2021/12/25

雨のクリスマス


メリークリスマス!

あっという間に冬至も過ぎて、クリスマスです。 一年でいちばん暗いときが終わって、これから日が長くなる…とはいえ、どよんと重い空がつづくシアトルです。

 


きのうの夜、この天気予報を見て、これはアプリが壊れたのか?バグ

か?と思いました。マイナス11度C??シアトルでこんな数字、見たことない。

しかも最高気温がマイナス6度C?アラスカか?

(その後、予報が少しやわらぎ、予報最低気温がマイナス11度からマイナス8度になりました)

日曜日が雪の予報で、そのあと1週間つづけて、元日まで、氷点下以下の極寒の日がつづくというんで、きょうはあわてて、日系スーパーのウワジマヤさんに、お正月用の餅やかまぼこなども買いにいきました。さすがに混んでたー。

雪がそれほど降らなかったとしても、道路が凍ると、うちのプリウスちゃんは走れないかもしれないので。坂道怖い。

おでんセットも買ったので、もうばっちりです。

 

 

冷たい雨が降ったりやんだりのクリスマス・イブ。

 スーパーは混んでいたけれど、街にはあんまり人は多くありませんでした。

 

 

今年の青年へのプレゼントは、書籍(このあいだ日本語版を読んで面白かった『ノヴァセン』英語版)、サクラのドローイング用水性ペンセット、そして木綿の毛布、という、実用的なラインナップです。



 オーナメント少なめで地味ツリーなんだけど、キャンディーケーンを飾ったらちょっとにぎやかになりました。

 


 クリスマスのなかまたち。

リボンをくるくるパーマにする技法は(ナイフでぴーっと圧を加えるだけですが)、かつて少年サッカーチームのファンドレイジングでクリスマスラッピングをしていたときに学びました。どこにでも学びはあるものですww

平和で良いクリスマスでありますように。


 

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2021/12/22

ドライブ・マイ・カー


 SIFF UPTOWNに、CTちゃんご夫妻と青年といっしょに、日本映画『ドライブ・マイ・カー』を観に行きました。

映画の前にお向かいのハンバーガーショップ、Dick’sに行ったら、店内のテーブルや椅子がすっかり取り払われていて、体育館のようになっていて驚いた。

これは、しばらくは、ウィズコロナの時代だ、っていう宣言なんでしょうか。

お店としては、いちいちワクチン接種の確認ができる業態でもないし、たしかに、店内で食べてもらうメリットはないわけだよね。

しかたなく、まるで放課後の中学生か高校生のように、お店の外で立ってハンバーガーを食べる。 

 

 


 

ロビーに貼られたポスターにはもれなくサンタの帽子がくっつけられていましたww
西島秀俊さんにも。

赤いサーブによく似合うサンタ帽子。こういうデザインのポスターなのかと思っちゃった。

なんと上映時間3時間の長編映画と聞いて、いったいあの短編(村上春樹『女のいない男たち』所収の『ドライブ・マイ・カー』)からどうやって3時間の映画が、と思ったけど、なるほどー。

静かで淡々とした(さいきん、気に入った映画にはこの形容ばかり使っている気がする)語り口で、3時間たいくつしませんでした。お尻はちょっと痛くなったけど。

場面転換がとっても上手で、だからそれぞれの場面はとても静かなのだけど、全体がテンポ良く感じます。

カメラワークも、わざとらしいような美麗さは狙ってないけれど、なんていうか、安定していてビシッと決まっている。とっても控えめな詩情というか。


以下多少ネタばれあり。

原作の短編に、別の作品のエピソードも織り込まれ、さらに劇中劇としてチェホフの『ワーニャ伯父さん』がものすごく効果的につかわれていて、わたしはチェホフの、ソーニャのセリフで泣きました。

チェホフも10代のときに読むはずだった名作シリーズ。帰ってきてさっそく、青空文庫にダウンロードしました。

役者たちが、チェホフ劇をそれぞれ自分の母語で演じるという多言語舞台は、原作にはない映画だけの設定。

ひとつの舞台で、ひとつの物語が、日本語、韓国語、中国語などで進行していくという、不思議な多言語舞台を、主人公の家福さん(西島秀俊)が演出するという設定です。

あらかじめ、コミュニケーションが成り立たない設定のなかで、普遍的な物語を紡いでいく舞台。

同じ言語を使っていてさえ、どうしてもすれ違い、どんなに近くても完全に理解することができない、わたしたちのコミュニケーションというものの不完全さを象徴しているような。

