2018/12/29
言葉が思考に影響するプロセス
NOTEに、先月デジタルクリエイターズに寄稿した内容にすこし加筆して分割したのを載せました。ウェブだと長いので、6回にわけました。1回めはこちら。
年末年始にお暇がありましたら、ご笑覧いただければうれしいです。
こちらのビジュアルはカリフォルニア在住の東村禄子氏の作品です。
かっこいいですね。ほんとこの人才能あるのよ。
2018/04/24
田舎の思ひ出
デジクリに書いた「田舎」の原稿を、ひさびさにぽんず単語帳にアップしました。
RURALの写真、そういえばあるあるある。
と、国内旅行の写真を探してみた。2012年かな?6年前かー!
この藁ロールと大草原が見たくて、シアトルからサウスダコタ州まで、息子と二人で車で行ったのでした。
面白かったなー。プレイリードッグたちにも会えたし。また行きたいーーーー。
あの頃は息子もまだ可愛げのある高校生だったし、うちのアクセラちゃん(Mazda3)もまだ若かった。
(自分だけは年とった気がしてない。)
ハワイから一緒で、太平洋からイエローストーン公園からミズーリ川まで、いろんなところに連れてってくれたクルマです。
今では、もうちょっと州境を超えてのドライブは無理…。心配すぎる。
このあいだまたエンジンマウントが壊れてもろもろ1600ドルかかった……(悲)。
床には穴があいてるしあちこちボコボコへっこんだままですが(ごめんねアクセラちゃん)、まだまだ元気に街中を走り回ってます。
2018/01/17
スリラッチャなのか!
このあいだウワジマヤさんで見つけたSriracha Peas。
びっくりしたのは、Sriracha の日本語表記。「スリラッチャ」って書くんだ!
ぐぐってみたら、ウィキ先生は「シラチャー・ソース」と表記していらした。
でも「スリラッチャー」も併記されている。
へー。
でも確かにこういう綴りだと「スリラッチャ」って言いたくなるよね。
この最初のシラブルの「ri」の部分は、アメリカ英語ではほとんど発音されないので、「シラチャー」と聞こえます。
でも原産国のタイでほんとはどう発音されてるのかは知りません。
で、シラチャー。日本ではそれほど知られてないみたいですね。マダムMも先日ホノルルで、相変わらず上品に「え〜なぁに、それ〜?」ていってた。エスニック好きなのに意外。
ここ10年くらいの間にどこのスーパーでもよく見かけるようになった、酸っぱ辛いエスニックチリソース。
うちの冷蔵庫にも入ってるよ。
これをかけると突然なんでもエスニック風になり、残り物の卵焼きからちょっと残念な感じに仕上がった料理まで、無理なく食べられるという優れたソース。
ポン酢および柚子胡椒と同レベルの貢献をしてくれる、頼りになる調味料です。
今から5年くらい前に異常なシラチャーブームが起こり、シラチャー味のチップスとかポップコーンとかシラチャ味の醤油とかタバスコとかケチャップとかタバスコの発売するシラチャとか色々売り出されてました。今はだいぶ鎮静化して、タバスコとケチャップの中間のどこかで、アメリカ調味料界における中堅どころの位置を占めるようになりました。
ちょうどブームの頃、ロサンゼルス近郊の工場が近隣住民の苦情で操業停止に追い込まれるという騒ぎもありました。
トウガラシ入りの排気がもくもく出てきて目が痛いっていう苦情だったそうで、そりゃ嫌だわ。
この妙に写実的なトリの絵がまた良いのですよ。
買わないで店頭で撮影するところが貧乏くさいですね。
2017/10/24
歩ける町の幸せ。
うーん、今日はかなりの時間をアメリカ現代史超特急詰め込みに費やそうとしましたが、やっぱりメモリのキャパシティが追いつかないわー。
デジタルクリエイターズのメルマガに、「Walkable」というコラムを書いてます。
でも実はだいぶ前にぽんず単語帳に書いたのの焼き直しです。
ほかのネタで書きはじめていたのだけど、時間がなくなってしまいました。
こちらに再録しましたのでよろしければご笑覧くださいませ。
今日も快晴。外はゴージャス。
近所の散歩が唯一の外界との接点、という日々が続くことも多いので、歩けるご近所に住めるのは本当に幸せです。
翻訳者にとっては環境がwalkableであるかどうかは切実ですよ!
