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2018/02/08

さまよう猫のタマシイ



やっと、長いトンネルを抜けて放心状態。

先週までの2週間は翻訳稼業をやってきた中でも一番ハードだった。もちろんスーパーボウルも見れず。

そんななか半分寝ながら書いたデジタルクリエイターズの回です。

自分ではけっこう気に入ってたんだけど、70歳の柴田編集長には完全スルーされ、しかも知らないうちにタイトルが「さまよう猫のタマシイ」から「猫シッターで考えたワンダーラスト」とかに変わってた。あら。

よほどつまらなかったのか、やばい系だと思われたのか。まあいいや。

でもそのかわり、「猫を2ダース飼っている」という方からメールをいただきました。

では以下、「さまよう猫タマシイまたはワンダーラストについての考察」です。




年に何度か、猫シッターに行く。

知人のご夫婦が日本にセカンドハウスをもっていて、年に1度か2度長期間日本に滞在する。そしてシアトル近郊のひろびろした邸宅に4匹の猫たちが残されるので、その皆さんのお世話をするのがわたしの任務である。



2匹はメンズ。

繊細で好き嫌いが激しいお公家さん的な性格のリンタロウ君と、耳が聞こえないためかまったく空気が読めないシンノスケ君である。

この子たちはもう10年以上この邸宅でのびのび暮らしている。



そこに去年加わったのが、2匹のガールズ。ふたごの(ほんとは多分五つ子か六つ子だったのだろうけど)ハナちゃんとノラちゃんで、まだ1歳未満のぴちぴちギャルズだ。

この4名の間に繰り広げられる猫ドラマは、かなりのエンターテイメントだった。

特にふたごギャルのハナちゃんとノラちゃんのキャラクターの違いには瞠目すべきものがあった。



今回は、その猫ドラマの一端をご紹介したいとおもう。

まずハナちゃん。この子は、満腹中枢がどうかしてるのかねと思うくらい、よく食べる。

ほかの子たちは、缶のフードをめいめいのお皿に少しずつあげても、ほんのちょっと食べるとどこかに行ってしまう。彼らが集中して食べている時間はほんの1分足らず。そしてしばらくするとまた戻ってきて思い思いの時間にちびちびと食べる。

リンちゃんなんかは、ほんのちょっと上澄みをなめただけでぷいっと中庭のドアのほうへ向かい、「まろは散歩に行くでおじゃる」と外遊を要求する。そして、しばらくして戻ってきてからまたフレッシュな気持ちで残りを食べるのがルーティンである。

でもハナちゃんだけは、完璧な集中力を発揮して目の前のごはんに取り組み、ほぼ完食するまで食べ続けるのだ。ハナちゃんの注意がごはんからそれるのは、自分が食べ始めた後で他の猫がごはんをもらっている時だけだ。

みんなが自分とまったく同じものを食べているのにもかかわらず、この娘は人の皿めがけて突進し、頭をにょっと横から割り込ませて食べ始めようとする。

この攻撃を受けると他の3名はすごすごと退散してしまう。特に王子様のように繊細なリンちゃんは、ハナちゃんが近くに寄って来ただけで食べる気を喪失するらしく、即退場する。

そのまま放っておくとハナちゃんは他人の皿に盛られたごはんを余すところなく順番に食べ尽し、最後に自分のお皿に戻って、これもまたきれいに食べる。まるで『千と千尋の神隠し』に出てくる「カオナシ」を見ているかのような、圧倒されるような食べっぷりである。



もちろんそれには結果が伴い、持ち上げてみるとまだ8カ月という小さい身体に見合わないずっしりとした重量感がある。そのままでは異常に巨大化してしまうのが目にみえているため、食事時間にはハナちゃんが他人のごはんの近くをうろつかないよう隔離しておく方策を取らねばならない。

ごはんのみならず、ハナちゃんは何に対しても躊躇がない。猫たちはみんなヒモの先に羽根のついたおもちゃが大好きで、これをリビングの真ん中でブンブン振っていると皆がたちまちそわそわしはじめるのだが、真っ先に飛び出してくるのはやっぱりハナちゃんである。

ギャルズがあまりにパワフルにリビング中で破壊活動を繰り広げるためヒトが眠れないこともあるので、夜の間二人だけを別の部屋に隔離しておくこともある。朝迎えに行くとドアのところで待っていて飛び出してくるのはハナちゃんで、姉のノラちゃんは必ず数メートル遅れて、妹の後を追う。


リビングにはプラスチック製のおやつディスペンサーがある。40センチくらいの高さで、3階建ての丸い立体駐車場みたいな形になっていて、ヒトがてっぺんの穴からカリカリおやつを入れると、まわりにいくつも開いた穴から猫が手をつっこんでそれぞれのレベルの床の穴に次々におやつを落としていき、最後に一番下からおやつが外に出てきて食べられるという仕掛けになっている。

このディスペンサーに入ったおやつが食べられるのはハナちゃんだけである。

というか、敢えて挑戦するのがハナちゃんだけなのだ。
おやつを取り出すと皆わらわらと寄ってくるのだけど、ディスペンサーに入れたものにはハナちゃん以外見向きもしない。ハナちゃんも、まず床にあるおやつをしっかり食べてから、ディスペンサーに向かう。

で、このディスペンサーは一見パズル的な、ちょっとした知力を要求するもののように見えるのだが、そうではない。必要なのは、食えるまで絶対にあきらめないという強い意思だけなのだ。ハナちゃんはとにかく怒涛の勢いであらゆる場所から手を突っ込み、やみくもにかき回している。すると、そのうちおやつが下から出てくる。彼女にとってこれは、上段>中段>最下段という段階のあるパズルではなくて、「ひとかたまりの障害物」にすぎないようだ。

常に忖度も斟酌も躊躇もなく目の前のものを全力で追い求めるハナちゃんは、まるでシリコンバレーのスタートアップ企業の人か、投資ファンドのマネージャーのようである。

資本主義社会で勝ち残っていくにはこういう何をも顧みないドライブが必要なのかもしれないなあ、と思わされる。

ハナちゃんが人間だったら、きっと中学生の時からビットコインで5億円くらい儲けてると思う。



ノラちゃんにはドライブがないかというと、決してそんなことはない。

でも、そのドライブは明らかにハナちゃんとはタイプが違う。

何が違うかというと、ノラちゃんには、いってみれば想像力みたいなものがあるのだ。

そしてこの娘には「ワンダーラスト」がある。



猫は好奇心が強いといわれるけど、ノラちゃんの好奇心は筋金入りだ。

キッチンで料理をしていて、キャビネットの扉をほんのちょっとでもあけっぱなしにしておくと、閉めるときにはたいてい猫がはさまっている。

これは必ずノラちゃんである。

彼女は、普段は閉まっている扉がたまに開く瞬間を決して見逃さない。



キッチンのごみ箱は引き出し式になっている。そのごみ箱の入っている引き出しの下に手をつっこんで空ける方法を知っているのはノラちゃんだけ。

そもそもごみ箱の後ろに入り込んで探検しようとするのもノラちゃんだけだ。



大きなシダの鉢植えの中に飛び込んでいってしまうのもノラちゃんだし、スパイス棚の下にいつのまにか挟まっているのもノラちゃん。

ディスペンサーのおやつには興味を示さないのに、カウンターの上に置いてあるおやつの入った箱をかじったり床に落とたりして、なんとかフタをあけて食べようとするのも、ノラちゃんだけ。

あれだけ食べることに貪欲なハナちゃんは、そういう斬新な試みを思いつくことはない。しかしノラちゃんがカウンターから落下させてフタを開けることに成功したあかつきには真っ先に走ってきて中身を一緒に食べている。

そしてノラちゃんは、外の世界に激しいあこがれをもっている。


この家の周りは自然環境が豊かでコヨーテやアライグマもいっぱいいるし、何にでも無鉄砲に突撃していくノラちゃんは気の毒ではあるけど、とてもじゃないが心配で外には出せない。




わたしがリビングに座って仕事をしていると、時々世にも哀しげな声でノラちゃんが啼いているのが聞こえる。世界のすべてが自分を置き去りにして別の次元に旅立ってしまうのを目の当たりにしているかのような、悲痛な声である。自分はガラス窓のむこうの世界にどうしても行かなくてはいけないのだと切実に感じているのがわかる。

この悲しいほどのあこがれは、きっと人間の中に呼び起こされるものと基本的には同じ作用なんだろうなと思う。ただ言語化されていないだけで。

ハナちゃんとノラちゃんには明らかな指向性の違いがある。
すごくよく似た遺伝子を持って、ほとんど同じ条件で育っているはずの姉妹なのに。

見たことのないものに死ぬほどあこがれて全力で追い求める人と、目の前に置かれたものにすべてのエネルギーを注ぐ人。


人類には旅に出たがる個体と安定を求める個体があって、全体として種の存続に役立ってるという話を聞いたことがある。その状態にい続けるのが好きな保守的なグループと見知らぬ土地に旅立っちゃうグループがいるから、新天地に突撃していって全滅する人びとも多いなかで何割かは生き残り、種は全体としてより広い土地に広まっていったのだ、という説だったと思う。

遠くのものをあこがれてやまない気持ちを「ワンダーラスト」という。ドイツ語が語源だそうで、「WANDER」(漂泊する、ふらふらする)ことへの「LUST」(渇望)。病的なまでに強く、遠くに行きたくなっちゃう気持ちである。

こういう傾向を持っている人は、つまりホモサピエンス中の「突撃隊」的存在だってことなんだろう。

わりに最近の研究で、ある遺伝子がこのワンダーラストに関連しているのがほぼ確実だというのが実証できたという話を聞いた。人類の20%は特定の遺伝子「DRD4-7r」を持っていて、どうやらその人たちはワンダーラストが強いという説だ。


これはドーパミン受容体の感度を決定する遺伝子で、これを持っている人はほかのグループに比べてリスクを取るのが好きで新しい刺激を求める傾向があるので、旅好きなだけでなくアル中やヤク中にもなりやすく、精神疾患にかかる傾向も強いらしいという。
(『Telegraph』紙の記事はこちら)





この遺伝子「だけ」がそういった特性を決めると結論するのはちょっと単純すぎるんじゃないですかと思うけど、わたしたちの志向や嗜好はその多くが生まれつき埋め込まれたものだっていうのは、まあそうなんだろうなと思う。

人間の生活にはほんとうに沢山チョイスがあるから、成長していく間にミュートになるものや活発になるものもあるんだろう。殺人鬼になりやすい遺伝子構造、お坊さんになりやすい遺伝子構造、会計士になりやすい遺伝子構造というのもあるのかもしれず、でもそれにたいする適切な環境のはたらきかけがなければ殺人鬼もお坊さんも会計士もできあがらないという、そういうことなんだと思う。

まだ誰にもわからないすごく複雑なしくみによって、わたしたちはいろんなものを、人や場所や香りや味や音や感触や、さらには思想や信条も、致命的に好きになるように運命づけられている。

個性というのは、究極的には「自分は何が好きか」っていうことだ。何ができるか、よりも、きっと何が好きかのほうが、要素として大きい。

その志向のほとんどが遺伝子で決定されているにしても、わたしたちは「好き」に引きずられて喜びを感じ、湧き上がる願いを切実に生きずにはいられない。

ノラちゃんの切ない啼き声は、紛れもなく「ワンダーラスト」の表明だとおもう。

はてしなく大きな空間、遠くで飛んだり動いたりする不思議なもの、見たことのない色や形や感触。窓の外に見えるものや、ごみ箱のウラにあるかもしれないなにものか(なにもないけど)に、ノラちゃんのタマシイが引き寄せられているのだ。

