3月もまさに怒涛でした。もう月末か!!!!
というわけでブログはおやすみしてました。こちらは今朝、デジタルクリエイターズに書いたやつです。
3月24日の土曜日に全米の各都市で行われた抗議デモ「March for Our Lives(わたしたちの生命のためのマーチ)」では、オーガナイザーの高校生たちが大々的にメディアにとりあげられた。
2月14日にフロリダのマージョリー・ストーンマン・ダグラス高校で発生し、教師と生徒たち17人が亡くなった大量殺人事件の直後に同高校の生徒たちが銃規制のために行動するグループ「Neveragain MSD」を組織。このグループの呼びかけに、全米各地の高校生たちや親たちだけでなく、ジョージ・クルーニーやスティーブン・スピルバーグなどのハリウッドセレブまでもがこたえて、あっという間に一大ムーブメントになっていった。
#Enough is Enough、#Neveragainというスローガンは、実際に自分が生命の危険にさらされ、同級生たちをなくした高校生たちの「もう二度とこんなことが起きないように今すぐアクションを起こそう」という切迫したメッセージとして、圧倒的な迫力と説得力をもってたくさんの人を動かした。
ニューヨーク・タイムズも、ロサンゼルス・タイムズも、一面に大きくこのマーチの写真を掲載した。
ラジオとウェブでちらっとインタビューを聞いただけだけど、このフロリダの高校生たちがまた、恐ろしく冷静でしっかりした子たちなのである。あなたは議員さんですか?と思うほど明晰かつ情熱的に意見を述べるDavid Hogg君や、舞台に上がってNRAの代表者と互角にわたりあい、ワシントンDCのマーチでは亡くなった友人のために涙を流しながら静かにメッセージを伝えきったEmma Gonzálezちゃんなどは、あっという間に全米のスター的存在になった。
(
The New Yorkerからおかりしてまーす)
ヒーローとしてSNSでも大手メディアでもスポットライトを浴びている彼らに、当然ながら銃擁護派は苛立っている。
右寄りのFOXニュースなどは、この高校生たちはリベラルな大人たちが影であやつっている「コマ」にすぎないと強調している。
でも「リベラルの黒幕が世間知らずの高校生たちを動かしている」という枠でこのムーブメントをくくろうとしている保守派コメンテーターの主張は、なんだかずいぶん遠い時代から響いてきているように聞こえる。
確かにこの運動の中心になっていた子たちというのは、弱冠17歳とか18歳とかではありながら、もともと社会活動家ではあったらしい。
でも、ツイッターで共有され、瞬く間に全米の高校生や親たちの共感を得たのは、銃が蔓延しているアメリカの現状に対してのリアルな危機感ゆえだった。
銃をもった人が乱入してきたときに備える避難訓練「ロックダウン・ドリル」が小学校でふつうに行われているというのはやっぱり異常な事態だし、誰でも簡単にいくらでも銃を所持できる社会はヘンだ、と感じる人は多いということ。
安全なはずの学校で子どもや教師が次々に死んでいる事態に対して現職大統領が提案した「教師も銃を持ったらいいんじゃないの?」という解決策は根本的に間違っていると思う人が、それも、とても熱烈に思っている人が、全国的なムーブメントを起こすほど多いということだ。
漠然とした感想だけど、今の高校生や大学生の中には、それ以前の世代がめったに持つことができなかった精神的な強さを持っている子が多いように思える。
流されることなく自分の感情を素直に共有することが上手で、共感力が強い。
悪意の存在をよく知りながら、投げつけられるものに傷つくことが少ない。
フェイクな情報が溢れる時代の中にあって、冷静に自分と相手の価値観と立ち位置を分析しながら主張することに長けている。
もちろんみんながみんなではないけれど、そんな風に冷静で共感力の強い子どもたちが多くなっている気がする。小さなときから膨大な情報量の切り分け方と処理方法を身につけているからなのかもしれない。この子たちは、それまでの世代とはまったく違うつながり方のスキルを持っているようにみえる。
