独立記念日はファースト・サースデー(第一木曜日は美術館の入館料金が安くなり、遅くまで開いてるのです)でもありました。
そして、舞踏家・薫さんをモデルにした
Ruthie.Vさんの作品がSAMギャラリーに飾られているので、シアトル美術館に集合だったのです。
モデルと実物!
狙ったのか偶然か。お召し物が白と黒で、ポジとネガ、みたいですね。
裾の花模様も響き合っている。
カメラ(iPhoneなのに)を向けると、すっと舞台の上の人になってしまう舞踏家です。
この日は特別展『Victorian Radicals』(ヴィクトリア朝時代の過激派たち)をやっていて、そちらも見に行きました。なにしろ通常29.99ドルのところ9.99ドル。お得です。
さくっと見るつもりが、けっこう熱心に考え込んでしまい、三々五々ながら一緒に行ったはずの皆様にすっかりはぐれていつの間にか一人になっていた。
東京でラファエル前派展をやっていたのに見てこなかったことをすごく後悔していたこともあり。
わたしはラスキンさんについて、というかラファエル前派についてまるで誤解していたなあと思いました。いつもながら。本当に何も知らなくてごめんね、ラスキンちゃん。
こちらはまた今度ゆっくり。
ネズミ君とアンゼルム・キーファーさんのひまわり(泣くほど好き)にも挨拶し。
3階ギャラリーのこちらも特別展。
これもまた、さくっと見るつもりが、惹き込まれました。
Zanele Muholiさん、南アフリカのアーティスト。LGBTの活動家でもある。
世界各地で撮影したセルフポートレイトです。
いわば一種の「コスプレ」を通して、見る人に
「a discomforting self-defining journey, rethinking the culture of self-representation and self-expression」
(居心地のわるい、自分を定義する試み、セルフ・リプレゼンテーションと自己表現の文化について考え直す機会)
を提供する、という。
このrepresentationって、人類学の講義でも現代美術史でもさんざんでてきたんだけど、日本語でなんて訳したらいいのかいまだによくわからない。
フーコーとかの訳書では「表象」とされてるみたいだけど(ちゃんと読んでませんよーん)、表象って言われてもなにそれって思うよねえ。
自分や組織や団体などの主体を、どのように定義して表現するか、意識してない部分も含め、それをどう考えるか、常識とか役割とかそういった社会(そして権力構造)との結びつきの文脈で考えなおしてみよう、という場面で使われる言葉で、つまりは「これはこのような形で理解する」というかたち、概念、捉え方、立場のこと、といっていいのかな。
その捉え方は多くの場合、意識しないうちに身についていて、点検されないまま<常識>になっていることが多い。20世紀後半にはいろいろなマイノリティが自らの立場を守り向上させるためにその常識を攻撃し、新しいリプレゼンテーションを意識して主張してきた、という経緯があり、現代の、特にアメリカの社会ではとても重要なキーワードとしてよく出てくるのだけど。
日本語でこの「リプレゼンテーション」、スッキリ手頃な言い方がないのが、どうも納得いかない。
アートスケープのこのページがとても詳しく説明していて、いろいろ文脈により訳語が工夫されてはいるが、結局<「表象」がその他の意味を包含しつつ使用されることが一般的である>とあります。うーん。
こういうときはIT業界やファッション業界にならって、カタカナで概念ごと輸入してしまうのが一番無難なのかもしれません。
他人種っていうあきらかな他者を(建前上、そしてボリューミーに)内側にもたない日本の社会では、リプレゼンテーションの問題って、社会の大きな関心時ではなかったのかもしれない。
でもともかく、リプレゼンテーションの常識を揺さぶるという試み、というのはリクツだけではなく、美意識の領域に深くくいこんでくるもの。でないと力を持たないよね。
とても美しくて強烈な写真でした。おすすめ。11月までやってます。
独立記念日の夕方は、きっと私がぽつねんと意気消沈していると思って気遣ってくれたのにちがいないCT夫妻と、ピザのディナー。
帰って仕事をしてたら外がうるさいので窓から覗いてみると、ガスワークパークで打ち上げられている独立記念日の花火が、遠いけどとてもよく見えました。
けっこう大玉が多くて豪華だった。
よい一日でした。日本の花火が見たいな。