2017/09/06
テンパった時のGo-to music
ひっさびさにぽんず単語帖を更新しました。
忙しさについていけず、うなされる毎日。あちこちに不義理をして、忘れている気がする。
車で山に行って道がわからなくなる夢を見る。そのまんますぎて、朝起きてからうなだれる。
前に(去年だ)、かなり偏った仕事中の音楽について書いたんですけど、実は「かなりテンパった時専用のgo-toミュージック」という武器がある。
それはこちら。
すごく面倒な作業で集中が必要な時にはRadio Headをヘッドフォンで聴くと、ある地点に到達できます。しかしあまり続けると頭痛がしてくる。
最近これも超おきにいりの「Dark Necessities」。歌詞がいい。ギターが超好き。
2017/06/06
愚妻とファンタスティック社員のあいだ
近所はあちこちバラが満開。そのへん一周してくるだけで植物園のよう。近所の園芸家さんたち、ありがとうございます。家が立て込んでくるとだんだん緑も少なくなっちゃうんだろうなー。
忘れてました。先月末にデジタルクリエイターズに掲載していただいたぶん。
*********
日本語でよくある言い方をそのまま英語にすると、時にとんでもないことになる(逆もまた真なり)。デビッド・セインさん&岡悦子さん著『その英語、ネイティブはハラハラします』(青春新書インテリジェンス刊)という本には、日本人がうっかりニュアンスを知らずに使ってしまう可能性がありそうな残念な英語表現と、その代わりに使うと良いアメリカ英語のよくある表現がたくさん紹介されていて、とても面白い。
その中で、
「会社のパーティーに夫婦で出席して、同僚に妻を紹介」というシチュエーションで、
「これ、うちの愚妻でして、もう、なんにもできないんですよ」
と、日本の人がいかにも言いそうな言葉をそのまま英語に直訳して言ってしまうと……というのがあって、爆笑してしまった。
「This is my foolish wife. She can’t do anything」
うわははは。たしかにアメリカでこんなことを言ったら、普通に頭がおかしいと思われるだろうし、最悪、奥さんが虐待を受けているのではないかと心配されて通報されちゃうかもしれない。まさか本当にこんなこと言う人はいないと思うけどね。
しかし、60代くらいの昭和サラリーマン世代ならともかく、今でも「愚妻」なんて言う人がいるんだろうか。と思ってググってみたら、「発言小町」の2016年6月の「夫が私を愚妻って呼ぶのがむかつく!」というトピを発見。トピ主を「日本の謙譲語を知らないのか」と叩く人あり、「そんなのいまどき聞いたことないよ」という人もいて、興味深い。 http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2016/0605/764852.htm
ちなみに「愚妻」とか「愚息」という言葉は、「私の」という意味を謙遜した言葉であって、単に「自分の妻」という意味であり「愚かな妻」という意味ではない、と主張している人がいるけど、要するに「バカな自分の身内です」ということで、どっちにしても褒めてはいない。むしろ「バカな自分」の属性としてしか身内の個人を認識していない、または「バカな自分」に取り込んでしまっていて、自立した人格とはみなしていないという意味で、欧米的な視点からみるとさらにヤバヤバである。
身内を自分の延長とみなして、その属性とか実績はけっしてソトに対して褒めたり自慢しない、という常識が21世紀になってもまだまだ日本の「美徳」とされているのは面白いなあと思う。
何が美徳であるのかについての社会的な合意は、「発言小町」の反応が真っ二つに分かれてるように、どんどん変わっている。とはいえ、やはりざっと見た感じでは、「それが日本の常識でしょ、何いってんの」という意見のほうが多かった。日本の美徳はしぶとい。または、美徳にまだ何のヒビが入っていなかった時代の社会への郷愁が、しぶといのかもしれない。
社会の構造が今よりもカッチリしていた頃、「愚妻が…」という言葉を使う人はたぶんある一定の身分を持った男であり、おそらくその一家の唯一の稼ぎ主であったはずだ。教養もあり卑しからぬその人が「愚妻が」というその妻は家を守るだけの賢さはきちんと持ち合わせた育ちの良い妻でありそのことを夫も誇りに思っているがそんなことは教養ある者が人に言うべきことではないので謙遜しているのだよ、と、聞く側も説明がなくてもひと息にちゃんと了解できていた。こういうのがつまり文化的なコンテクストというものであるのは間違いない。
日本人が身内や自分を褒めないのはその文化的なコンテクストゆえだが、そのコンテクストがやっぱり少しずつ、コンクリで固めても固めても岸辺が波に侵食されるように崩壊しつつあるのだと思う。
社会の構造は大きく変わっているのに、文化的な了解事項はたぶんいつも少し遅れてついていく。そこに葛藤が生まれないわけがない。
日本の文化はペリーの黒船来航以来、160年以上にわたって、ゆっくりと崩壊していく、または変わっていくコンテクストへの対応に苦しんできたんじゃないかと思う。節目節目で社会は大きく変わりながら、その苦しみはまだまだ続いている。これは特に日本だけの現象じゃなくて、どこの国でもそういう新旧の軋轢は当然あるはずだ。(アメリカでも、たとえば世間一般の了解事項が大きく変わるのにつれて、マイノリティやジェンダーや宗教にまつわる言葉には大きな変化があったし、今でもそのへんには大きな軋轢がある。)
ところで、アメリカ人はとにかく身内を褒める。
息子が小学生の頃、サッカーのチームの親たちが、自分の息子もよその息子もわけへだてなく、褒めて褒めて褒めまくっているのがなんとも眩しかった。
こういう文化なんだと頭ではわかっていても、やっぱり日本で生まれ育った私は「Sくんは足が速いね」「…が上手だね」などと他の親に褒められると、「いやいやいやいや、でも小回りが利かないんですよ」「でも……はできなくて」など、何か別の案件を持ち出して速攻否定したくなる衝動を抑えられないのだった。
夫婦でも、自分の旦那様や奥様のことを「彼は料理が素晴らしく上手なのよ」とか「彼女はいろんな分野に精通してて、すごくクリエイティブなんだ」とか、何の留保もなく、率直に、100パーセント、よく褒める。