でも、言語が違っていてさえ、同じ場、同じ時を共有するものの間に、つたわるもの、つながるものもある。それはなにか、同じ時代を生きている人間のあいだに普遍的なもの、ということなのだと思います。チェホフの劇にはそれが表現されているし、そういうものがあるということは救いです。

帰ってから原作を読み直してみたら、ハンサムな役者、タカツキ(映画では岡田将生が演じ、原作よりもずっと若くてずっとわかりやすく問題をかかえて派手めに壊れている人という設定です)が主人公の家福に語るセリフは、原作のままでした。

「どれだけ愛している相手であれ、他人の心をそっくり覗き込むなんて、それはできない相談です。そんなことを求めても、自分がつらくなるだけです。しかしそれが自分自身の心であれば、努力さえすれば、努力しただけしっかり覗き込むことはできるはずです。ですから結局のところ僕らがやらなくちゃならないのは、自分の心と上手に正直に折り合いをつけていくことじゃないでしょうか。本当に他人を見たいと望むのなら、自分自身を深くまっすぐに見つめるしかないんです。僕はそう思います」

そして家福と高槻は「お互いの瞳のなかに、遠く離れた恒星のような輝きを認め」あうのだけれど、二人が会うのはそれが最後になる。
映画ではさらにドラマチックな展開になっていきます。

 




映画は、ぜんたいに、村上春樹の原作よりもずっとストレートに、人の痛みと、前向きなもの、つながりへの信頼的なものを描いていると思う。

 映画も原作もそれぞれ素敵です。

小説は、心のつまづきのようなものを、はっきりした形で示さずに、染みのようにぼんやりと体感させてくれる。

映画は各キャラクターの痛みとつまづきを、率直に、一定の距離から描く。

広島という都市の痛みも、とても控えめに静かに描かれていました。

役者さんも素晴らしくて、とくに無口なドライバー役の三浦透子と、奥さん役の霧島れいか、初めて見たけど素敵でした。

あと韓国の俳優さんたちも、すごくよかったです。

いい人っぷりが顔じゅうに輝いている、演劇祭の世話役の人(アンパンマンが実写で演じられそう)、そして、ソーニャを演じた女優さんがめちゃくちゃ存在感あって、見ているだけで飽きませんでした。

おすすめでーす。お尻が痛くなるけどね。

 


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2021/12/20

ぜいたく貧乏

 



Sさんからお借りしている森茉莉の『贅沢貧乏』を読みました。

とっくに読んでいたはずだったのに、実は読んでいなかった数多い本のひとつです。10代後半のころ、読まくちゃと思っていたのに。どうして読まなかったんだろう?

文豪・鷗外の愛娘であり、かつては髪を洗うのさえお手伝いさんにやってもらっていたご令嬢であった茉莉さんが、風呂もなく台所も共同の安アパートに住みながら、圧倒的な美意識でもって「豪華の空気」をつくりだし、そのなかで陶酔の日々を送る生活を描いた、すさまじいエッセイです。

 痰を吐き散らかしパンツ一丁であるきまわる同宿の住人たちに怒りつつ、ほかの人の目から見ればたんなる安アパートの貧寒な部屋のなかで、うっとりとして、かつて遊んだ巴里、ヨーロッパの幻と、華麗にかがやく美の世界に住む「魔利」さん。

魔利は、魔利を取り囲むもろもろの物象の中に横たわり、朝の光、睡りを誘い出す午後の明るさ、夜の灯火の、罪悪的な澱み、それぞれの中で、花と硝子と、菫を浮かべて白く光る陶器。壁の、ボッティチェリ、ルッソオの画に目を止め、陶酔の時刻(とき)をおくっているのだが、もし魔利が陶酔しているのだということを人が知ったら、その人間は(何処が陶酔?)と失笑し、しかる後おもむろに魔利の顔をみて、魔利の精神状態に懐疑を抱くに違いない。
(8P )

 




昭和の世の東京で、小金持ちたちが住む「貧乏臭い新興階級の、読みもしない本棚、手品師の布のような紅い絨毯」にかこまれた「空虚な空間」を忌み嫌う茉莉さん。

「ぼこついた」「番茶で染めたような色の」畳の部屋に、「進駐軍払い下げ」の、「薄汚れた、ニスを塗った木製の寝台」を美しくしつらえ、「空壜の一つ、鉛筆一本、石鹸一つの色にも、絶対こうでなくてはならぬという鉄則によって」選びぬいた自分だけの夢の空間をつくりだす。



