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2017/07/29

アーヴィング・ペンの吸い殻


メトロポリタン美術館で見たもう一つの企画展は、アーヴィング・ペンの写真展。
これは点数はそんなにたくさんなかったのだけど、充実でした。

私がむかしから大好きな写真家ーの一人。広告写真の神様的な存在です。
亡くなったのは2009年。わりと最近だったのね。

アーヴィング・ペンといえば、Cliniqueの広告写真が有名。


1968年からクリニークの仕事をしていたそうですが、わたしが最初に見たのは80年代後半かな。一時期、日本のファッション雑誌のほとんどが、表紙裏の見開きにクリニークの広告を掲載していた気がする。それが本当に衝撃的だった。

たしか最初に見たのは黄色いローションの写真で、とろりとした液体が生きもののようにリアルで、なんだかわからないけどものすごい迫力だった。

こんなにシンプルなモノをこんなに印象的な写真にすることができるんだ!と、毎回食い入るように眺めていました。

そしてたしか、その頃、東京のどこかでやったアーヴィング・ペンの写真展に行って、そこでまた衝撃を受けたのだった。
 


トルーマン・カポーティのポートレート、1948年。

この後ろが鋭角に閉じた荒々しいほどシンプルな背景が、当時ものすごく斬新だったのらしい。被写体を追い込むようなセット。

でも多分、心理的な意図よりも、静物写真と同じに絵のすべてをコントロールしたいというあくなき執念から生まれたのではないかと思う。


1940年代はじめにヴォーグ誌のアートディレクターだったアレクサンダー・リーバーマンに呼ばれてヴォーグの誌面のレイアウトの仕事を始め、本格的に写真を撮るようになったのはその後なのだそうで、2年後には表紙を撮っている。

ファッション写真も広告業界も黎明期。今から考えたらのどかな世界だったのかも。


ペルーのクスコに旅行して、地元のスタジオを借りて「ちょっと撮らせて」と地元の人を撮ったポートレート。


太めの人のヌード。1949〜50年。
人も静物も、対象そのものの形やありようと、それをどうしたら完成した絵にできるかということにひたすら関心があった人なのだと思う。



 ピカソ氏。


昔、東京で見た展覧会で一番衝撃的だったのが、この煙草の吸い殻シリーズ。

ニューヨークの路上で拾ってきた吸い殻を撮影した連作。
これが広告写真と同じように緻密な構成で撮影され、引き伸ばされて、壁を飾っている。

えーこんなのアリなんだ! と驚き、靴で踏み潰されてマンホールの横に落ちていたような吸い殻が、隅々までコントロールされた画面に置かれると、珍妙で美しい物体に見えてくるのに、ほんとにびっくりした。 精密に現像されて焼かれた「もの」としての銀板写真の美しさを初めてつくづく感じたのも、この連作でした。


このシリーズは1972年の作品。ペンは煙草が嫌いで、メンターとして敬愛していたアートディレクターのアレクセイ・ブロドヴィッチが(ヘビースモーカーだった)が癌で亡くなった後にこのシリーズを作ったそうです。



まだ煙草会社は煙草が健康に悪いと認めず、アメリカがん協会との間で激しいバトルを繰り広げていた時代です。

『マッドメン』にもラッキーストライクの最悪ないじめっ子クライアントがでてきました。

またこの写真が見られて嬉しかったー。やっぱりすごいです。

クリニークの写真を見て以来、世の中にはすごい写真家がいるんだー!と、私の中では崇拝の対象だったのだけど、そのわりに、すげー!だけで満足して、特にこの人の仕事についてもっとしっかり知ってみよう!とかにはならなかったところが残念な、80年代のわたしでした。今あの時のわたしに会ったら、8時間くらいかけて説教したい。でも聞かないんだな、これがきっと。


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2017/07/28

街の性格 シアトルとニューヨーク


先月デジタルクリエイターズに掲載していただいた原稿をアップしてなかったのに気づきましたので、いまさらですがアップします。

ニューヨークとシアトルを比べてみたの記です。




今月、10日間ほどニューヨークに行ってきた。ひょんなことで急に決めた、人生初のニューヨークシティ。
同じ大陸の東と西だけど、8年住んでみたシアトルとはいろんな面で正反対で面白かった。