親子でも兄弟姉妹でも、とにかくソトに対してもお互いの間でもよく褒める。しかも、本心からそう思って言ってるのだ。少なくとも本人は本心だと思っているに違いない。
「健全な精神を持つ大人は、自分や身内を肯定的に捉え、それを世間に躊躇なく宣伝するべきである」というのが米国の社会常識、文化コンテクストだといっていいと思う。実際に行って見てきたわけではないけど、読んだり聞いたりした話ではほかの西欧諸国でもそうなのらしい。
会社文化にも、この違いははっきり表れている。
この間、携帯電話のキャリアを替える手続きにウェブのチャットを使った。こういうチャットや電話でのカスタマーサービスは、途中で別の部署の担当者が出てきてプロセスを引き継ぐことがある。この時も最初にでてきたチャットの担当者は、私が他社から乗り換えで新規にアカウントをあけたいと希望しているのを確認すると、新規顧客の担当に引き継いだ。
そして次に出てきた担当者のセリフ。
「It looks like you were last engaging with our fantastic chat advisor Joe and you were interested in the XXX plan …..」
(うちのファンタスティックなチャットアドバイサー、ジョー君とチャットしてたようですが、その話によるとあなたはXXXプランに興味があるようですね…)
ファンタスティックかよ!と思わず静かに心の内で突っ込みを入れずにいられなかった。
日本のカスタマーサービスで、
「弊社の素晴らしいアドバイザーがこのように言っておりましたが…」
なんて言ったら、若干頭のヘンな人と思われてしまうのではなかろうか。
わたしが東京にいた20世紀後半から比べると少し変わったのかもしれないけど、日本の会社文化からこの「ウチ・ソト」意識が消えることも、まだ当分はないのに違いない。その反対に、アメリカで内外に向かって社員を褒めたたえる文化はますます加速しているようにみえる。
「愚妻」と同じで、日本の美意識では、家族なり会社なり、属するグループの身内をひとまとめにして捉えて、ソトの人たちをそれより高いところにあるものと(仮に)想定してへりくだるのが折り目正しい社会人の態度とされる。
アメリカの企業は、内外に向かって、「ウチの会社では社内の個人もこんなに尊重してるんですよ!」ということを宣伝する。
アメリカ人が書いた英語の会社情報などを日本語に訳していると、こういった、ウチ・ソト意識の日本の常識との間のギャップに悩むこともある。
日本の会社ならば社内の人間に敬称をつけず、身内のこととして謙譲語を使うのは常識だけど、アメリカにはその分け隔てはない。たとえば社員を褒めたたえている広報資料があったとして、それにどこまで日本式の「へりくだり」ニュアンスを入れて訳すべきなのか?
すべてを日本式にして謙譲語を使うのも正しいとはいえない。会社の持つ文化や主張がアメリカ式のスタンダードなら、それはそのまま伝えるべきだ。でも読者に傲慢な印象を与えては広報の意味がない。
そのへんはもちろん最終的にクライアントさんの判断になるものの、翻訳者としてどのような提案をすべきなのかは悩みどころである。
特にクライアントさんに日本語ネイティブスピーカーがいない場合などは「こういう場合、これが日本の標準ですよ」といちおう胸をはって提案してみるものの、媒体により、読者により、場合により、正解は一つではないので、常に悩ましいのだ。
2017/05/29
たくましいと恥ずかしいと、君の名は。
最近、日本から来た翻訳者さんとかクライアントさんとお仕事をする機会があると、かならずといっていいほど
「たくましい」
といわれることが多い。
「やっぱりアメリカに長い方はたくましいですね」
みたいな。
最初にいわれたときは、褒め言葉かと思ってちょっと照れた。
どこがどのようにたくましいと思われるのか謎であるが、しかし、そのうちにこれは絶対に褒め言葉ではないんだろうなというのがうすうすわかってきた。
太った人を「ぽっちゃり」と言ったり、取り付くシマのないほど話の通じない人を「変わってる」というのと同様のポジティブ変換なのだろうと思われる。
だとしたらポジティブ変換する前の言葉はなんだろうか。
「図々しい」
「がさつな」
「空気読めねえ」
あたりであろうか。
日本にもたくましいおばさんはたくさんいるはずであるが、やはりこちらでよりも風当たりが強いのではないだろうか。
こういう感じ?たくましいシャルロッテちゃん。
基本的にアメリカの人はあまり人の目を気にしない。みんなが守っているらしい文化的な不文律を、自分は読み切れているんだろうか?イケてる線からはみ出していないだろうか?と不安を感じることが、あんまりないんだと思う。というか、感心するほど、自分をイケていると信じている人が多い。
ティーンエイジャーくらいじゃないですかね、みんなと同じでないと不安を感じるって。
同じ階級の同じカテゴリーの狭い社会の中で優越感を感じてほくそ笑んだり焦燥感を感じてキィィとなったりは当然あるのだろうけど、その枠を出てしまうとほんとに無数に物差しがあるので風通しがよいのだ。
で、知らない間に逞しくなっいるらしいおばさんとしては、ちかごろの日本の感性についていけないことがあると、最近よく感じるようになってしまった。
この間、シアトルでもロードショウ公開されていた(市内の2館で3週間くらいやってたと思う)『君の名は。』を観に行った。英語字幕付きの日本語版公開でした。
『シンゴジラ』と同様、日本で超絶ヒットしたというので、かなり期待して観に行ったんだけど、これが驚いたことに、私には全然入り込めなかった。
高校生、美しい大災厄、すれ違い、古い神様の魔法、タイムスリップ…などという、好きになれそうな設定がてんこ盛りなのにもかかわらず。
おばあちゃんや妹もよかったし、キャラクターは可愛いし、「ど田舎」の風景も良いのだけど。
なんというか本当に本当に、線の細い映画だと思った。
こんなに線の細い映画が大ヒットするって、日本は大丈夫なのか?と、余計な心配をしたくなってしまうほど。
なんだかすごく痛々しい映画って気がしてならなかった。
どうしてそんなに内向きになるんだろう?