 

自分の美意識にふてぶてしいまでの自負を持ち、空き壜や空の色に恍惚とし、ボッティチェリの色あせた複製画のなかに光り輝く春の色彩と洗練を幻視する。

美とそのまぼろしにひたる喜びは、まじりけのない幸せです。

それを描写する茉莉さんの美しい言葉を読んでいると、幸福感が伝染してきます。


自分のものさしをしっかり持っていること、感覚に正直でいることの強さ。

ひとのものさしで自分を測って、一喜一憂しない強さ。

茉莉さんにはとても及びはつかないものの、見習いたいものです。



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2021/12/16

バカの壁が立ちふさがっている

 



KindleUnlimitedに入っていたので、養老孟司さんの『バカの壁』を読んでみました。

言わずとしれた大ベストセラーだけれど、いままで読んだことはなかった。




「平成で1番売れた新書」
「450万部突破!」
「129刷超!」
と、帯にどどーんと太く赤い数字が、たくさんついている。

129刷って……!

とてもおもしろかったです。

2003年に刊行された本なので、出版後もう約20年たつのに、今読んでも、とても適切。 

 


というより、今こそ、ますます必要とされている指摘がたくさん含まれていると思いました。

面白かった点はいろいろあったけれど、特に大切だと思うのは、ごくシンプルだけれど深い、次の三つの把握。

*人間は変わるもの、流転するものである一方、情報は永遠に残るもの。(これをあべこべに考えている人が多い。特に「自分」というものは変わらない、と思いこんでいる人が多い)

*社会は「共通理解」でできている。(言語とか文化とか常識とか)

*情報化社会とは、意識中心社会、脳化社会ということ。都市とは、つまり、意識が作った世界。


そして、「人間は変わらない」というまちがった前提を持ち、それに無自覚であることが、「壁」をつくる原因だと、養老先生は言う。

「人は(自分は)変わるもの」というのは、当たり前のようだけれど、実感として理解している人は案外に少ないのではないかと思う。

人は変わるもの、うつろうもの、というのは、2009年に刊行された福岡伸一さんの『動的平衡』にも通じる把握です。当たり前なのだけれど、衝撃的。だと思いませんか?
わたしにとっては、それを思うたびに衝撃的です。

たぶん、それまで何十年かの人生で、人は、自分は、固定されたもの、と無意識に思ってきたからだと思う。でも人間ってじつは、とても流動的なものなのだ、というのは、わたしにとってけっこう大きな革命でした。

わたしたちは、物体としても分子単位で毎秒入れ替わっているし、意識という面でも、決してじっと動かない、完成したものではない。

20年前の自分といまの自分では、完全に別人といってもいい。

なにかを新しく知るということは、自分が変わるということ、自分が違う人になったということであり、つまり、死んで生まれ変わったのと同じこと、と養老先生は言う。

これはとってもよくわかる。

このことを、ガンで半年の命と告知をされた患者にとっては毎年見ていた桜の花が違って見えるというたとえでこれを説明しています。わたし自身がん患者なので、文字通り他人事ではなく、よくわかります。

今だったら、東日本大震災の経験を経て自分が変わった、という実感を持つ人は多いと思う。

ものの見方が更新されるということは、生きる世界が変わるということ。






自分は変わらないと思い込んでいると、「一元論」的な世界に入り込んでしまい、それがバカの壁をつくるもとになる、と養老先生は警鐘を鳴らします。

頭のなかの活動を、養老先生は

Y(出力)=X(脳への入力 )a

というかんたんな方程式であらわしています。出力は、しゃべったり書いたりというだけでなく、脳内で考えることも含まれる、意識的な出力すべて。

入力は、見たり聞いたり、感覚器官から入ってきたあらゆる情報。これに「係数a 」をかけたものが出力となる。

係数a とはなにか。養老先生は、それをいわば「現実の重み」と言っている。

これはちょっとわかりにくいけれど、要するに、フィルターと考えてもいいと思う。
自分がいままで生きてきたなかでつちかわれた、ものごとをどうとらえ、どう反応するかについてのフィルター。