非科学的で主観的な観光客の感想として、シアトリートとニューヨーカーの特徴をちょっと比べてみた。



だいたいみんな急いでいる。

ニューヨークの人はとにかく歩くのが早い。
みんなどこかすごく急いで行くべき場所があるらしい。

しかし東京と違うのは、誰も信号を守ろうとしないこと。

車が来てないのに赤信号を守っている歩行者は子連れの観光客くらい。左右をさっと見て早足で赤信号を渡っている人々に囲まれていると、ぼーっと信号待ちをしているのは人生に対して受動的すぎる態度であるような気がしてきて、マネして急ぎ足で赤信号を渡らずにいられない衝動にかられる。
別にそんなに急いで行くところはないんだけど。

シアトルの人は、わりと律儀に歩行者信号が変わるのを待っている人が多いのだ。あまりガツガツと前に出るのをよしとしない美学が無言のうちに共有されてる気がする。

車の運転も同様。

シアトルのドライバーは、本当によく道を譲る。

横断歩道でないところに立っている歩行者のためにわざわざ停まってくれることも珍しくない。もちろん横から出てきた車にも、9割以上の確率で道を譲ってくれる。

信号が青に変わったのに前の車のドライバーが気づかずに動き出さない時も、シアトルのドライバーたちはすぐにクラクションを鳴らさず、礼儀正しく1、2秒待ってから、あまり攻撃的に聞こえないように遠慮がちに短くプッと鳴らす。
 
ニューヨークの交差点で信号が変わったのに気づかず動かなかったら、0.01秒の猶予もなくブーブーやられるのは間違いない。
横断歩道を渡る歩行者を待っている車にもすぐ後ろからブーブーブーブー鳴らしてたくらいだから、ニューヨークのドライバーにとってクラクションは単に一種の自己表現なのかもしれない。どの交差点でも必ずブーブー鳴っていないことはなかった。

ニューヨークでは空港からの往復も含め、何度かUberを使った。

空港からマンハッタンへの道で渋滞にはまったので「いつも何時頃が渋滞なの?」と聞くと、運転手さんは疲れた顔で皮肉に笑って「ALL DAY」と答えた。とにかくマンハッタンはいつでも混んでいる。

そしてニューヨークのUber運転手は、みんな運転がものすごくアグレッシブだった。1秒でも早く目的地に着いて次のお客を拾うため、アクロバティックにあっちこっちに車線を変え、ちょっとでも渋滞しているとすばやく別の道に切り替える。

見事な職人業だが、乗ってるほうは生きた心地がしない。
でもたしかに早い。Googleマップでは空港まで58分になってたのに、Uberのアクロバット運転手のおかげで40分もかからなかった。

メキシコシティのタクシーもまじで超人技だったけど、ニューヨークの運ちゃんも動物的カンと、車と一体になっているかのようなはりつめた運動神経が発達しているようであった。


ファッショナブルな人がいっぱい。

シアトルの人の格好はなんとなくみんな良く似てる。

清潔でナチュラルで控えめで、気負わないのが身上みたいなところがある。
シアトルで見かける白人の20代〜40代男子の典型は、チェックのコットンのシャツ、よく手入れされたほお髭、パタゴニアかノースフェイスの薄手のダウン、地元ブランドの革のカバン、といったところ。

女の子も垢抜けた自然志向といった感じで、タトゥーは入れててもメイクアップをしてない子もけっこういる。

IT企業にお勤めの皆さんとカフェのバリスタさんの違いは顔についてるピアスの数とタトゥーの数くらいで、傾向はあんまり変わらない。
そのまま釣りやキャンプに行っても違和感ないようなアウトドア志向のリラックスしたお洒落。

ニューヨークでは、頭のてっぺんから爪先まで気合がはいったお洒落をしている人が、次から次へ町角にあらわれる。

黒人のおばちゃん、イタリアンのおっちゃん、つば広帽子のマダム、『ゴシップガール』に出てきそうなお金持ち系女の子たち、派手なプリントと金のシューズを組み合わせたゲイの男の子。

