2019/04/16
ドゥオモくんと機嫌のよい街 <フィレンツェ思い出し日記 その2>
街中、ほんとうにどこを見ても絵になるフィレンツェでした。
この赤い車輪の自転車は、シアトルにあるLIMEバイクとかJUMPみたいな、時間貸しで道端に乗り捨てできるシステムのレンタルバイク。
うちの息子もアプリをダウンロードして乗ってました。
しかしこれもデザインがオシャレ!
なにげなく覗いたウインドウ。
弦楽器の修理やさんのようでした。
螺鈿?象牙?の飾りがびっしりのヴァイオリンや、解体されて修理中のギターなどが無造作に置いてある小さな店。その日は休業らしく、閉まってました。
童話の本に出てくるお店みたいだ。
石畳の道に無造作にいるイタリアのおじさんがまたオシャレ。
スカーフ/マフラーがデフォルトです。
フィレンツェの街は夏場は観光客で溢れかえるそうですが、ヴェネツィアとは違って、生きている活気ある街という感じがしました。大学もあるし、きびきびした生活感がある。
ローマ時代からの広場だそうです。
イタリア事情に詳しく、ヴェネツィア在住の友人もいらっしゃる版画家の尚美先生は、住むとなったらいろいろ大変そうだよ、と言っていた。
うん、きっと役所とか電話会社とか電気会社とか、そういう方面で苦労しそうな気がする。ハワイも相当疲れたけど、きっとそれに輪をかけて。
そのような方面をすこしのぞき見た感じがしたのが郵便事情でした。
アメリカの元義理ママ(息子のグランマ)に絵葉書をだそうと思ったら、郵便ポストというものがなく、かなり遠い郵便局まで行く必要があるといわれて困惑。ポストってないんだ…?
チェックアウトのときに宿の人に聞いたら、親切にも出しておいてあげるよ、と言ってくれたのだけど、絵葉書が着いたのは帰国後3週間後くらいでした。
でもイタリア各地で出会った人はみんなだいたい親切で機嫌が良かった。観光地だからというのもあると思うけど、明るい。それもハワイに似てる。
機嫌の悪い人が多いけど物事が粛々と脇目も振らず迅速に進む街と、いろいろトラブルはあるけど機嫌の良い人が多い街と、どっちがいいかといわれたら、住むならば後のほうがいいかな。文句いいながらも。
細い道を適当に当てずっぽうに歩いていたら、建てものの間からドゥオーモの姿があらわれて、思わずおおおおー!と声を上げてしまう。
正式名称はサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂。
13世紀から140年かけて建設されたという聖堂です。
こんなに建て込んだ街の真ん中にあるんだー!と新鮮に感じました。
ヨーロッパ中世の街というのは城壁に囲まれた限られた面積の中に建てるからめちゃめちゃ建て込んでるんですね。
行ってみるまで、そんな事情を考えてみたこともなかった。
機内で読んだリック・スティーブズさんのガイドブックで
「ドゥオモは屋根に大きな穴が空いたかたちで建設された。壮大なドームをその上に建てられるような技術が、建設着手当時にはまだ存在していなかったのだ。でもそんなのは大した問題じゃない。フィレンツェの人びとは、そのうちにきっと誰かがこの難問を解決するに違いないと知っていた。15世紀になって、フィリッポ・ブルネレスキがその役を果たした」
とあって、まじでか!と感動しました。
「どうやって建てるかわかんないけど、 とりあえず建て始めちゃいましょう」
って、日本では多分、ありえない発想ではなかろうか。
大仏殿の屋根の作り方わかんないけど、とりあえず下だけ作っとこう、ってないよね。
何言ってんだおめえ、て即座に却下されそう。
行ったことないけど、イギリスやドイツでも、きっとダメだっていわれそうな気がする。そんなことないですか?
ヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂でもつくづく思ったけど、石の文化ってほんとに、重ねていく文化なんですね。
この正面のファサードは19世紀に完成したもの。
着工が1296年だというから、実に600年ちかくかけて完成したともいえる。
帰ってきたからNetflixでドラマ『メディチ』を観たら、第1部の舞台は15世紀前半、ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・メディチさんとその息子コジモの時代で、まだてっぺんがまるあきのドゥオモが出てきた。
そして第一話でジョヴァンニさん(演じているのはダスティン・ホフマン!おじいちゃんになった!)が息子コジモとの会話でそのことに触れて、このドゥオモは未来を信じるフィレンツェ人のホコリであり自信なんだ、みたいなことを言ってて(うろ覚え)、えへへっ、と思いました。
2019/04/13
スクワット街灯と宝石商の橋 <フィレンツェ思い出し日記その1>
フィレンツェ思い出し日記!
もうひと月半も前なのか。はやっ。
ヴェネツィアからフィレンツェへは車で山越えをして、文字通り夜中に到着しました。
翌朝、ポンテヴェッキオという有名な橋にむかう途中でいきなり遭遇したのがこの、手すりの上でスクワットしてる街灯くん。
もうこの街灯ポストをみた瞬間に、わたくし、この街が死ぬほど好きだというのがわかりました。
どの時代にどなたがデザインしたものかまったく知りませんが、この脚。
この街灯が川沿いにしゃがんでいるこの姿を見ただけで、ここに住みたくなった。
ていうか、ここも、初めて行ったのに、帰ってきたよ久しぶりだね!という感じがする街だった。
橋のうえにぎっしり建てものが乗っている、ヴェッキオ橋。
上階にはメディチ家専用通路があったそうです。
「ヴァザーリの回廊」という名前のついてるこの通路、いまは改修中で、2021年に再オープンの予定だとか。気が長い感じがイタリアっぽい。
最初は肉屋がずらっとならんでいたのが、16世紀に橋の上にその専用通路を作ったメディチの人(コジモ1世)が、橋を通るときに<臭いから>という理由で肉屋たちを追い出し、金細工師たちの店入れ替えたというお話です。
肉屋さんは川に廃物を捨ててたんでしょうか。 相当臭かったんでしょうね。
いまは観光客むけにジュエリーショップが両側にずらりと並ぶ。
夏場は足の踏み場もないくらい混雑するそうですが、2月の末はこんなかんじでした。
ポリスのユニフォームも可愛い。左の二人。白いヘルメット。
コスプレ?と思うくらいカワイイですが、ちゃんと拳銃を携帯してるポリスウイメンでした。
ていうか街の人もみんなオシャレだ。
ヴェッキオ橋の上にある宝石屋さんで買ったスプーン。1本7ユーロなり。
メイド・イン・チャイナかもしれませんが、すごく満足。
ショウウィンドウに並んでたほかの品物たちとは2桁以上値段が違うので、ほんとうに7ユーロなのかちょっとドキドキしながら聞いてみた。
翼の生えたライオンはヴェネツィアの徽章。
右のはメディチ家の紋章なのか、フィレンツェ公国の徽章なのかよくわからない。
こんなに小額のお買い上げなのに、宝石屋さんはとっても丁寧に流麗な筆記体の領収書を書いてくれました。
これもフィレンツェの紅茶屋さんのお茶です。中国風のグリーンティーに松の実や花がはいってて、ヴァニラの香りがする「ミケランジェロの夢」。
できることなら毎月通いたいよ、フィレンツェ。また行く絶対。
2019/04/12
桜吹雪と八重桜
数日前の近所、桜の小径。
シアトルはこのところ、雨と風がつづいて寒いです。きょうの気温は10度C以下。
でもあいかわらず木の花もチューリップも水仙も花盛りでご近所が超豪華絢爛。
こちらはりんご。
八重桜が咲き始めました。
さくら花 幾春かけて老いゆかん 身に水流の音ひびくなり
という、馬場あき子さんの歌がとても好きです。
願わくは花の下にて、の西行さんもだけど、 桜の花をみると日本人は無常を感じてしまうのですね。
でも八重桜には無常というより、しぶとい根性を感じる。
なめとったらあかんでー。簡単にいかへんでー。的な。
やったるでー。みたいな。
何が始まるのか知りませんけど。そんな感じ。
2019/04/10
自己標的バイアス
10代のころ、わたしにはチエコちゃん(仮名)という親友がおりました。
わたしよりも3歳くらい年下の家出少女だったチエコちゃんは、いつのまにかうちに転がりこんできて、いつのまにか同居人になってました。
チエコちゃんは暴走機関車のように有無を言わせないドライブを持つ少女で、いつも想定外のスピードでデタラメで魅惑的な方向にすっ飛んでいき、小心者のわたしは「ちょ、ちょっと、それはないんじゃない」とかいちおう言いながら内心ドキドキワクワクしてあとを追うフォロワーでした。
