またジェニファーちゃんが届けてくれたお庭の花に、にゃを子さんのお庭からひと枝いただいた紫式部も挿して、カオスのような秋の花束。
この写真だとほんとにぐちゃっと見えちゃいますけど、ほんとうはもっと渋く大人っぽい色合いです。
可愛い小菊の深い紅と、色づいたOak Leaf Hydrangea(カシワバアジサイ)、深い紫のアジサイ。
春や夏の花だったら暑苦しく感じてしまいそうな複雑な色の取り合わせが、かなり気に入っています。
こちらもジェニファーちゃんズガーデンからの、巨大ダリア第2弾。
こちらは先週マーケットで買ったダリアですが、腐っても鯛、枯れてもダリアというか。
茶色く枯れた部分が陽に当たるとゴールデンにも見えて、朽ちていく帝国のような趣きで、先日観た『ルートヴィヒ 神々の黄昏』をほうふつとさせました。
なぜこの映画が観たかったのかもう思い出せないのだけど、わざわざスケアクロウ・ビデオでDVDを借りて来て観たのでした。
Netflixの『The Kominsky Method(コミンスキー・メソッド)』でバーブラ・ストライザンドの『追憶』のテーマがでてきたので、『追憶』(原題は『The Way We Were』)を観たくなって借りに行き、ついでにもう1本と選んで借りてきたのが『ルードヴィヒ』。
この春なぜかヴィスコンティ監督の映画が観たくなったのでしたが、もうその理由が思い出せない。『ベニスに死す』だけ観て、そのあと心にひっかかっていた。あれも疫病の町でミッドライフ・クライシスの作曲家がゆっくり死んでいくという、辛気臭い映画でした。
偶然で驚いたのだけど、『ルードヴィヒ』は1972年、『追憶』は1973年公開のほぼ同い年映画でした。
日本公開時のポスター。
「すべてがたいせつに思えた 愛でさえも」って、えっ?今では愛はたいせつじゃないんすか?
コピーの意味がわからない。
この2本、きっと10代のころ名画座で観たはずだと思うのだけど、きれいさっぱり記憶から消え、何一つ思い出せませんでした。観なかったのか。まあ10代のわたしが観ても何一つ理解できなかったであろうことは間違いないです。
あのころは、すべてがたいせつに…じゃなくて、なんかちょっとオシャレで文化的で頭よさそうな映画を観るだけで満足したつもりになってたんですね。今思うと、いじらしいほど頭悪い。かわいいものです。
『追憶』は心温まるラブストーリー的な映画だと思っていたけど、意外にこれまた辛気臭い話だった。舞台は第二次世界大戦中、そしてそのすぐ後。
アメリカは大戦中もこんなのんびりした生活を送ってたのね、と思うと切ない。
オリジナルのポスターはモノクロ(映画はカラー)。この赤いフォントのかっちょいいこと。
コピーもものすごくストレートですね。
DVDのボーナス・トラックにカットされた場面が入っていて、びっくりしました。特に重要で、映画のコアじゃないのかと思える2つの場面がなぜカットされてしまったのか。この映画の中心ではないのか。政治的意図はなくて、その場面をカットしたほうが試写会の一般観客の反応がよかったからという話だけど、ほんとかな。不思議すぎる。
カットされていたうちの一つは、活動家の主人公ケイティが、演説している若い女子学生を見て、自分の学生時代を思い、涙する場面。もう一つは、赤狩りの中、彼女が密告されたことが明らかになる会話の場面。この場面がなかったために映画の後半のストーリーがぼやけてしまってようわからんかったですよ。
若きロバート・レッドフォードは、やっぱりブラピによく似てる。逆か。
そして、約4時間の『ルードヴィヒ』。長いよ!公開時は3時間5分の「短縮版」だったそうですが。それにしても長い。
2夜に分けて鑑賞させていただきましたが、ぐったり疲れました。
豪華絢爛な衣装やお城や俳優さん&女優さんは、たしかに見応えありました。ヨーロッパの19世紀貴族階級の富の迫力といったら、ちょっと比較になるものがないですね。
愛したワーグナーにいいようにお金をせびられ、ワーグナーを追放したあとは婚約も破棄してつぎつぎに豪華絢爛すぎる城を建てまくる。人間としては気の毒ですが、国にとってはたいへん迷惑な王だった。しかし、19世紀の貴族社会が帝国主義といっしょに激しく沈没していく、激動の時代の豪華な黄昏の象徴としてこれほどぴったりな顔もないかもしれませんね。
狂王ルードヴィッヒ役のヘルムート・バーガーはたしかにキレキレの美しさです。
だんだんと自分の世界にこもってしまい、崩壊してゆく凄惨な姿もすごかった。
でもヴィスコンティの美学そのものは、あまりピンと来なかったです。重厚さがあまりにも強調されすぎていて、とにかく最初から最後まで重いー。4時間びっしり重い。
1973年当時になにか斬新な表現だったものがあるのなら、それは一体何なんだろうか。
そしてこの映画、わたしは当然ドイツ語だろうとばかり思い込んでいたので、中欧の貴族がイタリア語でしゃべるのに度肝を抜かれました。それはたとえば韓国ドラマをハワイ語の吹き替えで見るようなもの。ちょっと違うか。
いずれにしても、どちらの言語もまるでわかりはしないのですが。でも、「音」として聴いていて、ドイツ語の音律やリズムとイタリア語の音律やリズムは全然違うので、セリフの雰囲気がドラマと背景にそぐわない。
まあそんなことを言ったら、アメリカの映画はどこの国の話でも基本、英語ですが。
2本とも、それぞれの映画が描いた時代よりも、むしろ1972〜73年頃の世界をよく映し出してるんだな、と思いました。