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2021/02/17

青空とロビンと岡本太郎


週末とはうってかわって、晴れたり曇ったりで青空もみえた火曜日でした。

今日はかなり気温もあがって(昼間は7度Cくらい)もうすっかり雪は消えてます。



降った量もシアトルにしては規格外だったけど、消えるのも爆速で、集合的なダメージは最小限にとどまったかな。

でも、今日散歩してたら、続けざまに何台も、車体に「一体何が!」と思うような大きな損傷のある車とすれ違ったのだけど、もしかしてそのうち何台かは、この週末に果敢にも雪のなかを運転した結果なのかも…。

 
変わった色のウィッチヘーゼル(マンサク)。きれいなオレンジ色です。



ずいぶん膨らんでるロビン。うちのアパートのすぐ前に南天みたいな赤い実をたくさんつける木があって、ここ数週間、ロビンたちが集団でそれを食べに来ていました。

 せまい裏道をはさんでお向かいにヤナギ(日本のしだれ柳とは違う種類)の大木があっるのですが、その枝に団体で止まって、順番に十羽くらいずつ、路地の反対側の木に飛来してきて食べる。 そういうときは同じロビンばかり何十羽もつるんでるけど、それ以外のときは完全単独行動。鳥の世界も面白いですね。

鳥って、自分と同種の鳥と、ほかの種類の鳥と、それ以外の動物と、どういう感覚でつきあってるんでしょうか。



夕陽を浴びたマグノリア(これはたぶん、コブシか木蓮か)のつぼみたち。開花ももうすぐ。


この間、岡本太郎の『日本の伝統』という本を読んで、すごく面白かったので、感想文的なものをデジタルクリエイターズのメルマガに載せていただき、NOTEに転載しました。

こちらです。

お暇がありましたらご笑覧くださいませ。

太郎さん、面白い人でしたね。 

 18歳から10年間フランスに行ってて、太平洋戦争直前に帰国して徴兵されたというの、知らなかった。

特に作品のファンではないけれど、とても純粋な人だなあと思うし、その主張の多くにはうなずけます。

日本の文化に「変態的なゆがみがある」という言い切りがすごい。昭和30年代だからこそ言えたのだと思う。

昭和30年代ならではの言葉づかいも(「モーレツに」とか)面白いです。

 

 


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2020/11/17

後遺症と白菜ミルフィーユ



旅に出る前に、ジェニファーちゃんにいただいた花を逆さに吊るしておいたら、ちゃんとドライフラワーになってました。

不思議な色のアジサイもそのままに。

先日(11月13日)デジタルクリエイターズに掲載していただいた長文を、NOTEにアップしました。トランプ政治についてなにか言いたかった。

お暇がありましたらご笑覧くださいませ。
こちらです。「異常な選挙とトランプ後遺症

これは日本のシバタ編集長のために書いたつもりですが、結局は自分のために。

ダラダラ長いまま3回に分けて載せてあります。情報としては今さらだけど、自分で情報を消化するいちばんよい方法は、よい聞き手に話すか、文章にしてみることなのですね。
書いたり話したりすると、初めて、自分が何を(何も)知らないかがわかる。

でも、これからはもうすこし短いのを書こうと思います。



今日はー、また突然Windows上の翻訳支援ソフトウェアが動かなくなり、OSをアンインストールして入れ直したり、そしたらOFFICEのライセンス認証ができなくなってそっちを入れ直したり、そしたら日本語入力ができなくなって入力設定をあちこちいじったり。そんなことに3時間もかかってしまいました。

消耗……。ウィンドウズ君……。


ParallelsにWindows7と10が両方入ってるんだけど、ソフトウェアは全部7の上で動いている。これを入れ替えたほうがいいのだろうけれど、全部アンインストールしてから10に入れ直せばいい話なのだろうか。ふとしたきっかけでまた元通りに動き出したりするので、何もかもすっかり忘れてまたなにごともなかったかのように使い始め、次に不具合が出るとまた呆然とする繰り返し。懲りない。



うーん、「7」はやっぱり断捨離すべきか。

ナスタチウムは、種をまいたのが遅かったので花は咲きませんでした。小さい葉っぱだけ摘んで食べている。



先日の豚バラ白菜ミルフィーユ。酒大さじ1くらいと鶏ガラスープの素をすこし入れると、抜群においしくなるのを知りました。常識だった?

しかし鶏ガラスープの素がもうそろそろ底をついてきた!チキンブイヨンでもいけるかな。

3人用の土鍋いっぱいつくっても、うちではあっという間になくなります。




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2020/06/24

テディさん退場



近所の、これはカシワバアジサイ(oakleaf hydrangea)かな。

緑に埋もれた緑の消火栓が気持ちよさそうです。
ここ数日、シアトルはほんとうに爽やかな初夏の日々。空は青く湿度は風は涼しく、緑がわさわさで、緑陰に薔薇が咲き匂う、まさに天国です。



3日ほど前、ニューヨークの自然史博物館の前にあるテディことセオドア・ルーズベルト大統領の騎馬像が撤去されることが決定した、というニュースを読みました。写真はニューヨーク・タイムズ紙

先月からの#blacklivesmatterの抗議活動の流れで、全米各地で、奴隷制時代や植民地時代の人の銅像が抗議の人々によって壊されたり、自治体によって撤去されたりしています。
アメリカだけでなく、ヨーロッパにも飛び火していますね。