それぞれ揺るぎない自分の世界にありあまる自信をもっていて、人がどう思うかはまったく気にかけていないらしいのが、壮観だった。


機嫌が悪い人も多い。

ニューヨークでも、アップスケールなカフェとかショップとかお洒落界隈のレストランでは、もちろん店員さんたちはプロフェッショナルなフレンドリーさで接してくれる。

でもニューヨークには不機嫌さを隠そうとしない人も多かった。

観光地のカフェの店員、美術館のチケットカウンターの係員、Uberの運転手、といった人々の中に、ものすごく感じのいい人とものすごく無愛想な人がいる。

シアトルのサービス業でそれほどむき出しに無愛想な人はめったに見ないので、ちょっと新鮮だった。

こういう人々はとくに根性がねじ曲がっているのではなくて、単に客のために自分の不機嫌を取りつくろう必要を感じていないだけなのだ。そう思うとむしろ清々しくさえ見えてくる。

愛想がない人が多いから、すなわち余裕がなくて冷たい人ばかりかというと全然そうでもない。

自転車シェアリングのステーションに自転車を戻して去ろうとしていたら、通りすがりの車の運転手が運転席の窓から「ちゃんとロックされてないよ」と教えてくれた。

道を聞けばみな面倒がらずに教えてくれる。ベビーカーに子どもをのせたまま地下鉄に乗っても、もちろん誰も非難しない。

マンハッタン名物、ごみの山。とにかく道路が汚くてびっくり。
というか、シアトルが例外的に綺麗な街なのかも。

内向的な街と外向的な街。

シアトルはかなり均質な街だ。
街の中心部は圧倒的に、礼儀正しくてリベラルでインテリで所得が高い白人の中流層が多い。マイノリティの多いエリアの文化とメインストリームの文化はおおむねおとなしく共存しているだけであまり混ざることはない。

ニューヨークシティももちろん、層やエリアがいくつもあって住み分けがくっきりしているはずで、たとえば5番街のマダムたちとクイーンズから通ってくる移民の店員の世界は全然違う。

でも、マンハッタンという狭い場所にありとあらゆる多様な世界がひしめきあって隣りあってることで化学反応みたいなものが毎日あちこちで起きて、静かに爆発したり融合したりしてるらしいのが面白い。
 
どちらの街もいま景気は良くて、あちこちで工事中だし、ジェントリフィケーションが進んでキレイになっている。どちらの街もエネルギーが強いけど現れ方が違う。

ステレオタイプを承知でいえば、シアトルは小奇麗で内向的、ニューヨークはガチャガチャしてて外向的。まあそんなラベリングにはあんまり意味はない。

シアトルもニューヨークも、アメリカの中ではものすごく珍しい場所なのは間違いない。

シアトルにおっとりした人が多いのは、IT系のギーク君たちが人口のかなりの部分を代表しているから、だけではなく、冬は温暖で夏は涼しい気候、平均して高い所得、成長産業があること、衝突が少ない社会構成と、自然に囲まれた環境、…といった要素があるんだろうな、と、蒸し暑いニューヨークから帰ってきてぼんやりと思うのだった。

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2017/07/27

ルーフトップのパーティー

 
メトロポリタン美術館のつづきです。1か月以上前の話ですみません。

1時間ばかり川久保さんの服を見ていたら、冷房で身体が冷え切ってしまったので、屋上のガーデンへ。


セントラルパーク越しにビル群がみえる。
スナックバーがあって、ワインも売っていた。
美味しそうなレモネードがあったので、それは何?ときいたら、それもアルコール飲料だった。お酒飲める人はいいなー。
仕方がないのでハムとチーズのサンドイッチ(14ドル。高っ)を買って、水筒の水を飲みながらもそもそと食べる。


なんだかシアトルのような空模様が落ち着く。


ルーフガーデンにはAdrián Villar Rojasさんという若いアーティストの作品が展示されてました。美術館のコミッションで、この展示のために作ったものだそうです。