過去をどうにかして変えたい、ってみんな切実に思ってるのだろうか。
シンゴジラにもこの映画も、311の大震災の記憶が色濃くて、その癒やしのための映画なのかもしれないと思ったりする。でもそれにしても繊細すぎ、閉じすぎていないだろうか。
観終わってからずっとモヤモヤしてたんだけど、この間「邦画大ヒットの年に是枝裕和監督が『日本映画への危機感』を抱く理由」という記事を読んで、そうなのか!と思った。
是枝監督はこう言っている。
「この2作品は、観ていますよ。周囲でも話題になっていましたからね。両作ともヒットの理由は、とても理解できます。とくに『君の名は。』は、当たる要素がてんこ盛りですからね。ちょっとてんこ盛りにし過ぎだろ、とは思いましたけど。この映画に限らず、女子高生とタイムスリップという題材からはそろそろ離れないといけないのではないか、と思います」 (引用終わり)
(記事の主旨そのものは、日本映画が若手を育てるシステムになっていないことを危惧する内容です。)
当たる要素がてんこ盛り…うーんそれでも盛れば盛るだけ必ず当たるというものでもなかろう。
たとえばこのあいだ炎上したペプシのCMのように、盛ったら盛っただけその全部が裏目に出るということだってあるだろうに。
すべてが裏目に出たCM。
『君の名は。』を観終わって感じた居心地の悪さというか恥ずかしさは、このCMを観たときとちょっとだけ似ていた。
お好きな方には申し訳ありません。たくましいAKAがさつなおばさんの感想にすぎませんのでお気になさらず。
完全に自分をイケていると思っている、しんのすけ君。彼は実際とてもイケている。
2017/04/26
雨のことば、雨の名前、雨のにおい
『雨のことば辞典』について、ブログに書こうと思っていたのだけど、長くなったのでデジタルクリエイターズのほうに掲載していただきました。
++++++++++++++++++++++
去年の夏帰国したときに、『雨のことば辞典』(講談社学術文庫 ISBN978-4-06-2922239-5)という文庫本を買った。
気象予報官で理学博士の倉嶋厚さんと「雨の文化研究家」原田稔さんの編著。
広重の浮世絵「大はしあたけの夕立」を使った表紙が目について手に取ったら、全国各地に伝わる雨の名前や、雨に関わることば、気象用語、季語、故事にちなむことば、古語や漢語などがたくさん載っている楽しい辞典で、すっかり気に入ってしまった(あとがきによると、単行本は2000年初版らしい)。
日本(中国由来の漢語も含め)にはこんなにたくさん、雨にまつわることばがあるのか!とあらためて目をみはる。
収録されていることばのうち、8割くらいは聞いたことがないかも。
たとえば、
「ふぇーぶやー」
細かい雨を指す沖縄県中頭地方のことば。漢字で書けば「灰降」。
灰のように細かい雨が降る。
「あまくしゃー」
雨がいまにも降りそうな空模様をさす熊本県下益城地方のことば。雨臭い。
「雨承鼻(あまうけばな)」
穴が上を向いている鼻。雨が入る。
「風くそ」
島根県簸川地方で風が止む前に置き土産のように降る雨をさす。風が落としていった残り物。
…なんて、たぶん、知ってても一切実用に役立つ場面はないと思うが、そのことばが実際に使われている(いた)コミュニティを想像すると楽しい。
「卯の花腐し」「こぬか雨」「時雨」「五月雨」など、日本語には優雅な雨の名前がたくさんあるし、雨だけでなく雪、霧、あられ、雹、それに風など、気象に関することばがほんとうに多い。
長い歴史の中で日本人が育ててきた雨や風や雪に関するこまやかな肌感覚と語彙の多さは、きっと世界の言語のなかでも突出しているのではないかと思う。
ことばは先人の思考のエッセンスだ。「言語が思考を作る」というのは言い過ぎだろうけれど、育った環境で身につけたボキャブラリーが考え方や暮らし方のスタイルに影響しないはずがないし、ことばありきで感じ方の様式が決まることもあるはずだ。
ことばや様式が思考を育て、そこからまた新しいことばや様式が生まれていく、というプロセスが文化というもの、だと思う。
中国や日本の文学や絵画には、雨や雪や霧や霞を愛でるものが多くて、だからその語彙も多い。伝えられる語彙が多くなればますますその現象に意識を向ける人も多くなる。
とくに、季節ごとの静かな雨に幽玄なはかなさを感じるのは、もしかして東アジア地域の風土で特別に醸造された感性なのかもしれない。
「新古今集」の秋歌・冬歌編の422首の中には「時雨」の歌が35首も収録されているそうだ。
「木の葉散る しぐれやまがふわが袖にもろき涙の色と見るまで」
(新古今和歌集 五六〇 右衛門督通具)
…みたいに、秋の深まる頃に冷たくしょぼしょぼ降る雨に、はかない人の世のもの寂しい心持ちを重ね合わせてうたう歌が多いようだ。
