2018/06/25
コロッケ未遂
京成線の立石という駅の駅前にたいへん美味しい肉やさんのコロッケ&メンチカツがあるというので、なおみ先生とわざわざ電車に乗ってコロッケを買いに行きました。
が、お休みだった。
朝からコロッケに向けて調整をしていただけに、二人とも大きなかなしみを味わった。
コロッケの不在をたこ焼き大ちゃんで埋める。
美味しかったです。でもアツアツで、一気に食べると口のなかが大変なことに。
通過するちょっとやさぐれた猫たちや、謎のおじさんたちを見ながら公園でたこ焼きを食べる。
立石の商店街はめっちゃ寂れている。
都内で、スカイツリーから数駅で、成田にも羽田にも一本で行けるという立地なのに。
レタリングがかわいい洋品店「ダイマル」。
育児用乳製品の店も人形焼支店も、定休日ではなくて売店舗。
育児用乳製品の店のシャッターはすごく素敵なテクスチャーです。
コロッケだけじゃなくてなんかもうちょっとこうなんとかならないのかねえ、とまったく他人事ながらやきもきしてしまう。なかなか素敵な佇まいの商店街なのに。
駅前は再開発される予定で土地の買い上げが進行中。
2018/06/12
チェリー通りとIBMビル
久々にダウンタウンのチェリー通りを通りました。前にコロンビアタワーのローファームでバイトでしていた時の通勤路。コロンビアタワーの隣りに、新しいビルが完成してた。
香港ぽいなあ。「F5 タワー」。ああそうそう、あのワールドトレードセンターの新しいビルと似てるね。
19世紀からのシアトルエスタブリッシュメントの社交場、レーニア・クラブのすぐ真後ろです。
こちらはミノル・ヤマサキさんのIBMビル。
この向かい側のレーニア・タワーの後ろでも、いま、新しいビルが建設中です。
レーニア・タワーが衝撃的な形状なので、向かい側のこのビルは地味に見えちゃっていたけど、実は
「シアトルのIBMビルではそれまでの高層ビルの構造方式を覆し、中央のコア方式(現在の高層ビルに多く採用されている)を開発した
のだそうです。 (こちらのサイトより。2001年9月…)
中身は革新的なのね!
最近、こういう一見面白みのないインターナショナルスタイルとかブルータリズムがけっこう好きになってきたかもしれない。
このビルも、よく見るとラインのバランスが美しいなあ、と、初めて思った。
特に夕方の強い光と隣のビルの影がタテの細いシャープなストライプをくっきり目立たせているこの時間の壁面は、キリリとしてなんだか神々しいほど美しかったです。
2018/06/07
スザロとブルータリズム
火曜日の午後の「レッドスクエア」。本当に気持ちのよい午後だった。
左が1970年代に建てられた「 Kane Hall」。「建築鑑賞151」のクラスはこのホールの中での講義だった。
このケーン・ホールは、右のスザロ図書館(1926年建築)へのオマージュというか、そのかたちを模したものだという。
こうして並べてみると、ほーなるほどね!と思いますね。
1970年代のこのまったくそっけない様式は「ブルータリズム」と呼ばれていて、現在ではあまり人気がない。
「建築鑑賞」のクラスでも、講師のキャサリン先生が「このケーン・ホールが好きな人いる?」ときいたら、手をあげたのは2人だけだった。
それに対して、「じゃあスザロ図書館は?」という問いには、教室のほとんどが手をあげていた。
やっぱりさすがに「大学のタマシイ」。
でもわたしはケーン・ホールも嫌いじゃない。
60年代〜70年代の、ゴテゴテした装飾は捨てて、前に進むんだ!という気概は悪くないし魅力的だとおもう。しかし人類の進歩を過信しすぎて自然破壊とか公害を引き起こしたその時代のセンシティビティのなさが憎まれているのではないか。
時代の好みはいったりきたりするものですね。
2018/05/25
ノルディックミュージアムの北欧ライブ
日が長くなりました。と思ったらもうすぐメモリアルデー、5月も終わりか!