あることについての係数が「ゼロ」だと、どんな入力があっても、出力もゼロ。
そのことについて考えることはいっさいなくなる。

つまり、その人にとって「現実」ではなくなる。

たとえば、イスラエルについての批判は、イスラエルの多くの人にとって係数ゼロがかかっているので、耳にはいらない。

逆に、係数が固定されて「無限大」になっているのが原理主義であり、ある情報が絶対的な現実としてその人の行動を支配する、というのです。

原理主義は典型的な一元論で、「壁の内側だけが世界で向こう側が見えない。向こう側が存在しているということすらわかっていなかったりする」ものの見方。

これは短期的には強さを発揮しても、かならず破綻する、という。

これがまさにまさに、いまわたしの住んでいるアメリカで実際に驚くべきスケールで起きていることだし、日本でも世界中でもここ数年、ますます頻繁に、ますます激しく見られるようになってきたことです。

トランプが意識的にやっているのがまさにそれで、架空の壁をつくりあげ、その向こうにいる人たちを徹底的に悪認定する。ありとあらゆる罵詈雑言でけなし、貶めることで感情的に盛り上がる。

どんなに現実と矛盾していても、壁の内側の現実だけを絶対視して、それと矛盾すること、対立するものを徹底的に排除しようとする。

これは原理主義にほかなりません。

原理主義が育つ土壌を、養老先生は「楽をしたくなる」気持ちだといいます。

「楽をしたくなると、どうしてもできるだけ脳内の係数を固定化したくなる。aを固定してしまう。それは一元論のほうが楽で、思考停止状況が一番気持ちいいから」(143ページ)

養老先生は、考えることというのは「重荷を背負うこと」であり、人生は崖登りのようなもので、手を離したら真っ逆さまに落ちてしまう、と言います。

つまり、自分の頭のなかにある係数はなんなのかをつねにチェックし、必要であれば更新していくこと、そのために現実と自分と正直に向き合っていくこと、が必要、ということなのだと思います。

「学問とは、生きているもの、万物流転するものをいかに情報という変わらないものに換えるかという作業 」と、養老先生は言います。それはしんどいけれど、とてもエキサイティングな作業でもあるはずです。

学問に限らず、生きている以上、ヒトである以上は、それが大切な仕事なのだと思います。

それを怠ると、たちまちバカの壁に囲まれてしまう。気持ちがよいけれども、壁の向こうから攻撃を受けることをつねに恐れ、攻撃しようと構え続ける状態に、陥ってしまう。

バカの壁は、2021年のいま、ますます厚く、高くなり、とくにこのアメリカという国のまんなかに、堂々とたちふさがっているのです。

では原理主義に対抗できる普遍原理はなにかといえば、それは人間であることの普遍性、人として何をよきこととするか、という「常識」ではないか、と養老先生は結びます。




ほかにも、とても面白い、的を得ていると思った指摘がいくつかありました。


*都市に住む人の多くは、自分の身体に向き合う機会を持たない。

これは、とくに今の日本の若い人の書いたものを読んでいると、真実だと思うし、ますますその傾向が加速していくのだろうと思います。

日本の若い男性の4割が恋愛経験をまったく持ったことがないというのも、それを裏づけていると思うし、メタバースとかの仮想経験が普及すればさらにその傾向が強まるのでしょう。


*都市宗教は必ず一元論化していく。都市の人間は弱く、頼るものを求める

プロテスタントのほうが原理主義に近く都市型、というのは、いまのアメリカの内陸部、「ハートランド」つまり田舎で、原理主義的なプロテスタントの信仰のありかたが奉じられているのを考えると、面白いと思います。

アメリカでは逆に、沿岸の大都市の環境が、自然に近いのかもしれない、と思いました。
ニューヨークとかサンフランシスコのような都市では、あらゆる人種や階層がせまい地域に入り混じり、さまざまな「他者」との共存(または「併存」)を強いられる。
これは一種ジャングルのようなもので、個人はいつも係数aの更新を求められます。

養老先生のいう人工的な、一元的な環境は、アメリカではむしろ郊外や田舎にあります。


*「共通理解」を求められつつも意味不明の「個性」を求められるという矛盾した要求の結果派生してきたのが「マニュアル人間」。

個性というのは探しにいくものではなくて、生まれつき備わっている「身体」そのものである、「意識」のほうに個性を探そうとするのは間違い、というのももっともだと思うし、日本の社会のなかで意識的に「個性」を探せというのは、まったく無茶な話、というのも納得です。 

