2017/06/06

愚妻とファンタスティック社員のあいだ



近所はあちこちバラが満開。そのへん一周してくるだけで植物園のよう。近所の園芸家さんたち、ありがとうございます。家が立て込んでくるとだんだん緑も少なくなっちゃうんだろうなー。

忘れてました。先月末にデジタルクリエイターズに掲載していただいたぶん。

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日本語でよくある言い方をそのまま英語にすると、時にとんでもないことになる(逆もまた真なり)。デビッド・セインさん&岡悦子さん著『その英語、ネイティブはハラハラします』(青春新書インテリジェンス刊)という本には、日本人がうっかりニュアンスを知らずに使ってしまう可能性がありそうな残念な英語表現と、その代わりに使うと良いアメリカ英語のよくある表現がたくさん紹介されていて、とても面白い。

その中で、
「会社のパーティーに夫婦で出席して、同僚に妻を紹介」というシチュエーションで、

「これ、うちの愚妻でして、もう、なんにもできないんですよ」

と、日本の人がいかにも言いそうな言葉をそのまま英語に直訳して言ってしまうと……というのがあって、爆笑してしまった。

「This is my foolish wife. She can’t do anything」

うわははは。たしかにアメリカでこんなことを言ったら、普通に頭がおかしいと思われるだろうし、最悪、奥さんが虐待を受けているのではないかと心配されて通報されちゃうかもしれない。まさか本当にこんなこと言う人はいないと思うけどね。

しかし、60代くらいの昭和サラリーマン世代ならともかく、今でも「愚妻」なんて言う人がいるんだろうか。と思ってググってみたら、「発言小町」の2016年6月の「夫が私を愚妻って呼ぶのがむかつく!」というトピを発見。トピ主を「日本の謙譲語を知らないのか」と叩く人あり、「そんなのいまどき聞いたことないよ」という人もいて、興味深い。
http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2016/0605/764852.htm

ちなみに「愚妻」とか「愚息」という言葉は、「私の」という意味を謙遜した言葉であって、単に「自分の妻」という意味であり「愚かな妻」という意味ではない、と主張している人がいるけど、要するに「バカな自分の身内です」ということで、どっちにしても褒めてはいない。むしろ「バカな自分」の属性としてしか身内の個人を認識していない、または「バカな自分」に取り込んでしまっていて、自立した人格とはみなしていないという意味で、欧米的な視点からみるとさらにヤバヤバである。

身内を自分の延長とみなして、その属性とか実績はけっしてソトに対して褒めたり自慢しない、という常識が21世紀になってもまだまだ日本の「美徳」とされているのは面白いなあと思う。

何が美徳であるのかについての社会的な合意は、「発言小町」の反応が真っ二つに分かれてるように、どんどん変わっている。とはいえ、やはりざっと見た感じでは、「それが日本の常識でしょ、何いってんの」という意見のほうが多かった。日本の美徳はしぶとい。または、美徳にまだ何のヒビが入っていなかった時代の社会への郷愁が、しぶといのかもしれない。

社会の構造が今よりもカッチリしていた頃、「愚妻が…」という言葉を使う人はたぶんある一定の身分を持った男であり、おそらくその一家の唯一の稼ぎ主であったはずだ。教養もあり卑しからぬその人が「愚妻が」というその妻は家を守るだけの賢さはきちんと持ち合わせた育ちの良い妻でありそのことを夫も誇りに思っているがそんなことは教養ある者が人に言うべきことではないので謙遜しているのだよ、と、聞く側も説明がなくてもひと息にちゃんと了解できていた。こういうのがつまり文化的なコンテクストというものであるのは間違いない。

日本人が身内や自分を褒めないのはその文化的なコンテクストゆえだが、そのコンテクストがやっぱり少しずつ、コンクリで固めても固めても岸辺が波に侵食されるように崩壊しつつあるのだと思う。

社会の構造は大きく変わっているのに、文化的な了解事項はたぶんいつも少し遅れてついていく。そこに葛藤が生まれないわけがない。

日本の文化はペリーの黒船来航以来、160年以上にわたって、ゆっくりと崩壊していく、または変わっていくコンテクストへの対応に苦しんできたんじゃないかと思う。節目節目で社会は大きく変わりながら、その苦しみはまだまだ続いている。これは特に日本だけの現象じゃなくて、どこの国でもそういう新旧の軋轢は当然あるはずだ。(アメリカでも、たとえば世間一般の了解事項が大きく変わるのにつれて、マイノリティやジェンダーや宗教にまつわる言葉には大きな変化があったし、今でもそのへんには大きな軋轢がある。)