なんということでしょう。
新しくバラードにオープンしたばかりのNordic Museum (グーグルで検索すると「ノルディック文化遺産博物館」という日本語ででてくる。文化遺産博物館なのか。)にいってきました。
といってもここのホールのコンサートに行ったので、まだミュージアムの中は見てません。
これで午後8時。明るいでしょ!
バラードは北欧移民の作った町。なので、今でも北欧の子孫の人が多いし結びつきが強いのです。でも土地が激値上がりしているこのご時世に、この表通りにこんなかっこいいミュージアムをぽんと建ててしまうだけお金が集まるなんて、懐のあたたかい子孫が多いんですね。
移転する前の以前のミュージアムも風情があったけど、この建物はかっこいい。
ショップもカフェもオシャレです。
コンサートは、ミュージアムの中の広いホール。
床も壁も無垢のシダー材(たぶん) を使ってあって、さわやか。
くつを脱いで裸足であるいてみたらとても気持ちがよかった。
なんだかすし屋さんみたいな匂いがする。と思ったら、すし飯の匂いじゃなくてシダーの匂いだった。
1つめのはデンマークのLOWLYというバンド。
きのう、たまたまラジオ(KEXP)でこのバンドのインタビューを聴いて、わーおもしろそうと思って、子どもたちを誘って行ったのでした。
女の子二人のボーカルにドラム、シンセサイザー、ギターの構成。
ボーカルがすごくよかった。気持ち良い。
力がぬける感じがとても素敵でした。
CD買おうかなーと思ったけど考えたらうちにはCDプレイヤーはなかったしコンピュータにもドライブがもうついてなかった。
二つ目はSóleyちゃんというソロアーティスト。
スタンディングオンリーのホールでみんな立ってたんですが
「座ってすわって!わたしの音楽はあんまりビートっぽくないから、すわってたほうがいいわよ。良かったら寝ちゃっていいし」
とソーレイちゃんがいうので、みんな体育館みたいに床にすわって、よくわからない映像を見ながら美しい曲をぼーっと聴きました。
MCが天然すぎて素敵。4歳の女の子のママだそうです。
これは1つめのLOWLY。ものすごくカジュアルな格好で出てきたので、バンドのメンバーじゃなくてなにか運ぶ人かと思った。
そして一番前で見てたこの真っ赤な髪の女の子のふくらはぎにでっかいトトロのタトゥーがあって目が釘付けに。左の足首には謎のアフロの人の顔があってそっちも気になる。
2018/04/27
負の遺産と癒やし
きのう(4月26日)、アラバマ州のモンゴメリーに新しいモニュメントがオープンしたそうです。
これは、南北戦争後、19世紀の半ばから20世紀のはじめにかけて南部で日常的に行われていた黒人へのリンチを記憶するためのメモリアル。
人権活動家で弁護士のブライアン・スティーブンソンさん(無実の死刑囚を100人も釈放するのに成功した人だそうです)が主宰するNGO「EJI」の弁護士たちが、南部各地の地元の図書館で文献にあたって4000件以上のリンチ事件を確認して記録にし、それをもとに作ったもの。
リンチ事件のあった各カウンティ(行政地区)ごとにひとつずつ、墓石のようなモニュメントを作成し、犠牲者の名前と日付を彫り、天井から鉄の棒で吊るしている。
メモリアルに入るとそれが目の高さにあるのだけど、先に進むにつれ、床がだんだんと低くなっていき、やがてモニュメントを頭上に見上げるようになる。ちょうど、リンチされた遺体が吊るされていたのを見上げるように。
オプラ・ウィンフリーさんがモニュメントを尋ねてスティーブンソンさんにインタビューした『60ミニッツ』の一部がウェブで観られます。
15分くらいのビデオなので、ぜひぜひぜひ観てほしいです。
後半に、凄惨な写真がでてきます。
