することでうまいこと優位に立ってパワーバランスを保つという、21世紀のいまよく考えるととてもとてもポリティカリーにインコレクトなひどいお話ですが、ドラマのほうでは、低レベルの蛮人を騙してまるめこもうというのではなくて、正攻法で話し合ってみんなで力を合わせよう!というような方向にひっぱっていきそうな感じです。

なによりも、原作の登場人物は男性ばかりだけれど、ドラマシリーズの中心キャラクターは二人とも黒人の若い女の子だし、ファウンデーションを襲ってくる近隣惑星の軍団のいちばん強い戦士も女子戦士です。

第9話のラストではファウンデーションの創始者ハリ・セルダンが「えっそこからか!」と思うところから登場してびっくりでした。

原作では、セルダンが生前に録画した立体ビデオが再生されるのでしたが、ドラマでは、どうやら、わたしの理解が正しければ、セルダン博士はAI的な意識存在になっているらしい。つまり時空を超えている。それも面白いなと思います。

金曜日の最終話がかなり楽しみ。なんだかものすごく久しぶりに「放映を待つ」感じが懐かしいです。



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2021/11/10

ムーミン谷の不干渉



今朝はきもちよく晴れました。治療の翌日、ステロイド剤などが利いて眠れなかったので、早朝(←自社比)7時半ころ散歩。朝は爽やか。

みごとな真紅のモミジが、ロイヤルブルーのかわいいおうちに、ものすごいコントラストで映えていました。
階段の上から覗いているパンプキンもかわいい。

てろてろ歩いていると、たったった、と後ろから軽い足音が近づいてきて、ピンク色のバックパックを背負った3年生くらいの女の子が全力疾走でわたしを追い抜いていきました。近所の友だちと待ち合わせて、一緒に学校に行くのかな。

子どもたちが学校に行く時間なのね。そんな生活時間に触れたのも久しぶり。




星型の落ち葉が敷きつもる歩道に、なにやらがさがさと頭の上から音がするのは…。



この人でした。近づいて逃げないように遠くからズームでとってトリミングしたので画質が粗いです。

あんまりジロジロ見ていたら、「いつまで見てんのよ」とばかりに、キーキー声で怒られた。





先日ふと、本棚の永久保存版『ムーミン谷の冬』を読み返してみました。

びっくりするほどきれいに話を忘れていました。『楽しいムーミン一家』はじめ、シリーズのほかの本はけっこう覚えてるのだけど。

なんて素晴らしいお話なんだ!と感動できるので、記憶力の悪さもわるいことばかりではない、かもしれない。

冬は松葉を食べて冬眠してしまうムーミンたちなのですが、なぜか真冬にムーミンがひとり目覚めてしまい、雪におおわれたムーミン谷でいろいろな生きものに出会い、いろいろなチャレンジをくぐり抜けていくというお話です。北欧なので、冬は太陽も上らない、まっくらな季節。

慎重派のムーミンが慣れない環境と孤独にさいなまれてオロオロしているかたわらで、ちびのミイも目覚めてきて、ムーミンママの大切な銀のお盆でそりすべりをしたり、凍死してしまった(ように見える)知り合いのりすのしっぽでマフをつくろうとしたり、いつもの通りの傍若無人なマイペースで冬を十二分に楽しみます。

この本のナビゲーター的なキャラクター「おしゃまさん」は、ムーミン谷の冬をしずかに見守る人。冬の生きものたちは変わりものばかりで、あまり人と関わりを持ちたがらないので、そっとしておくように、とムーミンに教えます。


「この世界には、夏や秋や春にはくらす場所をもたないものが、いろいろといるのよ。みんな、とっても内気で、すこしかわりものなの。ある種の夜のけものとか、ほかの人たちとはうまくつきあっていけない人とか、だれもそんなものがいるなんて、思いもしない生きものとかね。その人たちは、一年じゅう、どこかにこっそりとかくれているの。そうして、あたりがひっそりとして、……たいていのものが冬のねむりにおちたときになると、やっとでてくるのよ」

ムーミンシリーズの素晴らしいところは、キャラクターがほんとに多様でいきいきしていて(こういう人いるいる、というリアリティがあって)、だれもがそれぞれ好き勝手に好きなように生きていて、お互いが尊重しあって相手の好きなようにさせてあげ、意見は言っても干渉しすぎないこと。