そのあといろいろあって会わない期間があり、それぞれ結婚して、わたしはハワイに引っ越して離婚して、しばらくぶりに子連れで帰国したときに連絡したら、チエコちゃんは前よりもきつくねじれてしまっていて、
「いつ会う?この日とこの日とこの日だったら大丈夫だけど」
という会話のあと、いきなりキレてわたしに絶交を言い渡したのでした。
「そんなことを言われてどんな気持ちになると思う?」
と切羽詰まった声で言われて、いったい自分が何をしてしまったのか、何が起こったのか、その時は全然わかりませんでした。
何年かたってから考えてみて(遅い)、ああ、あの子はしばらくぶりに日本に帰ってきた親友のはずのわたしが、全面的に彼女だけのために時間をあけてべったべたにつきあわなかったことに、とても深く傷ついてしまったんだなあ、ということがやっとわかったのでした。
もちろん、数週間の限られた滞在期間で用事をこなしたり親戚に会ったり親と一緒に旅行に行ったりほかの旧友にも会ったりもしたいというわたしの都合など、チエコちゃんにとってはまったく眼中になく。
「ともぞは自分にもっともっと会いたいと思ってくれない > ともぞは自分なんかどうでもいいと思っている」
という方向に、きっと心のすべてがフォーカスされてしまっていたのだろうと思います。
その後もまた連絡を取り直したのだけど、よく似た状況でまた彼女を爆発させてしまい、わたしも自分の生活と子育てでいっぱいいっぱいだったので、そのあとはもうどちらからも連絡を取ることはありませんでした。
一時は姉妹みたいに四六時中一緒にいたのに、今は彼女がどこかで元気に生きているのかどうかも、まったくわかりません。幸せでいてくれるといいなと思う。本当に。
このあいだ、あるエッセイを読んでいて「自己愛性パーソナリティ障害」というのにいきあたり、はっこれだ、と30年以上前のチエコとわたしがよみがえってきたのでした。
ウィキペディアにあったこんな引用が目をひきました。
(ここから引用)
プライドの高い人”とは、一般に自己評価の低い人である。だから、他人からの評価によって傷つくのである。逆にいえば、他人からの評価によって揺らぐような低い自己評価所持者が「プライドの高い人」と周囲から認識されることになる。
(ここまで)
うんうんうん。そうね。そうだと思う。そうだったそうだった。
出典は中井久夫著『世に棲む患者』 筑摩書房、2011年。これ読んでみたい。
パーソナリティ障害までいかずとも、相手が本当にどう思っているかにかかわらず、(たいていの場合、相手は自分のことなどほとんど気にもとめていないのに) 「あの人はこう思ってるに違いない」と思い込む傾向を「自己標的バイアス」というそうですが、これってたぶん、程度の差はあっても誰でもやってることだと思う。
このあいだ、ほんのちょっとしたことから、ある人に「あなたは人をコントロールしようとしている」みたいなことを言われて超おどろいた事件がありました。
その人は知的でコミュニケーション能力もすごく高いし、社会的にもわたしよりずっと立派な地位を得ている立派な人なんだけど、ちょっとしたわたしの言動を自分への攻撃であるかのように感じてしまったらしく、えらく激昂してしまったのです。
自分のちょっとした動作に対して「えっまじでそんなこと1ミクロンも思ってないんですけど?」というような解釈をされて、本気でおどろきました。
なんだこれ、ものすごく久しぶりだという感じがして、思い出したのがチエコ(仮名)。
こんなにちゃんとした人でも、こんなにも情緒不安定なところがあるんだ!というのにもびっくりでしたが、そこそこ社会的地位が高いからこそプライドが高くて傷つきやすい人も多いのかもしれない。
たいていの人はそうだと思うけど、知らないあいだに、相手に、そして世界に、自分のことをこう見てこう反応してほしいということを、漠然と期待しているんですよね。
そしてその自分の期待に気づいてないことが多い。
わたしもよく、クライアントさんにメールを送ったのにすぐに連絡がないと、自分が何か仕出かして怒らせたのかな、と心配になったり、息子に頼んだことをすぐにしてくれないと、バカにしてんのかコラ!と腹をたてたりします。
でも単にクライアントさんは忙しくてテンパってるだけで、息子は単に誰かに似てズボラで忘れっぽいだけだったりするのです。
それを、どんなに忙しくても一行返信しないなんて馬鹿にしてる!とか、頼んだことを3秒で忘れるなんて私を尊重していないからだ!なんて考えはじめると、これが地獄への第一歩なんですよね。
その先にあるのはチエコ症候群。
人の反応に期待するのを止めるだけで、世界はけっこうシンプルで暮らしやすくなるんだけどな。
多分いまでも私に腹を立てているチエコにもそれを知らせてあげたいと思うんだけど、それはきっと私の仕事じゃないんでしょう。
腹立てるだけ損なんだよチエコ!