ジョージ・フロイド殺害事件以来、世界で沸騰しつづけている抗議活動について、今日配信のデジタルクリエイターズ(メルマガ)に書かせていただきました。
NOTEのほうにも転載したので、よろしければご笑覧くださいませ。
こちらです。

ここ数週間はこの件で、コロナ以上に精神的にゆさぶりをかけられていました。社会全体が揺さぶられていたので当然なのですが。きっと日本に住んでいる人にはそのライブ感は伝わりにくいだろうと思います。

構造的差別って、この国にとってそれこそ「実存的」な問題だし、もちろんすぐに解決するような問題ではなく、まだこの先、社会が何世代もかけて向き合っていかなければならないことだろうけれど、いま、少なくともかなりの人々の意識が切り替わったのは瞠目すべきことだと思ってます。これから揺り戻しもあるだろうけれど。




自然史博物館前のこのルーズベルト騎馬像は1940年に設置されたもので、意外とあたらしい。

3年前にはじめてニューヨークに行ったとき、滞在最終日にお目にかかりました。(そのときの日記

わたしはメトロポリタン美術館をじっくり見たかったので、自然史博物館を見に行ったマダムMと別行動をとって、夏の夕方、セントラルパークをのんびり横切ってこの博物館前で待ち合わせしたのでした。

西部劇のヒーローのように馬にまたがって西方をめざす大統領。その両脇にネイティブアメリカンと黒人男性がつき従う構図。まんま、19世紀の世界観をそのままあらわしてます。これが1940年のものだっていうのはちょっと意外だった。まあでも、時代精神は大きく変わってなかったってことですね。

ルーズベルト大統領の時代というのはまさにアメリカが帝国主義デビューをした時代といえます。

このあいだハーバードの自然史博物館を見に行ったときに実感したのだけど、自然史博物館とか博物学っていうカテゴリーそのものが、文明国の視点で世界のあれこれを収集するっていう時代の産物なんですよね。シカゴ博覧会をはじめとする万国博覧会の流れ。その視点は、当時は誰一人疑わなかったであろう、圧倒的に優位な立場にいる支配階級(白人社会)のものです。

だからルーズベルトが馬に乗ってて「さあ、未開の兄弟たちよ、わたしについてきなさい」とでもいうように、明らかに下の位置に「インディアン」と黒人を従えている構図が、20世紀をとおしてスタンダードに受け入れられていたのですね。

この像の撤去は博物館が決定して、ニューヨーク市が了承したそうです。

上記の記事で、博物館の館長さんはインタビューにこう答えています。

“Over the last few weeks, our museum community has been profoundly moved by the ever-widening movement for racial justice that has emerged after the killing of George Floyd. We have watched as the attention of the world and the country has increasingly turned to statues as powerful and hurtful symbols of systemic racism.”

「この数週間にわたり、当博物館のコミュニティは、ジョージ・フロイド殺害に端を発し、人種間の正義を求めてますます高まっている運動に深く心を動かされてきました。我が国の人々と世界中の人々の間で、構造的なレイシズムのパワフルで心に傷を残すシンボルである様々な像への関心がますます高まっていくのを、私たちは目の当たりにしてきました」

この像を撤去する理由は、差別的構造をあらわにしているこの構図が問題なのであって、ルーズベルト大統領その人を問題視するものではない、と館長さんは言ってます。





『ナイトミュージアム』のテディさんも、「引退の潮時だわな」と言っていることでしょう。



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2020/03/30

わんこ桜


連日、わんこそばのように桜ばかり流していますが。

散歩してて桜の木の下に来ると、ロックダウン中であることも経済危機も来月からの生活どうするんだよも、ヘンな大統領を国民の半分が支持していることも本当に全部きれいに忘れてしまって、ただほけ〜っと心から幸せになって帰ってきます。まったくおめでたい人ですね。散歩は幸せ。シアトルの空気が澄んでいて爽やかなのも幸運です。

きょうは一日雨なのかとおもったら、曇ったり晴れたり降ったりのいそがしい天気でした。まだまだ花は保ってます!

白いのも咲いている。
鉄腕翻訳者みぽりんから、さいきん日本では白い桜が多いと聞きました。そうなの?

桜の時期に日本に帰ったのはいつだったっけ。母が亡くなる前の年に、当時小学生だった息子を連れて春に帰った。あれは14年前! 桜が満開だった。母の癌がみつかった2か月後。具合がそれほど悪いようにも見えなかったのだけど実際はかなり良くなかったらしく、花見の散歩に誘っても行こうとしませんでした。すごく頑固で、弱音を吐くのが嫌いな人でした。もうちょっと真面目な話もしてみたかったな。



白花も上品で綺麗。
寄ってみると、なるほどバラに似ています。バラ科なんですねー。



早朝の雨と風で落ちたらしい花をひろってきました。卓上花見。

ところで、2月末からの怒涛の1か月をざっくり振り返るレポートをきょうのデジタルクリエイターズに寄稿しました。
noteにもアップしたのでよろしければご笑覧ください。(長いです。)
ロックダウンの3月

志村けんさんが亡くなってしまいましたね。

東京も本当にロックダウンされるのか…。

しかし、知事命令ではなくて日本では「外出の自粛要請」なんですね。
それで人がしゅっと家にこもるというのもすごいなと思います。

ニュースサイトで読んだかぎりでは日本政府は緊急事態宣言を出したあとも強制力のある命令でなく「外出自粛要請」を続ける予定でいるようですが、米国とは違ってロックダウンにはせず、あくまでも「自粛要請」で乗り切る計画なのかな。