アメリカの銃規制
このフロリダの高校生たちはまず、銃撃事件から1週間もたたないうちにバスでフロリダの州都に行き、政治家たちに陳情、というよりプレッシャーをかけた。全国メディアが見守る中、米国の中でも保守的で、銃規制に関してはゆるゆるなことで有名なフロリダ州で、州議会に対して銃規制を強める法案を通さざるを得ないほどの圧力を作り出した。
ワシントン・ポスト紙は3月8日の論説記事で「NRAが珍しい敗北を喫した」と書いた。フロリダ州でじつに20年ぶりに議会を通ったという銃規制法だけど、この内容はもちろん、銃の所持を全面的に規制するようなものではない。
その中身はというと、
>あらゆる種類の銃を買うことができる年齢を18歳から21歳に引き上げる
>銃に取り付けて使うことができる部品、「バンプストック」の販売禁止
>バックグラウンドチェックの抜け道を防ぐ
という、日本の感覚からすると、なんですかそれは??それだけかい?と驚いてしまうようなごく基本的なものだけど、ワシントン・ポスト紙はこれを、「驚くべき勝利」と呼んだ。
ちなみに、フロリダ州では普通のハンドガンは21歳以上でないと買えないのに、高校を襲撃した19歳の犯人が使ったアサルトライフルは18歳の子がお店で買えてしまうという不思議なシステムだったのだという。
「アサルトライフル」というのは、ウィキペディア先生の定義によると「実用的な全自動射撃能力を持つ自動小銃のこと」だそうである。
要するに、森の中で鹿やうさぎを撃ったりする用ではなく、敵に向かって間髪をいれずに次々に弾を発射するための戦闘用の銃だ。
こういうものである↓(ウィキ画像)
戦場のための殺傷能力の高い武器を、ふつうの町に住む一般人が買ったり所持したりすることが合法であるという事実が、日本で育った一般人としてはまことに衝撃的なのだけど、それがアメリカの日常だ。
ウォルマートなどのスーパーやスポーツ用品店にふつうに銃のコーナーがあるのにも、いまだに毎回ショックを受けてしまう。
前述した、ワシントン・ポスト紙が「驚きの勝利」と呼んだフロリダ州の新しい規制はこういった銃を禁止するものではなくて、銃が買える年齢を2歳引き上げ、このような代物をさらに射撃しやすくするための部品の販売を禁じるものにすぎない(州によって規制の厳しさが実にバラバラなのもアメリカらしいところ)。
NRAに代表される銃規制反対派の人たちは、いかなる規制も重大な権利侵害への一歩だと感じているらしく、ものすごくセンシティブに反応する。
「銃を持つ権利を取り上げられるかもしれない」というのは、彼らにとっては手足をもがれるのと同じくらいに恐ろしいことのようだ。自分の家の周りに住んでいる人々がいつゾンビに変わるかわかったものではないと思っているのかもしれない。
銃の所持をめぐる議論は、アメリカでは人種問題、移民問題、妊娠中絶問題と同じく、常に常に紛糾し続けているセンシティブな問題だ。
アメリカで最初に銃が規制されたのは1968年。
1963年にケネディ大統領が暗殺されたあと、ジョンソン大統領が署名したこの規制法は、通販での銃の売買と、犯罪者や精神病歴のある人に銃を販売することを禁じた。
ケネディ暗殺の犯人は通販で手に入れた銃を使っていた。大統領暗殺のショックで国全体が動揺していた時だからこそ通った銃規制だったが、それでも法になるまでに5年かかっている。
でも、アメリカが保守に振れたレーガン大統領の時代、1986年には、銃所持者の権利を守る法案が通った。この法は、連邦政府が登録制度などを作ることを禁じた。
クリントン大統領の時代、1994年には、軍用以外の目的でセミオートマチックの銃を製造したり売ったりすることを禁じる「Federal Assault Weapons Ban」、つまり連邦政府による攻撃用兵器禁止法が実施された。
