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2016/12/01

トランプの肉まんとバカの壁


グリーンウッドのカフェDivaEspresso前のロココなカフェ椅子です。
ここのチェーンは内装が微妙にロココ。シアトル市内に数店があります。

今月のデジタルクリエイターズに寄稿した記事。ちょっと加筆しました。

● 911以来の衝撃

「この数週間、わたしは無関心すぎた。トランプがまさか勝つとは思っていなかった。わたしは間違っていた。
もっと関心を寄せなかったこと、もっと行動しなかったことが悔やまれる。今は残念としか言えないことが残念だ。でもこれからは、トランプと彼に投票した人びとに標的にされている人びとを守るために、わたしは全力で働く。これからはもう無関心ではいない」

選挙の翌日、シアトル在住の知人の白人女性(30代、弁護士)はフェイスブックにそう書き込んだ。

超がつくほどのリベラル都市であるシアトルでは、選挙当日までほとんどの人がヒラリーの勝利を確信していただけに、トランプの勝利にとてつもないショックを受けた。大学キャンパスでは選挙結果について話し合いながら泣き出す女子学生も多かった。

まるで世界大戦の開戦かなにかが宣言されたかのような、1日にしてそれまで当然だと思っていた世界が変わってしまったような衝撃。
まさに、911の同時多発テロ以来の衝撃だった。

トランプは就任早々に不法移民を一斉に排除すると公約しており、オバマ大統領が実施した、年少時に不法移民として米国に来た学生に一時的な法的権利を与える大統領令も就任早々撤回すると宣言している。友人や知人の身の上を案じる人も多い。

選挙戦中にトランプが振りまいた暴言に本気で怒り、しかしこんな馬鹿者がまさかほんとうに大統領になるはずがないと失笑していた西海岸のリベラルな人びとは、自分たちが何よりも大切にしてきたはずの価値観をまったく尊重しようとしないその暴言王と追随者たちに国政のトップが握られてしまったという事実に、しんそこ打ちのめされている。

選挙後、シアトルでは大人や大学生だけではなく、中高生のデモも行われた。(反対デモはほかの都市のような破壊活動に発展せず、平和的な行進にとどまっている。)

誤解している人もいるようだが、これはヒラリー支持者のデモではない。多様性の尊重、マイノリティや女性の権利といった、トランプが鼻で笑ってバカにした価値観を自分たちは絶対に守るという意思表明だ。オバマ政権の8年間の間に成人したミレニアル世代にとって、特にその衝撃は大きかったのだと思う。

とにかく街に出て集まってまだ世界が変わっていないことを確認しなければいられないほど、リベラルな都市の人々は動揺していたのだ。

● ふたつのカゴとcoalition

ニューヨーク・タイムスのサイトで公開されている出口調査のデータには、分裂しているアメリカがはっきりとあらわれている。


男性の53%はトランプを支持。
女性の54%はヒラリーを支持。

白人の58%はトランプを支持。
黒人の88%、ヒスパニックとアジア系の65%はヒラリーを支持。

29歳以下の人の55%はヒラリーを支持。

45歳以上の人の53%はトランプを支持。

大学を卒業していない白人は67%がトランプを支持。
大卒の非白人は71%がヒラリーを支持。

住む地域による差も目を惹いた。

人口5万人以上の都市圏に居住する人の59%はヒラリー支持。
郊外になると50%がトランプ支持、小さな町や田舎になると、62%がトランプ支持。

プロテスタントその他のキリスト教徒の58%、カソリックの52%、そして白人の福音派教会信徒は81%がトランプ支持。

今のアメリカは「素晴らしい」と思う人の83%、「良い」と思う人の76%がヒラリーに投票。
「あまりよくない」と思う人の55%、「良くない」と思う人の79%がトランプに投票。

次世代のアメリカは「今より良くなっていると思う」人の59%がヒラリーに投票。
「悪くなっていると思う」人の63%がトランプに投票。

アメリカは確かに分断されている。でも、当然ながら、二色にわかれているのではない。

ホワイトカラーとブルーカラー。
莫大な富をたくわえている富裕層、援助なしには生活できない貧困層、その中間のいろいろなレベルの中流層。
都市圏と非都市圏。
同性愛者の結婚は当然の権利だと信じる人びとと、とんでもないことだと信じる人びと。