人間の2割にさまよい系の人がいるなら、猫にもさまよい系がいないほうが不思議だ。

もしかしたらもっと単純な生きもの、爬虫類とか昆虫の中にも、安定を志向する個体と遠くへ行きたがる個体が同じくらいの割合で存在してるのかもしれない。

「タマシイ」がアミノ酸の雲のどこかにしまわれているのなら、タマシイ構造が単純なものから複雑なものまで、生命体の間で共通しているのは当たり前な気がする、と最近よく思う。「何がしたいか」「何が好きか」だ。

これは仏教的な考え方につながっていくのだと思う。もっと言うなら、きっと植物にだってそういう指向のスイッチはあり、感受性のモトがあると思う。

ショウジョウバエもドーパミンを持っているということを忘れてはいけない。わたしたちの知っている嬉しさや恐怖のエッセンスのコアである原始的ななにかを、ハエたちも知っているのだ。ましてや猫たちは。

言葉の檻、主観の檻、ロジックの檻に閉じ込められていない猫や犬たちは、人間のタマシイの真ん中にあるものを、そのまんまのかたちでみせてくれる。だから犬や猫といるのがこんなに面白いのだ。

言語獲得以前のワンダーラストを、ノラちゃんがかいま見せてくれる。




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2017/12/22

フェイクなニュースのかわし方


お寒うございます。
クリスマスは雪になるかも、なんて予報もあるシアトルです。

デジタルクリエイターズに掲載していただいたのをこっちに貼っておきます。

今回は10月に行ったワシントン大学のレクチャーで聞いた内容をもとにしてるんだけど、実はこの内容は、歴史の授業のエクストラ・クレジットのために提出したレポートの焼き直しでしたw 

わたくし、えらそうに書いてるけど実は情報に左右されやすい人です。

このレクチャーはYOU TUBEでも公開されてます。
(Bloggerの埋め込みでYou Tube のクリップを選択できるのだけど、なぜか検索エンジンがふつうのと違うらしく、なかなか目指すのがヒットしない。なんでなんだろう。)


 (以下、デジタルクリエイターズからの転載です)





少し前、ワシントン大学のレクチャー「Finding "Fake News" in Times of Crisis: Online Rumors, Conspiracy Theories and Information(危機の時代のフェイクニュース:ネットの噂、陰謀論、情報)」を観に行った。


これはタイトルからすると社会学部やコミュニケーション学部のイベントのようだけど、そうでなくて工学部が主催するレクチャーシリーズのひとつで、この日の講師はケイト・スターバードさんという、人間中心設計&工学部の助教授。42歳だけど可愛らしい感じがする、すごく若々しくて元気でおもしろいハカセで、ガイジンの私にとっても、とても聞きやすい講義だった。

去年の大統領選挙のあたりから米国ではますますフェイクニュースが猛威をふるっていて、しかも現職大統領が大手メディアを「フェイクニュース」だと攻撃してはばからないので、ニュースそのものに対するこれまでの社会的信頼感がグラグラしてしまっている今日このごろ。

スターバード助教授はソーシャルメディアと群集行動の研究が専門で、その研究成果を発表するとともに、ここで一体フェイクニュースとは何かをもう一度おさらいして、対策を考えてみようというのがレクチャーの主旨だった。

まず、フェイクニュースが広まる背景には二つの条件がある、とスターバードさん。「エコーチェンバー」と「フィルターバブル」がそれだ。

「エコーチェンバー」は、自分の周りには同じ考えの人ばっかり集まりがちなので、たとえばSNSのフィードに自分が賛同できる意見だけが表示されるというような現象。さらにSNSは、「あなたはきっとこういう情報が好きでしょう」と類推して情報を集めてくれるので、輪をかけて自分の耳にやさしい情報ばかりが集まってくる。これが「フィルターバブル」。フィルターを通した情報だけが入ってくる、閉じた小さな世界(バブル=泡の中の世界)という意味ですね。

「バブル(泡)」という言い方には、包まれているのが透明な膜なので、自分がそのなかに閉じ込もっているのに気づかない、といった含みがある。

「何度も繰り返し観たり聞いたりすることで、その情報は見慣れたものとなり、真実であるかどうかにかかわらず、その人の世界の捉え方の一部になる」とスターバードさん。つまり、偏った情報によってその人にとっての現実世界が構築されてしまう。

そして、非常に残念なことに、反復によっていったんニセ情報が刷り込まれてしまうと、正しい情報でそれを外から「修正」しようとしても、なかなかうまくいかないのだという。

それが長い期間慣れ親しんだ考えであればあるほど、「あっそうなのか、自分が間違っていたんだ」と認めるのは、誰にとってもなかなか大変だってことはちょっと考えてみてもよくわかる。しかも周りにいる人が自分と同意見(のように見える)場合にはなおさら。

しかし、風評だのウワサだのというのはもちろん、インターネット登場以前からあるもの。人類はウワサと共に歩んできた。

噂というのは、災害などの事態に直面したときに説明を求める集団的な行いだと、スターバードさんは指摘する。

何かしらわかりやすく、自分にとって腑に落ちやすい物語を作り上げる行動、ということなんだろう。




たとえば、2013年に起きたボストン・マラソン爆弾テロ事件では、事件発生の直後から、「これはCIAの陰謀だ」とか、「海軍特殊部隊の人が怪しいバックパックを背負って現場近くにいたのがこの写真で確認できた」とかの陰謀説ツイートがじゃんじゃん発生したという。

こういう「オルタナティヴ・ナラティブ(もう一つのストーリー)」、つまり語っている人からすると「みんな知らないけど、自分だけは知っている本当の話!」は、悲劇的な事件が起きると必ず言い出す人がいて、またたく間に広がる。

同時多発テロ、サンディフック小学校の銃乱射事件、フロリダのナイトクラブでの銃乱射事件などの惨事のあとにも、すぐにこういう「みんなが知らない本当の話」=陰謀説が語られ始め、拡散していったという。

スターバードさんは「フロリダの事件も、サンディフックやボストンやサンバーナーディーノの事件とおなじく、みんなユダヤ資本の支配するメディアが捏造したウソだ」といったツイートを、その典型として例示していた。

スターバードさんのチームは2016年に9カ月にわたってTwitter上で「shooting, shooter, gunman, gunmen(銃撃、狙撃者)」というキーワードで、5800万件以上のツイートを調査したという。

そこでこういう陰謀説などの相関関係を追跡すると、ウソのニュースを作っては流すのが専門の一握りのウェブサイトがボットを使って投下しているウソ情報が、途方もない量拡散されていることが確認されたという。

興味深かったのは、イランやロシアなどの国家が出資するメディアが投下する嘘ニュースの量も突出しているということ。

大統領選挙へのロシアの関与が取りざたされているけど、インターネットを使った人心への攻撃作戦というのは、実際にかなりの規模で行われているのだという。

こういった、国家や組織による「戦略上や地政学上有利な結果を得るために国内または外国の政治的意見を歪める行為」は、Facebookの2017年4月27日の白書で「Information Operation(情報操作)」と定義されている。

スターバードさんのチームはマレーシア航空事件の後の情報を調査研究していたのだが、この事件では特に政府機関のものと思われる情報撹乱が激しく、調査チームのメンバーが神経衰弱になりそうなほどだったという。

そしてこのレクチャーでもう一つ面白かったのは、嘘ニュースの背景になっている政治的なプロパガンダは、リベラル(左)VS保守派(右)ではなくて、ナショナリストVSグローバリストという構図なのだ、という指摘だった。

陰謀説には極端な左の人が言うものから極端な右の人のものが言うものまで、ほんとうにたくさんの種類があるが、そのほとんどは「ナショナリズム」的な傾向があるというのだ。どちらもグローバルな存在、メディア、国家に大きな不信を持ち、それが「別の物語」を作り上げる動機になっている。

そうか、たとえばワクチン陰謀論とか、メディアや企業になんでもかんでも不信を抱く傾向も「ナショナリスト」なのか。

ナショナリストの気持ちというのは、つまり慣れ親しんだ範囲にものごとを置いておきたい、昔ながらの方法がいい、という方向の情熱なのだろう。トランプ支持者から欧州の極右から日本のネトウヨさんまで、共通しているのは「守りたい」「変わりたくない」「こっちに来るな」という感情。恐れにもとづく反発と怒りだ。

スターバードさんのレクチャーの締めくくりは、さて、それではそんな嘘ニュースであふれ返ったこの時代の対処法は?という課題だったが、情報管理のベストプラクティスに万能薬などない、というのが身もフタもない結論。

ただし個人レベルでできることとして、自分自身の認知バイアスを自覚すること、そして、自分が情報に対してどんなふうに感情的に反応するかに気をつけて観察すること、という二つを提案していた。

そして最後に、メディアリテラシーというのは必ずしも論理的な部分だけではないのですよ!と強調していたけど、これはすごく重要なポイントだと思う。

リテラシーというと「知識」の部分にどうしても目がいくけれど、本当に重要なのはそれを自分の認知・感情のシステムがどう処理しているかに目を向けることなのかもしれない。

自分がどんな物語を求めているのか、どんな物語に反応しやすいのかを、常によく観察すること。
それで「話がうますぎる」「自分が慣れ親しんだシナリオにうまく合い過ぎてる」と思ったら、まず疑ってみること。

「簡単に騙されないようにメディアリテラシーを向上させよう」というスローガンはよく見るけど、言うほど簡単ではない。知識ってそんなに簡単に身につくものじゃないし。

これだけ情報があふれ返っていて、リテラシーを身につけるにも何をどこから手をつけていいのやら、どう選択していいのやら、もう最初からさじを投げたくこともある。

私は時々、世の中にある情報の量を考えただけで気持ちが悪くなるし、布団から出たくなくなる。

自分はすべてを知ることができないという無力感は、きっと人の持つ恐怖の根源のひとつなのだろう。だからこそ皆、シンプルな説明(物語)を必要とするのだと思う。

だから、嘘ニュースに飛びつかないようにするには、自分の内面をよく観察して直感を磨いておくことが、知識を蓄えるのと同じくらい大切なのだと思う。

嘘か嘘でないかを見分ける力は、言葉よりも直感のほうが優れていると思う。
直感は言語化されていない漠然とした情報を受取る力で、そっちの情報のほうが言葉になっている情報よりも圧倒的に多いからだ。(圧倒的に大事だという意味じゃなく、ボリュームとして多いという意味)

もちろん知識を得ていくのは重要だけど、その前にまずとりあえず足元を固めておこうという意味で、認知バイアスと自分の感情の流れをよく観察する、というのはすごーく有効なアドバイスだと思う。

誰でも物語なしには生きていけない。この世界には実に無数の物語があって、それぞれが複雑にからみあい、利害にもとづいて情報を発信している。
わけのわからない国家や組織が悪意をもって流すニセ情報もたくさんある。世の中は恐いところである。

