2017/11/15

世界が終わったあとのヘイト・アシュベリーと西瓜糖の日々


今とってる「アメリカの60年代」クラスの課題としてこの間読んだ本。
Joan Didion(ジョーン・ディディオン)さんのエッセイ集、『Slouching Towards Bethlehem』。

この人のこと、わたくしはまったく知りませんでした。

んが〜! 

震えるほどカッコいいんですけどー!

読みながら、うわーなんなんだこの人!と叫んでいたら、息子は知っていた。

「カルト作家としてユーメーなんだ」と偉そうに教えてくれたわりに自分では読んだことないってww

文章がむっちゃくちゃ上手い。

単なるスタイルではなくて、皮肉なのに真摯。
直球なのに曲がっている。
とても説明しがたい。
文学的なのにまるでスカしてはいなくて、でも本当にむっちゃカッコいい。あああああ、なんて貧困な褒め方なんだろう。

カッコつけすぎてかっこ悪い文章書く人は掃いて捨てるほどいるけど、ほんとうにカッコいい文章書く人ってそうそういない。

収録されている最初の一編(1965年にサンバーナディーノで起きた、中年主婦が夫を殺したとして有罪になった事件を題材にした一編)を読んだうちの息子は、その直感的で繊細で、しかもドライで突き放したように簡潔で、でもあくまで個人的な身体的感覚にもとづいた情景描写が「ハルキ・ムラカミみたい」だと言った。息子は日本語がそんなに読めないので、もちろん英語訳のハルキ・ムラカミである。

息子もまったくもって読書家ではないのであるけど、それは面白い感想だなあ、と思う。

わたしは本当にこの時代のアメリカ文学についてまったくもって良く知らないんだけど、表題作の「Slouching Towards Bethlehem」を読んで、ずーっと昔に読んだリチャード・ブローティガンの『西瓜糖の日々』を思い出しだのだった。

この表題作「Slouching Towards Bethlehem」は、1967年、サンフランシスコのヘイト・アシュベリーに取材したエッセイ。「サマー・オブ・ラブ」の年で、全米からヒッピーのわかものたちがヘイト・アシュベリーに集まっていたとき、その場に入り込んで当事者たちに話を聞き、いったい何が起きているのかを理解しようとつとめるという内容。

このときディディオンさんは32歳。インタビューする相手は16歳から17歳の家出少年少女たちや、せいぜい20代前半のキッズがほとんどで、微妙なジェネレーションギャップがある。

が、ギャップはジェネレーションだけではない。

インタビューされる若者たちの会話を読んで『西瓜糖の日々』に出てくる奇妙な世界の住人を思い起こしたのにはいくつか理由がある。

その世界がどんな法則で動いているのか、登場人物の誰もがよく理解してないし説明できていないこと。
もしくはとても基本的な部分で説明が食い違っていること。だから、はっきりしたその世界の全体像が、読者にはつかめない。

その世界はなんだか奇妙で、ゆがんでいるのだけれど、おおむね穏やかで、住人たちはおおむね平和に満足してくらしていること。

でも、どこかにやはり、とてつもない不安と暴力の予感がちりばめられていること。それはどこか遠くにあって表には出てこないけれど、確実にあること。

そして、その世界は、それまでの古い世界が終わったあとの、まったく新しい世界であること。

『西瓜糖の日々』は英語じゃなくて日本語訳で読んだのだし、もうはるか昔に読んだきりなので細かいことは覚えてないんだけど。

まあ盛大な勘違いだと思う人もいるかもしれませんが、わたしはこの「 Slouching Towards Bethlehem」を読んで、なんだかよくわかんないままに大好きだった『西瓜糖の日々』がやっと理解できた気がしたのでした。

ぐぐってみたら、『西瓜糖の日々』は1964年に書かれ、1968年に出版されていた。
まったく同時代といっていい。
正確に時代の空気感を反映しているのかも。

 LSDでハイになってる親が5歳の息子にLSDを与えているという衝撃的な場面で幕を閉じる『Slouching Towards Bethlehem』でたぶんもっとも衝撃的なのは、でも、ディディオンさんと、取材対象であるヒッピーたちとの間に、共通の認識があったことだと思った。

それは

「いままでの世界はもう終わったし、もとには戻らない」

という、強烈な認識。

古い世界の決まりはもう無効になったと君たちが思ってることはわかった、だからそれで、君たちはどんな世界を作って住んでいるの、とディディオンさんはほんとうに本気で若いヒッピーの子たちに聞いているのだけど、ヘイト・アシュベリーの住人たちは、西瓜糖の世界の住人たちが自分の住む世界を説明できないように全然説明できていないし、その説明はなんだかみんなピントが外れている。

でも本当にこの時ほどそれまでの価値観や世界のあり方がいったんひっくり返された時代、というかそれが一国の共通の認識として世代を越えて共有された時代は、米国史上でも、いや世界史上でもあまり数多くなかったと思うし、すくなくともその後半世紀にわたって、そこまでのは再来してないのだと思う。

たぶん世界大戦なみのクライシスがなければそんな転換点は再来しないだろうし、来てほしくはない。まあいつかは来るんだろうけど。

レイ・カーツワイルさんのいう「シンギュラリティ」か、インターネットが人間と融合していくこと、かなにかが、次のそんな世代的な転換点になるのかもしれない。

次回の世界の終わり。

1967年は、あのミスタードーナツのコマーシャルをもじれば「アメリカが青春であることをやめた時代」ってなるのかも。いや、ていうより、このサマー・オブ・ラブがほんとの意味でアメリカの短い青春時代だったのかも。

リーディングアサインメントでこんなに楽しい読み物初めてだ!
このクラスとってほんとによかった。成績はともかく。

このエッセイ集は青山南さんの翻訳で日本語版も出ていた(邦題は『ベツレヘムに向け、身を屈めて』)けど、もう絶版になっているようです。

たまたまNetflixでディディオンさんのドキュメンタリーをやっていた。




大学卒業後ニューヨークでVOGUEの編集者として働き、その後夫とLAにうつってマリブで暮らしたディディオンさん。

マリブの家にはハリウッドの人々も集まり、家の改築に雇われて来て家族ぐるみのつきあいをしていた大工さんは、なんと!ハリソン・フォードだったという…

(ハリソンもドキュメンタリーに出演してます。超かわいい20代当時の写真も出てくる!)

おもしろすぎる。こんな人生を送っている人もいるのね〜!

晩年は娘(養女)と夫を相次いで亡くし、そのあとに書いた手記が高い評価を得て、日本語にも翻訳されてます。これもいずれ読んでみたいが、積ん読がー…。



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