セーラー服おじさんことケバヤシさん(でいいのでしょうか)は、デジタルクリエイターズというクラブ活動のようなメルマガに私をひっぱりこんでくれた張本人です。
セーラー服を着て街に出没するという活動(最近は中国など海外にも招聘されてセーラー服活動を行っていらっしゃる様子)をするかたわら、まっとうなエンジニアでもあられるケバヤシさんですが、先日のメルマガ記事『
意識は機械に宿るのか?受動意識仮説と幸福学と仏教』が面白すぎて、メールでレスを書こうと思ったんだけど長大になりそうなので、ブログで書くことにしました。
さてさてどこから手をつけたものか。
ケバヤシさんのこの記事は、『受動意識仮説と幸せ』という、慶應義塾大学大学院の前野隆司教授の講演を聴講してのレポートと感想が中心になってます。
「意識の謎」と「仏教」と「幸せ」についてはケバヤシさんも非常に関心をもっている領域なんだけど、なかなかその3つをまとめて興味ある!という人は少ないので、前野教授のような人は「けっこうミラクルなんじゃないか」と思われたと、記事に書かれています。
いやわたくし、その3つとも、ものすごい興味あるんですけど!
意識と、仏教、そして幸福。
わりと暇さえあれば、脳がアイドリング状態のときにはその3つのどれかについて考えてしまっている時間が多いです。
ほかにもあといくつか、アイドリングで考えていることがある。
キリスト教、日本の神様、エクスペリエンス、アートと価値について、 意味と言葉、環境とデザイン、インプットとアウトプット、スケールについて、「ミーム」とおカネなどについて、愛と誠について。うふふ。
もうすこし「現実的な」ことに脳を使うべきな気もするけど、もういろいろな意味で仕方ないです。
みんな、こんな面白いことに興味がないの?正気なの?と思うほど面白い話題だと思うんだけど、意外とそうでもないらしい。
あまり人に話題をふると、すこし気の毒そうな顔で見られる方面なのですね。
世の中は深く広い。
わたしは前野氏の著作は読んだことありません。この方は脳科学者ではなく、ほかのハードサイエンスの人でもなくて、システムデザイン工学という部門のエンジニアなのだそうです。そんな分野があるのね。それすら知らなかった。世の中には知らないことが多すぎる。
(ここからはケバヤシ氏のブログからの引用なので、孫引きです)
前野氏は、
「心は幻想であって、実は存在していないようなものである」という立場をとっている。
ベンジャミン・リベットという研究者の有名な実験結果で、
「指を動かそうと決断する瞬間よりも0.35秒前から、脳内で行動の準備が始まっていることが判明した」
というのがある。
脳の中では、意思よりも先に行動がすでに準備されている、したがって意識は遅れてやってくることが証明された。
この結果は、つまり自由意志というのは錯覚にすぎないということ、と前野さんは結論している。
「脳を調べてみると、意識領域と無意識領域とからなる」
「心の機能を5つの要素に分解して、それらについてひとつひとつ検証していくと、どれもこれも主体的には機能しておらず、ものごとが無意識下で機械的に決定されていくのを下流で眺めているだけであって、受動的にしか機能していないことが判明する」
(以上ケバヤシ氏の記事より)
というのが、前野さんの見解だそうです。
……分解して検証するっていうその発想が、いかにもエンジニアらしいなあ。
人の脳には確固とした「意識」があるという旧来のモデルでの理解はまちがっている、と前野さんは考えているらしい。
「旧来モデル:「意識」がボスで、すべてをコントロールしている
新モデル:意識は無意識の結果を眺めているだけ」
と、前野さんは考えているそうです。
……うんうん、それはわかるよ!
意識というもの、つまり「個人」とか「我」とかというものは、そんなにくっきりしたものではないんじゃないか。と、わたくしも、このところますます確信をもって考えていたのである。
私は慶応大の教授とかではないので誰にも意見を聞かれる機会はないのであるが、「意識」って、つまり「自分」って、今までの歴史、特に18世紀以降の西洋インテリジェンスの世界で思われていたほど、たいそうなものじゃなのかもしれないな、という気がしてきていたのです。
でも前野さんやケバヤシさんのように「自由意志なんて幻想」という立場とは少し違います。
わたしは、むしろ、人間ってきのこのようなもので、意思というのは、現在考えられているものよりも、もっとゆるふわなものじゃないのか?と考えているのです。
えーとまず、リベット教授の知見は、「さもありなん」て感じなんですが、ちょっと待って。
これを「だから自由意志なんて、ない」という証拠として使うのは、かなり乱暴ではないですか?
これは
「何を自由意志と呼ぶのか」「何を意識と呼ぶのか」という、定義の問題ではないのかと思うんですよ。
「行動を決断する0.35秒前に脳の中で行動の準備が始まっている」
という生体反応と、
「今このドーナツを食べるか食べないか」
というヒトとしての大きな決断の間には、スケールにして、たぶん微生物と象くらいの違いがあるのでは?
それをすべて「自由意志」というひとつの言葉/概念でくくってしまうのは、あまりにも乱暴な話ではないかと思う。
単細胞の微生物も象も、ひとつの生命体という意味では同じだけれど、象は単細胞生物よりもずっと、複雑な層からなってますよね。
わたしは、 「行動を決断する0.35秒前に脳の中で行動の準備が始まっている」ということは、「決断」をした主体である個人の「意識」にその「決断」がのぼる前に、「わたくしという総体」が決断をしてしまっているということではないのかと思うんですよ。
つまり、その「意識」をもつ主体は
自分が決断したことをまだ知らないのではないかと。少なくとも0.35秒の間は。
この主体が、普通一般に「自我」といわれているもので、その少し外側に、無意識のもやもやとした境界を含む部分があって、そこも含めて「自由意志」と呼ぶべきではと思うんですよ。
このもやもやとした部分は、たぶん、脳のなかで最初に進化した部分であり、言語に関連する論理を扱うところとは別のロジックで動く、原始のエネルギーを持つ部分です。
情動とか、生きる力とか、身体の筋肉や神経組織、ホルモン分泌や消化組織のメカニズムを動かす、そういう方面。
さいきん、TEDで、「意識」に関連したとても面白いトークをいくつか聴きました。
ひとつめは、スタンフォード大のロバート・サポルスキー教授のもの。
日本語字幕つきのバージョンはYou Tubeで見つからないので、
こちらで。
サポルスキー教授は、やはり前野教授とおなじく、「自由意志はない」という立場。
でもこのトークでは、人間のあらゆる行動には、生化学的なものから環境、文化まで、様々な作用がはたらいていること、そして行動やその条件としての脳の状態は変化するものであること、私たちはそれに自覚的になることでのみ「善」に近づけるのだと語っています。
他者に暴力を振るうのを楽しむこともできる、かと思えば他のために自らの生命を投げ出すこともある人間の行動は、単一の遺伝子やトラウマや行動から成るのではなく、無数の層からなるもので、私たちはその結果であると。
これも、仏教の因果の法とおなじこと言ってますよねー。と、思いませんか?
長くなるのでつづきはまた別の日に。