2017/12/17

ピーナツバター&アップルとレプリカント再び


ある日の寒そうな空。

期末の翌日から、また終わりの見えない闘いがだらだらと続く。



りんごをたくさんもらったので、メリケンキッズのおやつの定番、ピーナツバター・アンド・アップルばっかり食べている。

最初に見たときは、りんごに何ということをするのか!と思ったのだったが、意外とピーナツバターのこってり感と薄い塩味がりんごに合うんですよね。



ところでまたもやブレードランナーなんだけど。

山形浩生さんのブログにブレードランナー2049の批評がのってました。

ほかの批評は誰のもまったく読んでないけど、そうか、

「前作を意識しすぎ。前作と関係ないところは、とてもいいのね。でも前作とつなごうとする部分が非常に苦しいしくどい。」

というのは、みんなやっぱり感じてるんだなー。そういうレビューが多いんだそうです。

(以下ネタバレしますよ。山形さん、どうでもいいけどぜーんぶバラしたあとでブログの最後に「ネタバレ気をつけて」ってどういうことよwww 映画見る前にあのレビュー読んでがっかりする人はいないと思うけどさ)



それでね、あの最後の巨大ジョイちゃんとの邂逅の場面は

(引用)
特にジョイの部分はよくて、いろいろあって彼女が破壊されたあとで、街頭CMの巨大なジョイの映像が、Kに話しかける。そのときに使われるせりふは、最も親密だったはずのジョーという名前も含めて、Kと関係を築いていたはずのジョイとまったく同じ。 それは、Kにとってどういう意味をもつのか。ひょっとしたらそれは、単純に自分のジョイちゃんを思い出す契機だったのかもしれない。でもひょっとしたらそれは、「自分の」ジョイだと思っていた存在、それが自分だけに向けて言っていると思っていたせりふが、結局はAIのパターンでしかないことを認識させられる悲しい瞬間だったのかもしれない。だからこそ、あの瞬間にKの決意のすべてがある。かれはそこで(革命軍の指示にさからって)デッカードを助けようと思う。自分にとっての大義、生まれてきたものには魂があるのだという考えに奉仕するべく。
(ここまで)

と書かれてました。

あー!そうか!
「「自分の」ジョイだと思っていた存在、それが自分だけに向けて言っていると思っていたせりふが、結局はAIのパターンでしかないことを認識させられる悲しい瞬間だったのかもしれない。だからこそ」
ああ、これこれ、これがわかりたかったんだよね。こうやって書いてもらうとすっきりした!さすがだわ。ありがとうございます!

わたしはKにとっての「大義」は、たとえウソであっても自分の体験であったと思う。
その「パターンでしかない」生が、自分にとっては、そして誰にとってもかけがえのないものだってことが「大義」だったんじゃないかなと。

「生まれてきたものには魂がある」って、まあそういうことか。

でも、消化できないモヤモヤした体験を映像でハイ、って見せてくれる監督はさらにすごい。

あの場面はこの映画最大の山場でしたよね。
切なすぎ。
あの場面のためにこの映画はあったといってもいいのではないかと思う。

勝手な思い込みではあるけど、そういう、ぎゅぎゅっとすべてが詰まった場面がひとつある映画って忘れ難く、道をあるいてても思い出しただけで泣けたりする。
最近では『 レヴェナント 蘇りし者』の廃墟の教会のシーンがいつまでたっても号泣殿堂入り。

『ブレードランナー2049』、あんまり評価は高くないみたいだけど、わたしは『メッセージ』よりこっちのほうがずっと好きだけどなー。
Netflixに来たらまたゆっくり観てみよう。いつの日か…。

しかし山形さんってどういう頭の構造をしているんでしょうね。

読書と翻訳のスピード!
メモリにしたら30倍くらい違うんだろうなあ、わたしの頭にはいってるやつと。それで国際援助関連とかの本職をお持ちなんだから、ほんとに鼻持ちならない人ですわ!もしかしてレプリカントかも。

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