2021/09/24

断捨離の人と、カオナシだった人たち


 またダリア。微妙にベージュとオレンジの混じったピンク。この色好きです〜。


元祖・断捨離の提唱者で教祖的存在のやましたひでこさん。
ごくさいきん、ていうか先週、初めてYouTubeで見て知りました。

断捨離に財団があって検定まであるってところがさすがに日本!てびっくりだけど、それだけ、必要とされているんでしょうね。


BSの番組もあるんですね。



やましたひでこさんは言葉でのまとめ方がとてもうまくて、シンプルに本質を突いているのですごく納得させられます。

モノは思念の反映であること。
つまり、「捨てられない」のは不安の投影である行為、であること。

自分のいる場所や暮らし方には自分の意識、自分をどう考えているかが反映されること。

片付けは、意識を整理して選択することであること。

モノを主体に考えるのではなく、自分を主体に考える。

自分がどうしたいのかをまず知ることが必要。

で、す、よ、ねー。

うちの母は、典型的な捨てられない溜め込みびとで、わたしが育った家は常にカオスだった。荒んだ空間は、心身にかなり大きな影響を及ぼします。当然ながら、コミュニケーションも不全の家でした。

モノと対話ができてない空間では、人との対話もできないんですよねー。

思うんだけど、戦後、高度成長期を経た昭和後期の家庭は、程度の差はあれ、どこのお宅でも、小さな家にモノがあふれかえっていたのではないでしょうか。

戦後すぐのモノのない時代を経て、昭和40年代以降に生まれて育った人は、モノでぎっしり埋まった狭い家を当たり前だと思って育ってきたのだと思います。

日本の住空間には、もともと、なにもない、なにも置かない、布団もお膳も使ったらすぐ片付ける、緊張した空間の美意識があったのに。

明治から第二次大戦までは、すこしずつ文明開化の洋風を取り入れながらゆるやかに変化して大正モダンなども生んだものの、敗戦とそのあとの爆発的な高度成長で、住空間も、日本人の精神的なよりどころも、美意識も、すっかり混沌のなかにうもれてしまったんだと思うのです。

日本に帰って成田から電車に乗ると、田んぼがなくなってきたあたりから始まる町並みの醜さにつくづく見とれてしまうのだけど、あのカオス。

『千と千尋の神隠し』にでてくる「カオナシ」のごとく、なにもかも、西洋のものも世界じゅうのものも手当り次第に取り込み、自分のものにしようとして食いつくすエネルギーが、昭和の後半の日本にはみなぎっていました。

その結果が、モノであふれかえったリビングであったり、まったくまとまりのない何の折衷なんだかもわからない建物がひしめく町だったんだと思います。

20世紀も末になって、バブルもはじけたあたりから、だんだんとそれに気づいて、なんとかしようとと思う人たちが増えてきて、断捨離やコンマリさんの需要がうなぎのぼりっていうことなのでしょう。 

 


2017年に行ったときの東京。

先日『天気の子』を観たら、話に内容よりもなによりも、東京の街があまりに懐かしくて涙でた。
『君の名は』よりずっと面白かったです。画面がきれいだし、話も楽しめた。

「人柱」というものの解釈がめっちゃメルヘンなのにちょっと驚いたけれど。
遠野物語的、日本神話的、土着の神様的な要素を、殺菌洗浄して小綺麗にパッキングしましたって感じでした。それが悪いとは思いませんが、すこし物足りないのも事実。

でもあの新宿界隈の描写の正確さったら。
それだけで2時間眺めていられる。密度の高い画面のクオリティに感動しました。

やましたひでこさんの断捨離ビデオに感化されて、ちょこちょこと身の回りのモノをまた減らしはじめました。食器や洋服や書籍や。

モノがひとつなくなると、その分だけ、少しピントが合うようです。



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