ナショナリズムのエネルギー源は、変化に対する恐怖だ。自分や、自分が所属する(と信じている)国やコミュニティが脅かされているという恐怖。

自分が恐がっていることを自覚していないと、恐怖はどんどん膨らんで、そのコミュニティに属していない人やものへの攻撃になる。

いったい自分が何に対して攻撃的になっているのか、何を怖がっているのかに気づくことで手放せるものは、とても大きい。

誰だってある程度の認知バイアスがないと正常に生きてはいけない。でも、自分にどんなバイアスがあるのかを知るのは、自分を自由にしていくことだ。

わたしは30代のときに鬱になって病院に通ったことがあるんだけど、その時に医師に紹介してもらったのも、認知行動療法的なメソッドだった。自分が持っている強迫的な考えを(コントロールしようとするのではなく)ニュートラルに観察すること。

これはむちゃくちゃ役に立っている。このメソッドは認知すべてに応用できるし、使い慣れてくると生きるのがだんだん楽になってくるのだ。

インターネットにかぎらず、実は自分の中にも嘘ニュースはいっぱい詰まっていたりする。

生まれてこのかた真実だと思っていた(自分にとっての)常識が実は根拠のない情報だったということに気づくたびに、身軽になる。

自分が何に振り回されているのかに気づくだけで、状況は変わっていなくても気が楽になるものなのである。

人工知能やVRがどんどん進化していくこの先の世界では、きっと、嘘と現実の境目はますます曖昧になっていく。

何が真実かを自分で選ばなければならない日が来る。ていうか、もう来ている。

その時に重要なのは、結局一人一人が情報をどう受け取りどう感じるか、どういう立場でどう活かすかという主体的判断になってくるのかもしれない。

そんな世界で正気でいるために大切なことは、自分が恐いと感じるものをよく知っておくことだ。

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2017/11/29

恥のことばかり考えています


赤かぶを洗ってみたらなんだか流しのなかがキレイだった。
猫ママのマダム・ニャオさんが作ったきれいな器。

デジタルクリエイターズに掲載いただいた記事をぽんず単語帳にアップしました。

なんだかなあ、軽い気持ちで軽いものを書きたいと思って書き始めるのに、なぜかいつもいつも大風呂敷をひろげてしまい、結局締め切り当日の朝まで書き直し続けているわたしはいったいなにをしているのだろう。

さてこれはオーセンティックな問いなのでしょうか。

なんか最近ほんとによく聞くんだよね、「オーセンティック」「オーセンティシティ」。

アメリカ在住の方、そう思いませんか?

この記事をデジタルクリエイターズに送ったら、70歳のシバタ編集長が「へー面白いですね。アメリカ人は意外とマジメなんですね」だって(笑)。



日本の人はきっともっとずっと冷めていて、「自分らしく!」「もっと真実を!」とか力こぶがすこしでもでていようものなら、はいはい自分探し乙。とか#意識高い厨ワロタ。とかいわれる気がする。

日本の人がほんとに冷めてるのかどうかはよくわからないので、またヒマな時に考えてみようー。

きっと世間の人からみたらわたしの毎日は通常運転でも盛大にヒマなんだろうなと思いつつ、また今日も猫を釣る。

ところでこのNYTのコラムのグラント教授の記事にも引かれてた、ブレネー・ブラウン教授。

この人、『恥について』の有名な自己啓発系TEDトークがあるのね。


そういえば前に一度みたことあった。そのときも教授のこのミニスカがやたら気になった。それはおいといて、面白いです。



でもこっちの、上のトークで触れられてる最初のトーク『傷つく心の力』のほうは、 なぜか観たことなかった。

こっちのほうはさらにさらに面白い!3200万回も再生されておる。
まだ観てない方はぜひ。

「I am enough」これにつきますね。

恥について、わたしもこのところ良く考えているのです。もう毎日毎日、猫を釣りつつリビングでレディオヘッドにあわせて踊りながらも、恥について片時も休まずに考えているのです。
いやー面白い。
恥がなかったら個人は楽になるが社会は平板になりますね。

でも『逃げ恥』(ドラマもみてないし原作も読んでない)じゃないけど、沢山の人がそろそろこれまでの恥のありかたに自分が疲れすぎているのに気づいてきたみたいですね。



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2017/10/24

歩ける町の幸せ。


うーん、今日はかなりの時間をアメリカ現代史超特急詰め込みに費やそうとしましたが、やっぱりメモリのキャパシティが追いつかないわー。

デジタルクリエイターズのメルマガに、「Walkable」というコラムを書いてます。

でも実はだいぶ前にぽんず単語帳に書いたのの焼き直しです。
ほかのネタで書きはじめていたのだけど、時間がなくなってしまいました。

こちらに再録しましたのでよろしければご笑覧くださいませ。

今日も快晴。外はゴージャス。


近所の散歩が唯一の外界との接点、という日々が続くことも多いので、歩けるご近所に住めるのは本当に幸せです。

翻訳者にとっては環境がwalkableであるかどうかは切実ですよ!

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2017/09/29

ホノルル感覚


ホノルルに来てます。

6年ぶりのオアフ島は、色々激しく変わってて、おおぅー、と思う部分と、住んでいた頃とまったく変わってなくてギャップを感じない部分とが隣り合っていて、なんだかシュール。

ここ数年ハワイ関連のお仕事を定期的にさせていただいてたので、どんなビルができているのかはかなり細かく頭に入っていたのだけど、それでもぴかぴかの新しいビルがかつて見慣れた風景の中ににょきにょきと立っているのはやっぱり変な夢みたい。
 
アラモアナあたりを歩いていると、ずっとここに住んでいてこれからも住み続けるような錯覚をしちゃう。

むしろシアトルに引っ越したのが夢だったみたいな気がするくらい、違和感がない。
でもショッピングセンターに行くと完全に新しい棟ができていて、ショップが50も増えている。

町のどこに何があるのか把握している、という感覚が、8年以上たってもギャップなしによみがえるのにびっくり。

コンパクトなぶん、東京よりもずっとそういう「おなじみ感」が強いのかもしれない。そうしてそういう感覚には、空気の感触とか空の色とか、ビルや看板の色とか形とか道路の質感なんかも入っている。

自分のいまいる場所が把握できている、この場所を知っている、と感じる、こういう感覚って何か(科学的な)名前があるのかな。
 
ところで、「いただきます」についてデジタルクリエイターズに書いた記事をこちらに掲載しました。

「いただきます」問題についてはかなり前からぼんやり考えてたんだけど、あれって意外と新しい習慣だったんだ!というのは新鮮な発見でした。



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2017/07/28

街の性格 シアトルとニューヨーク


先月デジタルクリエイターズに掲載していただいた原稿をアップしてなかったのに気づきましたので、いまさらですがアップします。

ニューヨークとシアトルを比べてみたの記です。




今月、10日間ほどニューヨークに行ってきた。ひょんなことで急に決めた、人生初のニューヨークシティ。
同じ大陸の東と西だけど、8年住んでみたシアトルとはいろんな面で正反対で面白かった。

非科学的で主観的な観光客の感想として、シアトリートとニューヨーカーの特徴をちょっと比べてみた。



だいたいみんな急いでいる。

ニューヨークの人はとにかく歩くのが早い。
みんなどこかすごく急いで行くべき場所があるらしい。

しかし東京と違うのは、誰も信号を守ろうとしないこと。

車が来てないのに赤信号を守っている歩行者は子連れの観光客くらい。左右をさっと見て早足で赤信号を渡っている人々に囲まれていると、ぼーっと信号待ちをしているのは人生に対して受動的すぎる態度であるような気がしてきて、マネして急ぎ足で赤信号を渡らずにいられない衝動にかられる。
別にそんなに急いで行くところはないんだけど。

シアトルの人は、わりと律儀に歩行者信号が変わるのを待っている人が多いのだ。あまりガツガツと前に出るのをよしとしない美学が無言のうちに共有されてる気がする。

車の運転も同様。

シアトルのドライバーは、本当によく道を譲る。

横断歩道でないところに立っている歩行者のためにわざわざ停まってくれることも珍しくない。もちろん横から出てきた車にも、9割以上の確率で道を譲ってくれる。

信号が青に変わったのに前の車のドライバーが気づかずに動き出さない時も、シアトルのドライバーたちはすぐにクラクションを鳴らさず、礼儀正しく1、2秒待ってから、あまり攻撃的に聞こえないように遠慮がちに短くプッと鳴らす。
 
ニューヨークの交差点で信号が変わったのに気づかず動かなかったら、0.01秒の猶予もなくブーブーやられるのは間違いない。
横断歩道を渡る歩行者を待っている車にもすぐ後ろからブーブーブーブー鳴らしてたくらいだから、ニューヨークのドライバーにとってクラクションは単に一種の自己表現なのかもしれない。どの交差点でも必ずブーブー鳴っていないことはなかった。

ニューヨークでは空港からの往復も含め、何度かUberを使った。

空港からマンハッタンへの道で渋滞にはまったので「いつも何時頃が渋滞なの?」と聞くと、運転手さんは疲れた顔で皮肉に笑って「ALL DAY」と答えた。とにかくマンハッタンはいつでも混んでいる。

そしてニューヨークのUber運転手は、みんな運転がものすごくアグレッシブだった。1秒でも早く目的地に着いて次のお客を拾うため、アクロバティックにあっちこっちに車線を変え、ちょっとでも渋滞しているとすばやく別の道に切り替える。

見事な職人業だが、乗ってるほうは生きた心地がしない。
でもたしかに早い。Googleマップでは空港まで58分になってたのに、Uberのアクロバット運転手のおかげで40分もかからなかった。

メキシコシティのタクシーもまじで超人技だったけど、ニューヨークの運ちゃんも動物的カンと、車と一体になっているかのようなはりつめた運動神経が発達しているようであった。


ファッショナブルな人がいっぱい。

シアトルの人の格好はなんとなくみんな良く似てる。

清潔でナチュラルで控えめで、気負わないのが身上みたいなところがある。
シアトルで見かける白人の20代〜40代男子の典型は、チェックのコットンのシャツ、よく手入れされたほお髭、パタゴニアかノースフェイスの薄手のダウン、地元ブランドの革のカバン、といったところ。

女の子も垢抜けた自然志向といった感じで、タトゥーは入れててもメイクアップをしてない子もけっこういる。

IT企業にお勤めの皆さんとカフェのバリスタさんの違いは顔についてるピアスの数とタトゥーの数くらいで、傾向はあんまり変わらない。
そのまま釣りやキャンプに行っても違和感ないようなアウトドア志向のリラックスしたお洒落。

ニューヨークでは、頭のてっぺんから爪先まで気合がはいったお洒落をしている人が、次から次へ町角にあらわれる。

黒人のおばちゃん、イタリアンのおっちゃん、つば広帽子のマダム、『ゴシップガール』に出てきそうなお金持ち系女の子たち、派手なプリントと金のシューズを組み合わせたゲイの男の子。

それぞれ揺るぎない自分の世界にありあまる自信をもっていて、人がどう思うかはまったく気にかけていないらしいのが、壮観だった。


機嫌が悪い人も多い。

ニューヨークでも、アップスケールなカフェとかショップとかお洒落界隈のレストランでは、もちろん店員さんたちはプロフェッショナルなフレンドリーさで接してくれる。

でもニューヨークには不機嫌さを隠そうとしない人も多かった。

観光地のカフェの店員、美術館のチケットカウンターの係員、Uberの運転手、といった人々の中に、ものすごく感じのいい人とものすごく無愛想な人がいる。

シアトルのサービス業でそれほどむき出しに無愛想な人はめったに見ないので、ちょっと新鮮だった。

こういう人々はとくに根性がねじ曲がっているのではなくて、単に客のために自分の不機嫌を取りつくろう必要を感じていないだけなのだ。そう思うとむしろ清々しくさえ見えてくる。

