2018/03/01

スター・ウォーズと21世紀のフェミニズム



雨の一日でした。よく降る。

デジタルクリエイターズに書いた記事です。柴田編集長70歳には原稿は「面白かったです。掲載できてよかった」といっていただけたものの「これらの映画をすべて見ましたが、ぜんぜん面白くなかったのはソレですね」という…うーんうーんうーん。



1970年代のフェミニストアーティストって、超過激でめっちゃ面白いんだよ…という話をしようとしたら、知人の白人男性(40代)が急に話をさえぎって「フェミニストなんかがいるから世の中が悪くなるんだ」みたいなことをいきなりの剣幕で言い始めたので驚いた。この人は大学も出てるし普通にそこそこの大企業で働いてる中間管理職なのだけど。リベラルな「青い町」シアトルにも、内輪になると急にこういうことを言い出す人が一定数いる。

どうやら彼は、「フェミニスト」がやたらに自分たちの権利だけを主張して無理スジばかりを通し、世の中のほかの部分はまったくかえりみないモンスタークレーマーかカルト信者のような人々なのだと思っているらしかった。

でも日本でも、ネットで流れてくるコメントを時々覗くと、「いわゆるフェミニスト」「いわゆるフェミニズム」についてはそういう解釈の人がけっこう多いのだと思い知らされる。
というか、日本の「フェミニズム」っていう言葉の解釈がなんだか大変に奇妙なことになってるっぽくて、検索するとやたら田嶋陽子さんの名前が出て来るんだけど、ここ15年ばかりは日本のテレビをほとんど見ていないのでその辺の事情はよくわからない。勝手な推測では、なんだか田嶋さんが一人で果敢にたたかいを繰り広げている間に、フェミニズム=田嶋陽子という図式が多くの人の頭に貼られてしまったのではないかと思われる。

良かれと思ってすることが180度裏目に出ることはよくあることだ。
「フェミニスト」もしくは田嶋陽子さんに対するネットの悪口を読んでいると、遠藤周作先生の『沈黙』に出てくるフェレイラ神父の「日本という国は泥のようなものである」という(いま手元に本が見つからないので超うろ覚え)言葉が、なぜかふと思い出される。
日本のテレビこそ、まさになんでものみ込んでしまう泥沼のようなものなんじゃないかな。しかもなんであれ思想をバラエティ番組で布教しようとするのは、砂漠でスキーを売ろうとするようなものではないかと思う。

しかも日本では「フェミニスト」が単に「女にやたらに優しい男」という意味で使われていた時期もあったのでよけいにややこしい。
今でもその意味で使う人がいるのか?と思ったけど、今年1月に改訂された『広辞苑』にもまだ、「女に甘い男。女性尊重を説く男性」という定義が残っているそうだ。うーん。その説明文に続いて「坂口安吾、市井閑談『このおやぢの美点は世に稀な(フェミニスト)であることである。先天的に女をいたはる精神をもち』」という例文が引かれているそうである。
(参照:ハフポス

あらまあ。まあこれで、この用法は坂口安吾の時代に使われてたものなんですよってことは示されているわけですね。しかし「先天的に女をいたわる精神」て何なんだよw。

この用法は、「女性は社会的にも実際の能力も弱くて守ってやらねばならないかわいそうな立場の存在である」という前提があってはじめて意味をなすのであって、次回の改訂のときには(「…と昭和時代には使われていた」)とつけ加えられてるかもしれませんね。

ちなみに広辞苑の新版では「フェミニズム」も、以前の
「女性の社会的・政治的・法律的・性的な自己決定権を主張し、男性支配的な文明と社会を批判し組み替えようとする思想・運動」
から
「女性の社会的・政治的・法律的・性的な自己決定権を主張し、性差別からの解放と両性の平等とを目指す思想・運動」
という定義に変わったのだという。