1980年生まれ。37歳かー。アルゼンチンの人。

ニューヨーク・タイムズの記事があった。 この記事に出ているゾウやキリンのが素敵。イスタンブール・ビエンナーレのだという。

このガーデンでフィーチャーされる作家さんとしては最年少だそうです。
すっごく線の細そうな青年。


食べ散らかしたテーブルのインスタレーション。


作品には、メトロポリタン美術館の収蔵品がフィーチャーされてるんだそうだ。
このトリとか刀とかも多分。ファンタジーですね。

この人の有名作品は、パタゴニアの山の中のクジラのインスタレーションなんだそうだ。2012年の作品。

 My Modern MET からお借りしました。

 こちらも上のサイトから。これはツボだわー。好きー。


これを見たときは何も前知識なかったけど、きっと若い人なんだろうなと思った。
幻想的で詩的でアニメっぽくて、ストリートな感じ。すんごい雑な表現だけど。



随分と軽そうなカバである。


これが一番気に入ったイケメンさん。謎のサル的な存在を両肩にのせたノマド。

ホームレスなのかなにかと戦う人なのか。
このサル的存在と変なライオンみたいな刀だか笏だかがメトロポリタン美術館の展示品なんでしょうね。メソポタミアかメソアメリカの出土品かなにかか。

神話的雰囲気とストリートなコスチューム。やっぱりアニメやSF映画を思わせる。


なぜか脈絡なく、バンクシーを連想した。パワー的にそういう方面な気がする。

この人の作風、バンクシーのグラフィティアートが持っているポエムな感じに似た印象がある。ストリート的な人物がそう思わせるのか。
しかしながら、もっと柔らかい、線が細い感じ。
女性的といっていいのか、草食的というべきか。


えーとこれは、閻魔大王? このエヅプト的ななにものかに跨っている少年は、飛行帽のようなものをかぶっている。『鉄コン筋クリート』のクロを思い出した。
アジア系少年だし。あなたはジブリと松本大洋が好きではありませんか?と聞いてみたい。


イタチさんにも萌えた。全然知らないアーティストだったけど、好きだこの人。
きっと良い奴だ。


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2017/07/25

川久保玲さんの服


メトロポリタン美術館では、2つの大きな企画展をやってました。
アーヴィング・ペン写真展と、


コム・デ・ギャルソンの川久保玲さんの「Art of In-Between」。
どちらも直球どまんなかのツボだった。


建物のあまりの大きさに呆然としながら、ペルセウス(だっけ?)の綺麗なお尻をちらりと横目に見ながら(しかし写真は撮る)、川久保さん展会場へ。
広すぎてなかなかたどり着けなかった。


川久保玲さんの服は、もちろん、持ってません!Tシャツですらも!

1980年代から現在までの川久保さんの服を「in-between」というコンセプトで振り返る大回顧展。

不在/存在、デザイン/非デザイン、ファッション/アンチファッション、モデル/複製、ハイ/ロウ、昔/今、自身/他者、オブジェクト/サブジェクト。

といった対立する概念のペアが各セクションに振られていて、川久保さんの服は、その相対する概念の間で生まれてきた服たちとして紹介されている。



コブを持った服。「Body Meets Dress - Dress Meets Body」、1997年。

川久保さんの服はなんだかすごいなあと遠くから思っていたけど、 こんなにすごいのだとは知らなかった。



もうすべてに圧倒されました。この展覧会だけでもう本当にノックアウトされて、見終わったら、しばらく呆然、ぐったり。


川久保さんは正当なデザインの教育は受けていないというのも知らなかった。

40年間前衛であり続けられるってどういうことなんだ。


「The Infinity of Tailoring」、autumn/winter 2013–14。

男性/女性、自分/他者、東洋/西洋、子ども/大人、といったカテゴリーを問う服。

ただその問いをもてあそんだり、もったいぶるのではなく、それを綺麗な形につくりあげてしまう天才。


 こどもと大人。カワイイの究極。

「この服はだれが着るのかしらね。不思議の国のアリスに出てくる服みたいね」
と、アメリカおばさんが不思議そうにいっていた。うん私もそう思う。


「Ceremony of Separation」、2015-16。

喪服のような、死と別れを感じさせる作品。

この人はお坊さんのような真面目さで服を作り続けているんだ、と思う。
その真摯さに泣けてくる。

これだけ突飛なデザインが、まったく衒いを感じさせないし、わざとらしくない。



 「Broken Bride」、2005-06

 “The right half of my brainlikes tradition and history,the left wants to break the rules.”