「日本の風景は水蒸気がつくる」と司馬遼太郎が『坂の上の雲』に書いていて、おおー、なるほどと思った。日本の風物とそこでの暮らしがどれほど水蒸気に包まれているのかは、しばらく日本を離れてから帰ってみて初めて実感できたのだった。
ハワイに引っ越して数年後に一時帰国したときに、夏の東京の夜空が、晴れた夜なのに薄いベールを通したようなくすんだ濃紺だったのが新鮮だった。
ハワイも雨が多い土地ではあるけれど、気象はもっと単純明解というか、コントラストが強くてすっきりしている。ハワイの水蒸気は日本のようにゆっくりとどまらず、夕立を降らせて虹を立てると、すぐに貿易風に吹き飛ばされていく。
ハワイでは、太平洋をわたってくる風が高い山々にぶつかって雲を作り、雨を降らせるのは日本と同じだけれど、貿易風がだいたい一年を通して一定の方角から同じように吹くので、天気がとても予想しやすいうえに、入り組んだ地形によってごく小さな区域ごとに安定した局地的気候が生まれている。
小さな丘陵の谷あいには毎日朝晩必ず雨が降るのに、クルマで数分ほど走ると、めったに雨の降らない完全な乾燥地帯に出たりする。
白人が来る前からハワイに住んでいた先住民は、土地や天気ととても親密な関係を築いていたようだ。ハワイのことばにも、雨の名前はとても多いのである。
Harold Winfield Kentの「Treasury of Hawaiian Words in 101 Categories」(1967年刊)という本には101の分野のハワイ語が収録されていて、雨の名前だけで6ページが割かれている。
たとえば
「Kona hea」は、「ハワイ島のコナの、冷たい嵐」。
「Nahua」は、「マウイ島北東部に降る、貿易風をともなう細かな雨」 。
「Uaka」は、「<白い雨>という意味で、マウイ島ハナの有名な霧」 。
「Ua-moaniani-lehua」は、「ハワイ島プナに降る、レフアの花の香りを運ぶ雨」。
といったぐあい。この本のリストをみる限り、ハワイの雨の名前は「この場所に降るこんな雨」という、きわめてローカルな体験にもとづいたことばが多いようだ。
いま住んでいるシアトルも雨の多いことで有名な土地で、秋口から初夏まで、1年の半分以上はどんより曇ったしている日が多い。
ここの住人は、じめついた天気のことで自虐ネタを言うのが好きだけれど、英語には雨の名前はそれほど多くない。
白人が来る前にここにいたネイティブ部族の人たちの言語に雨や風を表すことばがどのくらいあったのか調べてみたいと思いながら、なかなか実現できないでいる。ハワイ語ほど研究者がいなくて、資料の数もとても少ないようだ。
英語の類語辞典を見ていると、どうも英語の雨の名前には、「土砂降り」「大雨」の表現が多い気がする。とくに、印象的なものはほとんどが大雨に関することばばかり。
「すごい土砂降り」の表現として強烈に印象に残ることばに「rains cat-and-dog」というのがある。 語源は不明で、18世紀なかばにはすでにジョナサン・スウィフトが言い古された表現の一つとして取り上げているという。これを見ると犬と猫が空から降ってくるカオスな画像が頭に浮かぶけど、やっぱりそんな光景を描いた19世紀の滑稽画がフランス語版のWikiに載っている。
参照:こちらのサイト
「cloudburst」は、雲が割れてドバドバ降ってくるような大雨。
「pouring down」も大雨の表現でよく使う。バケツのような容器で水を注いでいる感じの表現。
「shower」は夕立のような強い雨。
「drencher」も一瞬でずぶ濡れになりそうな、圧倒的な土砂降り。
こうやってみると、日本の詩歌のことばやハワイ語の雨の名前のように、雨に心情を重ねたり、雨を愛でる的な態度が感じられることばはあまり見当たらない。
そもそも「雹」と「あられ」の区別もしないで両方「hail」というくらいだから、アングロサクソン系の文化は気象については大雑把なのかもしれない。私は英文学の教養がないので、単に知らないだけかもしれないけど。
傘をさすほどでもない小雨は英語で「drizzle」または「sprinkle」。 どちらも、「オリーブオイルをひとたらし」「砂糖をパラリとふりかける」といった調子で、料理の手順の説明によく使われる。
和英辞典で「こぬか雨」は「light drizzle」とされている。 小雨の名前にも能動的な動きが透けてみえるところが、情景描写寄りの日本の雨のことばとは違うなと思う。
雨に関する英単語で、「Petrichol(ペトリコール)」というのをつい最近知った。 「長い間乾いていた土地に、久しぶりに雨が降るときの匂い」という意味。
あの「雨の匂い」に名前があったとは知らなかった!