 

*戦後の日本では共通理解のもとになる共同体が一方で残り、一方で壊れている。

「結局、日本の社会は機能主義に共同体の論理が勝つ」
「現代ではかつてあった大きな共同体が崩壊し、会社や官庁など小さな共同体だけが残っている。小さな共同体の論理しかわからなくなっているので常識がなくなった」

これはもうほんとにその通りで、最近の官僚のスキャンダルなどを見ていても、そうなんだろうなあ、としか思えないです。

つまりここでいう「常識」というのは、人としての大きな視点に立った「倫理」なのでしょう。組織のために生き続けてきたので、ヒトとしての善悪がわからなくなってしまうという。

*日本語の助詞「は」は定冠詞

英語を学びはじめたときにぶちあたる難しい概念のひとつに、定冠詞と不定冠詞の違いがありますが、これはなにも、日本語の世界にはまったく存在しない概念ではなくて、日本語では助詞として存在している、という。

「あるところにおじいさんとおばあさんがおりました」
というのは不定冠詞(a、an)で、特定のおじいさんを導く。
そのうえで
「おじいさんは、山へ柴刈りに」
というときの「は」は、特定のお爺さんが動き始める定冠詞の役割を果たす。

これは目からウロコでした。なるほどー。日本語では、英語ほどハッキリとしたかたちでそれが認識されていないということなんですね。

 

いろいろ示唆にとんだ本でした。語りおろしで、まとめた編集者の人も凄腕だなあ、と思います。




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2021/12/15

ことしのツリー

 

 

ことしはツリーなしでもいいかな、なんて思っていたのだけれど、クリスマスまであと10日ばかりになった月曜日、ようやく「トリイ」を買いにいきました。

去年とおなじ、近所のツリー屋さんへ。

ちょうど日本で年末になるとお正月飾りを売る屋台が出るみたいに、11月末のサンクスギビングころになると、街角のあちこちに、クリスマスツリーの店があらわれます。

 



 売っているもみの木の種類は5つくらいあって、ダグラスファー(ベイマツ)、ノーブルファー(ノーブルモミ)、グランドファー(グランディスモミ)、フラセリーファー(フラセリーモミ)など。

お値段は種類によって多少違い、けれど、5フィート(150センチくらい)で80ドルくらい。



ツリーのあいだを歩くと、山のなかに来たみたいな、針葉樹の香りでいっぱい。
ミニ森林浴ができます。

ハワイでは、スーパーの駐車場に設置された冷蔵コンテナのなかでツリーが売られていたので、こんなにたくさんのチョイスはありませんでした。

去年は葉っぱが平べったくて一番香りが良いグランドファーにしましたが、今年はもっと葉が小さくて、「ザ・クリスマスツリー」という風情のある(と、思う)ノーブルファーにしました。




今年は小さめの4フィートのツリー。それでも森のすがすがしい香りが楽しめます。



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2021/12/14

『トーベ』とちびのミイ


 先日いただいた、建築家Y子さんの新作。ひろってきたモミジの赤い葉が不気味なかんじに枯れて、海藻みたいで、似合います。ムーミンパパがある日突然ニョロニョロたちといっしょに旅に出てしまうお話があるのですが、その物語にでてくる、うら寂しい海岸の景色のように。

このあいだ、ムーミン原作者のトーベ・ヤンソンの伝記をもとにした映画『TOVE/トーベ』をストリーミング(Amazon)で観ました。ことし、2021年公開の映画。



淡々とした語り口で、なかなかステキな青春映画でした。

主演の女優さんは写真で見るトーベさんとよく似てる。

長年の『ムーミン』シリーズ大ファンなのに、わたしはトーベさんのことはほとんど知らず、彼女がバイセクシャルで、なくなるまで長いあいだ、女性のパートナー(ムーミンシリーズに出てくる「おしゃまさん」のモデル)と暮らしていたということも知りませんでした。

映画にもちらっと出てくるその彼女、『ムーミン』読者なら、一見して、あ、おしゃまさん(英語名はToo-Ticky、スウェーデン語はToo-tickiで、だ、とわかるくらいそっくりでした。

 英語のMoominサイトには、モデルになったTuulikki Pietiläさんとトーベさんの楽しそうな写真も載ってました。



ついでにお宝自慢。

そのむかし、いまのようにグッズを一手にグローバル展開しているMoominとは別の、独立系のムーミンショップというのがホノルルにありまして、オーナーさんはまだご健在だったトーベさんに直接交渉してオリジナルのグッズをいくつか作っているのだと自慢してました。
トーベさんからの直筆のお手紙がお店に飾ってありました。