夕方の傾いた光で見る桜も、金色がかったエフェクトで豪華です。宴会場の屏風のようだ。



普段散歩していてすれ違うのは犬を連れた人ばかりで、なにも連れず一人でフラフラ歩いているアジア人のおばちゃんはちょっときまりが悪かったのですが、ロックダウンが始まってから、近所を「ただ散歩している人」もみかけるようになりました。
ご夫婦で歩いている人がほとんどだけど。(・д・)チッ 



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2020/03/19

春先の縁起もの&意識と感情のミルフィーユ


きょうもシアトル、ぽかぽか陽気でした。近所を歩いていると、家の前のポーチの階段やベランダで日なたぼっこしている人(老人とかでなくて30代くらいの人々)をちらほら見かけます。そしてあちこちの家や公園からは子どもたちの楽しそうな絶叫がひびく。小さい子のいるお父さんお母さん、毎日何して遊ばせようか、頭を悩ませてるでしょうね。

カリフォルニアがついに州全体に「家から出るな」令を発令しました。しかし、 今日もLINEでロサンゼルスの鉄腕翻訳者みぽりんと話していたのだけど、在宅翻訳者の毎日は、ロックダウン下でもほぼまったく変化なしなのです。
ありがたいことにまだ仕事がある。来月どうなるかはまったく謎。



きのう植物園で見た、黄色い水芭蕉。なんだか縁起がよさそうですよ!



縁起良いといえば、こちら!  にゃを美先生の本格派アマビエ護符!かわいい。
インスタより許可をいただき転載いたしました。効き目ありそう!
よろしくアマビエちゃん!

ところで去年の夏に、アントニオ・ダマシオさんという脳科学者の書いた『意識と自己』という本を読んで、ものすごーーーーーく感動し、なんとかその感動をあまねく世に伝えたい!と半年以上ずっと思ってました。ダラダラと年を越し、ようやくなんとかまとめたものを先日、デジタルクリエイターズのメルマガに載せていただき、さらにつづきも合わせてnote にアップしました。

わたくしという現象
意識の三層
認識が感情?
わたしの中のわたしのひな形
時間の中の動的な存在

そして

わたしがわたしに気づくには

最初の5つが、『意識と自己』にかかれているダマシオ教授の理論をざっくりまとめてみたもの。
下の追加分は、そこで書ききれなかった、意識が生まれるときのメカニズムの仮説をもうちょっと詳しく書いてみたもの。

いずれも、ながなが悩んだわりにはあんまりわかりやすいとはいえず、試読してもらった波乗り翻訳者ラウぴょんもメルマガの柴田編集長も「わかったようなわかんないような」と悩ませてしまいました。

ぜんぜんあまねく世につたわってなくて少しかなしいけど、隔離中で時間がうなるほどあり、ちょっとうっとうしいものでも読んでみようかという奇特な方がいらしたら、ぜひドウゾ。
このへんがわかりにくい、またはこの理解違ってね?というようなツッコミがあればぜひご教示いただけると嬉しいです。

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2018/12/29

言葉が思考に影響するプロセス


NOTEに、先月デジタルクリエイターズに寄稿した内容にすこし加筆して分割したのを載せました。ウェブだと長いので、6回にわけました。1回めはこちら。

年末年始にお暇がありましたら、ご笑覧いただければうれしいです。

こちらのビジュアルはカリフォルニア在住の東村禄子氏の作品です。



かっこいいですね。ほんとこの人才能あるのよ。




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2018/10/08

言葉ってなんだっけという話


先日Kちゃんがまた作ってくれた、史上最強のポップオーバー。

先月末のデジタルクリエイターズに寄稿した記事をNOTEに載せました。
あらためて、言葉ってなんだっけという話 

春に言語学を受講して、そのあとスティーブン・ピンカーの書籍『言語を生み出す本能』をようやく読み終えたらうわー面白かったよー、という話です。

お暇なときにご笑覧いただければ嬉しいです。

しんのすけ君出演してます。名刺にも使わせていただいたお気に入り画像。


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2018/07/25

いつか普通の国になる日本へ


デジタルクリエイターズに、日本滞在の感想を書きました。

NOTEにも投稿してます。

おひまなら見てねー。


新製品が多すぎ、水筒持って出かけても、かまわず購買意欲をそそられる日本の自販機。

透明なコーラを試しに飲んでみたかったけど、買うのを忘れた。

生茶は鉄板でおいしいねー。



中央線のホームで存在感をはなつこのハイテク自販機は、チームラボがデザインしたのですってね!

チームラボのお台場のミュージアムには今回行けなかった。なんか一人で行くのはちょっと哀しい気がして (´;ω;`)………。

数年前、シアトルのアートフェアでチームラボがインスタレーションをやった時には、アートフェアもチームラボもその存在すら知らなかった。
パリの展示に行ってみたいなあ。



梅干し製品もまた実にいろいろでてました。この新製品の増殖するスピードの速さと種類の多さには圧倒される。

暑いときに梅干しは最高ですね。

ねり梅シートをドラッグストアで買いだめしてきました。



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2018/04/24

田舎の思ひ出


デジクリに書いた「田舎」の原稿を、ひさびさにぽんず単語帳にアップしました。

RURALの写真、そういえばあるあるある。

と、国内旅行の写真を探してみた。2012年かな?6年前かー!