人間の世界ではそんな一見簡単そうなことがなかなか実現しませんね。

このあたたかな不干渉、互いへの理解と思いやり。
あまりに感動したので、青年にも読ませようと、書店で英語版を見つけて買ってきました。


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2021/11/03

パグの惑星


11月ですね。はやいはやい。楽しいハロウィンでしたでしょうか。

ハロウィン当日の近所のおうち。ホーンテッドマンションみたいな真っ赤な照明で子どもたちを待ってました。


ここも前庭が墓場になっていたけど、骸骨がカクカクダンスみたいなへんな格好にポージングされてて愉快でした。



ハロウィンの日曜日はちょっと仕事が残っていたのだけど、あまりにもよい天気だったので、フィニーリッジの丘の上のカフェの日あたりのよい席に行きました。

ちょっと細かいチェックが必要な作業も、さんさんと日を浴びながらだと背中がのびのびして、つらくない。

目の前をいろんな衣装の小さいこどもたちとパパ&ママたちが通っていって、楽しかったです。

ここのカフェでは初めて、店内に座る条件としてワクチン接種の証明書提示を求められました。

室内での飲食の条件としてワクチン接種証明が必要、と書いてあるところは多いけど、実際に見せてといわれたのは初めてです。て言っても、まあそんなに出かけてないけど。

先週末、コロナ禍はじまって以来2度目に映画館に行ったときも、ウェブサイトにはワクチン証明書が必要って書いてあったのに入り口でまったくノーチェックだったので、えー、と思いました。

満席ではないけどけっこう混んでいた。両隣と席をひとつ空けて座ってはいたけれど。

観に行ったのはこれです。

 


 
よかったです!!とにかく綺麗だったーーーー!!!!圧倒されました。

映画館でもう一度観たい、と思った映画はかなり久しぶりでした。もう一回見たいです!

ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督、『メッセージ』のときの美術スタッフをかなりそのまま使っているそうで、宇宙船のたたずまいとか、やっぱり似たところがあった。

暗い海のある灰色の惑星(ノルウェーで撮影したらしい)の風景も砂漠の惑星の風景も、それぞれの侯爵邸のインテリアも空気感もほんとに素晴らしくて、それだけでも2時間観ていられる感じ。
そしてはばたく飛行機(オーソニソプター)と巨大宇宙船のデザインがすごい。

もちろん、砂蟲:サンドワームも迫力でした!

あまりにも盛り上がってしまったので、翌日、デヴィッド・リンチの1984年版『砂の惑星』をストリーミングで観て、青年と二人でどっしゃー!とひっくり返りました。

この映画、昔いちど観たはずだけど、ジャバ・ザ・ハットをさらにやばくしたみたいなギルドの航海士とカイル・マクラクランが砂丘を下りていくところと半裸のスティングのオレンジの髪型(強烈だった)しか覚えていなかった。



デヴィッド・リンチ版は、とくに後半はYouTubeの「だいたいこういう話」みたいな仕上がりになっていて、なんだかもうやけくそみたいな映画でした。
『サタデー・ナイト・ライブ』のコントみたいな。

80年代らしい、ヴェルサーチというかマハラジャ的なインテリアデザイン(宇宙船の入り口まで黄金色のベルサイユ宮殿みたいな装飾が)と、公爵家にパグが飼われているところとかが、いかにもデヴィッド・リンチぽくておもしろかったです。あと悪趣味なキャラクターね…。

 


デヴィッド・リンチ版では、パグが一番心に残りました。

 

それと、見事なまでにキャラクター全員が白人だったなぁ。原作では中国系らしき描写をされているユエ医師まで、白人になっていました。

ヴィルヌーヴ版では、ユエ医師はアジア人だし、 砂漠の民のキャラクターの何人かは黒人で、なかでも重要なキャラクター、リエト・カインズ博士が黒人女性になっている。 

 

 


 

みるからに強そうなカインズ博士。

今回の「パート1」ではどんな人なのか背景があまり説明されないまま、ナゾの人として終わったので、きっと次回作の回想シーンで登場してくるはず!

オスカー・アイザックのレト公爵もすごくよかったです。えぇぇ、お父様役にはちょっと若すぎでは?とも思ったけど、いやいや充分迫力あったし、スペイン貴族みたいな貫禄があってステキでした。

原作の新訳が出ていたので、映画を観たあと、Kindleで読んでしまいました。(以下ややネタバレ)

フランク・ハーバートの『デューン』シリーズ第一作は『砂の惑星』は1965年出版で、生態系と生物の意思、精神と肉体の訓練による超常能力、薬物による意識変容と時空を超えた予見など、ニューエイジを先取りしたような材料がいっぱい詰まってる。

そして、面白いのが、『デューン』の宇宙では、人工知能もコンピュータも駆逐されているということ。

かつて宇宙を支配する勢いだった技術が、宗教革命的な大戦争のあげくに完全に撲滅されて、人類はあちこちの恒星系にまたがって住みながらも、ローマ帝国時代さながらの帝政が敷かれ、封建的な寡頭政治が君臨しているという世界です。

『スター・ウォーズ』の帝国は、アシモフの『銀河帝国』よりもこっちのデューン的世界に近い感じがする。ロマンチックな華やかさがあって、周辺が曖昧で、魔法的な。
 

そしてこの世界で恒星間飛行を可能にするテクノロジーは、人工知能やコンピュータのかわりに、辺境の砂漠の惑星でしか産出されない「スパイス」が人間の意識を変え、能力を超常的に高めることによってなされるという、神秘と魔法の世界なのです。