人種、性別、収入、職種、教育、世代、住む地域、信条など、リアルな断層はいくつもある。

現在の二大政党制、特に大統領選挙は、その無数に分断された有権者層を、無理矢理に赤または青のふたつの大きなカゴに入れる装置になってしまっている。
そして、その違いをさらに際立たせる方向に働いている。

選挙の報道では、政党や候補者がどんなグループのcoalition(連合)を味方につけることができるかということが焦点になる。

オバマ大統領の2回の選挙では、若者やマイノリティのグループといった層を中心に、幅広い層の連合を形成することができた。そしてその連合はかなりの熱をもっていた。
今回、ヒラリーのキャンペーンは、それほど熱のある連合を形成できなかった。

とにかくヒラリーは全方向的に敵が多かったしむやみに嫌われていた。

マイケル・ムーアが「残念だけどトランプが勝つよ」と選挙前にポストしたらしい記事で指摘しているように、予備選でサンダースを熱狂的に支持していた層はヒラリーが民主党候補になったことでがっくりしていて、トランプに投票しないまでも、ヒラリーを熱心に推す意欲はなかった。

反対に、トランプ推し連合のコアにいた層は、圧倒的な熱をもってトランプを推した。

政治家としての経験がないトランプは、21世紀の秩序あるアメリカ政治の世界では言ってはいけないとされていたはずの政治的に正しくない発言をズバズバと投げつけることで、そんな秩序なんかクソ食らえと思っていた人びとに熱狂的に支持された。

オバマ政権の8年間で、マイノリティやLGBTの権利尊重、女性の権利尊重はすっかり当然のものとみなされるようになっていた。アメリカの新しい常識となっていたはずのその感覚を完全に無視するトランプの発言に、一部の、とはいえかなり大きなグループの人びとが溜飲を下げ、それより大きなグループの人びとがそれを容認した。

トランプ推し連合を肉まんにたとえると、中のジューシーな肉にあたる部分が主に白人男性からなる熱いコアなサポーター。そのまわりに、こいつは狂人のようなことをいう下品のような奴だと思いながらも、いろいろな理由でヒラリーよりはマシだと思って投票した層が分厚く取り巻いている。その中には、人工中絶に絶対反対のキリスト教福音右派もいれば、トランプのほうが自分たちの利益を守ってくれるに違いないと感じる富裕層もいる。

オバマのときにオバマ推し連合にくわわっていた労働組合の人々も、今回はトランプ推し連合の肉まん中央付近に流れてしまった。

● ルサンチマン

今回の選挙では、ヒラリーが「エスタブリッシュメント」の代表で、政治家ではないトランプはそのようなエスタブリッシュメントをひっくり返すことができる人物だとトランプ支持者は感じていた。ていうか信じているらしい。

トランプは企業と富裕層に大幅な利益をもたらす減税を公約していて、ヒラリーは富裕層への増税を公約していたのだけれど、トランプ支持者が目のかたきにするエスタブリッシュメントというのはお金持ちのことではなくて、「いまのアメリカを動かしているシステムとその中にいる目にみえて偉そうなやつら」のことだ。その中には、東海岸や西海岸の都市で「ビバ多様性!」とかいっている「進歩的」なインテリやメディアも含まれる。

選挙キャンペーンのラリーに集まったトランプ支持者は、ぞっとするほど熱かった。「ヒラリーを牢獄へ」「メキシコに塀を」「移民はもう来るな」というスローガンで熱狂する人びとを動かしていたのは、エスタブリッシュメントに対するresentment だった。

resentment をひとことで表現できる日本語はない。自分の置かれた状況とそれを作り出している世界に対するモヤモヤした憤り、恨み、不満。

テツガク用語としてやってきて日本に定着している「ルサンチマン」というのが、多分いちばん正確に表しているように思う。

都市にはインド人や中国人が来て高給を取っているのに、自分の住む地域では経済が一向に上向かず、暮らしは悪くなる一方だ。不法滞在の移民には権利が与えられるのに自分たちの生活はまったく顧みられない。わけのわからない奴らだけがトクをして、純粋なアメリカンであるはずの自分たちはないがしろにされている…。この人々が抱いている思いはそんなところなのだろうか。

「アメリカはだんだん悪くなっている」「今の社会は最悪」と実感している、小さなさびれた町に住む人びと、特に、アメリカ社会の中で徐々にマイノリティになりつつある白人男性に、「移民が悪い」「企業に国内で生産させれば景気はよくなる」「ヒラリーのような嘘つきの政治エリートが企業と結託して世の中を悪くしている」とわかりやすい敵を指し示したトランプの言舌は熱い感動を呼び覚ました。