「男性支配的な文明と社会を批判し組み替えようとする」に代わる「性差別からの解放と両性の平等を目指す」という一文は、20代前半の若いフェミニストの子たちからの呼びかけに応えて検討されたものだそうで、フェミニズムの焦点が変わっていることを受け、時代の流れをきちんと汲み取ったものだと思う。

(ちなみにこの子たちは、自分たちを「第4世代フェミニスト」と呼んでいる。こういう子たちがいることにおばちゃんは安心したよ。)


もともと、フェミニズムの元祖は19世紀末から20世紀末の婦人参政権運動だったんでした。これが「ファーストウェーブ」のフェミニズム。

貧しい中に子どもがどんどん生まれてしまい貧乏スパイラルに陥って困っている女性たちに避妊教育をする運動をして逮捕されたマーガレット・サンガーさんという人もいました。
20世紀のはじめには女性には参政権もなかったし、避妊(中絶じゃなくて避妊ですよ!)教育も違法だったんでしたね。避妊の方法を宣伝するなど猥褻であり、もってのほかである!と、多くの人が思っていた時代もあったのです。

それから二つの大戦を経て、戦後のアメリカはぐっと保守に振れ、白人中流社会では核家族が郊外の住宅に住む図式ができて、ビバ専業主婦の時代がしばらく続いたあとで、公民権運動の時代がやってきたのでした。

南北戦争のあと奴隷は解放されたものの100年たってもあまり暮らし向きは変わらず、南部では「ジム・クロウ」法とよばれる悪名高い一連の法律で黒人の人権がむちゃくちゃに踏みにじられていたところ、1950年代になってようやく活動家たちの地道な努力がみのり、少しずつ裁判所が黒人の権利を認めた判例が増えてきて、有名なローザ・パークスさんのバスボイコット事件あたりから一気に公民権運動が広まり、1964年にやっと連邦政府によって、たちの悪いローカルルールで人権を侵害することが禁止されたのでした。

1960年代は世界中でワカモノが爆発した時代であったけれど、アメリカ人の意識を決定的に変えたのは、なんといっても公民権運動だった。

1970年代にピークを迎えた「セカンドウェーブ」のフェミニズム運動も、公民権運動なくしてはあり得なかったのです。

この時代に書かれたものを読むと、怒涛の勢いで刻々と変わっていく社会と価値観を目の当たりにしている人たちのすさまじい高揚感と混乱が感じられてクラクラする。

アメリカは、その建国当初から「自由、民主、機会の平等」をうたっていたわりに奴隷制というとんでもない矛盾をかかえていた国で、だから国民同士のたたかいで百万人以上が死んだ内戦を経ねばならなかったし、その後も、制度としての人身売買はなくなっても、所有者と所有される側の経済格差と価値観その他ほとんどの枠組みは20世紀の冷戦時代にまで温存されたのでした。そしてもちろん、今にいたるまで完全には解消されずに、あちこちでいろんな問題になっている。

ある意味、アメリカは奴隷制とその結果としての人種問題という矛盾をかかえていたからこそ、人間社会の理性や理想の矛盾を率先して体験する壮大な実験の国となって、そこからいろんなものが飛び出してきたといえる。

「これはこういうふうに決まってるものだから」「これが社会の当たり前だから」
という議論に対し、
「だってこれは自由、民主、機会の平等に反してるじゃん」
という議論が、法廷で、街角で、学校で、職場で、200年以上かかって行われてきた。

1960年代の公民権運動は、自由と機会の平等という、それまで有色人種にとっては絵に描いたモチだったアメリカの建国理念の約束を、ひとまずきちんと約束しなおさせるという勝利を得た。もちろん、それですべてが解決したわけじゃなく、それが始まりだったおであって、その後半世紀のあいだにも押したり引いたりがずっと続いているわけだけど。

公民権運動の勝利は、1960年代まで社会のあらゆる面で従属的な役割を押しつけられていた女性にも、公の場に出てくることができなかったLGBTQの人たちにも、活躍の場がきわめて限られていた障がいを持つ人にも可能性をひらき、「社会ってほんとに変えられるんだ」という確信とエネルギーを与えた。