愛想がない人が多いから、すなわち余裕がなくて冷たい人ばかりかというと全然そうでもない。

自転車シェアリングのステーションに自転車を戻して去ろうとしていたら、通りすがりの車の運転手が運転席の窓から「ちゃんとロックされてないよ」と教えてくれた。

道を聞けばみな面倒がらずに教えてくれる。ベビーカーに子どもをのせたまま地下鉄に乗っても、もちろん誰も非難しない。

マンハッタン名物、ごみの山。とにかく道路が汚くてびっくり。
というか、シアトルが例外的に綺麗な街なのかも。

内向的な街と外向的な街。

シアトルはかなり均質な街だ。
街の中心部は圧倒的に、礼儀正しくてリベラルでインテリで所得が高い白人の中流層が多い。マイノリティの多いエリアの文化とメインストリームの文化はおおむねおとなしく共存しているだけであまり混ざることはない。

ニューヨークシティももちろん、層やエリアがいくつもあって住み分けがくっきりしているはずで、たとえば5番街のマダムたちとクイーンズから通ってくる移民の店員の世界は全然違う。

でも、マンハッタンという狭い場所にありとあらゆる多様な世界がひしめきあって隣りあってることで化学反応みたいなものが毎日あちこちで起きて、静かに爆発したり融合したりしてるらしいのが面白い。
 
どちらの街もいま景気は良くて、あちこちで工事中だし、ジェントリフィケーションが進んでキレイになっている。どちらの街もエネルギーが強いけど現れ方が違う。

ステレオタイプを承知でいえば、シアトルは小奇麗で内向的、ニューヨークはガチャガチャしてて外向的。まあそんなラベリングにはあんまり意味はない。

シアトルもニューヨークも、アメリカの中ではものすごく珍しい場所なのは間違いない。

シアトルにおっとりした人が多いのは、IT系のギーク君たちが人口のかなりの部分を代表しているから、だけではなく、冬は温暖で夏は涼しい気候、平均して高い所得、成長産業があること、衝突が少ない社会構成と、自然に囲まれた環境、…といった要素があるんだろうな、と、蒸し暑いニューヨークから帰ってきてぼんやりと思うのだった。

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バイリンガルのコスト




(これはシアトルの南のほうで見かけた街角アート。作者さんは存じませんが、一筆書きっぽい力の抜けた顔がなんだか好き)

デジタルクリエイターズで先日掲載していただいた記事です。

編集長がまぐまぐに推薦してくださって、そっちに載ったら『日本の親が気づけない「子供をバイリンガルに育てたい」の危険性』というなんだか刺激的な記事になっていてあせる。危険って〜!その言葉は使わなかったんですけど〜!(;・∀・)

デジクリの編集長は「炎上するといいですね♡」って、おーい。

私にはとてもできないような努力を傾けて、慎重にバイリンガル環境でお子さんを育てている人もたくさん知ってるし、バイリンガル教育を全面的に否定してるわけじゃないんですよ。とわかっていただけるといいのですが。

ということで再録します。


(いま休館中のシアトル・アジア美術館で見たツボ)

(ここから)


日本では子どもの英語教育に熱心な親御さんが多い。

日本では義務教育で6年間英語を学ぶのにほかの国に比べて英語力が低い、なんとかしなければ、という議論をよく耳にする。小学校でももうすぐ英語とプログラミングが必修になるとか。

私は英語教育についてはまったくの門外漢でしかないが、大人になってから英語をなんとかかんとか身につけ、英語圏で生活して、英語と日本語の環境で子育てをした立場で、つまり日本の英語教育については完全に外から眺める立場で、思うことをちょっと書いてみる。

英語教育の現場に立っていらっしゃる方から見るとピントが外れていたり、何をいまさらと思われるかもしれないが、部外者の勝手な感想だと思ってスルーしていただければ幸甚である。

日本の、特に子どもの英語教育で違和感を感じるのは、それが「芸」としてのみ捉えられているようにみえるところだ。

日本の人は芸事が好きで、特に試験とレベル分けが好きだ。

お茶でもお花でもスポーツでも書道でも将棋でも、級や段が細かく分かれていて、少しずつレベルアップしていくシステムが浸透している。これが英語にも適用されていて、TOEICや英検などが英語力の目安になっている。

もちろん、レベル分けそのものが馬鹿げているなんていうつもりはない。
自分のスキルを一般的な基準に照らしてチェックするのは必要なことだと思うし、やる気にもつながる。

でも、子どもの言語力にこういう考え方を当てはめるのは意味がないと思う。

もちろん言語はスキルには違いないのだけど、同時に言語は文化であり、思考プロセスそのものの一部であり、その人の内面の大きな部分を構成する要素でもある。
そのことが、英語教育の議論ではほとんど無視されているように見えてならない。

バイリンガルとはなんなのか

ネットを見ていると、「子どもをバイリンガルに育てたい」と希望している人が多いことに驚く。海外で苦労しながらバイリンガル環境で子育てをしている人から、日本にいながらにして子どもに英語を身につけてもらいたいと熱望して英会話スクールやインターに通わせている人まで、本当にたくさんいるらしい。

でも彼らが子どもたちに望んでいる「バイリンガル」像ってなんだろう?というのが、よくわからない。

「バイリンガル」といっても、ものすごーく色々である。
私はハワイでもシアトルでも、実にありとあらゆるバイリンガルの人に出会った。

2カ国語で会議ができる人、読み書きはどちらか一方でしかできない人、聞くだけならわかる人、長年ハワイにいすぎて母語の日本語の方が怪しくなってきている人。

ハワイは特に観光業が主要産業で、日英両方が流暢に喋れる人はホテルのフロントからツアードライバーまでもう本当にたくさんいた。

有象無象のバイリンガルの中で最高峰の言語能力を持つのは通訳者の皆さんであるのは異論がないと思う。私は同時通訳ができるレベルでは全然ないが、通訳の勉強も少しだけしたことがあり、同時・逐次通訳者さんたちの超人的な技能を間近で何度も拝見した。

会議通訳の業界では、通訳者が仕事で使える言語(working language)をA言語、B言語、C言語と分けている。
参考:ワーキングランゲージ

A言語は「母語」。生まれ育った国(または地域、民族)の言語。

B言語は「完全に流暢に喋れる」が、母語ではない言語。
通訳者はこの言語への通訳もするが、多くの場合は逐次通訳のみ、同時通訳のみなど形式を絞ることが多い。

C言語は、聞けば「完璧にわかる」が流暢には話せない言語。通訳者は自分のC言語からB言語やA言語への通訳はするが、C言語への通訳はしない。

A、B、C言語を持つ通訳者はどの組み合わせでもレベルの高い「バイリンガル」だが、通訳者の間でもA言語、つまり母語を2つ持つバイリンガルというのは非常にまれだという。

中にはA言語を持たず、B言語のみ2つ持つという人もいると聞く。たとえば両親の仕事の都合などで、外国を転々として育った人の場合など、完璧な読み書きや会話の能力を2つ以上の言語で持っていても、そのどちらにも母語といえる背景を持たないこともあるとか。

ではA言語とB言語の決定的な違いはなにか、というと、私が通訳の授業を受けたハワイ大学のスー先生は
「子ども時代の歌や童話などに通じているかどうか」
「ジョークがわかるかどうか」
を例として挙げていた。

つまり、言語の背景にある文化の厚みが身についているかどうか、ということ。

文化はとてつもなく入り組んだ、とてつもなく膨大な情報だ。
言語の機微はその文化の一部。ある文化の中に生きる人が共有する価値観、なにがタブーなのか、なにがイケてるのか、といった皮膚感覚のような非言語情報まで把握していないと、冗談はわからないことが多い。

バイリンガル環境で子どもに2つの言語を完全に習得させようとするのは、2つの文化をまるごと理解させようとすることだ。それがどれほど莫大な情報量なのかがあまりわかっていない親御さんも、特に日本でバイリンガル子育てをしようと試みている方の中にはもしかしたらけっこういるのではないかと思う。

バイリンガル教育の投資効果

私は言語というのはコンピュータのオペレーションシステムのようなものだと思っている。

コンピュータのハードウェアにもスペックや個性があるが、OSをのせて初めてその他のアプリが動かせる。

日本語と英語のように構造の違う言語を同時に動かすということは、MacOSとWindowsを同時に走らせるようなもので、かなり脳のリソースを食うもの。しかもそのOSがふたつとも構築の途中であれば、構造全体がグラグラすることだってある。

子どもをバイリンガルに育てたいと思う親御さんは、それだけのことを子どもの脳に要求しているのだときちんと認識しておくべきだと思う。

これはうちの息子の教育方針について元夫と意見が割れてケンカになった時からずっと考えていることで、当時は理路整然と説明できず単なるケンカに終わってしまった。

元夫はアメリカ人で完全なモノリンガルだったが、子どもはバイリンガルにしたい、どうしてもっと日本語を教えないのか、といい、私は別にそんなしゃかりきに2言語で育てなくてもいい、頭の基礎が固まるまでは英語を重視したいという意見だったので、子どもが幼稚園に入る前に大変なケンカになったのだった。

思うにモノリンガルの人ほど、子どもをバイリンガルにしたいという過剰な期待を持ちがちなのではないかという気がする。

あんまり誰も言わないようだけど、一時的にせよ恒久的にせよバイリンガルになるかどうか、どれだけ早く第二言語を獲得して使いこなせるかは、教え方や環境よりも、むしろその子どもの生来の能力によるところが大きいのではと思う。特に小さいうちは。コンピュータの比喩でいうと、ハードウェアのほう。

音感やリズム感、運動能力と同じで、言語の獲得や記憶にも得意・不得意があるのは当然なのだ。

ごく一般的には女の子のほうが言語能力は高いようだし、同じような環境で育った兄弟にも言葉が早い子と遅い子がいる。

私は自分の息子が1歳くらいの時に、こいつは特別に言葉のカンがいい感じじゃないから、とくに2言語を強要するという無理はさせないでおこうと直感で決めた。

それも親の勝手であって、見ようによってはただ単に親の怠惰を正当化しているだけかもしれないし、貧乏で日本語補習校などには通わせられなかったという事情もある(その後結局離婚してしまったのでバイリンガル環境どころではなかった)。

でもその後も、この子は大学までアメリカで教育を受けるのだから、とにかく英語できちんと読み書きと算数ができるようになるのが優先、その次がスポーツと音楽、日本語は興味が持てそうなものを目の前に出しておくくらいにして手を抜こうと意識した。

結果、それで良かったのかどうかはわからないが、まあ全面的に間違いではなかったと思う。小学校からサッカーをやっていたのが自分の居場所になったようだし、特別優秀な子どもにはならなかったけどそこそこ普通の学力をつけて自分のしたいことを見つけられた。日本にも深い興味を持っている。日本語は小学生レベルで、もちろん仕事が出来るような日本語能力ではないが、本当に日本語を使う必要がでてくれば自力でなんとかするだろう。

お金と時間と労力は限られているから、何をやるかは何をやらないかの選択でもある。

バイリンガル教育に乗り気でなかった理由には、コストパフォーマンスの問題もある。
早期の言語教育というのは、投資効果があまり高いとはいえないと思うのだ。

高い言語能力を2カ国語で維持するのは子どもにとっても大変だし、親にとっても高いコミットメントが必要。時間もかかるし、お財布にも脳にも相当な負担がかかる。
仮にそうして完璧なバイリンガルに育ったとしても、それで生涯の収入が約束されているわけではないし、逆にそのことでキャリアパスへの意識が言語のほうに偏ってしまう可能性もあるのではないかと思う。