「Make America Great Again(アメリカをもう一度グレートにしよう)」というスローガンに熱狂する人びとを見るたびに、わたしは、ネイティブ・アメリカンの「ゴーストダンス」を思い浮かべてしまった。

白人が突然イナゴの群れのようにやってきてバッファローを絶滅間際まで乱獲し、土地を独占してネイティブたちを狭い居留地に追いやったとき、平原に住んでいた民の間に熱病のように新しい宗教がはやった。鉄砲の弾も通さないというシャツを着て踊り続けることで、白人がいなくなり、バッファローが戻ってくるという信仰だ。

白人男性が無条件に尊敬を受け、女は黙って家事と子育てにいそしみ、黒人やヒスパニックが権利を求めてホワイトカラーの仕事にしゃしゃり出て来たりしない時代のアメリカ、白人男性が女性を「ガール」と呼び、黒人を「ボーイ」と呼んで見下しても誰にも怒られなかった時代、『マッドメン』シーズン1の舞台になった1960年代初期のアメリカを、もしかしたらこの人たちは「偉大なアメリカ」だと思っているのかもしれない。デスパレートなトランプ支持者たちとバッファローの帰還を切実に願ったラコタ・インディアンの民と一緒にしたら、きっとラコタの人びとは気分を害すると思うけれど。

ゴースト・ダンスの信奉者たちの精神的リーダーのひとりだった酋長シッティング・ブルは、熱狂する信者たちを薄気味悪く思ったアメリカ陸軍との衝突の中で殺害された。
「アメリカをもう一度グレートに」の親玉は、国民の約半数の承認を得て(得票総数ではヒラリーが200万票以上上回っているものの)この国のトップに座ることになった。

とはいえ、大平原を覆い尽くすバッファローの群れが帰ってこないように、彼らの夢見る「グレートなアメリカ」もたぶん帰ってこない。

でも、それほどまでに絶望していた人びとが溜飲を下げる機会を得たというのは、この国にとってもしかしたら良いことだったのかもしれない。

グレートなアメリカが帰ってくると本気で期待している人がトランプ推し連合のいったい何%いたのかはわからないが、トランプが掻き立ててしまった熱と憎悪と夢は、トランプが政権を実際に運営していく中で、ゆっくり着地して中道に吸収されていく機会を得たのかもしれない。
あの熱い人々の不満が、都市圏のリベラル人口に中指を突きつける機会を得て、国全体の対立が中和していくためのきっかけになった、のだといいのだけれど。

いずれにしてもあらゆる分野で長くて憂鬱な衝突がたくさん起こるのは必至だ。

トランプが発表しつつある人事をみても、リベラル側から見るといまの体制をかなりの部分「逆行」 させる気まんまんの面々がそろっている。
規制緩和、大型減税、インフラ投資、貿易規制強化でレーガン時代のようなカラ景気を呼び込むという公約で、実現すれば肉まんの真ん中の人々にとっても長期的な利益になるとはとても思えない。

● デプロラブルの壁

9月、ヒラリーは支持者(コアな支持グループであるニューヨークのLGBTコミュニティだった)のファンドレイジングイベントで、ついうっかりこんなことを言ってしまった。

“You know, to just be grossly generalistic, you could put half of Trump’s supporters into what I call the ‘basket of deplorables.’ Right? The racist, sexist, homophobic, xenophobic, Islamophobic — you name it. And unfortunately, there are people like that, and he has lifted them up.”

「ごく大雑把なくくり方をすると、トランプ支持者の半分は、わたしが『デプロラブルのカゴ』と呼ぶカテゴリーに入れて良い人々だと思います。そうですよね? レイシスト、性差別主義者、同性愛を嫌悪する人、外国人恐怖症やイスラム恐怖症の人など。残念ながらこういう人たちは存在します。トランプはこういう人たちを持ち上げてしまったのです」

そして、残りの半分のトランプ支持者は「政府に取り残され、経済に恵まれず、誰にも顧みられることない人々、彼らの生活や将来については誰も案じてくれず、絶望的なまでに変化を必要としている人々」だとして、「彼らに対しては理解と共感を持つべき」と自分の支持者に向かって訴えた。

