今シアトルで「山頭火」って言ったら、きっと10人中8人くらいまでが「ラーメン食べた?どうだった?」っていいますよねきっと。
ベルビューにできたラーメン屋さんには、まだ行ってません。行きたいけど。
こちらはほんものの種田山頭火さんの話です。
道後温泉ツアーのコンダクター、マダムNが、山頭火終焉の地、一草庵に、思いがけなくも連れていってくださいました。
山頭火が松山で亡くなったのは知りませんでした。
山頭火が最後の日々を過ごした一草庵は、今では地元のボランティアの方々が守り、訪ねる人にいろいろと話を聴かせてくれます。
山頭火が松山に来た時には、長年の深酒ですでにもうどうしようもないほど体を壊していて、死に場所を探しに来たのだといいます。それよりさかのぼること10年以上前、僧籍に入ったすぐ後のころに四国巡礼の途上で立ち寄った松山の人の温かさに惹かれたのだとか。
10歳のとき、母親が井戸に身を投げて死んだのを見てしまったという山頭火。
山口の裕福な造り酒屋に生まれたものの、成人する頃には家は傾き始めていて、以降はまったくお金に縁のない生涯だったようです。
妻子とも別れ、40代で出家して放浪の俳人となり、それから58歳で亡くなるまでの間、托鉢をしたり友人の世話になったりしながら自由律俳句だけに生きた人。
そんな山頭火にふさわしい質素な小さな位牌が、素朴な仏壇に置かれています。
ボランティアの方が家から採ってきたという若い梨の実が供えられていました。
この草庵を守るボランティアのおばさま方が、さくらんぼとトマトとお茶でもてなしてくれました。
「うしろ姿のしぐれてゆくか」
山頭火は近年、1990年代以降に急に人気が高まって来たようです。
松山の「山頭火クラブ」のブログで紹介されていたNHKの番組では、「山頭火の句に救われた」という人が多く紹介されていて驚きました。
まわりにひどい迷惑ばかりかけながらも自分の道を求め続けた、自由さ。余裕があっての自由ではなく、あまりにも不器用で他の生き方ができないような人だったようです。
しかも自由律という形式を選び、縛られない言葉という縛りを自分に与えて、観想を渾身の真摯さをもって書き留めた、素朴な句を生んだ。
「分け入つても分け入つても青い山」
「鴉啼いてわたしも一人」
「私ひとりでうららかに木の葉ちるかな」
本当にこの人はきつい道を歩んだのだな、というのが句を読んでいると伝わってくる。
人生棒に振って救いを求めずにいられなかったその荷の重さと、句にあらわれている、ふと雲の上に出てしまったような、すべてがふっきれたような、一瞬の明るい静かな境地が、思い悩んでいる現代の多くの人の共感を呼ぶのでしょう。
種田さん、俳句つくってなかったら単にアル中の駄目な人ですから。
一草庵の入り口に展示されている山頭火年表の最後のほうに
十月二日 犬に餅を貰う
十月五日 猫に御飯を食べられる
十月六日 猫の食い残しを食べる
という記述がありました…。
猫とご飯を分け合ったその数日後、泥酔したまま布団にはいって帰らぬ人になったそうです。
この人も、周りの人が放っておけなくなってしまう、憎めない人だったのだろうなあ、と思います。
訪問者が来やすいように間取りを変えたものの、あとはほとんど当時のままだという庵はとても居心地がよくて、つい長居をしてしまいました。
綺麗な風が通る縁側。
松山は俳句の町。あちこちに「俳句ポスト」があって、だれでも投句ができるようになってます。
マダムNとM嬢と3人、すっかり草庵でくつろいで、お茶をいただきながら即席句会を開きました。
というのは、山頭火が最晩年に詠んだ句。
やはり母の自殺によって子どもの頃に受けた傷を癒やすことはできなかったのかもしれません。
仏門に入りながら悩みっぱなし。
本当に突っ込みどころの満載な人ですが、子どものようにひたむきな、希有なすがすがしさのある人、だったのではないかと思います。
日本が太平洋戦争に突入する直前に亡くなっているんですね。まだのどかさの残る頃に、のどかな松山の地で心やさしい人びと(や犬猫)に見守られて、最後まで自分の道を真っすぐ追求できた、幸せな生涯だったのではないでしょうか。
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