そのうちのひとつがこのシルバーのアクセサリー類で、ペルーの職人さんに作らせているのだといってました。

当時はほんとに洒落にならないくらいの赤がつく貧乏であったため、たしか6000円かそのくらいだったこのちびのミイのピアスになかなか手が届かなかったのですが、結局そのお店が閉店することになって、その閉店セールで半額になったときに、頑張って買った覚えがあります。

つけてるとどうしてもミイが逆立ちしてしまうんですけど、ここぞというときのお守りピアスです。

ちびのミイはいつも笑っているか怒っているかのどちらか。いっさいの忖度をしないし、本質を見抜いて、かしこく、何ひとつ恐れず、どんな状況でも完全に楽しみ、完全に自分に正直で、自分のしたいことをよく知り、ときどきウジウジしているムーミンをいじめるけれど、底意地が悪いわけではなくて、遠くで見守ってときどき面倒をみてやったりもする、ハードボイルドなキャラクター。リアルライフの人間が同じことをしたらかなり大変な人格になってしまうので、やはりポケットや砂糖つぼにおさまるサイズであるからこそのキャラですね。

でもいつも隣にミイがいて話し相手になってくれたら面白いなあ。

トーベさんも、ミイは自分がそうでありたい分身だと言っていたそうです。


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2021/12/13

書店の美麗ラッピングと小さなきつね



このあいだ行った放射線科のクリニックに飾ってあった、サケ君。かわいいなあ。このウロコの手作り感がいいですねー。




ひさびさに、キャピトル・ヒルのThe Elliot Bay Book Companyに行ってきました。

本好きのシアトルの人びとで、かなり盛況でした。
全米で、これほどリアル書店が元気に生き残っている街も少ないのではないか。


いまここで本を買うと、ギフト用に無料で綺麗にラッピングしてくれます。
それがまた、びっくりするほどセンスよく、オリジナルステッカーとリボンつきです。

 

 



この厚めのざらざらした紙も温かみがあって嬉しい。

ホノルルで、少年サッカーチームの遠征資金あつめのためにいろんな活動をしていたなかに、ショッピングモール内の書店でのギフトラッピングというのもありました。(洗車から電話帳配達まで、ほんとにいろいろやったなあ…。)

「アメリカ人は不器用」と勝手に思いこんでいたので、女性コーチのジンジャーちゃんはじめ、チームのママたちが驚くような技を次々に繰り出して、とても無理!と思うような大型で正方形とか長方形ではない難しいかたちのギフト(本屋なのに、なぜかぜんぜん関係ない店のギフトを持ち込む人が続出していました)を次々にラッピングしていく手腕に目をみはったものでした。

いまだに「キャラメルづつみ」しかできないわたくしです。



故U.K.ル・グウィンさんのコーナーで目を惹いた、「The Books of Earthsea」。

日本では『ゲド戦記』として知られているシリーズの全作に未発表短編が加わった、イラストつきの豪華版です。



書店員「ローラ」ちゃんと「ローレン」ちゃんのおすすめポップがつけられていて、心がなごむ。

「1)アイコニックな作品だし、2)現実からひとときデリシャスな世界にエスケープできるし、3)欲と腐敗と嫌悪の力に対するとってもパワフルな、解毒剤」

という紹介には、拍手をおくりたいです。年末に腰を据えて読み直すのもいいし、未読の短編も気になるのだけど、このまさに電話帳級(もはや2000年代生まれには電話帳っていっても通じないんだろうなあ)のボリュームに尻込みしてして、やめました。



そして来年の手帳を購入。迷ったすえに、MOLESKINEの『星の王子さま』のきつね柄のおめでたい赤手帳にしました。

ええ、数えで58歳ですが。赤いちゃんちゃんこを、先取り的な。

来年は、ますますおめでたい年になるに違いないのです。

 


 

 手帳の「腰帯」に、切り取って折り紙にせよという指示がついていました。小さいキツネができるはずだというのです。

しかし日本人にあるまじき不器用さにより、なんとなく、疲れたかんじのきつねになってしまいました。 幼稚園のときから折り紙はニガテです。折れるのは鶴だけです。

 

 

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