この藁ロールと大草原が見たくて、シアトルからサウスダコタ州まで、息子と二人で車で行ったのでした。

面白かったなー。プレイリードッグたちにも会えたし。また行きたいーーーー。

あの頃は息子もまだ可愛げのある高校生だったし、うちのアクセラちゃん(Mazda3)もまだ若かった。
(自分だけは年とった気がしてない。)

ハワイから一緒で、太平洋からイエローストーン公園からミズーリ川まで、いろんなところに連れてってくれたクルマです。



今では、もうちょっと州境を超えてのドライブは無理…。心配すぎる。

このあいだまたエンジンマウントが壊れてもろもろ1600ドルかかった……(悲)。

床には穴があいてるしあちこちボコボコへっこんだままですが(ごめんねアクセラちゃん)、まだまだ元気に街中を走り回ってます。



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2018/03/29

銃の国の命のマーチ


3月もまさに怒涛でした。もう月末か!!!!

というわけでブログはおやすみしてました。こちらは今朝、デジタルクリエイターズに書いたやつです。



3月24日の土曜日に全米の各都市で行われた抗議デモ「March for Our Lives(わたしたちの生命のためのマーチ)」では、オーガナイザーの高校生たちが大々的にメディアにとりあげられた。

2月14日にフロリダのマージョリー・ストーンマン・ダグラス高校で発生し、教師と生徒たち17人が亡くなった大量殺人事件の直後に同高校の生徒たちが銃規制のために行動するグループ「Neveragain MSD」を組織。このグループの呼びかけに、全米各地の高校生たちや親たちだけでなく、ジョージ・クルーニーやスティーブン・スピルバーグなどのハリウッドセレブまでもがこたえて、あっという間に一大ムーブメントになっていった。

#Enough is Enough、#Neveragainというスローガンは、実際に自分が生命の危険にさらされ、同級生たちをなくした高校生たちの「もう二度とこんなことが起きないように今すぐアクションを起こそう」という切迫したメッセージとして、圧倒的な迫力と説得力をもってたくさんの人を動かした。

ニューヨーク・タイムズも、ロサンゼルス・タイムズも、一面に大きくこのマーチの写真を掲載した。

ラジオとウェブでちらっとインタビューを聞いただけだけど、このフロリダの高校生たちがまた、恐ろしく冷静でしっかりした子たちなのである。あなたは議員さんですか?と思うほど明晰かつ情熱的に意見を述べるDavid Hogg君や、舞台に上がってNRAの代表者と互角にわたりあい、ワシントンDCのマーチでは亡くなった友人のために涙を流しながら静かにメッセージを伝えきったEmma Gonzálezちゃんなどは、あっという間に全米のスター的存在になった。

The New Yorkerからおかりしてまーす)

ヒーローとしてSNSでも大手メディアでもスポットライトを浴びている彼らに、当然ながら銃擁護派は苛立っている。  

右寄りのFOXニュースなどは、この高校生たちはリベラルな大人たちが影であやつっている「コマ」にすぎないと強調している。

でも「リベラルの黒幕が世間知らずの高校生たちを動かしている」という枠でこのムーブメントをくくろうとしている保守派コメンテーターの主張は、なんだかずいぶん遠い時代から響いてきているように聞こえる。

確かにこの運動の中心になっていた子たちというのは、弱冠17歳とか18歳とかではありながら、もともと社会活動家ではあったらしい。
でも、ツイッターで共有され、瞬く間に全米の高校生や親たちの共感を得たのは、銃が蔓延しているアメリカの現状に対してのリアルな危機感ゆえだった。

銃をもった人が乱入してきたときに備える避難訓練「ロックダウン・ドリル」が小学校でふつうに行われているというのはやっぱり異常な事態だし、誰でも簡単にいくらでも銃を所持できる社会はヘンだ、と感じる人は多いということ。

安全なはずの学校で子どもや教師が次々に死んでいる事態に対して現職大統領が提案した「教師も銃を持ったらいいんじゃないの?」という解決策は根本的に間違っていると思う人が、それも、とても熱烈に思っている人が、全国的なムーブメントを起こすほど多いということだ。

漠然とした感想だけど、今の高校生や大学生の中には、それ以前の世代がめったに持つことができなかった精神的な強さを持っている子が多いように思える。

流されることなく自分の感情を素直に共有することが上手で、共感力が強い。
悪意の存在をよく知りながら、投げつけられるものに傷つくことが少ない。
フェイクな情報が溢れる時代の中にあって、冷静に自分と相手の価値観と立ち位置を分析しながら主張することに長けている。

もちろんみんながみんなではないけれど、そんな風に冷静で共感力の強い子どもたちが多くなっている気がする。小さなときから膨大な情報量の切り分け方と処理方法を身につけているからなのかもしれない。この子たちは、それまでの世代とはまったく違うつながり方のスキルを持っているようにみえる。




アメリカの銃規制

このフロリダの高校生たちはまず、銃撃事件から1週間もたたないうちにバスでフロリダの州都に行き、政治家たちに陳情、というよりプレッシャーをかけた。全国メディアが見守る中、米国の中でも保守的で、銃規制に関してはゆるゆるなことで有名なフロリダ州で、州議会に対して銃規制を強める法案を通さざるを得ないほどの圧力を作り出した。

ワシントン・ポスト紙は3月8日の論説記事で「NRAが珍しい敗北を喫した」と書いた。フロリダ州でじつに20年ぶりに議会を通ったという銃規制法だけど、この内容はもちろん、銃の所持を全面的に規制するようなものではない。