2つの言語ができるというのは確かに素晴らしいスキルではあるけれど、職業的な成功の上で最も大切なスキルではない。

それに、早い段階での言語能力は大人になってからのスキルや能力と直結しているわけではないと思う。

(ちなみに第二言語の獲得に臨界期があるというのは不思議な都市伝説だと思う。通訳者も含め、第二言語をアカデミックなレベルで使いこなしている人には中学や高校以降にその言語を学んだ人が多い。直接の知り合いで日本語の複雑な資料を読みこなせる英語のネイティブが5人いるが、その全員が高校以降に日本語を学んだ人だった。そのうち1人は中国語もほぼ完璧で、現在は米国資本の銀行の上海支店長かなにかをしているらしい。日本人で米国の会計士や弁護士の職についている知人も中学以降に英語を始めた人ばかり。逆に、小さい時からバイリンガルの人には意外と向学心がなかったりする場合もある。)

子どもは覚えるのも抜群に速いけれど、忘れるのも速い。就学前に異国で学んだ第二言語を故国に帰ったらすっかり忘れてしまったという例もたくさんある。

中学生くらいまでは、子どもの脳はフル回転で情報を整理して世界を構築している時期だと思うのだ。不要な情報はさっさと忘れてしまう。
だから、その時期に子どもの獲得した言語能力について一喜一憂するのはあんまり意味がないことだと思う。

子どもにとってもっと大切なことは、他にある。

身体にそなわった感覚をフルに使って経験値を高めること、思考力を鍛えること、安定した自信を築くこと、他の人への共感を深めること、コミュニケーション力をつけること、知りたいと思う意欲を伸ばすことなどだ。もしも、第二言語を身につける努力のためにそういった能力を伸ばす機会が大きく損なわれるなら、それはとんでもないコストになる。というのが、私がうちの息子に第二言語である日本語をプッシュしなかった言い訳だ。

とはいえ、バイリンガル教育がいけないとかムダとかいうつもりはまったくない。
優れた教育の場で複数の言語に触れながら育つのは素晴らしいことだと思うし、2言語をバランス良く獲得することが心や身体の真の基礎力をさらに伸ばすことにつながる幸せなケースもたくさんあるはずだ。

ただ、本格的なバイリンガル教育には教育者や保護者の慎重なサポートと相当のコミットメントが必要なのは間違いないし、子どもに合う合わないもあると思う。同じように教育しても同じレベルのバイリンガルが出来上がるわけでは決してないのだと思う。

英語ができると何がトクか

早期の英語教育はムダだといいたいわけでもない。

英語(だけでなく他言語)に触れる機会は早くからあった方がいいと思う。

他言語で考える練習や異質な文化体系に触れる体験は多いに越したことはないし早いに越したことはない。その体験は、音楽や体育と同じように、経験値を上げて脳の基礎力を上げることに役立つと思う。

でも、子どもに英語を学ばせる目的を、大人のほうがもう一度整理した方がいいんじゃないかと思うのだ。

目的は「英語ができるとカッコいい」ではないはずだし、漠然とバイリンガルにしたいというのなら子どもにとっては迷惑な話だ。

小学校に英語が導入されても、「芸」の進み具合を測るテストが増えるだけでは本末転倒だと思う。

「将来、世界に向かってきちんと意見が表明でき、情報が読みこなせるレベルの英語力をつける」というのが目的なら、まず、英語を話す世界に入っていくことのメリットを子どもたちに説得できなければだめだと思う。

「芸」としての英語ではなくて、生きている文化として、リアルな社会のツールとして、考えるツールとしての英語とその先にある情報の世界が、自分にぜひとも必要で入手可能なものとしてリアルに感じられないとモチベーションにはならないし、本当の知的刺激にもなり得ないと思う。

小学校で英語を導入するとしたら、その英語を使って手に入れられる多様で魅力的な世界をリアルに体験させてあげること以上に、大切なことはないんじゃないかと思うのだ。

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2017/06/06

愚妻とファンタスティック社員のあいだ



近所はあちこちバラが満開。そのへん一周してくるだけで植物園のよう。近所の園芸家さんたち、ありがとうございます。家が立て込んでくるとだんだん緑も少なくなっちゃうんだろうなー。

忘れてました。先月末にデジタルクリエイターズに掲載していただいたぶん。

*********

日本語でよくある言い方をそのまま英語にすると、時にとんでもないことになる(逆もまた真なり)。デビッド・セインさん&岡悦子さん著『その英語、ネイティブはハラハラします』(青春新書インテリジェンス刊)という本には、日本人がうっかりニュアンスを知らずに使ってしまう可能性がありそうな残念な英語表現と、その代わりに使うと良いアメリカ英語のよくある表現がたくさん紹介されていて、とても面白い。

その中で、
「会社のパーティーに夫婦で出席して、同僚に妻を紹介」というシチュエーションで、

「これ、うちの愚妻でして、もう、なんにもできないんですよ」

と、日本の人がいかにも言いそうな言葉をそのまま英語に直訳して言ってしまうと……というのがあって、爆笑してしまった。

「This is my foolish wife. She can’t do anything」

うわははは。たしかにアメリカでこんなことを言ったら、普通に頭がおかしいと思われるだろうし、最悪、奥さんが虐待を受けているのではないかと心配されて通報されちゃうかもしれない。まさか本当にこんなこと言う人はいないと思うけどね。

しかし、60代くらいの昭和サラリーマン世代ならともかく、今でも「愚妻」なんて言う人がいるんだろうか。と思ってググってみたら、「発言小町」の2016年6月の「夫が私を愚妻って呼ぶのがむかつく!」というトピを発見。トピ主を「日本の謙譲語を知らないのか」と叩く人あり、「そんなのいまどき聞いたことないよ」という人もいて、興味深い。
http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2016/0605/764852.htm

ちなみに「愚妻」とか「愚息」という言葉は、「私の」という意味を謙遜した言葉であって、単に「自分の妻」という意味であり「愚かな妻」という意味ではない、と主張している人がいるけど、要するに「バカな自分の身内です」ということで、どっちにしても褒めてはいない。むしろ「バカな自分」の属性としてしか身内の個人を認識していない、または「バカな自分」に取り込んでしまっていて、自立した人格とはみなしていないという意味で、欧米的な視点からみるとさらにヤバヤバである。

身内を自分の延長とみなして、その属性とか実績はけっしてソトに対して褒めたり自慢しない、という常識が21世紀になってもまだまだ日本の「美徳」とされているのは面白いなあと思う。

何が美徳であるのかについての社会的な合意は、「発言小町」の反応が真っ二つに分かれてるように、どんどん変わっている。とはいえ、やはりざっと見た感じでは、「それが日本の常識でしょ、何いってんの」という意見のほうが多かった。日本の美徳はしぶとい。または、美徳にまだ何のヒビが入っていなかった時代の社会への郷愁が、しぶといのかもしれない。

社会の構造が今よりもカッチリしていた頃、「愚妻が…」という言葉を使う人はたぶんある一定の身分を持った男であり、おそらくその一家の唯一の稼ぎ主であったはずだ。教養もあり卑しからぬその人が「愚妻が」というその妻は家を守るだけの賢さはきちんと持ち合わせた育ちの良い妻でありそのことを夫も誇りに思っているがそんなことは教養ある者が人に言うべきことではないので謙遜しているのだよ、と、聞く側も説明がなくてもひと息にちゃんと了解できていた。こういうのがつまり文化的なコンテクストというものであるのは間違いない。

日本人が身内や自分を褒めないのはその文化的なコンテクストゆえだが、そのコンテクストがやっぱり少しずつ、コンクリで固めても固めても岸辺が波に侵食されるように崩壊しつつあるのだと思う。

社会の構造は大きく変わっているのに、文化的な了解事項はたぶんいつも少し遅れてついていく。そこに葛藤が生まれないわけがない。

日本の文化はペリーの黒船来航以来、160年以上にわたって、ゆっくりと崩壊していく、または変わっていくコンテクストへの対応に苦しんできたんじゃないかと思う。節目節目で社会は大きく変わりながら、その苦しみはまだまだ続いている。これは特に日本だけの現象じゃなくて、どこの国でもそういう新旧の軋轢は当然あるはずだ。(アメリカでも、たとえば世間一般の了解事項が大きく変わるのにつれて、マイノリティやジェンダーや宗教にまつわる言葉には大きな変化があったし、今でもそのへんには大きな軋轢がある。)

ところで、アメリカ人はとにかく身内を褒める。

息子が小学生の頃、サッカーのチームの親たちが、自分の息子もよその息子もわけへだてなく、褒めて褒めて褒めまくっているのがなんとも眩しかった。
こういう文化なんだと頭ではわかっていても、やっぱり日本で生まれ育った私は「Sくんは足が速いね」「…が上手だね」などと他の親に褒められると、「いやいやいやいや、でも小回りが利かないんですよ」「でも……はできなくて」など、何か別の案件を持ち出して速攻否定したくなる衝動を抑えられないのだった。

夫婦でも、自分の旦那様や奥様のことを「彼は料理が素晴らしく上手なのよ」とか「彼女はいろんな分野に精通してて、すごくクリエイティブなんだ」とか、何の留保もなく、率直に、100パーセント、よく褒める。

親子でも兄弟姉妹でも、とにかくソトに対してもお互いの間でもよく褒める。しかも、本心からそう思って言ってるのだ。少なくとも本人は本心だと思っているに違いない。

「健全な精神を持つ大人は、自分や身内を肯定的に捉え、それを世間に躊躇なく宣伝するべきである」というのが米国の社会常識、文化コンテクストだといっていいと思う。実際に行って見てきたわけではないけど、読んだり聞いたりした話ではほかの西欧諸国でもそうなのらしい。

会社文化にも、この違いははっきり表れている。

この間、携帯電話のキャリアを替える手続きにウェブのチャットを使った。こういうチャットや電話でのカスタマーサービスは、途中で別の部署の担当者が出てきてプロセスを引き継ぐことがある。この時も最初にでてきたチャットの担当者は、私が他社から乗り換えで新規にアカウントをあけたいと希望しているのを確認すると、新規顧客の担当に引き継いだ。

そして次に出てきた担当者のセリフ。
「It looks like you were last engaging with our fantastic chat advisor Joe and you were interested in the XXX plan …..」
(うちのファンタスティックなチャットアドバイサー、ジョー君とチャットしてたようですが、その話によるとあなたはXXXプランに興味があるようですね…)

ファンタスティックかよ!と思わず静かに心の内で突っ込みを入れずにいられなかった。

日本のカスタマーサービスで、
「弊社の素晴らしいアドバイザーがこのように言っておりましたが…」
なんて言ったら、若干頭のヘンな人と思われてしまうのではなかろうか。

わたしが東京にいた20世紀後半から比べると少し変わったのかもしれないけど、日本の会社文化からこの「ウチ・ソト」意識が消えることも、まだ当分はないのに違いない。その反対に、アメリカで内外に向かって社員を褒めたたえる文化はますます加速しているようにみえる。

「愚妻」と同じで、日本の美意識では、家族なり会社なり、属するグループの身内をひとまとめにして捉えて、ソトの人たちをそれより高いところにあるものと(仮に)想定してへりくだるのが折り目正しい社会人の態度とされる。

アメリカの企業は、内外に向かって、「ウチの会社では社内の個人もこんなに尊重してるんですよ!」ということを宣伝する。

アメリカ人が書いた英語の会社情報などを日本語に訳していると、こういった、ウチ・ソト意識の日本の常識との間のギャップに悩むこともある。

日本の会社ならば社内の人間に敬称をつけず、身内のこととして謙譲語を使うのは常識だけど、アメリカにはその分け隔てはない。たとえば社員を褒めたたえている広報資料があったとして、それにどこまで日本式の「へりくだり」ニュアンスを入れて訳すべきなのか?