デプロラブルというのは「嘆かわしい人たち」というほどの意味で、「どうしようもないクズ」「手のほどこしようのないカス」を上品に言い換えた言葉だといって差し支えないと思う。

この発言が大炎上した。

トランプは「うちの支持者をデプロラブルと呼ぶとは何事だー!」とここぞとばかりに攻撃し、トランプ支持者は

わたしはデプロラブル

と誇らしげに宣言するTシャツやバッジやプラカードを身につけて集会に参加するようになった。ヒラリーはメラメラと燃えるルサンチマンにガソリンをまいてしまったのだ。

ヒラリーの発言は、マーケティング目線だ。
「この層の人びとはうちの商品に興味を持つことはありません。わたしたちがターゲットにするべきなのは、こっちの層の人びとです」という、ごく簡単に図式化して考える方法。

「残りの半分に理解と共感を持つべき」という言葉も、恐ろしく上から目線なのだ。少なくともそこには共感は感じられない。

この発言は、でも、豊かな都市に住むリベラルな人々には、そのまますんなりとスルーされてしまう。
都会のリベラルにとって「山の向こうの頑固で蒙昧な人々」は理解しがたいグロテスクな存在だ。
もちろん逆も真なりで、平原の小さな町の信仰篤い人々は、都会のリベラルを堕落した気味の悪い有象無象の存在だと思っていることだろう。

リベラルな都会の人々と反エスタブリッシュメントな田舎の人々の間には高い壁があって、壁の両側でお互いをバカだと思っている。

今回の選挙は、その壁をいやが上にも高く、厚くしてしまった。

「多様性」「政治的正しさ」というのはイデオロギーではなくて自明の選択だと思ってきた人たちは、国民の半数の無理解と、暴言を容認する無関心を実感して、理解を阻む気味の悪い壁の前で呆然としている。


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2016/10/25

自虐の国のゴジラ


「デジタル・クリエイターズ」のための原稿です。いつもは「ぽんず単語帳」のほうに載せるのだけど、今回はエイゴじゃなくてエイガねたなので、こちらに。




ゴジラに、わたしは期待をしていた。



10月の第2週に、全米の数都市の数館で、3日間だけ、しかも1日1回限りという超限定で『シン・ゴジラ』が公開された。

日本で異常なまでに話題になっているのを聞いていたので、わたしはかなり期待して観に行ったのだった。



たまたまその時、カリフォルニアに用事があって行っていたので、はからずもグーグル本社からほど近いシリコンバレーの映画館で「ニューゴジラ」のアメリカ上陸をみとどけることになった。



この映画館は全席完全指定で、ボタンを押すと足乗せ台がぐいーんと出てきて椅子というより寝台みたいになるキングサイズのシートが売り。


一つの椅子が巨大なので席数はそれほどないけれど、前のほうまでほぼ満席だった。



IT業界のギーク(オタク)君たちが密集する地区だけに、米国のほかの地域よりもゴジラについての認知度は格段に高いとおもわれ、ゴジラが登場するたびに館内のあちこちから歓声が上がるという、かなり熱い上映会だった。



ゴジラの足のかたちのスリッパを履いて観にきている人さえいた。



そんな熱い米国ゴジラファンにまじって観たシン・ゴジラ。



いや面白かったんだけど、ううーん、惜しい! 



もうちょっと頑張って、アメリカ人にぎゃふんといわせてほしかった。



以下感想。(ネタバレあります)




1) この映画は、自虐的。良い意味で。

2)政治家と官僚のおじさんやおばさんはとてもリアルだった。

3)ところが架空生物「カヨコ」の破壊力が尋常ではない。

4) アメリカがファンタジーランドとして描かれている。

5)いろいろな意味で閉じている。





(これはパルコのコマーシャルですが)。

1.    まず、この映画を観たアメリカ人の多くは、日本人とはなんと自虐的な人々であることか、と思うのではないか。



でもそれは、ゴジラ本体のつぎにこの映画が誇るべき美点だと思う。



先住民に対する略奪や他国への侵略というような自国の負の歴史を世界史の中で包括的に眺めることを「自虐」と捉える困った人たちが日本にも一定数いる。わたしには理解できないけれど、そういう人は、きっと「誇り」と「盲信」を履き違えているのだろうと思う。