2019/04/08
大広間を見逃し牢獄へ <ヴェネツィア思い出し日記 その9>
ヴェネツィア日記のさいご。
何世紀もの間、歴代ドージェさんが住み、政治がおこなわれていたドゥカーレ宮殿です。
もう午後も遅くなっていたので中を急ぎ足で見ました。(そして急ぎ足すぎた。)
午後の光が本当にキレイ。本当にエレガントな建てものですよねえ。
「ヴェネツィアのゴシック建築の代表作」と、建築鑑賞のクラスでならった。
北の国のゴシック建築とはだいぶ違って、東洋的な雰囲気を持つ繊細な建てもの。
ヴェネツィアの建てものはとにかく、軽くて華やか。
海と運河の反射する光が、軽やかな感じをより強調しています。
この細ーい優雅なアーチは、運河があればこそのデザインなんですね。
仮装する人と観光客でごったがえすサン・マルコ広場から中へ一歩入ると、静かな中庭。
歴代のドージェが自分の代に次々に建てましをしていき、どんどん大きくなったという宮殿です。
絶大な権力を持っていたとはいえ選挙で選ばれた頭目なので、家族も一緒にこの宮殿に住まなければならない、公式書簡を誰も見ていないところで開封してはいけない、などの制約があったそうです。
両脇に裸像をひかえた階段。
外国の使節も、どんなに偉い人も、ローマ教皇でさえも、ドージェはこの階段の上で迎えたそうです。決して下まで降りて迎えなかったのだと…。
ぐぬぬ、と思った教皇も多かったのではないだろうか。
美術館の中にはオリジナルの建築材もいろいろ。
なんかどっかで見たような感じの人。
こういう奇妙な人たちが柱頭のなかにたくさん隠れている。
宮殿内の「黄金階段」。
わたくし、いままでヴェルサーチとかドルチェ&ガッバーナとかのセンスがどうしても理解できなかったのですが、ヴェネツィアに行ってみて初めて納得できました。
これがオリジナルなんだー!
とにかく過剰で華麗でハデ。スキマなし。
これがのちにバロックになりロココに発展していくのかな。その時代のことはほんとによく知らないけど、なんというかこの、富のもたらす迫力、まったく忖度のない、百パーセント強気な世界観、すごい。
他の場所を抑えつけて勝ってる都市とか権力者にしかない陶酔感。
ベルサイユ宮殿とかは実際に行ったことないので本当のところはわかりませんが、ロココの時代はもっと停滞・発酵してる感じがする。でもこのヴェネツィアには東西が混ざり合って商人がいりまじって富が集中して、というルネッサンスの時代のドライブ感みたいなものが化石になって残ってる気がしました。
ちゃんとガイドブック読んでなかったのが悪いんだけど、宮殿内は順路がよくわからなくて、迷いました。あまり親切な地図とかがないのです。完全に自分のせいなんだけど。
あれ?ここは来てなかったよね?と狭い階段を降りていくと、いつのまにか牢獄に出ていました。
ガイドブック半分しか読んでいなかったので、牢獄があることさえ知らなかった。
だからかなり衝撃でした。
牢獄はほかの場所とは温度がぜんぜん違います。
石の壁がムキダシで、ひゃーっ!となるほど寒い。
骨身に切り込んでくる冷たさで、ぞっとしました。
気味が悪くて、あえて写真も撮りませんでした。
夏は地獄のように暑く、冬は死ぬほど寒い構造なのだそうで。
あのハデで絢爛豪華な宮殿のすぐ下にこの牢屋があるというのがなんともいえない。
華麗な宮殿のはらわたを見てしまった気がしました。
というわけで、宮殿内で一番印象強かったのが思いがけず出くわしたこの牢獄でした。
そして帰ってきてからガイドブックを読んだら、ドゥカーレ宮殿にはティツィアーノ、ティントレット、ヴェロネーゼの絵画がいっぱい飾ってあるよと……え?