すべてを日本式にして謙譲語を使うのも正しいとはいえない。会社の持つ文化や主張がアメリカ式のスタンダードなら、それはそのまま伝えるべきだ。でも読者に傲慢な印象を与えては広報の意味がない。

そのへんはもちろん最終的にクライアントさんの判断になるものの、翻訳者としてどのような提案をすべきなのかは悩みどころである。

特にクライアントさんに日本語ネイティブスピーカーがいない場合などは「こういう場合、これが日本の標準ですよ」といちおう胸をはって提案してみるものの、媒体により、読者により、場合により、正解は一つではないので、常に悩ましいのだ。



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2017/04/26

雨のことば、雨の名前、雨のにおい


『雨のことば辞典』について、ブログに書こうと思っていたのだけど、長くなったのでデジタルクリエイターズのほうに掲載していただきました。

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去年の夏帰国したときに、『雨のことば辞典』(講談社学術文庫 ISBN978-4-06-2922239-5)という文庫本を買った。

気象予報官で理学博士の倉嶋厚さんと「雨の文化研究家」原田稔さんの編著。

 広重の浮世絵「大はしあたけの夕立」を使った表紙が目について手に取ったら、全国各地に伝わる雨の名前や、雨に関わることば、気象用語、季語、故事にちなむことば、古語や漢語などがたくさん載っている楽しい辞典で、すっかり気に入ってしまった(あとがきによると、単行本は2000年初版らしい)。

日本(中国由来の漢語も含め)にはこんなにたくさん、雨にまつわることばがあるのか!とあらためて目をみはる。

収録されていることばのうち、8割くらいは聞いたことがないかも。

たとえば、

「ふぇーぶやー」
細かい雨を指す沖縄県中頭地方のことば。漢字で書けば「灰降」。
灰のように細かい雨が降る。

「あまくしゃー」
雨がいまにも降りそうな空模様をさす熊本県下益城地方のことば。雨臭い。

「雨承鼻(あまうけばな)」
穴が上を向いている鼻。雨が入る。

「風くそ」
島根県簸川地方で風が止む前に置き土産のように降る雨をさす。風が落としていった残り物。

…なんて、たぶん、知ってても一切実用に役立つ場面はないと思うが、そのことばが実際に使われている(いた)コミュニティを想像すると楽しい。

「卯の花腐し」「こぬか雨」「時雨」「五月雨」など、日本語には優雅な雨の名前がたくさんあるし、雨だけでなく雪、霧、あられ、雹、それに風など、気象に関することばがほんとうに多い。

長い歴史の中で日本人が育ててきた雨や風や雪に関するこまやかな肌感覚と語彙の多さは、きっと世界の言語のなかでも突出しているのではないかと思う。

ことばは先人の思考のエッセンスだ。「言語が思考を作る」というのは言い過ぎだろうけれど、育った環境で身につけたボキャブラリーが考え方や暮らし方のスタイルに影響しないはずがないし、ことばありきで感じ方の様式が決まることもあるはずだ。

ことばや様式が思考を育て、そこからまた新しいことばや様式が生まれていく、というプロセスが文化というもの、だと思う。

中国や日本の文学や絵画には、雨や雪や霧や霞を愛でるものが多くて、だからその語彙も多い。伝えられる語彙が多くなればますますその現象に意識を向ける人も多くなる。

とくに、季節ごとの静かな雨に幽玄なはかなさを感じるのは、もしかして東アジア地域の風土で特別に醸造された感性なのかもしれない。

「新古今集」の秋歌・冬歌編の422首の中には「時雨」の歌が35首も収録されているそうだ。

「木の葉散る しぐれやまがふわが袖にもろき涙の色と見るまで」
(新古今和歌集 五六〇 右衛門督通具)

…みたいに、秋の深まる頃に冷たくしょぼしょぼ降る雨に、はかない人の世のもの寂しい心持ちを重ね合わせてうたう歌が多いようだ。

「日本の風景は水蒸気がつくる」と司馬遼太郎が『坂の上の雲』に書いていて、おおー、なるほどと思った。日本の風物とそこでの暮らしがどれほど水蒸気に包まれているのかは、しばらく日本を離れてから帰ってみて初めて実感できたのだった。

ハワイに引っ越して数年後に一時帰国したときに、夏の東京の夜空が、晴れた夜なのに薄いベールを通したようなくすんだ濃紺だったのが新鮮だった。

ハワイも雨が多い土地ではあるけれど、気象はもっと単純明解というか、コントラストが強くてすっきりしている。ハワイの水蒸気は日本のようにゆっくりとどまらず、夕立を降らせて虹を立てると、すぐに貿易風に吹き飛ばされていく。

ハワイでは、太平洋をわたってくる風が高い山々にぶつかって雲を作り、雨を降らせるのは日本と同じだけれど、貿易風がだいたい一年を通して一定の方角から同じように吹くので、天気がとても予想しやすいうえに、入り組んだ地形によってごく小さな区域ごとに安定した局地的気候が生まれている。

小さな丘陵の谷あいには毎日朝晩必ず雨が降るのに、クルマで数分ほど走ると、めったに雨の降らない完全な乾燥地帯に出たりする。

白人が来る前からハワイに住んでいた先住民は、土地や天気ととても親密な関係を築いていたようだ。ハワイのことばにも、雨の名前はとても多いのである。

Harold Winfield Kentの「Treasury of Hawaiian Words in 101 Categories」(1967年刊)という本には101の分野のハワイ語が収録されていて、雨の名前だけで6ページが割かれている。

たとえば
「Kona hea」は、「ハワイ島のコナの、冷たい嵐」。
「Nahua」は、「マウイ島北東部に降る、貿易風をともなう細かな雨」 。
「Uaka」は、「<白い雨>という意味で、マウイ島ハナの有名な霧」 。
「Ua-moaniani-lehua」は、「ハワイ島プナに降る、レフアの花の香りを運ぶ雨」。

 といったぐあい。この本のリストをみる限り、ハワイの雨の名前は「この場所に降るこんな雨」という、きわめてローカルな体験にもとづいたことばが多いようだ。


いま住んでいるシアトルも雨の多いことで有名な土地で、秋口から初夏まで、1年の半分以上はどんより曇ったしている日が多い。

ここの住人は、じめついた天気のことで自虐ネタを言うのが好きだけれど、英語には雨の名前はそれほど多くない。

白人が来る前にここにいたネイティブ部族の人たちの言語に雨や風を表すことばがどのくらいあったのか調べてみたいと思いながら、なかなか実現できないでいる。ハワイ語ほど研究者がいなくて、資料の数もとても少ないようだ。

英語の類語辞典を見ていると、どうも英語の雨の名前には、「土砂降り」「大雨」の表現が多い気がする。とくに、印象的なものはほとんどが大雨に関することばばかり。

「すごい土砂降り」の表現として強烈に印象に残ることばに「rains cat-and-dog」というのがある。 語源は不明で、18世紀なかばにはすでにジョナサン・スウィフトが言い古された表現の一つとして取り上げているという。これを見ると犬と猫が空から降ってくるカオスな画像が頭に浮かぶけど、やっぱりそんな光景を描いた19世紀の滑稽画がフランス語版のWikiに載っている。

参照:こちらのサイト


「cloudburst」は、雲が割れてドバドバ降ってくるような大雨。
「pouring down」も大雨の表現でよく使う。バケツのような容器で水を注いでいる感じの表現。
「shower」は夕立のような強い雨。
「drencher」も一瞬でずぶ濡れになりそうな、圧倒的な土砂降り。

こうやってみると、日本の詩歌のことばやハワイ語の雨の名前のように、雨に心情を重ねたり、雨を愛でる的な態度が感じられることばはあまり見当たらない。

そもそも「雹」と「あられ」の区別もしないで両方「hail」というくらいだから、アングロサクソン系の文化は気象については大雑把なのかもしれない。私は英文学の教養がないので、単に知らないだけかもしれないけど。

傘をさすほどでもない小雨は英語で「drizzle」または「sprinkle」。 どちらも、「オリーブオイルをひとたらし」「砂糖をパラリとふりかける」といった調子で、料理の手順の説明によく使われる。

和英辞典で「こぬか雨」は「light drizzle」とされている。 小雨の名前にも能動的な動きが透けてみえるところが、情景描写寄りの日本の雨のことばとは違うなと思う。


雨に関する英単語で、「Petrichol(ペトリコール)」というのをつい最近知った。 「長い間乾いていた土地に、久しぶりに雨が降るときの匂い」という意味。

あの「雨の匂い」に名前があったとは知らなかった!

雨についての感受性が飛び抜けて豊かな日本語に、これに対応することばがないのは不思議な気がする。

これは1964年にオーストラリアの学者がギリシャ語から作った造語。ということは、世界のどの言語にも、これに対応することばがなかったってことなのだろう、たぶん。

この雨の降り始めの匂いは、土に含まれている植物由来の油と化学物質が雨粒によって空中に放出されて人の鼻に届く香りなのだそうで、雨粒が地面を打ってその微細な香り物質が空中に放出されるメカニズムをMITの研究者が映像でとらえたスローモーションビデオもある。



すごいです!

感覚を表現する新しい語彙が、サイエンスの分野から出てくるのが興味深い。




(参考)
http://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/files/public/5/52392/20160528120004110004/erc_035_023_030.pdf

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2017/03/24

カタカナ語の抗弁


おおっという間に3月が終わろうとしています。(´・ω・`)

先日デジタルクリエイターズに書いたのをこちらにもアップします。
先月書いたのはものすごく久しぶりにぽんず単語帳のほうにアップしました。

御用とお急ぎのない方は、こちらもどうぞよろしく。

PONDZU WORDS BOOK  (1 of 1)



先日、デジタルクリエイターズの藤原ヨウコウさんの記事「コミュ障はぐれはカタカナ英語に躓く」を読んで、軽く衝撃をうけた。

藤原さんはこの記事で
「邪推かもしれないが、カタカナ英語の背後にボクは悪意しか感じない。特にバブル以降はそうである。「新しさ」や「進歩性」を演出するのに、こうしたカタカナ英語は悪用されているのではないか、とつい思ってしまうのだ」
と書かれていた。

デジタルでクリエイターな人のなかにも、カタカナ語にこれほどの警戒心をもっている人がいるのか! というのが、ちょっとした衝撃だったのだ。

わたしはふだん、英語を日本語にする仕事をしている。
英語で書かれた内容とニュアンスをできるだけもらさず汲み取って、それを日本語を母国語とする読者にできるだけ自然に、まるまると伝わるように書くのが使命である。でも残念ながら、もらさず丸ごと伝わることはすくない。

なぜ丸ごと伝わらないか。
それは、英語が話されている世界と日本語が話されている世界の常識が、かなり違うからだ。

言葉の世界というのは、それを話す人の世界である。
同じ言語のなかにだって違いはある。

たとえば、東京の女子高生、名古屋の中年の管理職、鹿児島で畑を作っている老人、東北の温泉宿の女将さん、…の言語感覚は、それぞれにかなり違うはずだ。

米国でも、サンフランシスコの国際企業の役員、中西部のトラック運転手、ニューヨークのお金持ち、南部の黒人コミュニティのティーンエイジャーでは、やっぱりそれぞれ言語感覚はかなり違う。

その世界で主に話されている事柄、生活を構成するもの、目に映る景色や耳に聞く音、皮膚感覚、常識、笑いのセンス、大切にされているもの、避けられているもの、蔑まれているもの、などが、その人の言語世界を作っている。

もちろん言葉の世界は個人によっても違う。たとえば、渋谷の女子高生と鹿児島の老人が、あるいは遠くの国の一度も会ったことのない人同士が、または何世紀も前に生きていた人と現代の人が、言葉を介してなにものかを共有できるのが言葉の素晴らしいところだし、逆に一緒に住んでいて同じ言語を話していてもまったく言葉が通じないということだって、ありますよね?