この法案は、フロリダの高校の銃撃事件で使われたアサルトライフルを含む戦争用の武器を一般人に売ることを禁じるものだった。すでに持っている人からそういった武器を取り上げるものではないが、一般人同士の売買も規制の対象となった。
そして、「この法律では銃による暴力や死傷数を減らす役には立たなかった」という研究結果に後押しされて、10年後の2004年(ブッシュの時代)に、この法は更新されることなく静かに失効した。
フロリダの事件の犯人がインスタグラムに上げていたという写真。
精神の不安定な19歳の男の子の部屋のベッドにこれだけの実弾がある。
これだけで気分が悪くなるような写真だけど、これは決して珍しい光景じゃない。
それでもNRAの人たちは、「正当防衛のための権利を奪う」銃規制は間違っていると信じている。
これだけ銃で人が死んでいる国なのに、銃暴力についての研究は意外なほど少ないうえに、紛糾する問題のすべてがそうであるように、解釈もいろいろだ。
銃規制反対派は、銃と暴力についての研究を行うことや、銃の所持者を登録することに対してさえ強硬に反対している。NRA派の人はとにかく自分たちの銃所持の権利に対していかなる形ででも政府がかかわることに激しく反応するのだ。
合衆国憲法修正第2条で保障されている、一般人が武器を持つ権利というのは、米国の根幹だと考える人が多い。
大英帝国を相手に独立戦争を戦ったのは自主的に組織された武装した人々だったし、インディアンとの戦争でも民間人の存在は大きかった。
「我々の自由は銃があるからこそ保証されている」という信条は根強い。
アメリカは、ネイティブ・アメリカンを制圧し、西へ西へと国土を広げてきた国だ。
開拓民は、いってみればインディアンたちとの戦争の尖兵でもあった。誰も守ってくれない大草原や森林で、狼やクマや当然ながら敵意のある「蛮人」たちに囲まれていた開拓民たちにとって、銃は自分と家族の生命を守るために必要不可欠だった。
そしてアメリカは、自由と平等をうたいながらも暴力でマイノリティを制圧してきた。インディアンと黒人奴隷はそのマイノリティの代表的存在だ。
暴力による迫害の歴史は、現代にいたるまで、この国の深い部分に大きな矛盾と障害を残している。
銃所持ぜったい擁護派、規制ぜったい反対派のメンタリティの底には、そういった暴力の歴史に対する鈍感さ、感受性の低さ、理解への拒否が往々にしてかいま見える。
「私たちの生命のためのマーチ」参加者が求めているのは、アサルトライフルなどの戦闘用武器の販売禁止や、銃を買う際のバックグラウンドチェックの徹底といった「常識的な規制」だ。
でもそれを「常識」と考えるかどうかで意見が分かれるのが、現在のアメリカなのだ。
マーチ参加者たちの多くは、おそらく、「銃があれば問題を解決できる」という思想そのもの、暴力肯定の考え方そのものに反対しているのだと思う。
「暴力には暴力で立ち向かうしかない」という考え方は結局のところ暴力装置である武器を社会にあふれさせ、社会を不幸にしている、というのが、マーチ参加者たちの共通した理解だと思う。
銃の擁護派と反対派の間の理解をはばんでいる壁は、まず、長い歴史を通してマイノリティが暴力で抑圧されていたという事実への認識のズレから始まっているのではないかと思う。
暴力装置である銃がこれまでの歴史で「自由を守ってきた」だけなのか、「立場の弱い人を抑圧してきた」のかという認識のズレ。
その歴史認識と立場の違いが、銃暴力は生活を守るのか、社会をより不安定にするのか、という大きな認識の違いにつながっているのではないかと思う。
暴力を制御するのは暴力以外にあるとしたらそれは何か。
銃擁護派は、おそらくマーチ参加者たちを「現実をよく知らないお花畑の人」と考えているだろうし、マーチ参加者たちの多くは銃擁護派を「閉じた恐怖の世界から出られない誇大妄想的に怖がりな人」と考えていると思う。
銃規制の問題は、哲学的な対立なのだ。