木の枝や広場で吊るされている死体と、それを取り囲んでいる白人の大群衆の写真。
黒焦げになった黒人の死体の前で微笑んでいる白人の男の子たち。子どもたちも。
こういうリンチ場面は、夜中にひっそり行われたものばかりではなく、むしろ何千人もの人々が見守る真ん中で行われた。
中世の公開処刑や魔女裁判と同じような、みんなが見に行く町の大イベントだった。
ほんの100年もたっていない時代の話です。この当事者たちや家族がまだ生き残っている。
そしてなんとこういう場面を記録した記念写真が絵葉書として流通していたのだそうです。
…この事実は以前アメリカ史の授業を取ったときに知って愕然としたのだけど、アメリカ人でもあまり知っている人は少ない。
吊るされた黒焦げ死体の前の記念写真は絵葉書として、
「昨夜こんなバーベキューしたんだぜ♪」
という文章とともに送られたそうです。
『60ミニッツ』のディレクターもこういった写真を番組で公開することには躊躇したそうですが、やはりスティーブンソンさんが言うように、忘れたふりをしたり、なかったことにしたりすることでは決して傷は癒せない、直視することでしか社会は過去を乗り超えられないのだ、という意見です。
これがこの記念館の意義であって、スティーブンソンさんも
「アメリカを罰したいのではなく、解放したい」
といっています。
過去と現在の問題を直視することが、黒人だけではなく白人の当事者にとっても、国全体の癒やしの始まりとなるはずだ、というのが彼の主張。
未解決の大きな問題があるときに取る最悪の態度は、それをないものとして扱ったり避けて暮らすこと。
でもアメリカという国は、それを100年以上も避けてきた。
ここでようやく、アパルトヘイトやホロコーストの記念館にインスパイアされて、この記念館が出来た。
場所は、アラバマ州モンゴメリーという、公民権運動のもっとも激しい前線のひとつだった場所の丘の上。
かつて奴隷貿易の港があった川と、公民権運動のさなかに州知事が「隔離政策は永遠だ」と演説した州庁舎を見下ろす場所。
ここでは、奴隷貿易から、黒人男性の多くが(多くが無意味に、驚くほど偏った割合で)刑務所に収容されている現在までをひとつながりの歴史として展示しています。
リンチがあった現場の土が、ボランティアや親族の手で集められビンに詰められて、館内に展示されています。
遺物を見るのではなく、歴史を目で見て感じられるかたちにした記念館。
きっと、こういった展示にハラワタが煮えくり返るほど怒りを感じる人も、これはみんなフェイクニュースだ、捏造だと言い出す人も、無意味だと言い出す人もいると思う。
でもこういう淡々としていながらものすごく強い、そして冷静な癒やしへの意思があることそのものに、本当に救いを感じます。
ニューヨーク・タイムズのウェブ版にも昨日、長い記事が出てました。
この記念館はかたちが変わっていくというところもいいなと思います。
吊るされたモニュメントと同じ数のモニュメントが屋外に並べられ、それらは、各カウンティから要請があり条件が整えば、それぞれの地元に設置されていくというのです。
私がいま取ってるクラス(Appreciation of Architecture)の講師の先生が今週このメモリアルのオープニングに招待されたとのことで、今週はインドの建築を勉強するはずが、急遽カリキュラムが変わってこのメモリアルのビデオを見ることになったんでした。
それから、このメモリアルの設計を手掛けた建築家マイケル・マーフィー(イケメン)のTEDトークもすごくよいです。
こちらは日本語字幕付き。 念のため繰り返しますが、イケメンです。頭も顔もよくてコミュニティ活動家で才能ある建築家。こんな人が実在するのか!