うっかり、肝心の大広間、謁見の間などをするっと華麗にスルーしてしまったらしい。
ああああああ。
わたくし、宮殿中で一番華麗な部分を見ずに帰ってきてしまったようです。
そのかわりにドージェの住居の中でカナレット展をやっていて、カナレットの描いたヴェネツィアの図はいっぱい見ました。
景観が18世紀に描かれたまんま全く変わってないって、ともかくすごいことだ。
対岸の聖堂も行ってみたかったけれど。今回は本島だけで、ほかの島に行く時間はありませんでした。
でも本当にこの景色を見られただけで幸せ。
いつかまた行く機会があれば、今度は宮殿の謁見の間をちゃんと見てきたいです(w。
2019/04/04
ビューティフル・ハーモニーかよ。
近所のスーパー、バラードマーケットで水仙買ってきました。
鳥たちがいたスカジットヴァレー産かな。
ひと束2ドル。テーブルがぱっと明るくなる黄色。
そんなことより、ビューティフル・ハーモニー。
日経新聞サイトによると
(ここから引用)
外務省は新元号「令和」の意味を英語で表す際に「beautiful harmony(美しい調和)」に統一する方針を決めた。河野太郎外相が3日までに各国在外公館にこの方針に沿って対外的に説明するよう指示した。
同省によると「令」を「命令(order)」と報道する海外メディアもあり、正しい解釈を促す狙いがある。
(引用ここまで)
…だそうです。(太字はわたくしがつけました)
このニュースはきのう、Facebookの翻訳者グループのポストで知ったのだけど、当然ながら外務省のこの翻訳「beautiful harmony」に、コメントしていたプロ翻訳者の(日本在住のネイティブ英語スピーカーの日英翻訳者の方々ばかり)ほとんどの人は冷笑していました。
「……まじで?」
「 翻訳ちゅうのが、結局は好きな解釈を選べるという典型やな」
「MOFAの官僚が知ってる素敵単語がそれだけだったんちゃう?」
というような反応。(うろ覚えです。FBでこの元ポストを15分くらいかけて探したのですが、見つからず。FBの検索エンジンがまったく役に立たないことを知っただけに終わる)
あああ、そしてこの「ビューティフル・ハーモニー」という公式訳語は「日本のポルノアニメゲームの主題歌と一緒だな!」という記事もでてしまったよ。ありがちすぎるよね。
『エコノミスト』で令和が「Order and Harmony」と訳されるなど、海外メディアで「令」が「オーダー(命令)」という意味にのみ取られ、「お上が命令し、民がそれに従順に従い、平和がうまれる」といった官製ストーリーがうっすら透けてみえるような解釈が広がり、日本のイメージにそれが固定されてしまうのは非常にまずい、と外務省の中の人は焦ったのでしょう。
しかし、正しい解釈って何だよ!
翻訳という仕事をしていると、日々、言葉というのはほんとうに重層的で何通りにもカイシャクできるものだと骨身にしみるわけです。
とくに漢字にはいくつも、互いにまったく関係ないような意味があるって、小学校で習いますよね?
