SIFF UPTOWNに、CTちゃんご夫妻と青年といっしょに、日本映画『ドライブ・マイ・カー』を観に行きました。
映画の前にお向かいのハンバーガーショップ、Dick’sに行ったら、店内のテーブルや椅子がすっかり取り払われていて、体育館のようになっていて驚いた。
これは、しばらくは、ウィズコロナの時代だ、っていう宣言なんでしょうか。
お店としては、いちいちワクチン接種の確認ができる業態でもないし、たしかに、店内で食べてもらうメリットはないわけだよね。
しかたなく、まるで放課後の中学生か高校生のように、お店の外で立ってハンバーガーを食べる。
ロビーに貼られたポスターにはもれなくサンタの帽子がくっつけられていましたww
西島秀俊さんにも。
赤いサーブによく似合うサンタ帽子。こういうデザインのポスターなのかと思っちゃった。
なんと上映時間3時間の長編映画と聞いて、いったいあの短編(村上春樹『女のいない男たち』所収の『ドライブ・マイ・カー』)からどうやって3時間の映画が、と思ったけど、なるほどー。
静かで淡々とした(さいきん、気に入った映画にはこの形容ばかり使っている気がする)語り口で、3時間たいくつしませんでした。お尻はちょっと痛くなったけど。
場面転換がとっても上手で、だからそれぞれの場面はとても静かなのだけど、全体がテンポ良く感じます。
カメラワークも、わざとらしいような美麗さは狙ってないけれど、なんていうか、安定していてビシッと決まっている。とっても控えめな詩情というか。
以下多少ネタばれあり。
原作の短編に、別の作品のエピソードも織り込まれ、さらに劇中劇としてチェホフの『ワーニャ伯父さん』がものすごく効果的につかわれていて、わたしはチェホフの、ソーニャのセリフで泣きました。
チェホフも10代のときに読むはずだった名作シリーズ。帰ってきてさっそく、青空文庫にダウンロードしました。
役者たちが、チェホフ劇をそれぞれ自分の母語で演じるという多言語舞台は、原作にはない映画だけの設定。
ひとつの舞台で、ひとつの物語が、日本語、韓国語、中国語などで進行していくという、不思議な多言語舞台を、主人公の家福さん(西島秀俊)が演出するという設定です。
あらかじめ、コミュニケーションが成り立たない設定のなかで、普遍的な物語を紡いでいく舞台。
同じ言語を使っていてさえ、どうしてもすれ違い、どんなに近くても完全に理解することができない、わたしたちのコミュニケーションというものの不完全さを象徴しているような。
でも、言語が違っていてさえ、同じ場、同じ時を共有するものの間に、つたわるもの、つながるものもある。それはなにか、同じ時代を生きている人間のあいだに普遍的なもの、ということなのだと思います。チェホフの劇にはそれが表現されているし、そういうものがあるということは救いです。
帰ってから原作を読み直してみたら、ハンサムな役者、タカツキ(映画では岡田将生が演じ、原作よりもずっと若くてずっとわかりやすく問題をかかえて派手めに壊れている人という設定です)が主人公の家福に語るセリフは、原作のままでした。
「どれだけ愛している相手であれ、他人の心をそっくり覗き込むなんて、それはできない相談です。そんなことを求めても、自分がつらくなるだけです。しかしそれが自分自身の心であれば、努力さえすれば、努力しただけしっかり覗き込むことはできるはずです。ですから結局のところ僕らがやらなくちゃならないのは、自分の心と上手に正直に折り合いをつけていくことじゃないでしょうか。本当に他人を見たいと望むのなら、自分自身を深くまっすぐに見つめるしかないんです。僕はそう思います」
そして家福と高槻は「お互いの瞳のなかに、遠く離れた恒星のような輝きを認め」あうのだけれど、二人が会うのはそれが最後になる。
映画ではさらにドラマチックな展開になっていきます。
映画は、ぜんたいに、村上春樹の原作よりもずっとストレートに、人の痛みと、前向きなもの、つながりへの信頼的なものを描いていると思う。
映画も原作もそれぞれ素敵です。
小説は、心のつまづきのようなものを、はっきりした形で示さずに、染みのようにぼんやりと体感させてくれる。
映画は各キャラクターの痛みとつまづきを、率直に、一定の距離から描く。
広島という都市の痛みも、とても控えめに静かに描かれていました。
役者さんも素晴らしくて、とくに無口なドライバー役の三浦透子と、奥さん役の霧島れいか、初めて見たけど素敵でした。
あと韓国の俳優さんたちも、すごくよかったです。
いい人っぷりが顔じゅうに輝いている、演劇祭の世話役の人(アンパンマンが実写で演じられそう)、そして、ソーニャを演じた女優さんがめちゃくちゃ存在感あって、見ているだけで飽きませんでした。
おすすめでーす。お尻が痛くなるけどね。
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