雨についての感受性が飛び抜けて豊かな日本語に、これに対応することばがないのは不思議な気がする。
これは1964年にオーストラリアの学者がギリシャ語から作った造語。ということは、世界のどの言語にも、これに対応することばがなかったってことなのだろう、たぶん。
この雨の降り始めの匂いは、土に含まれている植物由来の油と化学物質が雨粒によって空中に放出されて人の鼻に届く香りなのだそうで、雨粒が地面を打ってその微細な香り物質が空中に放出されるメカニズムをMITの研究者が映像でとらえたスローモーションビデオもある。
すごいです!
感覚を表現する新しい語彙が、サイエンスの分野から出てくるのが興味深い。
(参考)
http://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/files/public/5/52392/20160528120004110004/erc_035_023_030.pdf
2016/11/20
シュガープラムのお茶
Celestial のホリデー期間限定ハーブティーが棚に並ぶ季節になりました。
「シュガープラム・スパイス」というのを買ってみた。
原材料は、
Hibiscus, roasted chicory, chamomile, rosehips, roasted carob, natural plum and cinnamon flavors with other natural flavors, ginger and cardamon.
だそうです。
ハイビスカス&ローズヒップとプラムの甘酸っぱさに、シナモンとカルダモンの香りがホリデーっぽい。華やかで落ち着く冬のフレーバー。
これはもちろん『くるみ割り人形』に登場する「シュガープラムの精」がテーマだけど、この「シュガープラムの精」が日本では「こんぺいとうの精」と呼ばれているというのをつい最近知った! 金平糖か!
シュガープラムの精は大人っぽい妖艶なキャラだと思ってたけど、金平糖っていうと、もうちょっとかわいい、萌えキャラという感じがする。
でも「シュガープラム」というのも実は英語への意訳で、原語では「ドラジェの精」なのね!それも知らなかった!
シュガープラムよりも金平糖のほうがドラジェに近いような近くないような…。
でもとにかく「sugar plum」というのはもうすっかり英語圏のクリスマスシーズンとは切り離せない、冬の彩りの一部。英語圏に「歳時記」があったらぜったいエントリーしている単語のひとつ。
このほかホリデーバージョンは「ナットクラッカー・スイート」という紅茶と「シュガークッキー・スレイ・ライド」というハーブティーもあり。こちらはバニラ味。
PCCで、いまなら一箱2ドル50セントですよ、奥様!
2016/07/26
神様は分解できるのか
ぽんず単語帳をひさびさに更新しました。
Reductionism という単語について書いてます。
この単語は、先だって宗教学の講義で初めて出会って、それからずっとモヤモヤと気になっていたもの。「還元主義」という訳語が定着しているようですが、この漢字の字面からはまったく、reductionismという憎々しく思われているニュアンスが感じ取れない。信仰を持つ人の多くから激しく忌み嫌われている概念です。
単語帳のほうで紹介してるレノックスVSドーキンスのビデオも宗教学の講義で見て、すっごく面白くて、ドーキンスにがつんと言ってやりたいことがあって(笑)、これを書きました。日本語で書いてもダメだけどw
先月から、うっかりセーラー服おじさんにのせられてw、メルマガの「デジタルクリエイターズ」にも記事を掲載させていただいてます。「神様は分解できるか」はそちらにつけたタイトル。
そちらに掲載するという頭があるものだから、余計な力がはいって風呂敷を広げすぎ、何日かうなされた。
書くということは、自分が知っていることがどれほど少ないかを再確認する作業でもあります。
いったん人に伝えようとし始めると、正確に知っていること、正確に覚えていることがどれほど少ないかに気づいていつもいつも愕然とする。
書くのも読むのも、5倍速でできると人生いろいろ楽になるのに。
頭がそれほど良いわけではないのに、いろんなことをしようとしすぎるのが私の業の深さ。
CTちゃんにはいつも呆れられている。「とも蔵っていつも、やらんでいいことをわざわざするよね」。はいその通りです。
にほんブログ村
2013/08/21
Keep Clam at Ivar's
シアトル地元のフィッシュ&チップスとチャウダーの名物チェーンといえばIvar's 。
うちのすぐ近所にもお店があります。
ダウンタウンのウォターフロントやユニオン湖にはレストランもあり。
創業者のIvarさんは名物おじさんだったらしいです。
1930年代にシアトル初の水族館を開いて、そのお客さんむけにフィッシュ&チップスを売り始めたのだそうだ。クセモノなおもしろおじさんだったんだろう。
コッドフライと季節限定のサーモンチャウダー。
フライはタルタルソースも良いけど、臭いモルトビネガーとタバスコで食べるのが私は好きです。
「KEEP CLAM」の看板が。これはもちろん、英国の戦時中のスローガンだったという(戦時中はあまり知られてなくてわりに最近急に有名になったらしいけど)「Keep Calm and Carry On」のもじりです
アメリカ人てほんとに駄洒落が好きですよね。新聞の見出しでも駄洒落を見ない日はないし、広告やファッション雑誌にまで、親父ギャグ級の駄洒落が平気で多用されてるしね。
でもこういうストレートなダジャレは好きだ。だんだんアメリカンな甘さのお菓子に慣れてくるように、ダジャレにも慣れてしまったのだろうか?