英語の文を日本語に(その逆でも、ほかのどんな言語でもそうだと思うけど)翻訳するときに、翻訳者はかならず、読者の言語空間を想定する。

なんていうと偉そうだけど、しょせんはボンヤリと想定する読者の世界でどんな言葉がどんなふうに使われているかというのをうっすら想像してみるだけにすぎない。

読者が想定上の不特定多数である以上、正しいかどうかは調べようもない。

とはいえ、IT企業の技術者向けに書く場合、ファッション誌に書く場合、高校生向け向けの媒体に書く場合、富裕層の高齢者向けに書く場合、ではそれぞれに使える言葉もトーンも違う。想定する読者の言語像と現実がズレすぎると翻訳者として仕事にならない。この媒体の読者にとっての日本語の正解ゾーンはこうだ、という自分の感覚を信じるしかない。

で、それぞれの場合にカタカナ語をどのくらい使うか。というのに、翻訳者はいつも頭を悩ませている。

これはほんとに、その媒体にもよるし、翻訳者の考え方も人それぞれ。私はほとんどの日本の読者には、ある程度のカタカナ語は寛容に受け入れてもらえるもの、とボンヤリと思っているが、その「ある程度」はいつも変動する。

ファッション、IT、金融などの世界ではカタカナ語が百花繚乱で、業界の外の人にとっては何いってんだかさっぱりわからないこともある。

たとえばネットワークセキュリティの製品のページでみつけたカタカナ語の例。
「マルウェアを解析することで、攻撃の第1段階で使用されるエクスプロイトからマルウェアの実行パス、コールバック先、その後の追加ダウンロードに至るサイバー攻撃のライフサイクルが明らかになります」。
エクスプロイトってなんだ。攻撃のライフサイクルって?しかしこれを無理に日本語に置き換えようとしたら意味不明な誤訳になってしまう。

ヴォーグジャパンの記事でみつけたカタカナ語の例。
「セダクティブなレースや、大きく開けたスリット。ランジェリーを思わせるセンシュアルなドレスが今、トレンドだ。共通するのは、ただのセクシーに終わらない、凛とした強さ。モダンな感性で纏う、大人のラグジュアリーがここに」。

これはきっと日本語ネイティブのライターが書いたものだと思うが、セダクティブとかセンシュアルとか、英日翻訳で使ったらたいがいの場合編集で訂正されるのは間違いなしである。

翻訳する時には、安易に英単語をカタカナに置き換えるのではなくできるだけ日本語で言い換えるのが良識ある英日翻訳者の態度、というのが、翻訳者の一般的な考え方だ。

それでもカタカナ語をやむなく使う理由の第一は、既に日本語になっている言葉には置き換え不可能な場合があるからだ。

たとえば、「コミットメント」「エンゲージメント」「インスパイア」「ベストプラクティス」「ウェルネス」「アカウンタブル」「デューデリジェンス」などには、どう頭をひねってみても過不足なくはまる日本語がないことが多い。
すでにある日本語に置き換えようとすると、文章での説明が必要になるか、なにか重要な要素が抜け落ちてしまう。

これはどんな言語でも、新しい概念をほかの文化から輸入するときには起こることのはず。

もともと日本語には文字がなかった。

隣にたまたまあった超大国から漢字を輸入して文字を書くことを学んだ日本人は、そこから仮名文字を発明していくわけだけど、その頃は文明国中国から渡ってきた学問や知識が超イケていた。というか学問のすべては大陸から来ていた。

文字通り命がけで超文明国にわたってありがたいお経を学んで帰ってきたお坊さんたちは、今の感覚では思い及ばないほどの、図抜けたインテリだったのだと思う。

日本は、地理的に特異な場所にできた特異な国で、20世紀の数年間をのぞいてはほかの国に占領されたこともなく、海を隔てた超大国とおおむね絶妙な距離を保ちながら独自の言語空間を育んできた、珍しい国なのだとつくづく思う。

遣唐使の時代から明治維新後、そして現在にいたるまで、日本の人たちは、新しい知識や概念を漢字、カタカナ、ひらがなの組み合わせで貪欲に吸収してきた。
すでにいろんな学者さんが指摘してることだと思うけど、3通りの表記システムを持っているというのは、日本の文化が柔軟にいろんなものを吸収するのにあたって、とてつもない利点だったはず。

カタカナ語を使う理由の二つめは、藤原さんが指摘しているように、演出効果、つまり「なんとなく新しくてかっこいい」オシャレ感をかもしだすためでもある。

文章には、「意味」と「論理」を伝えることに加えて、読む人にどう受け取ってもらいたいか、どのような感情や感覚を呼び起こしたいか、という書き手の希望と、そのためのプレゼンテーションが常にある。それは文体にもあらわれるし、言葉の選び方もその一部だ。

言葉は論理を伝えるものだけでなく、情緒の容れものでもある。

そして面倒なことに、どこからどこまでが情緒の範疇でどこからが論理、ときれいに割り切れるものでもない。

さらに面倒なことに、多くの人は自分の書いたり話したりする言葉に自分がどのような意図を盛り込んでいるのかを、あまり意識していないことも多いのではないかと思う。

翻訳者の商売の一部は、他人の書いた言葉のウラにある意図を汲み取ることである。

書き手がある言葉を特別に選ぶときには、情緒的な理由や、人にどう受け取ってほしいか、どのような効果を出したいかという理由がその背後にあるはずだ。

翻訳者は時に、文章を書いた本人よりも深くそれらの理由について考え、分析することも多い。

とくに広告やマーケティングの場面では、プレゼンテーションが論理よりも大切なこともある。

「老化防止」を「アンチエイジング」と言い換えるのは、まさに、「老化」といういろいろ手垢のついた言葉のネガティブな感触にさわらずに「老化を防ぐ」と言いたいからだ。

でもプレゼンテーションの面からは、「アンチエイジング」と「老化防止」は同一にしてまったく違うともいえる。

それは、シヴァ神と大黒天の違いのようなもの、といっても良いのではないだろうか。違うか。

たとえば、上記のヴォーグジャパンの記事を漢字の言葉で言い換えたらどうなるか。
「セダクティブなレースや、大きく開けたスリット。ランジェリーを思わせるセンシュアルなドレスが今、トレンドだ」
「誘惑的なレースや、大きく開けたスリット。下着を思わせる官能的なドレスが今、流行中だ」

下の例でも意味的にはぜんぜん変わってないのに、カタカナ語で書くと何かが変わる。それをオシャレと思うか、鼻持ちならないと思うかは、その人の考えかたと感じかた次第だ。

その言葉づかいがプレゼンテーションとして成功しているかどうかは、受け取り手がなにを常識として暮らしているか、なにをカッコ良くなにをカッコ悪いと思っているかによって変わる。

そして、書き手がちゃんとその言葉を理解していないとヘンなことになるのはどんな言語でも同様。

往々にして、まだあまり耳慣れない新しい言葉を使うことで、「新しいモノを良く知ってる頭の良い人」または「教養の深い人」、と自分をプレゼンできるという希望のもとに、あんまりよくわかってない言葉を使っちゃったりする人もいるわけである。そして本人にもその自覚があまりなかったりもする。

藤原さんが苛立っているのは、そういった、胡乱なカタカナ語の使い方に対してであろうと思う。

でも、なんとなくカッコ良い、感触の良い言葉が、あんまり意味も考えずに使われるというのは、カタカナ語の専売特許ではなくて、中国から輸入された漢字の熟語でも、万葉の時代のやまとことばにだって、きっとあったのだと思う。

紫式部が清少納言のことを
「したり顔にいみじう侍りける人。さばかりさかしだち眞字(まな)書きちらして侍るほどにも、よく見れば、まだいとたへぬこと多かり」
と、「(女のくせに)漢語など使ってえらそうに書いてるけどろくにわかっちゃいない」とこき下ろしているのをみても、まあそういう批判はどの時代にでもあるのだなと思わされる。

カタカナ語大氾濫の背後には、文化的なボタンのかけ違いと、ちょっと行き過ぎちゃったカッコつけが入り混じっている。

ん?
と思ったときには、その日本語を自分なりにもっとよく分かる日本語に「翻訳」してみると、面白いかもしれません。

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2017/01/26

ねこ耳マーチと相反する事実たち


お気に入りベーカリーカフェFresh Flours でソイカプチーノをたのんだら、もようをつけてくれた。豆乳だと泡がもこもこするので、絵を描きづらいだろうに。

「すごっ!上手!」と褒めたら、全身タトゥーだらけの女の子が「カプチーノ作るの好きなの」と嬉しそうに言った。

デジタルクリエイターズのメルマガに、ウィメンズマーチとプロライフ・プロチョイスのことを書いてみました。

だらだらと長くなってしまった。暇だったら読んでね。わたしはたぶん、世間的には相当に暇なのだろうね。こんなことをしているから時間が足りないのだな。

ニュースを見るたびに血圧が上がる1月だよ。

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ねこ耳大行進

トランプ大統領の就任式翌日に全米のみならず世界各地で開催された「ウィメンズマーチ」は、世界中で何百万人も動員する歴史的なイベントになった。

女性をトロフィーのように扱い、マイノリティや身障者をバカにし、21世紀のアメリカでは許されなかったはずの下品な差別発言を繰り返して、一部に熱狂的な支持を得つつ世論をますます分裂させて、就任時の支持率が40%という異常な状況で大統領になったトランプ。このマーチは、その言動と価値観に「NO」という声をあげる機会として、各地で予想を超える数の人びとを動員した。

シアトルでも5万人程度という予想を軽々と裏切って、一番少ない見積りでもその倍の10万人(主催者発表では17万5000人)という驚くべき数の動員があり、ダウンタウン中心部は5kmが人の波で埋まった。

http://komonews.com/news/より
このマーチ参加者の多くは「pussy hat(プッシーハット)」という、ねこ耳つきのピンクの毛糸の帽子をかぶって参加した。この帽子を編んでマーチ参加者に寄付するボランティア活動も11月下旬からさかんに行われていた。

言うまでもなく「プッシー(こねこ)」は、女性器をさすスラングでもある。

このねこ耳帽子は、もちろん、選挙戦中に流出して大騒ぎになった2005年のトランプ発言
「オレくらいのスターになると何だってできるんだぜ。いきなりプッシーをつかんだりね、なんだってできる」
と、思いっきり下劣な自慢をかまし、自分は女性の意思なんか無視して好きなようにする力を持ってるんだという妄想に酔いしれる幼稚な世界観を世界に垂れ流してしまったあの発言に対して、「このプッシーはお前なんかにつかまれて黙っているプッシーじゃありませんことよ」と宣言する小道具なのだった。