漢字を組み合わせた元号は、いってみれば「詩」のようなもんです。
だって元ネタがそもそも中国の詩を下敷きにした、和歌集の序文であるわけでしょ。
(数日前の令和ちゃん記事に書いてます。)
ポエムに「正しいカイシャク」はないです。
「メインストリームのカイシャク」はあり、「本人が意図したこと」はあるとはいえ、それは「正しい」とか正しくないとかではない。
ある意味、立場と世界観の問題でしかない。
それに詩歌の場合、本人の意図した以上にその言葉の意味が広がっていくことで、その詩が力を持つようなことが起きる。
詩の言葉は、個人の意図や正邪の判断を軽々と超える力を持っているのです。
元号は「識者」(なんで林真理子が入ってるのか、まったく納得できませんけど)による集合的な美意識が決めたポエムです。
そこには当然、政治的なメッセージもこめられている、のかもしれない。それは識者の選出作業の中にすでにこめられてるんでしょう。(たとえ優れた文学者であっても、ヤバそうなことを言い出したり、体制に真っ向から楯突くことがわかってるような人は選ばれない。林真理子は自民党にとって無難な人選なんでしょうね)
元号は、ポエムでありおそらくは黙示的な(本人たちもあえて言語化しようとしていないかもしれない)政権からのメッセージであると同時に、おそらくもっとも本来的には「次の時代がこうなりますように」という、祈りであるはずです。
で、漢字は、そしてありとあらゆる単語もそうですが、必然的に重層的な意味を持っています。
たとえば法律文のように解釈のゆらぎの少なさを目標に書かれる文章とは違って、意味が厳密に固定されていないポエムの場合には、その重層的な意味が本領を発揮するんです。
万葉はまだそんなでもないと思ったけど、新古今集のあたりの和歌の世界は「シャレ」ばっかりです。これは日本語に多い同音異義語を駆使して、歌の世界にひろがりを呼び込む技術であったようです。 これも言葉の重層性を意識しているからこその技術であり、あそびです。
「令」には「めでたい」「美しい」という意味もありますが、現代ではそれはほとんどの人が知らず、「命令」の意味を思い浮かべる人が多いはず。
「令」の字がそういう宿命を負った字であることを、選ばれた「識者」も政治家も当然知っています。
ひとつの言語の単語に訳語を当てるというのは、解釈作業です。
単語に重層的な意味があるから、詩の翻訳はむずかしいんです。
「令和」はそこそこよくできたポエムかもしれないけれど、「ビューティフル・ハーモニー」はそのポエムの訳語としては、その広がりを全く表現せず、含意をチラ見せすらしてないってことで、合格点とはとてもいえません。
ふだん法律文書にばかり触れてる官僚さんが、「誤解なく簡単に世界の人民にあまねく分かるように!」て作ったのかもしれませんが。言葉の感性が美少女アニメポルノと一緒じゃん、というのをはからずも露呈してしまいました。
もし官僚の人たちが、これが今の日本を代表する感性です!て主張するならそれはそれでちょっとまた別に考える必要のある問題がでてくるけど。
漢詩が一般教養だった明治の官僚だったらもっとマシな、格調を感じさせる訳語を作ったであろうものを。
言葉は文化そのものです。一国の文化というのはすぱっとキレイに単色で表現できるものではないですよね。もっとグチャグチャしたものです。
いろんな人がいていろんなことを考え、主に言葉でそれを伝達しようとしている、それが文化ですよね。
「そして、この令和には人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つという意味が込められております」
という安倍首相談話(そもそも万葉集の漢文部分から引いてきたということにも一切触れてないし)をきいて、ケッ、と思う人もいるわけですが、それも文化というものです。
そもそも文化というのは、排除装置でもあるんですよね。
文化は知識と美意識の集成であり、「正しい解釈」をよしとしなかったり知らなかったりする人を社会が排除するときの、素敵な言い訳にもなってきた。
ひとつの文化についてこられない人を排除したり、自分たちの文化を知らないよその土地の人を虐殺したり強姦したり略奪することに黄門さまの印籠のような正当化の力を発揮してきた。
文化が単一の価値観に翻訳されて、そこに権力がのっかると、たいていそういうことになるようですね。
