ちょっと前のだけど、メープルの花。こんな花が咲くんですね。いままで気づかなかった。
先日、ウェブで話題になっていた萩尾望都の『一度きりの大泉の話』を読んでみました。
最近は海外にいても、新刊もKindleですぐにポチれるようになったのでたいへん便利だけどキケンです。
「ちょっと暗めの部分もあるお話 ――
日記というか記録です」と、萩尾さんご自身が書かれているし、ウェブでも、「誰にでもおすすめできるという内容ではないけれど…面白かった」と歯切れのわるいコメントが目についたけれど、まったく同じ感想でした。
…悲しい話だ。
でも崇拝するほど大好きな作家の、これまで決して語ることのなかったとてもプライベートな話、と聞いては、読まずにいられるわけがないのだった。
少女漫画界の大スターだった萩尾望都と竹宮惠子がデビュー当時同居生活を送っていたという話をわたしは最近まで全然知らず、一昨年日本に行ったとき、書店で目についた竹宮惠子の自伝『少年の名はジルベール』を買って帰ってきて読んではじめて知ったのでした。
その本で竹宮さんが、目の前にいた萩尾望都の才能に対して嫉妬が抑えられなくなり、自分から「距離を置きたい」と申し出て別れたと告白していたのを読んで、へええええ、そりゃ知らなかった!ずいぶん正直に告白したなあ、と思っていた。
2年前にその『…ジルベール』が出版されてから、竹宮&萩尾で対談をしてくれないかとか、当時の話しをドラマにしたいなどの依頼が増えて困惑した萩尾さんが、そんなことができない理由を一冊にまとめたのが『一度きりの大泉の話』だそうで、妙なタイトルだけれど、「大泉」は、萩尾さんが20歳そこそこで上京したときに竹宮さんと同居していた場所、練馬区の大泉のこと。
「一度きり」には、もうこれでこの話は終わりにしてほしい、という萩尾さんの願いがこもっているのだろう。
これを読んだあと、まだ手元にあった『少年の名はジルベール』を読み直してみて、あらためて驚いた。
竹宮惠子はこの本で、デビュー当時から萩尾望都がいかに素晴らしい才能を持っていたか、彼女との出会いがいかに自分を変えたか、共同生活でその才能を目の前で見せつけられていかに嫉妬して激しいスランプに陥ったかについて、めんめんと綴っているのだ。
自伝とはいえ、その3分の2ほどは萩尾望都の才能の素晴らしさについて書かれているといってもいいくらい。きっと竹宮さんの側も、半世紀にわたって暗いカタマリを抱えてきて、それを消化したい、できれば許してもらいたい、と願っていたんだろうな、としみじみ思ってしまった。 きっと誰よりも萩尾さんに読んでほしい本だったのだろう。
萩尾さんと竹宮さんが2年ほど共同生活をしていた大泉の家は少女マンガ家のサロン的な場になっていて、山岸凉子や佐藤史生、それに高校生だった坂田靖子など、ほんとにキラ星のような人たちが集まっていた。
そのなかに中心人物として、漫画家ではなくてプロデューサー的な役回りの同年代の女性がいて、のちに、彼女と竹宮さんが二人して萩尾さんに絶交をつきつけたような形になった。
竹宮さんの『…ジルベール』ではそのいきさつは「距離を置きたいという主旨のことを告げた」と一行、さらっと書かれている。
その行動に出た背景には、
「どうして萩尾さんは、あれだけのものを描けるのか。どうして自分は描けないのか」
と、萩尾望都という名前を聞くだけで平静でいられないほどの精神状態だったことがつづられている。
「ジェラシーと憧れがないまぜになった気持ちを正確に伝えることは、とてもできなかった。それが若さなのだと今は思うしかない」と。
『…大泉』で、萩尾さんは、竹宮さんのそういう焦燥にはまったく気づいていなかったどころか、竹宮さんのほうがずっと華々しく自信たっぷりに活躍していたのに突然絶交をつきつけられ、もう部屋にも来ないでほしい、資料も見ないでほしいとたのまれたことにとてつもないショックを受けたと書いている。
その直後からショックのあまり食事もできなくなって入院するはめになり、 さらに心因性の視覚の障害も出てしまったと。
当時のことを考えると、半世紀たった今でさえ当時のトラウマが蘇り、「苦しいし、眠れず食べられず目が見えず、体調不良になる」という。半世紀後でさえ!