実際、自覚的になにかを信じるのはとても難しいことであるし、もしかしたら日本人にとってなにかを信じるということ自体がチャレンジなのだろうかとも思う。

日本というのは、鎖国>開国>帝国>敗戦>高度成長その他。…という歴史の中で「信じる」ということに凝りてしまった特殊な国といえるのかもしれない。

誇りにできる共通システムがないので、日本の「愛国」という概念はとてもとても抽象的な、感情論になる。



アメリカ人、とひとくちにいってもいろいろいるけれど、アメリカ人の多くはおおむね、自国のシステムとパワーを全面的に信じ、誇りを持っている。(もちろんそこには強烈な矛盾があるし、ほつれが顕在化して今現在の社会問題になってはいるけれど)ベトナムを経験しても、イラクの戦争が泥沼になっても、国内に貧困がはびこっていても、自国の約束するシステムと自国の未来をめげることなくやみくもといっていいほどに信じようとするのがアメリカのコンテクストだ。

二大政党のどちらも、強く正しいアメリカをうたわなければ決して選挙には勝てない。

そしてそれは、決して空疎な形容詞ではなくて、リアルな感情である。

右の人も左の人も、解釈は違うけど国の基幹である思想とシステムの正当性については揺るぎない確信を持っている。ブッシュの愛国とオバマの愛国ではかなり違うけれど、どちらもほんとうに真面目に、国が体現するシステムを愛しているのだ。あるいはそのように人に信じさせるのが上手い。



それに対してこの映画に描かれる日本の人々は、「日本という国のありかた」と、「日本ができること」に対して絶望している。

正体不明のモンスターが東京を破壊していても、政府はなかなか動けない。組織が硬直しているので会議ばっかりやってて初動が遅いし本質的な問題をとらえて決断できる人がいない。能力のある若手は苛立つが、なかなか力を発揮できない。そして自衛隊はわりとあっさり壊滅してしまう。政治家や官僚たちは諸外国特にアメリカの圧力の前に、首都を核攻撃の標的にされてもなすすべもない。



官民共同体の力を集めた決戦であやうくゴジラに打ち勝っても(はみ出し者の技術者たちのグループと、産業界の力の結集でってところが最高に泣かせる)、東京駅の真ん前に黒い巨大なカタマリとしてゴジラは残り、カタルシスのすくない勝利なのである。これが素晴らしい。



たぶん、この無力感や自信のなさをアメリカの観客はとても居心地わるく感じると思う。

アメリカンにとっては、自国の無力さを思い切って描くこの姿勢は「自虐的」としか捉えられないのではないかと思う。でもそれがよいのだ。


そう言われたら、アメリカンたちに教えてあげればいいのだ。バカだなあ、それは内省というんだよ、と。

やみくもに「俺についてくれば強いアメリカがカミングバック」なんてメッセージを信じたがる某大統領候補の支持者たちよりは、壊れた都市を前に自国とおのれの無力さをみつめるこの映画の主人公たちのほうが、百億倍くらい建設的だからだ。




2)登場人物の多いわりに静的な画面がほんとうに日本らしくて、面白かった。

この政治家たちのダメさと、硬直したシステムを面白おかしく描く静かな演出はアメリカの観客にもちゃんと伝わっていて、会議や会見の場面でもしっかり笑いが起きていた。

みんな同じように表情の乏しい政治家や官僚はリアルで、「巨大不明生物特設災害対策本部」の地味で実直なはみ出し者たちにもかなりのリアリティを感じることができた。



3)…それなのにカヨコ。


それまで前のめりになって観ていたのに、「カヨコ・アン・パタースン」役の石原さとみがでてきた途端にわたしはどひゃっ!とのけぞった。なぜカヨコ!

断っておきますが、
石原さとみの演技や英語力がだめというのではないですよ!

とってもチャーミングなキャラクターだったし、カリフォルニアなまりの英語も自然でベリーグッドだった。



これが、「西海岸に留学したあと外資系企業で働いてる気の強い人」または「押しの強い帰国子女」という役柄であれば、なにも文句はない。



しかしながら、どう間違っても「アメリカ生まれアメリカ育ちの日系3世で米国大統領を目指す超エリート」の英語ではないし、カヨコの言うこともやることもアメリカ人ではないのである。

(それに、ワシントンDCの高官として日本に派遣されるレベルのエリートはたぶんZARAで買い物はしないよ!!)