ウガンダの虐殺があった場所に、地元の素材を使い、地元の人々の手でコミュニティを癒やすための病院を建てた話にも、打ちのめされた。
意思をもって淡々と行うところに癒やしはほんとうに実現するし変革は可能なのだと、この人たちは証明してみせてくれてます。
2018/03/31
今年の桜
ちょっと出かけていて帰ってきたら、シアトルではいろいろ花が満開でした。
学校もはじまっておる。今日のワシントン大学。
桜を見に来ている人たちもたくさんいるので、 キャンパスはいつもよりも人が多くて賑やかな気がします。
こんなに古めかしいビルだけど、ここは地球と宇宙のサイエンスの学部のビル。なにも用事がないので入ったことはない。
キャンパスのまんなかにあるQUADの桜は、ほぼ満開でした。
これでいちおう、シアトル一の桜の名所です。
日本の桜を見に行きたいなー。
樹齢80年近いという年取ったソメイヨシノたちが頑張ってまだ花をつけています。
世代交代が進行中だそうなので、この老木は今年が最後かもしれません。
曇りの金曜日。
空が暗いので、いまいち盛り上がりに欠ける。
日曜日から雨の予報なので、週明けに散っちゃうかもしれませんね。残念。
2017/12/11
日本人初のハリウッド大スター
今回のソイソース「たてもの物語」は、シアトル・ダウンタウンのバナリパを紹介してます。
写真は夏に撮ったもので、季節感がなくてすみません。
ソイソース、Issuuを使ってオンラインでも見やすくなってます。
よろしければぜひご覧くださいませ。
コラムで紹介しているとおり、このビル、「ザ・コロシアム・シアター」というサイレント映画時代の豪華絢爛な映画館だったのですが、1916年1月のオープニングを飾ったのは、セシル・B・デミル監督の『The Cheat』。
早川雪洲が悪役の日本人を演じて大人気スターになった映画で、サイレント映画の傑作といわれてるそうです。
愛人にしようとした白人女性に、自分の所有物というしるしに焼きゴテをあてるという、もう実に悪辣で残虐非道な金持ちの役です。
しかもその焼きごてが「鳥居」のマーク!(「トリ」という謎のファミリーネームで、どうやら鳥居が家紋らしい)
白人の財産や女性を食い物にする黄色人種という、20世紀初頭の人種偏見をそのまんま反映したステレオタイプなキャラクターだったのですが(ユダヤ人のステレオタイプでもありますよね)、このクールなマスクとセクシーさが白人女性の間で人気爆発、ルドルフ・ヴァレンティノと並ぶエキゾチックな大スターになったそうです。(バイ・ウィキペディア情報)
ちょうど、アジア人の移住を実質禁止する移民法が制定されていく頃だというのは皮肉ですが、とにかくものすごい人気で、アメリカ中でセッシュウ・ハヤカワを知らない人はいないくらいの勢いだったらしい。
雪洲が出る映画は、白人女性のファンはそわそわとおめかしして観に行ったという話もあります。
ちょっと気味悪いけどエロっぽくて目が離せない感じは、『パイレーツ・オブ・カリビアン』のジョニデみたいな存在だったのかしら?ちょっと違うか。
むしろアニメの美形悪役キャラのようでもある!
イロモノぎりぎりの色男。
やばい人。異世界の人。というアンタッチャブルな存在だから、ますますゾクゾクしたのかも。
早川雪洲って名前くらいはさすがに聞いたことあったけど、どんな人だか、ほとんど知らなかった。
20世紀初頭にこんな超弩級の日本人スターがいたんですねー。実生活の女性問題でもいろいろ大変だったみたいですが。
アメリカ映画界を追われてパリに移住するきっかけになったのが、白人女優との間の不倫で子どもができたことだったというのがなんともいえん。
後年、パリに移住し、長いブランクのあと『戦場にかける橋』に出演したときにはハリウッドの大御所たちが大歓迎したんだとか。
雪州は1907年にシアトルからアメリカに入国してるんですね。シアトルってなにげに、アジアからの移民にとっては太平洋の玄関だったのね。
2017/12/07
快晴と10ミリオン
快晴です!