にほんブログ村
2013/04/03
博覧会
今回のSoy Source 記事には、1909年にシアトルで開催された『アラスカ・ユーコン・パシフィック博覧会(Alaska-Yukon Pacific Exposition)』のことを書きました。
ワシントン大学キャンパスで開催されて、キャンパスの基本設計にも寄与した博覧会。
建物のほとんどは石膏製の短期用で、会期が終わるとすぐに取り壊されてしまったものの、キャンパスで長期使用することを前提に建設されたものもいくつか、現役で残ってる。
会場のキモだった、レーニア山が見える噴水広場「レーニアビスタ」も。晴れた日のあの噴水越しのレーニア山の眺めは感動的だけど、1世紀前の万博会場の一部だったというのを知った時にはちょっと驚いた。
スザロ図書館には壁に大きな博覧会当時の写真が飾られているけれど、ワシントン大学の学生も、キャンパスが万博会場だったというのはあんまり知らないようです。
大日本帝国出資の「ニッコー・カフェ」、写真はaype.net より。賑わってますね。
文明開化の日本国は張り切って欧米の万博に出展しただけでなく、国内でも盛んに博覧会を開催していた。
夏目漱石先生の『虞美人草』を読んでいたら、ちょうど小説が新聞に連載されていた1907年に上野公園で開催された東京勧業博覧会が出て来てた。
(引用)
蛾は燈に集まり、人は電光に集まる。輝くものは天下を牽く。金銀、砂礫、瑪瑙、 瑠璃、閻浮檀金、の属を挙げてことごとく退屈のひとみを見張らして、疲れたる頭をがばとはね起こさせる為に光るのである。…
文明を刺激の袋の底に篩い寄せると博覧会になる。博覧会を鈍き夜の砂に漉せば燦たるイルミネーションになる。いやしくも生きてあらば、生きたる証拠を求めんがためにイルミネーションを見て、あっとおどろかざるべからず。文明に麻痺したる文明の民は、あっと驚く時、始めて生きているなと気が付く。
(引用おわり)
シアトルの博覧会はこの2年後だからほぼ同時代。真夜中まで会場を燦爛と飾ったというイルミネーションは、「疲れたる頭をがばとはね起こさせ」たんでしょう。
「文明 」がまだ新しくてピカピカの、金箔つきの唯一無二の価値であった時代。日本は日露戦争でとほうもない数の戦死者を出したけれど、とにかくロシアに勝って、強国になったと鼻息荒かった。欧州も米国も、まだ世界大戦を知らない。
2013/03/26
クレオールのバルコニー
フレンチクォーターの建物はすべからくといっていいくらいに、優雅なwrought iron (ロートアイアン/錬鉄)で飾られています。
精巧な透かし模様の錬鉄製バルコニーは、「クレオール・タウンハウス」と呼ばれるニューオーリンズ独特の様式のデフォルトフィーチャー。
スペインとフランスの伝統、ヴィクトリア時代の流行、カリブ海の風味も加わったフュージョン建築。
壁に落ちる影がまた素晴らしい。
錬鉄製のアイテムはバルコニーだけでなくいろんな細部に使われています。
ここまでするかと呆れるような精巧なデザインでも、素材が剛健だから、うるさい印象にならないのが面白い。
フレンチクォーターの家の多くは南北戦争以前に建てられたものですが、Marcus ChristianのNegro Ironworkers of Louisiana: 1718-1900という著作によると、こうした錬鉄細工を作った職人たちのほとんどは黒人奴隷や自由黒人、後には有色クレオール人だったといいます。
クレオール(Creole)という言葉の定義は複雑で、混乱しやすい。
もとは、フランスやスペインの本土から来たのではなく当地で生まれた(つまり「二世」以降ですね)世代の白人をクレオールと呼んで、欧州本土から来た人と区別していた。これが「ホワイト・クレオール」または「フレンチ・クレオール」。
アフリカから来た奴隷一世に対して、ルイジアナ植民地で生まれた黒人奴隷も「クレオール」と呼ばれた。
そうして19 世紀には白人クレオールと有色人の間に事実婚関係が増え、間に生まれた混血のクレオールが奴隷とは全く違う、教育を受けた市民の階層を作った。
と、時代が進むにつれ意味が増えていきました。
Merriam-Webster の辞書には
1)西インド諸島やイスパノアメリカに生まれた、ヨーロッパ人の子孫
2)合衆国メキシコ湾沿いの地域のスペイン人またはフランス人の子孫で、祖先の言語や文化を保持している白人
3) スペイン人またはフランス人および黒人の祖先を持ち、フランス語かスペイン語の方言を話す人
という定義があります。
当地の人によると、「自分たちこそ本当のクレオールで、ほかの用法は間違っている」と考えている人もあるようです。それは多分、ヨーロッパ系のクレオールが有色系のクレオールのことを言ってるのだと思う。