文化のそういうダークサイド面の運用についても真摯に心を寄せないかぎり、本当に美しい和の社会なんて、絶対に到来しないでしょう。
話がそれたけど、美しく心を寄せ合うには、どこかの誰かがきめた「和」に無理に迎合したりさせたりするのではなく、文字や言葉には(つまり人の意図や意識には)常にものすごく幅広い世界が隠れているのだということを、自分らにはまだ知らない、まだ理解できない世界があるということを、恐れずに認めることがとても重要なのだと思いますのよ。
そうして得られる「理解はたいへんだ」ということの理解のあとに、一人ひとりの中に、そしてお互いの間にあらわれてくるのが、ほんとうの<和>ではないでしょうかね。
ラベル:
スピリチュアル・信仰・宗教,
祈る人,
読んだもの,
日本,
翻訳の周辺
運命の馬たちとピンクの壁 <ヴェネツィア思い出し日記 その8>
追憶のヴェネツィア日記。
サン・マルコ大聖堂の正面に飾られている、馬たちの像のレプリカ。
ほんものはすぐ内側の美術館内に飾られてます。
こっちがほんもの↓。
伝説ではアレクサンダー大王の時代、紀元前4世紀のギリシアでつくられたとも、3世紀頃にローマでつくられたともいわれているそうですが、どっちにしてもすげー。
(最近の調査では、紀元前175年のものとされてるとか)
ブロンズを打ち出す製法じゃなくて、粘土で型をつくってその上にブロンズをかぶせる製法だったそうです。
ともかく、ものすごく迫力のある馬たちです。
「鬼気迫る」感じ。
なんか入ってる。
皇帝ネロの時代にギリシアから奪われてローマに飾られたといわれてるそうです。
その後コンスタンチヌス大帝が330年にローマから奪ってコンスタンティノープルの競技場の飾りにして、1204年の十字軍遠征でヴェネツィア人が奪ってこの聖堂の正面(いま、レプリカ像があるところ。吹きさらしのテラス)に飾ったそうです。
そのあとさらに1797年、ナポレオンがヴェネツィアを征服したときにこの馬たちはフランスに持ち去られ、一時はパリの凱旋門の上に飾られてあったのだそうな!
そしてナポレオン失脚後にヴェネツィアに帰ってきた波乱万丈の馬たち。
すごい歴史ですねー。
この馬たちはチャリオットを引く戦いの馬なので、戦利品としてまことにぴったりだったんでしょうね。
しつこくドゥカーレ宮殿。
サン・マルコ聖堂とは建てものがぴったりくっついています。この距離感すごい。
一般人はもちろんオフリミットな秘密の通路とか絶対あると思う(ガイドを精読してないのでこの二つの建てものの間が実際どうなってるのか、よく知らないのですが) 。
いまの民主主義では政教分離って、教会の物語とパワーを政治に持ち込むなっていう意味が強いけど。
中世〜ルネサンスの頃は逆に、教会の持つ絶大な力を、政治の人がめっちゃ利用しまくっていたんですね。
なんかこの、政治経済の中心であった宮殿と聖堂がくっついているのをみると、その求心力みたいなものがはからずも見える化されてる気がしました。
それでドゥカーレ宮殿。
こないだYouTubeでたまたま出てきた、ヘンデルの曲になぜかついていたサン・マルコ広場の絵。
カナレットの絵だそうです。絵が描かれたのは18世紀前半で、ヘンデルと同時代なんですね。
本物はどこにあるのか不明だけど、色が鮮やか(この画像は彩度上げてるっぽい)。
メトロポリタン美術館に似た題材のが収蔵されてますので、たぶん同じ頃、1720年代の作品なのかも。
イスラム建築の影響を受けたピンクの幾何学模様の壁。
この上の絵で見るとそのピンクがもっと濃くて、ワイキキの「ピンクパレス」ロイヤルハワイアンホテルみたい。
絵に描かれた18世紀から3世紀のあいだに日に焼けて色が薄くなったのか?
それにしても14世紀頃に、政治経済の場の外壁をピンクのイスラム建築的なもようで飾るって、相当に革命的だったのでは。
教皇のいるローマの方面からは眉をしかめられたのではないかな、なんて想像がふくらみます。
ドゥカーレ宮殿の中を見に行った話を書こうと思ったら馬の話で興奮して長くなっちゃったので続きます。ヴェネツィア日記はそれでおしまい。滞在2泊だったのに、いつまでかかるのだ。
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