昨日も今日も、雲ひとつない空。
シアトルに住むまで、日の光がこんなに大事なものだと実感したことはなかったです。
とくにハワイ生活では、日よけのことばかり考えていたなあ。
何日もじめじめした曇りと雨が続いたあとでスカッと晴れた朝、久しぶりにさえぎるもののないストレートな日光を浴びると、映画『Wall-E』で、Wall-Eちゃんが日光でチャージして生き返るシーンを思い浮かべて、マックの再起動音が頭のなかに響きます。いい映画だったなあー。
太陽光パワーすごい。ビタミンDかなにかが知らないけど、何かができてる気がする。
今日はタコマ山AKAレーニア山も見えてました。
「アメリカの60年代」のクラスは右のレンガの建物、Mary Gates Hallというところに行ってました。
古いビルだけど改装されてまんなかが吹き抜けのスペースになってて、けっこう快適でした。
メアリー・ゲイツさんは、ビル・ゲイツさんのお母さん。
ワシントン大学の卒業生で、長年理事をつとめていたんだそうです。メアリーさんが亡くなったあとでゲイツ家から大学に10ミリオンの寄付を受けたのを記念して、この建物に名前をつけたそうです。
さらっと10億円。
ちなみにロースクールの建物はビルさんのお父さんの名前がついてます。お父さんもここのロースクールの卒業生で、やっぱり長年理事だったそうです。
やっぱりシアトルでは、ゲイツ家の存在って大きいですねー。
今日で秋学期の授業は最後!
ほんとに早いなあ。あっという間だったー。あらゆる意味でついてけてない。
あとはペーパーと期末試験。
しかし快晴だからといってやる気は出ないのだった。いかーん。
明日からほんとうに心を入れ替えよう。明日から。
そして町はすっかりクリスマス仕様ですっかり舞い上がっていやがるのである。
2017/11/04
イオラニ宮殿の悲劇(その2)
カラカウア王は新しもの好きで、宮殿に当時最新技術であった電灯をつけるため、私費を投じて蒸気発電機を設置したそうです。
電話や水洗トイレまで完備。
この宮殿は明治15年完成ですよ。当時、まだホワイトハウスにも電気は引かれていなかったそうです。
立派なトイレ。
この宮殿は、完成からほんの10年ほどで、ハワイ王国が乗っ取られる舞台となってしまったのでした。
今回、森出さんにツアーで案内してもらいながら、そのひどい話をあらためてしみじみと実感できました。
1887年、サトウキビプランテーションなどの事業でハワイのビジネスを牛耳っていたアメリカ人実業家を中心とするグループが、カラカウア王の顧問役で王国の首相をつとめていたアメリカ人を追放し、王の権限を大幅に制限する憲法、いわゆる「銃剣憲法」の発布を迫ります。200人ほどの武装した一般人(全員白人)のグループがうしろについていたのだそうです。
アメリカ人実業家たちのグループが最終的に目指していたのはハワイをアメリカの領土にすることで、それはその後10年ほどで実現しました。
カラカウア王の死後、1891年に王位についた妹のリリウオカラニ女王は王権の復活を目指したものの、1893年にこの白人実業家グループの「革命」が勃発。
王国は「共和国」となります。
このときのリーダーで、共和国の大統領になったのは、パイナップル王国を築いたドールさんの従兄弟、サンフォード・ドール。
ハワイ最後の女王となったリリウオカラニ女王は、今もハワイの人々に深く敬愛されています。
アメリカ人の手によって起こったこの「革命」の話を聞いてびっくりしたクリーブランド大統領は、この共和国は違法であるとして女王に王権を戻すようはたらきかけますが、太平洋の真ん中のこの実業家たちは聞く耳もちませんでした。
女王は宮殿を退きましたが、当然ながらハワイアンたちの間には怒りに燃えて共和国を王政に戻そうと画策する人が多かったことでしょう。