近寄るなと言われた理由が理解できず、大きなトラウマになって、それ以来一切の関係を絶ち、竹宮惠子の作品も一切読まず、近寄らないように逃げてきたのだと。
「自分のなにか失礼な行動が相手に不満を与えたんだろうか」と、長いこと思っていたけれど、長年色々と考えた末に、おそらく自分が描いた作品が「無自覚なままに、無神経に、彼女たちの画期的な計画を台無しにしてしまった」のだろう、まったく違う内容の作品であってもモチーフが似ていたために「排他的な独占領域」に触れて、傷つけてしまったのだ、と納得し、以来、少しでも竹宮惠子の「独占領域」に近づいてまた相手の気分を損ねたりしないように避け続け、作品も読まないようにしてきたのだという。
同じ雑誌に描かないようにしたり、竹宮さんが好きだと噂で聞いたものや人物には近づかないようにするなど、仕事も制限して(光瀬龍や寺山修司との仕事上のつきあいもそのために遠ざけたという)、「どこまで不快に思われるか、つかめない」ので、「逃げたほうがいい」と決めて、半世紀。
そしてこの傷は、永遠に癒えないと決めている。「覆水盆に返らず」と。
「このように、近づかないでいる限り、頭の中に埋葬できない死体の記憶があっても、思い出したり考えたりしないですみます」と、きっぱり封印している。
もう思い出したくないし、感情をひっくり返すことは絶対にしたくないという決意がものすごく固い、トラウマがそれだけ深かったのだなということがひしひしと伝わってくる。
なんて繊細な人なんだろう。あれほど才能があって世間でも認められていて、圧倒的な深いドラマを描く人が、自分のことでこれほど自信をなくして傷ついていたなんて、不思議な気もするし、なるほどとも思う。
自分に嫉妬を向けられていたというのはとても意外で、嫉妬という感情がよくわからない、ということも書いていた。なるほどなあ。たしかにもともと嫉妬という感情をあまり持たないひともいるのだ。反対に、ものすごーく嫉妬深いひともいっぱいいる。そっちのほうが人口比率的には多そうな気がする。わたしはそっちのプールに入っている。いまはもう、ひとに嫉妬することはほぼなくなったけれど、若いころは息をするたびに誰かに嫉妬していた。
わたしは萩尾望都を崇拝しているので、90年代までの作品はほとんどリアルタイムで読んできたけれど、竹宮惠子の作品は『地球へ』の最初のほうを(連載時に)読んでいた以外はほとんど読んでないし、『風と木の詩』も読んでない。
へんなたとえかもしれないけど、萩尾望都が向田邦子なら竹宮惠子は橋田壽賀子だな、と思ってる。なんとなく。
「愛とは排他的なものです。そうか、排他的独占愛といえばいいのかな」
…と、竹宮さんの行動を分析して書いている萩尾先生に、いいえ、それこそがはとりもなおさず嫉妬なんですよ、といって差し上げたい。そんなものをお持ちでない人が、他人の独占欲に傷ついたり遠慮して不自由を我慢する必要もないのに、ああなんてもったいない。
嫉妬のエネルギーって本当に強烈で、ひとを盲目にさせるしどんどん負のスパイラルに巻き込むもの。
『…ジルベール』ではそれが竹宮さんの実体験としてなまなましく描かれている。
『…大泉の話』は、混乱と断絶の話なのだけど、萩尾さんの語り口はとても丁寧で、相手のことは「竹宮先生」と呼び、批判も悪口もほのめかしもいっさいなし。率直に真摯に、自分の側から見た事実関係と思いをストレートに書いている。
これほどの人が20代はじめのころのトラウマを抱えたまま、状況から「逃げて」いるなんて、もったいない、と思うのは大きなお世話なのだろうし、これ以上、誰にもそんなことを言われたくないのでこの本を書いたのだろうけれど。
でもやっぱり、ああもったいないなあ、残念だなあ、このこじれた嫉妬とその結果としての絶望がそのままになってしまっているなんて、と思う。嫉妬された側が逃げ続けるなんて理不尽だし、解消できるものがあるのだろうにな。ひとの人生といえばそれまでだけど、逃げるということはやっぱり、どんな理由があっても、マイナスの波を出すものだと思うのだ。
そして、その当時から今にいたるまで、萩尾さんの周りに、もっと率直に心に踏み込む人はいなかったのだなあ、と思った。
竹宮さんとしては、この本『…ジルベール』は萩尾さんへの半世紀後の告白だったのかもしれないし、恋文のようなものなのかもしれない。
『一度きりの大泉』では、この『…ジルベール』が出版後すぐに竹宮さんから送られてきたが、萩尾さんは読むことができず、やはり大泉時代からのつきあいである女性マネージャーが読んで、竹宮さんに手紙とともに送り返したと書かれていた。
………切ない。
この2冊は、セットで、リアルで濃い一種の恋物語といえなくもない。
わたし自身、自分のこじれた欲望やがさつさのために繊細な友人を傷つけてきて、ちょっと普通では考えられないくらいひとから絶交された回数が多いので、竹宮さんのほうの気持ちがちょっとわかる気がする。
傷つけた側には、傷つけた相手の痛みはわかっていない。許しを請う以外になすすべはないし、本当にはその痛みを共有することはできない。あとから自分の浅はかさに気づいてどれだけ落ち込んで苦しんでも、それは同じ痛みではないし。
ところでわたしにとって個人的にとってもびっくりしたのは、この少女マンガ界の2大巨匠による知られざるドラマが、うちのすぐ近くで繰り広げられていたということ!
大泉から引っ越したあと、竹宮さんと萩尾さんがそれぞれ別のアパートを借りて移り住み、半年後に決裂した舞台は、なんと西武新宿線の下井草駅周辺。
わたしが生まれてから10代後半までの間住んでいた、ホームタウンなんです!!
1972年。わたしは小学校2年か3年だったから、もちろんまだ萩尾作品も読んだことがなかった。
でももしかして、駅前のどこかですれ違ったことがあったかもしれない!
「踏切の近くの銭湯」ってどこだろう、もしかして10代のときバイトをしてた喫茶店の近くかも。
萩尾さんが倒れて介抱されたという駅前交番には小学生のころ、お財布をひろって届けたことがあった気がするし、目の治療に通ったという眼科はもしかしたら小学校の同級生の家だった「しのはら眼科」かもしれないし。
駅前にサンリオのショップができたのはその頃じゃなかったか。
萩尾先生が行った喫茶店ってどこだったんだろう、パン屋「ヒロセ」の2階か「デンマーク」の2階かな。
…などと、妙なところで興奮してしまったのでした。