KindleUnlimitedに入っていたので、養老孟司さんの『バカの壁』を読んでみました。
言わずとしれた大ベストセラーだけれど、いままで読んだことはなかった。
「平成で1番売れた新書」
「450万部突破!」
「129刷超!」
と、帯にどどーんと太く赤い数字が、たくさんついている。
129刷って……!
とてもおもしろかったです。
2003年に刊行された本なので、出版後もう約20年たつのに、今読んでも、とても適切。
というより、今こそ、ますます必要とされている指摘がたくさん含まれていると思いました。
面白かった点はいろいろあったけれど、特に大切だと思うのは、ごくシンプルだけれど深い、次の三つの把握。
*人間は変わるもの、流転するものである一方、情報は永遠に残るもの。(これをあべこべに考えている人が多い。特に「自分」というものは変わらない、と思いこんでいる人が多い)
*社会は「共通理解」でできている。(言語とか文化とか常識とか)
*情報化社会とは、意識中心社会、脳化社会ということ。都市とは、つまり、意識が作った世界。
そして、「人間は変わらない」というまちがった前提を持ち、それに無自覚であることが、「壁」をつくる原因だと、養老先生は言う。
「人は(自分は)変わるもの」というのは、当たり前のようだけれど、実感として理解している人は案外に少ないのではないかと思う。
人は変わるもの、うつろうもの、というのは、2009年に刊行された福岡伸一さんの『動的平衡』にも通じる把握です。当たり前なのだけれど、衝撃的。だと思いませんか?
わたしにとっては、それを思うたびに衝撃的です。
たぶん、それまで何十年かの人生で、人は、自分は、固定されたもの、と無意識に思ってきたからだと思う。でも人間ってじつは、とても流動的なものなのだ、というのは、わたしにとってけっこう大きな革命でした。
わたしたちは、物体としても分子単位で毎秒入れ替わっているし、意識という面でも、決してじっと動かない、完成したものではない。
20年前の自分といまの自分では、完全に別人といってもいい。
なにかを新しく知るということは、自分が変わるということ、自分が違う人になったということであり、つまり、死んで生まれ変わったのと同じこと、と養老先生は言う。
これはとってもよくわかる。
このことを、ガンで半年の命と告知をされた患者にとっては毎年見ていた桜の花が違って見えるというたとえでこれを説明しています。わたし自身がん患者なので、文字通り他人事ではなく、よくわかります。
今だったら、東日本大震災の経験を経て自分が変わった、という実感を持つ人は多いと思う。
ものの見方が更新されるということは、生きる世界が変わるということ。
自分は変わらないと思い込んでいると、「一元論」的な世界に入り込んでしまい、それがバカの壁をつくるもとになる、と養老先生は警鐘を鳴らします。
頭のなかの活動を、養老先生は
Y(出力)=X(脳への入力 )a
というかんたんな方程式であらわしています。出力は、しゃべったり書いたりというだけでなく、脳内で考えることも含まれる、意識的な出力すべて。
入力は、見たり聞いたり、感覚器官から入ってきたあらゆる情報。これに「係数a
」をかけたものが出力となる。
係数a とはなにか。養老先生は、それをいわば「現実の重み」と言っている。
これはちょっとわかりにくいけれど、要するに、フィルターと考えてもいいと思う。
自分がいままで生きてきたなかでつちかわれた、ものごとをどうとらえ、どう反応するかについてのフィルター。
あることについての係数が「ゼロ」だと、どんな入力があっても、出力もゼロ。
そのことについて考えることはいっさいなくなる。
つまり、その人にとって「現実」ではなくなる。
たとえば、イスラエルについての批判は、イスラエルの多くの人にとって係数ゼロがかかっているので、耳にはいらない。
逆に、係数が固定されて「無限大」になっているのが原理主義であり、ある情報が絶対的な現実としてその人の行動を支配する、というのです。
原理主義は典型的な一元論で、「壁の内側だけが世界で向こう側が見えない。向こう側が存在しているということすらわかっていなかったりする」ものの見方。
これは短期的には強さを発揮しても、かならず破綻する、という。
これがまさにまさに、いまわたしの住んでいるアメリカで実際に驚くべきスケールで起きていることだし、日本でも世界中でもここ数年、ますます頻繁に、ますます激しく見られるようになってきたことです。
トランプが意識的にやっているのがまさにそれで、架空の壁をつくりあげ、その向こうにいる人たちを徹底的に悪認定する。ありとあらゆる罵詈雑言でけなし、貶めることで感情的に盛り上がる。
どんなに現実と矛盾していても、壁の内側の現実だけを絶対視して、それと矛盾すること、対立するものを徹底的に排除しようとする。