そして、女性だけのベネ・ゲセリットという宗教集団が、修業によって心身の能力を高め、常人の及ばない力を得るとともに、人類の歴史に関与していこうとする。

修練によって能力を高めるところとか、人の心を読めるだけでなく操る「声」を身につけるとか、ちょっとジェダイ騎士団的ですね。ジェダイは薬物を使わないけれど。

 


コンピュータのかわりを務めるのが「メンタート」という、これも薬物で能力を高めた、とてつもない情報処理能力を持つ人間たち。貴族のお抱えブレインとしてスーパーコンピューターのような能力を発揮するのですが、人間らしい忠誠心や復讐心は持ち合わせているという設定。

本作は「パート1」と控えめに銘打たれているものの、次作の制作はまだ始まっていないどころか決まってもいなかったようで、公開後、無事ヒットしたのでやっとお金が下りたのか制作がアナウンスされて、ヴィルヌーヴ監督の「三部作にしたい」というインタビューが公開されてました。

そうでしょうそうでしょう。三部作で撮りたいでしょう。

しかし、原作世界は、型破りなところもあるものの、基本的にはローマ帝国以来のジェンダー観の枠組みのなかで話がすすみ、政略結婚と貴族的な深謀遠慮、そして高貴な血筋の指導者への忠誠と心酔、というロマンチックな力学をベースにしています。

暴君ネロのようないかがわしい男爵と、部下にも信望の厚い高潔なレト公爵が対照的に描かれ、その息子がいやおうなしに英雄になっていくお話なのですが……。

ヴィルヌーヴ監督はこれをどんなふうに21世紀むけに演出するんでしょうね。

次回作は2023年公開予定だそうです。

わたしは生きて見届けられるかどうかわかりませんが、リエト博士と娘の、砂漠の強い母娘の姿が『マッドマックス 怒りのデスロード』のフュリオサ以上に印象強く描かれるといいなー、と思います。ああ観たいなー。

原作の後半では「聖戦」を率いる救世主になることをなんとか避けようとする主人公ポールが、結局運命の流に巻き込まれて世界を変えていくのが面白いなあと思いました。

パグはでてこないかな。


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2021/10/28

モンブランと歌会の話



先週金曜日。グリーンレイクのケーキ屋さん、HIROKIさんのモンブランをもって、すこし年上の大切な友人を訪問。

あと抹茶ティラミスも。先に食べちゃって写真撮りそこねた。

そして上品で美味しいおでんとサラダをいただきました。

文学や短歌や古典芸能や、旅や見えない世界の話。4時間ノンストップでお話できて楽しすぎでした。

この方は、直接会ってざっくばらんに短歌のはなしができる唯一の先輩歌人であらせられます。




3年ほど前から短歌の結社というものに入って、いそいそと毎月歌をつくって送っているのですが、結社ってなんなのかがそもそもよくわからずに入会したくらいなので、かなりずれまくった立ち位置からはじめています。

それでもだいぶ、特に今年はいろいろ手当たりしだいに読みあさって少しは状況がのみこめてきたところですが、やはり海外にいると入手できる情報が圧倒的にすくないし(図書館や書店で歌集を借りることもできず)、歌会なるものやカルチャーセンター的なものにも参加できず、リアルな歌人とお話ができる機会が作れない。ウェブでも若い歌人さんたちがいろいろな試みをしているようですが、いまいちとことこと入って行きづらい。

わたしの所属する結社では、コロナ禍でリアル歌会がずっと中止になっていたため、現在はZOOMで歌会を開催していることを最近知って、先月末に思い切って初参加してみました。

各自、指名された順に、結社誌に掲載された自作の一首をえらび、それを別の方に評してもらうというはこび。参加者は50名弱で、2時間ほどでした。20代の方から80代の方まで。

わたしはかなりなコミュ障で、人前でしゃべることに激しい苦手意識があるので、ひぃ〜!となりながらの参加。司会のかたに発言を指名されてしどろもどろになりつつ、たぶん、その場を、……しーん……、または、しらー…とさせてしまったと思います。
もっとさくさくと明晰に話せるとよいのですけれど。

 


 
でも、画面を通してですが結社誌の誌面でいつもお名前を拝見している方と言葉を交わすことができ、さまざまな方がさまざまな取り組みをされているんだなあ、ということも改めて目の当たりにでき、そして、超ベテランの編集委員の方々のコメントが、縦横無尽にいろんな角度からスパスパと切り込んでいくのに息をのみ。長く真剣に歌と向き合っている方がたは、ものすごく多層的な視点を血肉とされているのだということが実感できました。
参加できてよかった。

活字との対話と、映像メディアとの対話、リアルタイムの対話は、乗っているものがそれぞれずいぶん違います。顔が見えるだけで激増するこの情報量! 

わたしはなにごとも持って帰って自分ひとりで抱えこむ時間がかなり長めにほしい性格なのですが、リアルな対話から受け取るエネルギーもほんと大切なんだな、と、あらためて思いました。


 

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