フランス>スペイン領だった時代には有色のクレオール人が中産階級を築いて地位を広げつつあったところへ、アメリカ領になってから政府が南部のほかの地域と同じ所有者/被所有者の2階層制度を推し進めようとした頃、クレオール社会には恐ろしい混乱が起こり、人種間の対立も深まったことでしょう。
ルイジアナ買収から南北戦争あたりのニューオーリンズに興味が湧いてきました。
2013/03/21
Killing States
アメリカの法律が州によってまったく違うのは周知のことですが、つくづくその違いを実感するのが、最近ワシントン州で合法となったマリファナの使用や同性婚についての法律。それから、死刑制度もです。
現在、死刑制度を実施している州は33州。死刑制度を廃止した州は17州。
先学期とったクラスで死刑制度について読んでいて、Killing State という呼称を見ました。これは Austin Sarat氏をはじめとする死刑制度廃止論者の学者さんたちが使っていて、一般的に普及している用語じゃないかもしれないけれど「死刑実施中の州」という意味はよくわかる。
ワシントン州もKilling State で、現在死刑囚が9 名います。
死刑囚が一番多いのはカリフォルニア州で、724名という桁外れの数。
全米では3000人を超える死刑囚が刑務所に収容されています。
各州によって、死刑になる可能性がある犯罪要素も、減刑になる可能性のある要素も違う。
州の中でなら同じかというと、それもまた違う。起訴された場所によって、裁判の成り行きによって、同じ犯罪でも死刑になったりならなかったりする。陪審員の存在も大きい。
わたしはずっとぼんやりと、死刑制度反対というのは人道的に死刑そのものが良くないことだという主張だと思っていたのだけど、それだけではないのでした。
これは納得できると思った理由は二つ。
まず一つに、各州、各司法区域の制度がarbitrary (気ままに決めること)を許しているという議論。
はっきりとしたガイドラインなしに、弁護士や検察官の技量、裁判官や陪審員の気分や裁量、で死刑になったりならなかったりするのはあまりに不公平ではないかという話です。
被告人の人種により結果があまりにも違うことも、もう何十年も前から指摘されています。
死刑囚になるのは、ほとんどが自分で弁護士を雇うことができなかった貧しい被告で、マイノリティの率が非常に多い。
1972年の連邦最高裁判決で、すでに「不規則かつ選択的にマイノリティに対して適用されている」として、当時の各州の死刑制度の運用が違憲とされています。
しかし今でも死刑囚の4割は黒人です。
二つ目は、本当は無実でしたというケースが1件や2件の例外ではなく存在すること。
2003年にはイリノイ州のライアン知事が、「イリノイ州では年間1000件の殺人があったが、その被告のうち死刑を宣告されたのは2パーセントにすぎない…。死刑制度は確実な基準なしに102名いる検事によって求刑されていて、公正に統一された方法で行なわれているとは言えない」とし、また、州内で死刑を宣告されてから無実を勝ち取って釈放された死刑囚が70年代以降17名もいることを指摘し「このシステムは壊れている」として、167名の死刑囚を全員終身刑に減刑しました。( イリノイ州はその後2011年に死刑制度を廃止)
死刑そのものが人道的にどうかというのはまた別の議論。
懲罰としてはLife Without Possibility of Parole (「LWOP」=仮釈放の可能性のない終身刑)のほうがむしろ死刑よりも苛酷な刑という見方もある。
死刑の方法が人道的な方法を目指して来たのと同様に、LWOPの処遇についても議論が分かれるでしょう。
死刑廃止論の理由に「死刑囚はコストがかかる」というのがあります。死刑を求刑する裁判はものすごくおカネがかかるし、死刑囚には控訴が認められていて、何年もかかる裁判の費用は州や国が負担しなくてはならないので。しかし全部がLWOPになってしまったら、控訴のチャンスがずっと低い*安上がりな*終身刑の囚人が増えるのではないだろうか? それはそれで冤罪の場合や裁判手続きに問題がある場合に守られにくくなるのでは?という疑問もわきます。
社会にとって、罰とはなんなのか。犯罪防止のためか、被害者や家族の心情を軽くするためのものか、犯罪者の更生のためなのか。 まずそこの議論が分かれているのに加えて、法律があまりにも多彩すぎる国アメリカの刑事罰の複雑さは、シュールリアリスティックにさえ感じられます。
登録:
投稿 (Atom)