ところで、アメリカ人はとにかく身内を褒める。

息子が小学生の頃、サッカーのチームの親たちが、自分の息子もよその息子もわけへだてなく、褒めて褒めて褒めまくっているのがなんとも眩しかった。
こういう文化なんだと頭ではわかっていても、やっぱり日本で生まれ育った私は「Sくんは足が速いね」「…が上手だね」などと他の親に褒められると、「いやいやいやいや、でも小回りが利かないんですよ」「でも……はできなくて」など、何か別の案件を持ち出して速攻否定したくなる衝動を抑えられないのだった。

夫婦でも、自分の旦那様や奥様のことを「彼は料理が素晴らしく上手なのよ」とか「彼女はいろんな分野に精通してて、すごくクリエイティブなんだ」とか、何の留保もなく、率直に、100パーセント、よく褒める。

親子でも兄弟姉妹でも、とにかくソトに対してもお互いの間でもよく褒める。しかも、本心からそう思って言ってるのだ。少なくとも本人は本心だと思っているに違いない。

「健全な精神を持つ大人は、自分や身内を肯定的に捉え、それを世間に躊躇なく宣伝するべきである」というのが米国の社会常識、文化コンテクストだといっていいと思う。実際に行って見てきたわけではないけど、読んだり聞いたりした話ではほかの西欧諸国でもそうなのらしい。

会社文化にも、この違いははっきり表れている。

この間、携帯電話のキャリアを替える手続きにウェブのチャットを使った。こういうチャットや電話でのカスタマーサービスは、途中で別の部署の担当者が出てきてプロセスを引き継ぐことがある。この時も最初にでてきたチャットの担当者は、私が他社から乗り換えで新規にアカウントをあけたいと希望しているのを確認すると、新規顧客の担当に引き継いだ。

そして次に出てきた担当者のセリフ。
「It looks like you were last engaging with our fantastic chat advisor Joe and you were interested in the XXX plan …..」
(うちのファンタスティックなチャットアドバイサー、ジョー君とチャットしてたようですが、その話によるとあなたはXXXプランに興味があるようですね…)

ファンタスティックかよ!と思わず静かに心の内で突っ込みを入れずにいられなかった。

日本のカスタマーサービスで、
「弊社の素晴らしいアドバイザーがこのように言っておりましたが…」
なんて言ったら、若干頭のヘンな人と思われてしまうのではなかろうか。

わたしが東京にいた20世紀後半から比べると少し変わったのかもしれないけど、日本の会社文化からこの「ウチ・ソト」意識が消えることも、まだ当分はないのに違いない。その反対に、アメリカで内外に向かって社員を褒めたたえる文化はますます加速しているようにみえる。

「愚妻」と同じで、日本の美意識では、家族なり会社なり、属するグループの身内をひとまとめにして捉えて、ソトの人たちをそれより高いところにあるものと(仮に)想定してへりくだるのが折り目正しい社会人の態度とされる。

アメリカの企業は、内外に向かって、「ウチの会社では社内の個人もこんなに尊重してるんですよ!」ということを宣伝する。

アメリカ人が書いた英語の会社情報などを日本語に訳していると、こういった、ウチ・ソト意識の日本の常識との間のギャップに悩むこともある。

日本の会社ならば社内の人間に敬称をつけず、身内のこととして謙譲語を使うのは常識だけど、アメリカにはその分け隔てはない。たとえば社員を褒めたたえている広報資料があったとして、それにどこまで日本式の「へりくだり」ニュアンスを入れて訳すべきなのか?

すべてを日本式にして謙譲語を使うのも正しいとはいえない。会社の持つ文化や主張がアメリカ式のスタンダードなら、それはそのまま伝えるべきだ。でも読者に傲慢な印象を与えては広報の意味がない。

そのへんはもちろん最終的にクライアントさんの判断になるものの、翻訳者としてどのような提案をすべきなのかは悩みどころである。

特にクライアントさんに日本語ネイティブスピーカーがいない場合などは「こういう場合、これが日本の標準ですよ」といちおう胸をはって提案してみるものの、媒体により、読者により、場合により、正解は一つではないので、常に悩ましいのだ。



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