もちろん何度も挫折や揺り返しはあり、お前らが勝手なことを言うせいで世の中が悪くなったのだと言い出す人はどの時代にもいたし、今でもいる。

トランプ支持者の多くはアンチ多様性、アンチフェミニストで、誰もがきまりを守って秩序正しく暮らしていた昔はグレートだったと本気で信じている人もいるらしい。時代にとりのこされた不安と腹いせを、よくわからないけど自分とは違う「他のやつら」「外の人たち」に向けたい気持ちはある程度わかるような気がしないでもない。そういった人々の不満は20世紀はじめの政治家に利用されたし21世紀にも利用されている。

アメリカの中心には、今でもがっつり保守のメンタリティが残っているし、それは都市部のリベラルのものよりもたぶん足腰が強い。

アメリカやヨーロッパが、第二次大戦前のナチスを生んだ第三帝国みたいなことに絶対にならないとは言い切れないけれど、同時多発テロのあとのブッシュの時代、オバマの時代、そしてこのトランプの時代の始まりを見てきて、マイノリティ、女性、LGBTQの権利を守るビバ多様性&インクルーシブな方向への流れは、よほどのことがない限り逆戻りはしないに違いないし、なんだか知らないうちに分水領を超えていたのではないかと思えてきた。

特に、映画やテレビのメディアではフェミニズムと多様性が気づかない間にほんっとにデフォルトになったなあ、とつくづく思う。特にここ数年間の変化は目をみはるべきものがある。数年前までは男性優位なCMが多かったスーパーボウルのCMでも急激にフェミニズムとインクルーシブを踏まえることがもう絶対的基準みたいになってきたし、今回のオリンピック中継の間に流れていたCMも、ビバ多様性なものが目についた。

最近の映画でフェミニストぶりにびっくりしたのは、『マッドマックス』『ゴーストバスターズ』、そして『スターウォーズ』の3本だった。



『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(2015)は、性的道具と子作り要員として監禁されていたガールズが片腕の女性戦士と砂漠のおばちゃんライダーたちとともに気持ちの悪い独裁おやじたちをたおすという、単刀直入なフェミニスト映画だった。



『ゴーストバスターズ』(2016)はビル・マーレイ&ダン・エイクロイドの1984年版オリジナルのキャストを3人の女性科学者を主人公に入れ替えた男女逆転映画で、頭は悪いがむちゃくちゃ可愛くてセックスアピールがあるという、昔のマリリンモンロー的なステレオタイプを男の子にあてはめた受付のハンサム君がおかしかった。

そして2017年公開の『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』。これは正直、ここまで変わったのか!と驚いた。
前年度のスピンオフの『ローグ・ワン』がわたしは凄く好きで、これを観て、そうかー、スター・ウォーズってもともと多様性VS画一性のプロパガンダ映画だったんだなあ、と思っていたのだけど、『最後のジェダイ』はさらに単刀直入だった。

1977年の第1作では、レイア姫は救出されるのを待っているプリンセスだった。確かに活動的な姫ではあったけれど、おもな活躍をするのは白人男性であるルークであり、ハン・ソロであり、オビワンだった。

40年後の新作『最後のジェダイ』では、主人公のヒーローが女の子(しかも、最下層階級の出で、とくに王家とかそういう特別な血筋でもないことが映画のなかで明らかにされる)というだけではなくて、メインキャラクターの中で白人男性といえば老境にさしかかったルークを除けばハン・ソロの息子のカイロ・レンだけ。そして彼は苦悩しながらもダークサイドに行っちゃっているところがきわめて象徴的。



お姫様だったレイアは反乱軍の将軍になってるし、レイアが戦闘不能になったあと代理を務める提督は紫の髪の毛でフェミニンなロングドレスを着こなしたおば様。その司令官に逆らって単独行動を取ろうとする血気盛んなパイロットはレイアと紫ヘアのおばちゃん提督に制圧され、「困った子ね。こういう子好きだけどw」「私もよ♪」なんて言われてしまう。


