ZIZIさんからお借りしている本、近藤 紘一さんの『
サイゴンから来た妻と娘』に、恐ろしい場面がありました。
ベトナム人の奥さんは大の動物好きで、東京のアパートに来てからまもなく、秘密でウサギを2羽飼い始め、「ナンバー1」と「ナンバー2」と呼んで可愛がっていた。
でもこのウサギの片方がなかなか言うことを聞かず、ある日テレビのコードを噛み千切ってしまう。
その晩、著者が会社から戻ると、
テラスは血の海だった。
物干しには、けさまでナンバー2だったものの本体がぶら下がり、その下に切り取られた頭や、足の先や、裏返しになった毛皮が散乱している。
…という光景が展開している。学校から帰って肉の塊の正体を知った娘が泣き出すと、
「お前、馬鹿だよ。ウサギはもともと人間に食べられるために生まれてきたんだからね。生きてる間は親切にしなければならないけれど、いつかはこうしなきゃならないんだよ」
と叱り飛ばす。そして香草をまぶして食べたウサギは、絶品だった、と著者。
友人でウサギの飼い主Cちゃんが読んだら何ていうだろうかと思って、ふと気づいた。そういえば彼女、ウサギを飼い始めてからベジタリアンになったのだった。
ちょっと前に観た映画『Winter's Bone』にも(すーーごく良い映画でした!クリント・イーストウッド作品のような感触の、寒くて厳しくて心優しい映画)、りすのシチューがでてくる。
父親はどこかで死んでしまい、母親は心を病んで何もできず、借金のカタに住む家が取られてしまいそうになり、幼い弟と妹を守るために17歳の少女が父親の死体を捜しに行く話なのだけど、貧しくて何も食べるものがなく(現代のアメリカの話です)、裏庭の林で弟と一緒にリスを撃って皮をはいでさばき、夕飯のシチューにする場面があります。
りす… (´;ω;`)!! と思ったけれど、よく考えてみれば、豚や牛やニワトリの生首や血をいっさい見ることなしに、きれいに切って並べられたパックのお肉で料理を作る生活とは、なんと不遜なものなんだろう。
本来、肉を食べるということは手を血で汚すということなのですよねえ。
1930年代のフロリダ北部の農園暮らしを描いた Marjorie Kinnan Rawlings 女史の『
Cross Creek』というエッセイ集が大好きで、いつか日本に紹介したいと思っているのですが、この中にも銃を持って肉を調達する場面がたくさん出てきます。
りすのシチューについては、Rawlings 女史は
リス肉については皆の意見が一致する。焼くか、こってりしたグレービーの中で蒸し煮にするか、ピラフにするか、だが、いずれにしても評価は高い。しかしながら、その頭が食べられるかどうかについては意見が激しく対立する。
と言ってます。
狩猟好きだった彼女は、ある日沼地で珍しいツルのような鳥「リンプキン」を撃ちますが、撃ってしまってから、鳥が容易に手の届かないところにいたのに気づきます。
私が獲物を殺すのをよしとするのは、必要のある時に限る。傷ついた獲物や命を落とした獲物を見つけずに放っておいては心穏やかでいられないのだ。
水に浮かんだリンプキンに向かって私は歩いて行った。くるぶしまでの深さが膝の上までになり、最後には腰まで水に浸かる。沼マムシが体をくねらせながら目の前を泳いでいく。ふと、自分が立っているのが深い泥沼の端だということに気づいた。私はライフルを突き出して、リンプキンの体を引き寄せた。
と、毒蛇や底なし泥沼の危険にさらされながら獲物を回収したことを回想しています。
命を食べるということは、本来そのくらい困難な作業であるべきなのだろうなあと思いながら、血が通った温かい体であったことなど想像もつかない、記号のようなパックの鶏肉を今日も料理するのでした。
Winter's Bone
にほんブログ村