浄見原神社のつぎに訪巫女M嬢のお気に入り神社は、
丹生川上神社。
ここは「上社」「中社」「下社」があり、
去年はそのうち「下社」を訪ねたのだった。
今度来たのは「中社」。
ここも実に静かで、神話の時代にそのままつながっているようなところでした。
境内の巨大杉がすごい。
樹齢800年は下らないだろうと思われる。ものすごい存在感のある樹でした。
この樹はさわると願い事がかなうことになっているので、下のほうはピカピカにすりへっている。でもそんなことは気にしないという感じのおおらかな余裕が。
神社のすぐそばに川(吉野川の源流のひとつ高見川 )が流れていて、それをわたったところに「元社」がある。
以前はここに本殿があったという場所。
このようになっています。
剥がれかけたペンキで、こんなことが書いてありました。
日本最古の水神で、水神総本社である。
祀られたはじめは何時代かわからぬ位古く、おそらく神武天皇の頃はこの辺りに神籬(ひもろぎ)の神として祀られていた。
天武天皇の時初めて社殿を建て、神社としての形が出来上がった。
奈良時代にかけて歴代天皇の行幸50回近くあって、その泊り給うところが吉野離宮であった。
平安朝に行幸が絶え吉野離宮も荒廃したので現在の地に神社を移して壮大なる建築に代わったが戦国の狂乱に及び灰燼に帰し、…往年の面影は失われた。
近世になって農業耕作の慈雨の恵みの神として一般の信仰が篤く各地から水神講を組織して参拝した。
現在、水を最も必要とする電源開発、電力会社、及び各都市の水道方面から篤く信仰されている。
…ここにも天武天皇が。紀伊半島の小国であった古代大和国家が王朝の形をととのえていく時代の姿を垣間見る気がします。
電力会社から今でもたくさん奉納があるというのは本当みたいです。
この神社は高見川に源流が三つ合流するところにあります。
元社の向かいの河原を見下ろす場所に、小さなやしろが。
ミニサイズの可愛いお社だけど金属で屋根が葺いてあり、ちゃんと千木もあるミニチュア神社が、巨木の根本にちょこんと鎮座してます。
あまりの可愛さに巫女Mとともに萌え萌えに。
わたしは神話とか古事記とかぜんぜん知らないし、あまり興味もないのです。
人と国の歴史はいつも強烈に面白いなあと思うけど、歴史オタクになるほどの根気もない。
この紀伊半島の古道とか古い神社に、わたしはむしろ自分が親しんでいた『指輪物語』の世界をひしひしと感じるのです。
瀬田貞二さん訳の「中つ国」というの訳語には、日本神話の「葦原中国」の含みもあったんだなー!と思ってみたり。そんな単語は中学生のときには存在も知りませんでしたが。
前々年に玉置神社の奥の参道の初めて行った熊野古道でも、ここは、ロスロリエン?と思った。
それがきっと、そこに漂っているものの私なりの脳内変換なんでしょうね。
わたしの感覚の中では比喩以上の実感なんですが、どの方面からも相手にしてもらえそうもありません。
で、このお社にも、もう本当になんというか、指輪物語でトールキンが描いてた世界にドアが通じてる感じがしました。美しい。古くて人の触れられないものたちの世界。
あとで宮司さんにお伺いしたら、これは「山の神様」のお社だそうです。
人里の神様とは違う、古い古い存在なんですね。
もうひとつ、少し離れて、小さな滝が流れ落ちる上にあるお社。
これは不動明王のお社だそうです。
ここも本当に気持ちよくて素敵。
巫女Mちゃんの願いで、この神社ではご祈祷をお願いしました。
宮司さんがどこかにお出かけになっていたので戻るまでしばし散策。
というところも、都会の神社とは違って本当にのどかである。
冷たいお茶とお団子をいただいてお話をいろいろ伺った。
すごくひっそりした静かなところだけど、年に一度のお祭りのときには境内に周辺の村落からお神輿がたくさん集まって大賑わいになるそうです。その日は何キロも神輿をかついで来た村の若い衆たちが、いいところをみせようと喧嘩したりしていろいろとカオスなほどの状況がうまれるらしい。
綺麗な水色の狩衣で登場された宮司さん。
一瞬、平安時代が降臨。
素朴で古式ゆかしい佇まいにぐっとくる。
明治から昭和の敗戦までの、無理やり国体に合わせようとした時代は別にして、津津浦浦の神社というものが、仏教の寺院とともに日本の(「国」にというよりも)人と社会のなかで素朴に着実に働いてきたそのありかたはすごく面白いと思う。
教義も中心もない、すこーんとオープンで風が抜けていくところが、とてもとてもとてもおもしろい。この神との対話は。
理屈ではなくて感覚に訴えるインスティチューションなので、それだからこそこれから先の時代に強さを発揮するのではないかなんて思ってみたりする。
そしてそのようなあり方があり得て1000年以上もつづいてきたのは、きっと、教義をもつ宗教としての仏教が後ろに控えて結果的にサポートしていたからこそなのだろうなとも思う。