その中身はというと、
>あらゆる種類の銃を買うことができる年齢を18歳から21歳に引き上げる
>銃に取り付けて使うことができる部品、「バンプストック」の販売禁止
>バックグラウンドチェックの抜け道を防ぐ

という、日本の感覚からすると、なんですかそれは??それだけかい?と驚いてしまうようなごく基本的なものだけど、ワシントン・ポスト紙はこれを、「驚くべき勝利」と呼んだ。

ちなみに、フロリダ州では普通のハンドガンは21歳以上でないと買えないのに、高校を襲撃した19歳の犯人が使ったアサルトライフルは18歳の子がお店で買えてしまうという不思議なシステムだったのだという。

「アサルトライフル」というのは、ウィキペディア先生の定義によると「実用的な全自動射撃能力を持つ自動小銃のこと」だそうである。

要するに、森の中で鹿やうさぎを撃ったりする用ではなく、敵に向かって間髪をいれずに次々に弾を発射するための戦闘用の銃だ。
こういうものである↓(ウィキ画像)


戦場のための殺傷能力の高い武器を、ふつうの町に住む一般人が買ったり所持したりすることが合法であるという事実が、日本で育った一般人としてはまことに衝撃的なのだけど、それがアメリカの日常だ。
ウォルマートなどのスーパーやスポーツ用品店にふつうに銃のコーナーがあるのにも、いまだに毎回ショックを受けてしまう。

前述した、ワシントン・ポスト紙が「驚きの勝利」と呼んだフロリダ州の新しい規制はこういった銃を禁止するものではなくて、銃が買える年齢を2歳引き上げ、このような代物をさらに射撃しやすくするための部品の販売を禁じるものにすぎない(州によって規制の厳しさが実にバラバラなのもアメリカらしいところ)。

NRAに代表される銃規制反対派の人たちは、いかなる規制も重大な権利侵害への一歩だと感じているらしく、ものすごくセンシティブに反応する。

「銃を持つ権利を取り上げられるかもしれない」というのは、彼らにとっては手足をもがれるのと同じくらいに恐ろしいことのようだ。自分の家の周りに住んでいる人々がいつゾンビに変わるかわかったものではないと思っているのかもしれない。

銃の所持をめぐる議論は、アメリカでは人種問題、移民問題、妊娠中絶問題と同じく、常に常に紛糾し続けているセンシティブな問題だ。

アメリカで最初に銃が規制されたのは1968年。
1963年にケネディ大統領が暗殺されたあと、ジョンソン大統領が署名したこの規制法は、通販での銃の売買と、犯罪者や精神病歴のある人に銃を販売することを禁じた。

ケネディ暗殺の犯人は通販で手に入れた銃を使っていた。大統領暗殺のショックで国全体が動揺していた時だからこそ通った銃規制だったが、それでも法になるまでに5年かかっている。

でも、アメリカが保守に振れたレーガン大統領の時代、1986年には、銃所持者の権利を守る法案が通った。この法は、連邦政府が登録制度などを作ることを禁じた。

クリントン大統領の時代、1994年には、軍用以外の目的でセミオートマチックの銃を製造したり売ったりすることを禁じる「Federal Assault Weapons Ban」、つまり連邦政府による攻撃用兵器禁止法が実施された。

この法案は、フロリダの高校の銃撃事件で使われたアサルトライフルを含む戦争用の武器を一般人に売ることを禁じるものだった。すでに持っている人からそういった武器を取り上げるものではないが、一般人同士の売買も規制の対象となった。

そして、「この法律では銃による暴力や死傷数を減らす役には立たなかった」という研究結果に後押しされて、10年後の2004年(ブッシュの時代)に、この法は更新されることなく静かに失効した。


フロリダの事件の犯人がインスタグラムに上げていたという写真。

精神の不安定な19歳の男の子の部屋のベッドにこれだけの実弾がある。
これだけで気分が悪くなるような写真だけど、これは決して珍しい光景じゃない。

それでもNRAの人たちは、「正当防衛のための権利を奪う」銃規制は間違っていると信じている。





これだけ銃で人が死んでいる国なのに、銃暴力についての研究は意外なほど少ないうえに、紛糾する問題のすべてがそうであるように、解釈もいろいろだ。

銃規制反対派は、銃と暴力についての研究を行うことや、銃の所持者を登録することに対してさえ強硬に反対している。NRA派の人はとにかく自分たちの銃所持の権利に対していかなる形ででも政府がかかわることに激しく反応するのだ。

合衆国憲法修正第2条で保障されている、一般人が武器を持つ権利というのは、米国の根幹だと考える人が多い。

大英帝国を相手に独立戦争を戦ったのは自主的に組織された武装した人々だったし、インディアンとの戦争でも民間人の存在は大きかった。

「我々の自由は銃があるからこそ保証されている」という信条は根強い。

アメリカは、ネイティブ・アメリカンを制圧し、西へ西へと国土を広げてきた国だ。
開拓民は、いってみればインディアンたちとの戦争の尖兵でもあった。誰も守ってくれない大草原や森林で、狼やクマや当然ながら敵意のある「蛮人」たちに囲まれていた開拓民たちにとって、銃は自分と家族の生命を守るために必要不可欠だった。