 「わたしの右脳は伝統と歴史が好きで、左脳は決まりを壊したがっているのです」(2005)


「Not Making Clothing」、2014。
このコレクションはビデオで見た。演劇的なショウだった。



子ども/大人、過剰/欠落。

この展覧会の、ふたつの相対する概念の中に表されているものをいったん取り壊して再構築する、というテーマが、いつも川久保さんの制作の中にあるのかどうかは知らないけど、そのように説明されると本当にしっくり納得ができるのだった。



「Invisible Clothes」、Spring/summer 2017。

そしてその形が本当に息をのむほどカッコ良いのです。


「MONSTER」、Autumn/winter 2014–15。

「怪物」というのは「人間性の狂気」を表現しているそう。

「私たちが皆持っている恐怖、常識を超える感覚、日常性の不在。なにかとてつもなく大きなものによって、なにか美しくも醜くもあるものによって表されるもの」



上の段は、パリに衝撃をもたらしたという1982年秋冬のコレクション「Holes」の穴あきセーター。
「無」「間」「わびさび」の表現だという。この穴は「破れではなく、布地に新しい次元をもたらす『オープニング』。カットアウトはある種のレースになる」というのが川久保さんの説明。


 Blood and Roses、Spring/summer 2015。

 「コレクションのテーマは、社会状況に対する憤りから来ることが多い」
というものの、
「自分のデザインを、世界のなにかの問題へのメッセージにするつもりは全くない」とも。



血と薔薇。
バラの花はヨーロッパのバラ戦争にさかのぼり、「血と戦争、政争、宗教上の紛争、勢力争いに結びついている」。


Blue Witch、Spring/summer 2016。

中世から迫害されてきた「魔女」というのはフェミニスト的なテーマではあるけれど「私はフェミニストではない」「私は白昼夢も追わないし、幻想的なイマジネーションも持っていない。私はむしろリアリストなんです」と川久保さんの言葉。



18th-Century Punk、Autumn/winter 2016–17。
秩序とカオス。


川久保さんは常にストリートファッション、パンク魂が好きで、同時に歴史と伝統にも敬意を持っているという。

川久保さんの服には、形式に一切よりかからないで、自己満足をしない、緊張感があると思う。

きっと、その緊張がちょっとでも緩んだら一切がだめになって単なる混沌になってしまう。カミソリの刃の上のような危うい場所で成立している「醜の美学」。その引力がものすごい。

楽茶碗のような服だと思う。
この緊張感は、利休さんの時代のお茶道具の緊張感のよう。

異次元のような空間にひっぱりこんで、有無をいわせず「これは美しい」と思わせるパワー。


“My clothes and the spaces they inhabit are inseparable—they are one and the same. They convey the same vision, the same message, and the same sense of values.”

「わたしの服と、その服がある空間とは切り離せない存在。互いに一つなんです。どちらも同じビジョンとメッセージを伝え、同じ価値感の上に立っている」(2017年)



Body Meets Dress-Dress Meets Body のコブ衣装を使った舞踏の舞台もあって、ビデオで上映されていた。


1997年に上演されたもの。


「The Future of Silhouette」、 Autumn/winter 2017-18。


こちらも最新の「The Future of Silhouette」。
袖すらない。

 VOGUEの記事にコレクションの写真とビデオがありました。モデルが着て歩くとピーナッツの殻みたい。

いったいこの次に何を作るんだろうか。

この展覧会の写真がたくさん網羅されてる記事がありましたます。ニューヨークに行かない方はこちらで。

会期は9月4日までです。


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