共和国の政府にとっては、そんな動きはむしろ、良い口実になってしまいました。
翌々年、1895年、王政派のクーデターが未遂に終わった後、自宅から武器が発見されたとして、リリウオカラニ女王は謀反罪で逮捕され、裁判にかけられて、イオラニ宮殿の一室に監禁されます。
リリウオカラニ女王は流血を望まず、クーデターにもかかわっていなかったといいます。
女王は自分の宮殿に幽閉され、正式に退位を表明する署名をさせられます。
その3年後、ハワイ共和国はアメリカの領土となったのでした。
音楽の間には、リリウオカラニ女王が作曲した名曲「アロハ・オエ」の譜が飾ってありました。
リリウオカラニ女王が幽閉されていた部屋には、女王を記念するキルトが展示されてます。
クレージーパッチワークの真ん中に、日付が刺繍された布。
一つの布には、生まれた日、王位についた日などが刺繍され、右下の青い布には退位した日付と証人の名前が刺繍されています。
これは、本当に寂しい部屋。2階の東南側の、とても小さな部屋です。
これほどの悲しい出来事が刻みつけられたキルトに思いが残らないほうが不思議かもしれません。
リリウオカラニ女王の無念が目の前にかたちになっているようで、とてつもなく悲しくなりました。
でも女王は、退位を表明してからは恨みの気持ちを表したりすることは一切なく、ハワイの人々の暮らしの向上のために尽くしたそうです。
王座があった謁見の間。リリウオカラニ女王が謀反罪で裁判にかけられたのもこの部屋なのだそうです。
宮殿は、ハワイがアメリカに併合されたあと庁舎として使われ、調度品のほとんどは売り払われてしまったのですが、1970年代に宮殿を歴史的建築物として保存することが決まって以来、かつて宮殿を飾っていた家具調度を文字通り世界中から買い戻し、少しずつもとの姿を取り戻しているそうです。
じゅんさんによると、宮殿のツアーに参加した人が、飾られていたかつての室内の写真を見て、「この家具は家にある!」と気づいたこともあるのだとか。
孔雀の羽根をつかったドレスはレプリカだそうです。
ちょうど、この宮殿が完成した年は、大平原で米国陸軍と戦ったスー族のシッティング・ブルが降参した頃でもありました。
シアトル酋長が亡くなったのはそのもう少し前ですね。
19世紀半ばまでにすっかり片隅に追いやられた米国本土のネイティブ・アメリカンの人々とは違い、ハワイは一世紀近く独立した王国を保ち、その後抑圧された時期を経たとはいえ、20世紀後半に文化がまた花開いて、世界中の人々からロマンチックな憧れを持って愛されています。
その後ハワイに住み着いたいろいろな民族の移民にとっても、ハワイが好きで遠くからやってくる観光客にとっても、一度も行ったことのない人にとっても、ハワイはなんだかすごく明るくあたたかくポジティブな存在でいてくれる。
でもこの宮殿は、大国にねじ伏せられた怒りと悲しみを忘れてはいません。
当然のことだけれど、その怒りはまだ、今生きている人たちの中にも静かに流れています。
ハワイはほんとうに明るいポジティブなパワーに溢れた場所なので、ついそのあたたかさにだけ浸ってしまうけれど、ふっと日が陰った瞬間には、そういう厳しい歴史がじっとこちらを見ている場所でもあるのですよね。忘れられて良いことではないし、それどころかアメリカ人の中にはこの事実を知らない人が多いので、ちゃんと学校で教わってほしいなあと思います。
2017/10/09
変わるハワイ、変わらないハワイ
ワイキキ〜。
先日も書きましたが、6年ぶりのハワイは、基本変わっていない風景の中に新しいものがパラパラと出来ていて、なんだか不思議だった。
変わらないザ・バス。
自転車シェアリングは最近できたばかりだそうです。
今回は使ってみなかった。