そしてアメリカは、自由と平等をうたいながらも暴力でマイノリティを制圧してきた。インディアンと黒人奴隷はそのマイノリティの代表的存在だ。

暴力による迫害の歴史は、現代にいたるまで、この国の深い部分に大きな矛盾と障害を残している。

銃所持ぜったい擁護派、規制ぜったい反対派のメンタリティの底には、そういった暴力の歴史に対する鈍感さ、感受性の低さ、理解への拒否が往々にしてかいま見える。

「私たちの生命のためのマーチ」参加者が求めているのは、アサルトライフルなどの戦闘用武器の販売禁止や、銃を買う際のバックグラウンドチェックの徹底といった「常識的な規制」だ。

でもそれを「常識」と考えるかどうかで意見が分かれるのが、現在のアメリカなのだ。

マーチ参加者たちの多くは、おそらく、「銃があれば問題を解決できる」という思想そのもの、暴力肯定の考え方そのものに反対しているのだと思う。

「暴力には暴力で立ち向かうしかない」という考え方は結局のところ暴力装置である武器を社会にあふれさせ、社会を不幸にしている、というのが、マーチ参加者たちの共通した理解だと思う。

銃の擁護派と反対派の間の理解をはばんでいる壁は、まず、長い歴史を通してマイノリティが暴力で抑圧されていたという事実への認識のズレから始まっているのではないかと思う。

暴力装置である銃がこれまでの歴史で「自由を守ってきた」だけなのか、「立場の弱い人を抑圧してきた」のかという認識のズレ。

その歴史認識と立場の違いが、銃暴力は生活を守るのか、社会をより不安定にするのか、という大きな認識の違いにつながっているのではないかと思う。

暴力を制御するのは暴力以外にあるとしたらそれは何か。

銃擁護派は、おそらくマーチ参加者たちを「現実をよく知らないお花畑の人」と考えているだろうし、マーチ参加者たちの多くは銃擁護派を「閉じた恐怖の世界から出られない誇大妄想的に怖がりな人」と考えていると思う。

銃規制の問題は、哲学的な対立なのだ。


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2018/03/01

スター・ウォーズと21世紀のフェミニズム



雨の一日でした。よく降る。

デジタルクリエイターズに書いた記事です。柴田編集長70歳には原稿は「面白かったです。掲載できてよかった」といっていただけたものの「これらの映画をすべて見ましたが、ぜんぜん面白くなかったのはソレですね」という…うーんうーんうーん。



1970年代のフェミニストアーティストって、超過激でめっちゃ面白いんだよ…という話をしようとしたら、知人の白人男性(40代)が急に話をさえぎって「フェミニストなんかがいるから世の中が悪くなるんだ」みたいなことをいきなりの剣幕で言い始めたので驚いた。この人は大学も出てるし普通にそこそこの大企業で働いてる中間管理職なのだけど。リベラルな「青い町」シアトルにも、内輪になると急にこういうことを言い出す人が一定数いる。

どうやら彼は、「フェミニスト」がやたらに自分たちの権利だけを主張して無理スジばかりを通し、世の中のほかの部分はまったくかえりみないモンスタークレーマーかカルト信者のような人々なのだと思っているらしかった。

でも日本でも、ネットで流れてくるコメントを時々覗くと、「いわゆるフェミニスト」「いわゆるフェミニズム」についてはそういう解釈の人がけっこう多いのだと思い知らされる。
というか、日本の「フェミニズム」っていう言葉の解釈がなんだか大変に奇妙なことになってるっぽくて、検索するとやたら田嶋陽子さんの名前が出て来るんだけど、ここ15年ばかりは日本のテレビをほとんど見ていないのでその辺の事情はよくわからない。勝手な推測では、なんだか田嶋さんが一人で果敢にたたかいを繰り広げている間に、フェミニズム=田嶋陽子という図式が多くの人の頭に貼られてしまったのではないかと思われる。

良かれと思ってすることが180度裏目に出ることはよくあることだ。
「フェミニスト」もしくは田嶋陽子さんに対するネットの悪口を読んでいると、遠藤周作先生の『沈黙』に出てくるフェレイラ神父の「日本という国は泥のようなものである」という(いま手元に本が見つからないので超うろ覚え)言葉が、なぜかふと思い出される。
日本のテレビこそ、まさになんでものみ込んでしまう泥沼のようなものなんじゃないかな。しかもなんであれ思想をバラエティ番組で布教しようとするのは、砂漠でスキーを売ろうとするようなものではないかと思う。

しかも日本では「フェミニスト」が単に「女にやたらに優しい男」という意味で使われていた時期もあったのでよけいにややこしい。
今でもその意味で使う人がいるのか?と思ったけど、今年1月に改訂された『広辞苑』にもまだ、「女に甘い男。女性尊重を説く男性」という定義が残っているそうだ。うーん。その説明文に続いて「坂口安吾、市井閑談『このおやぢの美点は世に稀な(フェミニスト)であることである。先天的に女をいたはる精神をもち』」という例文が引かれているそうである。
(参照:ハフポス

あらまあ。まあこれで、この用法は坂口安吾の時代に使われてたものなんですよってことは示されているわけですね。しかし「先天的に女をいたわる精神」て何なんだよw。

この用法は、「女性は社会的にも実際の能力も弱くて守ってやらねばならないかわいそうな立場の存在である」という前提があってはじめて意味をなすのであって、次回の改訂のときには(「…と昭和時代には使われていた」)とつけ加えられてるかもしれませんね。

ちなみに広辞苑の新版では「フェミニズム」も、以前の
「女性の社会的・政治的・法律的・性的な自己決定権を主張し、男性支配的な文明と社会を批判し組み替えようとする思想・運動」
から
「女性の社会的・政治的・法律的・性的な自己決定権を主張し、性差別からの解放と両性の平等とを目指す思想・運動」
という定義に変わったのだという。