『スタートレック』のカーク船長的な、ひとむかし前のステレオタイプだった、やんちゃで跳ねっ返りのヒーローキャラクターがおばちゃん二人に簡単に制圧されてしまうというこの場面に、わたしはかなりの衝撃を受けた。しかもこの俳優さんはラティーノだし。戦闘機パイロットにも女の子が目立ったし、アジア人も登用されていた。



トランプ支持者の中にはこの映画を嫌うあまり、評価サイトの「Rotten Tomatoes」に悪い評価をつけるボット攻撃を仕掛けて、平均以下の評価にすることに成功した(と吹聴していた)人もいるとか。『ニューズウィーク』の記事では、その当人が自分のFacebookのアカウントでそれを自慢したと報告されている。

この記事によると、この人はハフポスの取材にこたえて
「『ゴーストバスターズ』観ただろ?男がバカみたいに描かれるのを見るのはもうウンザリなんだよ。おれたちが社会のてっぺんにいた時代もあっただろ。それをもう一回見たいんだよ」
といったそうです。正直だな。

『マッドマックス』は第1作が1979年封切りで、シリーズが80年代に大ヒットしたマッチョなアクション映画だったし、『ゴーストバスターズ』は1984年のコメディ映画。80年代のコメディにはミソジニスト的な、強い女をバカにするものが多かった。

いずれも70年代から80年代のアイコン的な大ヒット映画だったこの3本が、こうまで見事にフェミニスト映画に変身して登場するとは、そして別にフェミ映画であることがさほど大騒ぎもされずにさらっと受け入れられるとは、10年前にはちょっと考えられなかったと思う。そしてこの3本はいずれも興行的に成功している。

どれだけトランプとその支持者が気炎を上げても、トランプが支持基盤に向かって煽っているアンチ多様性、アンチ・フェミニズム、アンチ移民的なメッセージはメインストリームの大企業のCMには一切採用されていないし、その逆のビバ多様性的な精神を押し出しているものが突出している。いまのところは。

映画制作会社も、CMを作る大企業も、アメリカではフェミニズムやマイノリティの権利に理解を示すことが得策であり、お金を持っていてこれからの消費動向を左右する消費者層に支持される方向であると認識してる、ということだ。いまのところは。

社会はちょっとしたことでびっくりするくらい変わるし、この傾向に対してもまた数年先に反動が来るのかもしれない。政情不安や戦争や経済危機がたくさん人の価値観を変えるかもしれない。でも過去200年の歴史を振り返ると、アメリカが約束してしまったものが、あっちにぶつかりこっちにぶつかりしながら、何世代もの人を動かしてきた事実に圧倒される。フェミニズムもその中の大きな軸のひとつだった。あと10年後の常識は、いったいどうなっていることやら。

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2 件のコメント:

  1. ゴーストバスターズは観てないのですが…
    私もローグワンが大好きでした!
    スピンオフ的存在だし、シリーズ主流のファンにしたらどうなのかわかりませんが、ともかく私はすべてのスターウォーズ作品の中でいちばん好きかも。

    それはともかく、言われてみたら確かにスターウォーズもマッドマックスも、女性の活躍ぶりがすごかったですね。フェミニズムとか難しいことは考えずに観ましたが…これがすべて女性監督によるものであったら、もっとさらにフェミ寄りになってたんですかねえ。

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    1. Choco Coさん、こんなダラダラ長い文読んでくださってありがとうございます。
      ローグ・ワン良いですよね〜。わたしもシリーズ中で一番好きです。あの映画は、スター・ウォーズで育った世代が愛情こめて作った感じがすごくするんです。
      『マッドマックス』は特に、オリジナルを作ったジョージ・ミラー監督が作ったっていうところがすごいなと思いました。女性監督は逆にもっとマッチョな映画を撮っていたりするのも面白いですよね。

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