石原さとみの問題ではなくて、設定そのものが無理筋すぎるのだ。もしネタでなく真面目なら、ここはホンモノの英語圏の女優を使わなければ無理である。


これはたとえば、まるっきり東北弁の人が関西生まれ関西育ちのたこ焼き屋の女将さんを演じるようなもの。「違和感」というレベルではなく、意味がわからない。



アメリカのB級映画には今でも、ちゃんとした日本語が喋れない怪しい日本人がでて来る。

それはそれで味わい深いけれど、真面目に受け取るわけにはいかない。カヨコはそれの逆バージョンであり、しかもなんとしたことか、この映画のメインキャラの一人で、アメリカを代表する顔なのだ。

フェイクなアメリカ人・カヨコの破壊力はすさまじい。
例えば
防衛大臣役の余貴美子など、とても説得力があり存在感を放っていたのに、カヨコは登場しただけで、そのリアリティを軽々と粉砕してしまうのである。

怪獣映画とはいえ、この映画は真面目なSF映画と同じ位のシリアスな体験を提供できるポテンシャルがあるはずだし、日本の観客に対しては、きっとそれが成功しているからこれだけの大ヒットになっているはずなのに、英語圏の観客にとってこの映画を少しでも真面目に受け止めるチャンスを、カヨコの存在が徹底的に粉みじんに破壊してしまった。ゴジラ以上の破壊力である。

カヨコが出て来てなにか喋るたびに、どっひゃ〜〜〜!となって心拍数が上がるので、後半はあんまり映画に集中できなくて、もういいからはやくゴジラ出てきて!ゴジラ!と願うのみだった。



4)カヨコが「わたしの国」と呼ぶアメリカは、そして、「実力があれば誰でものしあがれる」国として、なんだかぼやけた輪郭で描かれている。



そもそも「実力」とは何かが一コマも描かれていないので、カヨコにどんな実力があるのかも謎である。

アメリカの政治家にとって、実力と言うものの中に、「アメリカンスタンダード」を体現しているかどうかということがあるのは間違いない。

それは中身というよりはむしろ外見であり、「正当性」を感じさせる力、「わたしはアメリカの価値観を体現している」と人に信じさせるコミュニケーション力、「つながる力」である。
それにはとほうもないアーティキュレーションが要求される。ヒラリー・クリントンだって、遊説先によって少し英語のトーンを変えているくらい、微妙なコミュニケーション力なのだ。
たぶんそれは日本の政治家がまったくもって持っていないし、ひょっとしたら見たことも聞いたこともないものだ。だからダメとかいってるのではなくて、そういうシステムなのだ。

どんなに頭が良くても、インド訛りのインド系アメリカ人や日本訛りの日本人または日系アメリカ人が米国大統領に選ばれる可能性は、現時点ではゼロである。

この映画ではアメリカが重要な役割を果たしている。戦後ずっと日本の首相のうしろに控えていた顔のない存在として。それはいいんだけど、きっとアメリカの観客にはそれがまるっきり伝わらない。それが惜しい。

戦後の日本で自分たちの国が演じていた役割をちらっとでも理解する代わりに、この「カヨコ」を観て、アメリカンたちは困惑して帰っていくことだろう。
ゴジラはクールだったしあの女の子は可愛かったけど、笑っちゃうよね、と。


5)そういう意味でも、この映画はとても閉じている。
製作時に国外の観客までは考えなかったのだろうけれど、あまりにも残念なのだ。

上映後、場内では拍手が起きていた。ゴジラのコアなファンたちには満足のいく映画であったらしい。

でももっと辛い、もっとつながれる、もっと動かされる、もっと普遍的な映画にもなれたはずなのに、と思うと、わたしは少し悲しかった。

唯一の被爆国でそして311の大災害を経験したばかりの国の人が作ったこのゴジラは、もっともっと、世界中の人たちにつながれる映画であってほしかった。

世界一の核保有国であり、歴史上唯一、市民の上に核爆弾を落としたことがあり、その事実を「仕方がなかった」「正義だった」とほとんどの国民が考えているこの国のひとたちを、すさまじいリアリティで説得し、感動させて、震え上がらせ、瓦礫の街の目線にいっとき共感させる映画であってほしかった。

自分の国の首都が核ミサイルの標的にされる無念さを、ゴジラへの畏怖とともに体感して、震えてほしかった。



わたしはちょっとばかり、ゴジラに期待しすぎていたらしい。

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