「男性支配的な文明と社会を批判し組み替えようとする」に代わる「性差別からの解放と両性の平等を目指す」という一文は、20代前半の若いフェミニストの子たちからの呼びかけに応えて検討されたものだそうで、フェミニズムの焦点が変わっていることを受け、時代の流れをきちんと汲み取ったものだと思う。

(ちなみにこの子たちは、自分たちを「第4世代フェミニスト」と呼んでいる。こういう子たちがいることにおばちゃんは安心したよ。)


もともと、フェミニズムの元祖は19世紀末から20世紀末の婦人参政権運動だったんでした。これが「ファーストウェーブ」のフェミニズム。

貧しい中に子どもがどんどん生まれてしまい貧乏スパイラルに陥って困っている女性たちに避妊教育をする運動をして逮捕されたマーガレット・サンガーさんという人もいました。
20世紀のはじめには女性には参政権もなかったし、避妊(中絶じゃなくて避妊ですよ!)教育も違法だったんでしたね。避妊の方法を宣伝するなど猥褻であり、もってのほかである!と、多くの人が思っていた時代もあったのです。

それから二つの大戦を経て、戦後のアメリカはぐっと保守に振れ、白人中流社会では核家族が郊外の住宅に住む図式ができて、ビバ専業主婦の時代がしばらく続いたあとで、公民権運動の時代がやってきたのでした。

南北戦争のあと奴隷は解放されたものの100年たってもあまり暮らし向きは変わらず、南部では「ジム・クロウ」法とよばれる悪名高い一連の法律で黒人の人権がむちゃくちゃに踏みにじられていたところ、1950年代になってようやく活動家たちの地道な努力がみのり、少しずつ裁判所が黒人の権利を認めた判例が増えてきて、有名なローザ・パークスさんのバスボイコット事件あたりから一気に公民権運動が広まり、1964年にやっと連邦政府によって、たちの悪いローカルルールで人権を侵害することが禁止されたのでした。

1960年代は世界中でワカモノが爆発した時代であったけれど、アメリカ人の意識を決定的に変えたのは、なんといっても公民権運動だった。

1970年代にピークを迎えた「セカンドウェーブ」のフェミニズム運動も、公民権運動なくしてはあり得なかったのです。

この時代に書かれたものを読むと、怒涛の勢いで刻々と変わっていく社会と価値観を目の当たりにしている人たちのすさまじい高揚感と混乱が感じられてクラクラする。

アメリカは、その建国当初から「自由、民主、機会の平等」をうたっていたわりに奴隷制というとんでもない矛盾をかかえていた国で、だから国民同士のたたかいで百万人以上が死んだ内戦を経ねばならなかったし、その後も、制度としての人身売買はなくなっても、所有者と所有される側の経済格差と価値観その他ほとんどの枠組みは20世紀の冷戦時代にまで温存されたのでした。そしてもちろん、今にいたるまで完全には解消されずに、あちこちでいろんな問題になっている。

ある意味、アメリカは奴隷制とその結果としての人種問題という矛盾をかかえていたからこそ、人間社会の理性や理想の矛盾を率先して体験する壮大な実験の国となって、そこからいろんなものが飛び出してきたといえる。

「これはこういうふうに決まってるものだから」「これが社会の当たり前だから」
という議論に対し、
「だってこれは自由、民主、機会の平等に反してるじゃん」
という議論が、法廷で、街角で、学校で、職場で、200年以上かかって行われてきた。

1960年代の公民権運動は、自由と機会の平等という、それまで有色人種にとっては絵に描いたモチだったアメリカの建国理念の約束を、ひとまずきちんと約束しなおさせるという勝利を得た。もちろん、それですべてが解決したわけじゃなく、それが始まりだったおであって、その後半世紀のあいだにも押したり引いたりがずっと続いているわけだけど。

公民権運動の勝利は、1960年代まで社会のあらゆる面で従属的な役割を押しつけられていた女性にも、公の場に出てくることができなかったLGBTQの人たちにも、活躍の場がきわめて限られていた障がいを持つ人にも可能性をひらき、「社会ってほんとに変えられるんだ」という確信とエネルギーを与えた。

もちろん何度も挫折や揺り返しはあり、お前らが勝手なことを言うせいで世の中が悪くなったのだと言い出す人はどの時代にもいたし、今でもいる。

トランプ支持者の多くはアンチ多様性、アンチフェミニストで、誰もがきまりを守って秩序正しく暮らしていた昔はグレートだったと本気で信じている人もいるらしい。時代にとりのこされた不安と腹いせを、よくわからないけど自分とは違う「他のやつら」「外の人たち」に向けたい気持ちはある程度わかるような気がしないでもない。そういった人々の不満は20世紀はじめの政治家に利用されたし21世紀にも利用されている。

アメリカの中心には、今でもがっつり保守のメンタリティが残っているし、それは都市部のリベラルのものよりもたぶん足腰が強い。

アメリカやヨーロッパが、第二次大戦前のナチスを生んだ第三帝国みたいなことに絶対にならないとは言い切れないけれど、同時多発テロのあとのブッシュの時代、オバマの時代、そしてこのトランプの時代の始まりを見てきて、マイノリティ、女性、LGBTQの権利を守るビバ多様性&インクルーシブな方向への流れは、よほどのことがない限り逆戻りはしないに違いないし、なんだか知らないうちに分水領を超えていたのではないかと思えてきた。