ワイキキにはリッツカールトンの高層レジデンスタワーができてるし、アラモアナショッピングセンターの敷地内にも高級コンドミニアムが完成してました。
シャトルの運転手さんもUberの運転手さんも、「2ミリオンからだってよ!ペントハウスは10ミリオンだってよ〜!」とウワサをしていた物件。公園が目の前だしねえ。
アラモアナセンターには新しいウィングが完成してて、新しい中庭には草間彌生さんのかぼちゃも登場してた。
ワイキキとアラモアナセンターに追加されていたのは、ハイブランドのブティックが多いモールと超高級コンドミニアムのキラキラした建物。
そしてカカアコ地区も激変してました。
こちらは変わらない、昔のIBMビルディング。
まわりにはハワイ原生種のナウパカが植えてありました。
はちの巣みたいな外観はウラジミール・オシポフさんというハワイで活躍したロシア出身の建築家の代表作で、ミッドセンチュリーの頃の「トロピカル・モダン」の様式。
取り壊される話もあったのが保存されることになり、今はコンドミニアムの販売オフィスが入ってます。
この周囲はすごい勢いで開発が進んでいて、ピカピカのビルがたくさん建っている。
ドラマチックなライトアップで、レースみたいなハチの巣構造がショーアップされててキレイでした。保存されてよかったね。
そういえば昔はこのビルに保険のGEICOが入ってて、車で事故ったときに、多分インスペクションかなにかの手続きで来た覚えがある。
そしてここのビルの駐車場は週末と夜間は無料で使えたので、よくここに車を置いて、すぐとなりのバーンズ&ノーブル書店のカフェに勉強しにいった。そのバーンズ&ノーブルも今はBED&BEYONDかなにかのホームデコレーションの店になってて、ここの駐車場にはゲートが出来て入れなくなってました。
こちらもレトロなトロピカルモダン(レトロなモダンって妙ですね)建築の、州庁舎。
まんなかががらんどうの吹き抜けになっている、官庁としては破格に開放的な建物です。
チャイナタウンも変わってて、以前は終戦直後みたいなバーばかり並んでいたホテル・ストリートに、オシャレでアップスケールなバーやレストランが増えてました。
評判を聞いて行きたかったThe Pig and The Ladyで、このところ続けてお仕事を頂いている編集プロダクションの代表リサちゃんとランチ。
ここのお仕事はとても楽しいです!
いつもメールだけでやり取りをしているので、もうちょっと年長の方かと思ってたら若くてびっくり。2008年に大学卒業っていってたから、80年代生まれ、30代そこそこか。
食のシーンでも、デザインやファッションも、こういう広告出版系も、ハワイの新しいトレンドはこういう元気な20代〜30代のミレニアル世代が引っ張っている感じがすごくします。
ホテルストリートの古いビルを改造したお洒落オフィス。
店でもなんでも、NYやサンフランシスコなどの大都市にひけをとらないデザインはハワイにはあんまりなくて、やっぱりちょっとださっ、でも南の島だからまあしょうがないか、みたいな感じだったのがぐんと変わってきてる。
お金持ちの資本がハワイに流れこんでいて景気が良いということももちろんあるんだけど、シェフでもデザイナーでも、本土で教育を受けてUターンした若い人たちが自分たちで活躍の場をつくってる感じがとても頼もしい。
こちらも変わってなかった、チャイナタウンのPHO屋さん。でもちょっとファンシーなパパイヤサラダがメニューに増えてて、おばさんが日本語上手になってた。
シアトルにもPHO屋さん多いけど、やっぱりここのが一番うまいですだよ。
もやしと一緒についてくる草も、これシアトルではないんだよねー。そしてライムではなくて、地元産の超ジューシーなレモンがついてきました。
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