これは原理主義にほかなりません。
原理主義が育つ土壌を、養老先生は「楽をしたくなる」気持ちだといいます。
「楽をしたくなると、どうしてもできるだけ脳内の係数を固定化したくなる。aを固定してしまう。それは一元論のほうが楽で、思考停止状況が一番気持ちいいから」(143ページ)
養老先生は、考えることというのは「重荷を背負うこと」であり、人生は崖登りのようなもので、手を離したら真っ逆さまに落ちてしまう、と言います。
つまり、自分の頭のなかにある係数はなんなのかをつねにチェックし、必要であれば更新していくこと、そのために現実と自分と正直に向き合っていくこと、が必要、ということなのだと思います。
「学問とは、生きているもの、万物流転するものをいかに情報という変わらないものに換えるかという作業 」と、養老先生は言います。それはしんどいけれど、とてもエキサイティングな作業でもあるはずです。
学問に限らず、生きている以上、ヒトである以上は、それが大切な仕事なのだと思います。
それを怠ると、たちまちバカの壁に囲まれてしまう。気持ちがよいけれども、壁の向こうから攻撃を受けることをつねに恐れ、攻撃しようと構え続ける状態に、陥ってしまう。
バカの壁は、2021年のいま、ますます厚く、高くなり、とくにこのアメリカという国のまんなかに、堂々とたちふさがっているのです。
では原理主義に対抗できる普遍原理はなにかといえば、それは人間であることの普遍性、人として何をよきこととするか、という「常識」ではないか、と養老先生は結びます。
ほかにも、とても面白い、的を得ていると思った指摘がいくつかありました。
*都市に住む人の多くは、自分の身体に向き合う機会を持たない。
これは、とくに今の日本の若い人の書いたものを読んでいると、真実だと思うし、ますますその傾向が加速していくのだろうと思います。
日本の若い男性の4割が恋愛経験をまったく持ったことがないというのも、それを裏づけていると思うし、メタバースとかの仮想経験が普及すればさらにその傾向が強まるのでしょう。
*都市宗教は必ず一元論化していく。都市の人間は弱く、頼るものを求める
プロテスタントのほうが原理主義に近く都市型、というのは、いまのアメリカの内陸部、「ハートランド」つまり田舎で、原理主義的なプロテスタントの信仰のありかたが奉じられているのを考えると、面白いと思います。
アメリカでは逆に、沿岸の大都市の環境が、自然に近いのかもしれない、と思いました。
ニューヨークとかサンフランシスコのような都市では、あらゆる人種や階層がせまい地域に入り混じり、さまざまな「他者」との共存(または「併存」)を強いられる。
これは一種ジャングルのようなもので、個人はいつも係数aの更新を求められます。
養老先生のいう人工的な、一元的な環境は、アメリカではむしろ郊外や田舎にあります。
*「共通理解」を求められつつも意味不明の「個性」を求められるという矛盾した要求の結果派生してきたのが「マニュアル人間」。
個性というのは探しにいくものではなくて、生まれつき備わっている「身体」そのものである、「意識」のほうに個性を探そうとするのは間違い、というのももっともだと思うし、日本の社会のなかで意識的に「個性」を探せというのは、まったく無茶な話、というのも納得です。
*戦後の日本では共通理解のもとになる共同体が一方で残り、一方で壊れている。
「結局、日本の社会は機能主義に共同体の論理が勝つ」
「現代ではかつてあった大きな共同体が崩壊し、会社や官庁など小さな共同体だけが残っている。小さな共同体の論理しかわからなくなっているので常識がなくなった」
これはもうほんとにその通りで、最近の官僚のスキャンダルなどを見ていても、そうなんだろうなあ、としか思えないです。
つまりここでいう「常識」というのは、人としての大きな視点に立った「倫理」なのでしょう。組織のために生き続けてきたので、ヒトとしての善悪がわからなくなってしまうという。
*日本語の助詞「は」は定冠詞
英語を学びはじめたときにぶちあたる難しい概念のひとつに、定冠詞と不定冠詞の違いがありますが、これはなにも、日本語の世界にはまったく存在しない概念ではなくて、日本語では助詞として存在している、という。
「あるところにおじいさんとおばあさんがおりました」
というのは不定冠詞(a、an)で、特定のおじいさんを導く。
そのうえで
「おじいさんは、山へ柴刈りに」
というときの「は」は、特定のお爺さんが動き始める定冠詞の役割を果たす。
これは目からウロコでした。なるほどー。日本語では、英語ほどハッキリとしたかたちでそれが認識されていないということなんですね。
いろいろ示唆にとんだ本でした。語りおろしで、まとめた編集者の人も凄腕だなあ、と思います。
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