ウィメンズマーチに参加したのは女性だけではなくて、男性も、LGBTのグループも、障害者の人も、老人も、マイノリティの姿もあり、夫婦そろってこのピンクのねこ耳帽子を被って参加しているカップルもたくさん見られた。

ニューヨークタイムスのフォトストーリーで世界各地からの写真を見ると、参加者は実に様々な主張をかかげている。

https://www.nytimes.com

ここに紹介された全米各地のプラカードのスローガンを、乱暴ながら、5つのカテゴリーにわけてみる。

その1)「女性の権利」とは別のイシューを主張するもの
「健康保険を全国民に」
「私たちの保険を奪うな」
「Black Lives Matter」
「えーと温暖化は本当なんですが…」
「教育は大切」
「科学を救え」
「地球を救え」
「障害者の権利は人間の権利」
マイノリティの権利、温暖化対策、健康保険といった、直接「女性」にのみ関連する問題ではないけれどもトランプ政権で直接の影響を受けると予想される諸問題について声を上げるもの。内容は本当にさまざまで、数えたわけじゃないけどプラカードの半分くらいは「女性」とは直接関係ない方面だったような印象を受けた。

https://www.nytimes.com

その2)トランプ攻撃
「トランプの周りに壁を」
「プーチンの人形」
「私の大統領じゃない」
など、ストレートにトランプの人物そのものを否定・攻撃するもの。これはちらほら見えた程度。でも明らかに、このマーチが反トランプのデモであることをはっきり物語っていた。

https://www.nytimes.com
その3)抽象的な愛のスローガン
「Love Trumps Hate(愛はヘイトを踏みつける)」
「ヘイトはアメリカをグレートにしない」
「ヘイトじゃなくて愛がアメリカをグレートにする」
「壁でなく橋を」
など、選挙中にトランプがバラまいた嫌悪や恐怖の感情(その矛先は移民だったり、偉そうな女だったり、都会に住むマイノリティだったり、モスリムだったり)へのアンチテーゼとして「LOVE」を押し出す、ジョン・レノン的な方向性のスローガン。

https://www.nytimes.com


    
その4)女性の力や連帯を主張するエンパワーメントなメッセージ
「Nasty Woman(最悪の女)」(これはヒラリーとのテレビ公開討論でトランプが思わずポロッと言った失言を逆手にとったもの。あんたからみたらあたしたちは最低最悪の女でしょうけどおあいにくさま、というプライドを強調するメッセージ)
「ガール・パワー」
「あんたのそのちっちぇえ指をあたしの権利からどかしなさいよ」などなど。

https://www.nytimes.com

その5)ストレートに女性の権利を主張するもの
「女性の権利は人間の権利」
「My body is my choice(私の身体のことは、私が選ぶ)」など。

このマーチは、リベラルな価値観を持つ人びとにとっては癒やしでありエンパワーメントであり、トランプに中指を立てたい人がこれだけいるのだということを確認できた点では、大成功だった。

マーチ参加者に共通していたのは、トランプが煽った安易なポピュリズムに反対することと、女性蔑視に寛容な態度は我慢ならないという点、だけだったといってもいい。むしろそういう抽象的なゆるやかな連帯だったからこそ、これだけの人を動かしたのだと思う。

でもそれだけに、この勢いを実際の各問題に対する行動や今後の選挙、政治活動に反映させていくのは、とてもむずかしい長い面倒くさい戦いになるだろう。


国を二つに分ける「女性の権利」


イシューを超えた連帯だったこのマーチは、でも、トランプ支持かどうかを別にして、ある一定数のアメリカ人には嫌悪された。なぜかというと、このマーチが基本的には人工中絶を支持する「プロチョイス」の立場に立つものだから。

たとえば、保守派のConservative Reviewというサイトには「ウィメンズマーチは女性を傷つけるもの」というコラムが載っている。

5)の「女性の権利は人間の権利」や「私の身体のことは、私が選ぶ」というメッセージが、4)の「ガール・パワー」という抽象的なエンパワーメントのメッセージと何が違うかというと、5)は子どもを生むか中絶するかを自分で選ぶ権利を女性の権利としてストレートに訴えているという点。

21日のウィメンズマーチには人工中絶http://nymag.com/thecut/2017/01/womens-march-2017-drops-anti-choice-partner-after-backlash.html反対の立場、つまり「プロライフ」のフェミニスト団体「New Wave Feminists」が参加を表明し、一旦はマーチのパートナー団体として認められたものの、プロチョイス側の猛反対にあって、マーチ前日にパートナーを取り消された。主催者はこの団体のパートナー扱いを取り消すにあたって、あたらめて、このマーチがプロチョイスの立場にあることを明確にしている。

この「New Wave Feminists」という団体は、他の問題に関してはフェミニストのリベラルな価値観を共有するが人工中絶にだけは反対するという珍しいプロライフ団体。ウィメンズマーチへの団体としてのパートナーは取り消されたものの、個人参加を止められたわけではなかったので、ワシントンDCのマーチにはこの団体のメンバーがプロライフのプラカードを持って参加し、「人を殺すなー!」と叫んで歩き、まわりのプロチョイス派が嫌悪をしめしてちょっとしたにらみ合いになったという。

人工中絶問題は、21世紀の現在でもアメリカ政治の中心にある課題。

アメリカでは1973年の「ロー対ウェイド」訴訟の最高裁判決で、人工中絶を違法とする州の法律が憲法違反であるとされて、人工中絶が全国的に合法となった。でもこれで決着したわけではぜんぜんなくて、人工中絶反対(プロライフ)派はいまでもこの判決をくつがえすべく、熱い戦いを繰り広げている。そして、その戦いはかなりきわどいせめぎあいになっている。

これまでにもこの判決をひっくり返しそうな訴訟が何度もあったし、テキサス州ではつい3年前、中絶可能な時期をせばめ、クリニックの設備についての規制を厳しくする州法が壮絶な議会バトルの末に可決された。からめ手から中絶クリニックを廃業に追い込もうとするテキサスのこの法律に対して、その後中絶クリニックが原告となって訴訟を起こし、またこれも長い裁判の末、去年の夏に最高裁で違憲とされたばかり。

プロライフの人びとにとっては、胎児の生命は神に与えられた尊いもの。人として扱われるべきであり、中絶はれっきとした殺人なのだ。
「自分では身を守ることのできない小さな生命が身勝手な理由で簡単に殺され、神から与えられた可能性をすべて奪い取られている。この罪のない生命を守らなければ」という考えかた、感じかたは、圧倒的な切実さを持ってプロライフの人びとに共有されている。

原理主義クリスチャンのサマーキャンプを紹介したドキュメンタリー映画『ジーザス・キャンプ』(2006年)でも、人工中絶について「真実」を教えられた子どもたちが泣いて憤り、どうかもうこんな悪いことは止めさせてください、と神に祈る場面があった。中絶は子どもたちにもすぐにのみ込める分かりやすい悪として、プロライフの人びとの感情を大きく動かす。

まだ生まれていない胎児に真摯な共感と同情をかたむけるプロライフの人びとは、自分たちを無垢な生命の守り手だと感じている。強烈な使命感に動かされて、中絶クリニックを攻撃したり医師を殺害するといったテロ活動に走る人も出る。

でも、では中絶を非合法化した後どうするか。というその先の議論は、プロライフ側の人からはほとんど聞かれない。その先は急に自己責任論になってしまうのだ。望まれずに生まれた子どもを教会がすべて引き取って育てるとか、貧しい母子を経済的に全面支援する計画があるわけではもちろんない。プロライフの人は、無力な胎児には共感するが、妊婦や母たちの現実にはたいして共感を向けないように見える。

プロチョイス側は、中絶を頭から禁止するのが正義だと信じてやまないプロライフの立場を、社会的に自覚のない、高圧的に道徳をおしつける態度だと考える。
プロチョイス側にとっては、産まない選択を規制によって奪うということは、その女性の生活、身体、人生についての重要な選択を政府が指図するということだ。

プロライフ側は、中絶を安易な選択だとみなし、奪われる生命に対しての共感を拒否するプロチョイスの無感覚に憤る。

プロチョイス側は、ひとくくりに中絶に反対する態度を安易だとみなし、それぞれの女性が置かれた状況について共感を拒否するプロライフの無理解に憤る。

この二つの価値観は互いに決して相手を受け入れようとしないし、両者が出会う場は敵対的な抗議活動の場でしかない。


オルタナティブ・ファクトの時代


社会にいくつもの断層を持つアメリカの中でも、女性の「選ぶ権利」はもっともセンセーショナルな注目を浴びやすい断層のひとつ。

そして多くの断層がそうであるように、この分裂は積極的に政治的に利用されている。

今回の大統領選挙でも、保守派クリスチャンの多くが、トランプの言動や品性は気に入らないが、ヒラリーがプロチョイス志向を明言しているという一点だけでヒラリーではなくトランプに投票する、と公言していた。

トランプもこの一点が多くの票を左右することを充分に意識して、選挙の2か月前にプロライフのリーダーたちに書簡を送り、自分が当選したら中絶の自由を大幅に制限すると約束し、プロライフを味方につけた。

その書簡でトランプは、NGO「プランド・ペアレントフッド」(PP)に対する連邦政府からの補助金を途絶させることを約束している。

PPのクリニックは人工中絶もするが、男女の性病検査と予防、避妊、健診も提供している。患者の8割近くは他に手段を持たない貧困層だという。

このPPに対する見方も、プロライフ側とプロチョイス側では、これが同じ団体かと思うほどに分かれている。

プロライフの目に映るPPは「堕落した組織」であり、人工中絶を推進し、胎児の臓器を闇で取引したりする、悪魔の手先のような団体。このような団体があるから、安易な中絶が後をたたず、女性たちの精神を傷つけ、堕落させると考える。

プロチョイスの目にうつるPPは、安全な中絶手術とともに避妊具やピルの配布で望まない妊娠を防ぎ、検査や治療の提供で貧困層にセーフティネットを提供している団体。PP利用者の多くには代わりになる手段がなく、PPが閉鎖に追い込まれれば社会に大きなマイナスの影響が出ると考える。

全国にあるPPのクリニックでは、2013年度でのべ400万件以上の利用があり、32万件以上の中絶手術が行われた(中絶手術には連邦政府の補助金が適用されない)。

プロライフの反対派はPPのサービスのうち94%が中絶だと主張し、PP側では中絶は全体の3%にすぎないといっている。ワシントン・ポストの分析では、どちらの数字も正しいとはいえず、患者数と中絶件数からするとおよそ7%〜14%ではないかという推論を述べている。

つい昨日、ホワイトハウスの報道官が初の公式会見で就任式の見物人の数についてウソ八百を並べたことに対し、ケリーアン・コンウェイ顧問がテレビのインタビューで「あれはオルタナティブ・ファクト(もうひとつの事実)を提供しただけ」と言って大炎上した。

事実は一つしかないという前提があたりまえだったのは、もうすでに過去の話になってしまったらしい。

対立するオルタナティブ・ファクトの間には、対話が成立するはずもない。

多くの人にとって、事実というのは「自分にはそうとしか見えない」というものの見方でしかなくなってきているのかもしれない。

プロチョイスとプロライフの対立も、ひとつも建設的な対話を生まない、オルタナティブ・ファクトにもとづいた不幸なスパイラルにしか見えない。


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