特に、映画やテレビのメディアではフェミニズムと多様性が気づかない間にほんっとにデフォルトになったなあ、とつくづく思う。特にここ数年間の変化は目をみはるべきものがある。数年前までは男性優位なCMが多かったスーパーボウルのCMでも急激にフェミニズムとインクルーシブを踏まえることがもう絶対的基準みたいになってきたし、今回のオリンピック中継の間に流れていたCMも、ビバ多様性なものが目についた。

最近の映画でフェミニストぶりにびっくりしたのは、『マッドマックス』『ゴーストバスターズ』、そして『スターウォーズ』の3本だった。



『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(2015)は、性的道具と子作り要員として監禁されていたガールズが片腕の女性戦士と砂漠のおばちゃんライダーたちとともに気持ちの悪い独裁おやじたちをたおすという、単刀直入なフェミニスト映画だった。



『ゴーストバスターズ』(2016)はビル・マーレイ&ダン・エイクロイドの1984年版オリジナルのキャストを3人の女性科学者を主人公に入れ替えた男女逆転映画で、頭は悪いがむちゃくちゃ可愛くてセックスアピールがあるという、昔のマリリンモンロー的なステレオタイプを男の子にあてはめた受付のハンサム君がおかしかった。

そして2017年公開の『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』。これは正直、ここまで変わったのか!と驚いた。
前年度のスピンオフの『ローグ・ワン』がわたしは凄く好きで、これを観て、そうかー、スター・ウォーズってもともと多様性VS画一性のプロパガンダ映画だったんだなあ、と思っていたのだけど、『最後のジェダイ』はさらに単刀直入だった。

1977年の第1作では、レイア姫は救出されるのを待っているプリンセスだった。確かに活動的な姫ではあったけれど、おもな活躍をするのは白人男性であるルークであり、ハン・ソロであり、オビワンだった。

40年後の新作『最後のジェダイ』では、主人公のヒーローが女の子(しかも、最下層階級の出で、とくに王家とかそういう特別な血筋でもないことが映画のなかで明らかにされる)というだけではなくて、メインキャラクターの中で白人男性といえば老境にさしかかったルークを除けばハン・ソロの息子のカイロ・レンだけ。そして彼は苦悩しながらもダークサイドに行っちゃっているところがきわめて象徴的。



お姫様だったレイアは反乱軍の将軍になってるし、レイアが戦闘不能になったあと代理を務める提督は紫の髪の毛でフェミニンなロングドレスを着こなしたおば様。その司令官に逆らって単独行動を取ろうとする血気盛んなパイロットはレイアと紫ヘアのおばちゃん提督に制圧され、「困った子ね。こういう子好きだけどw」「私もよ♪」なんて言われてしまう。


『スタートレック』のカーク船長的な、ひとむかし前のステレオタイプだった、やんちゃで跳ねっ返りのヒーローキャラクターがおばちゃん二人に簡単に制圧されてしまうというこの場面に、わたしはかなりの衝撃を受けた。しかもこの俳優さんはラティーノだし。戦闘機パイロットにも女の子が目立ったし、アジア人も登用されていた。



トランプ支持者の中にはこの映画を嫌うあまり、評価サイトの「Rotten Tomatoes」に悪い評価をつけるボット攻撃を仕掛けて、平均以下の評価にすることに成功した(と吹聴していた)人もいるとか。『ニューズウィーク』の記事では、その当人が自分のFacebookのアカウントでそれを自慢したと報告されている。

この記事によると、この人はハフポスの取材にこたえて
「『ゴーストバスターズ』観ただろ?男がバカみたいに描かれるのを見るのはもうウンザリなんだよ。おれたちが社会のてっぺんにいた時代もあっただろ。それをもう一回見たいんだよ」
といったそうです。正直だな。

『マッドマックス』は第1作が1979年封切りで、シリーズが80年代に大ヒットしたマッチョなアクション映画だったし、『ゴーストバスターズ』は1984年のコメディ映画。80年代のコメディにはミソジニスト的な、強い女をバカにするものが多かった。

いずれも70年代から80年代のアイコン的な大ヒット映画だったこの3本が、こうまで見事にフェミニスト映画に変身して登場するとは、そして別にフェミ映画であることがさほど大騒ぎもされずにさらっと受け入れられるとは、10年前にはちょっと考えられなかったと思う。そしてこの3本はいずれも興行的に成功している。

どれだけトランプとその支持者が気炎を上げても、トランプが支持基盤に向かって煽っているアンチ多様性、アンチ・フェミニズム、アンチ移民的なメッセージはメインストリームの大企業のCMには一切採用されていないし、その逆のビバ多様性的な精神を押し出しているものが突出している。いまのところは。

映画制作会社も、CMを作る大企業も、アメリカではフェミニズムやマイノリティの権利に理解を示すことが得策であり、お金を持っていてこれからの消費動向を左右する消費者層に支持される方向であると認識してる、ということだ。いまのところは。

社会はちょっとしたことでびっくりするくらい変わるし、この傾向に対してもまた数年先に反動が来るのかもしれない。政情不安や戦争や経済危機がたくさん人の価値観を変えるかもしれない。でも過去200年の歴史を振り返ると、アメリカが約束してしまったものが、あっちにぶつかりこっちにぶつかりしながら、何世代もの人を動かしてきた事実に圧倒される。フェミニズムもその中の大きな軸のひとつだった。あと10年後の常識は、いったいどうなっていることやら。

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