2015/07/23
マグノリアの木
タイサンボク(泰山木)、マグノリアの花が咲いています。
この写真は今年のじゃなくて数年前に撮ったもの。最近ほんとにカメラにさわってない。
子どもの頃、泰山木が家の庭(正確にいうと隣あっていた祖父の家の庭)にありました。
馴染み深い木です。
幹の手触りも良く、かなりの高さがあって、庭の中では登るのに都合のよい唯一の木だったので祖父母が心配したのか、下のほうの枝をみんな切りとって登れなくしてしまってありました。
だからうちにあったこの木は、下から3メートルくらいまで枝がなく、花はずっと上のほうに咲くので、あんまりよく見たことがなかったのです。
巨大な花びらと、この人形みたいな大きな花芯が地面に落ちているのを使って遊んだ覚えはあります。それに、ざらっとした幹の心地よい感触は、今でもはっきり覚えています。
シアトルに引っ越してから、近所でよく庭木として見かけるので、はじめて間近で花を観察することができました。
こういう形の木だったんだと気づいたのは、シアトルに来てから。
うちにあったのはマッチ棒みたいなかたちになってたので、そういう形状の木だという先入観があったのです。
アメリカでは、木蓮も白蓮もコブシもこのタイサンボクもひとまとめに「マグノリア」と呼ばれています。 なぜこうも大雑把なのだろうかと不思議に思うほど。
でも南部で「マグノリア」といえば間違いなくこのタイサンボク。
『マグノリアの花たち』は、ルイジアナを舞台にした映画でした。
カエルが降ってくる映画もありましたね。『マグノリア』。
近くで良く見ると、ほんとに優雅で華やかな花。
この花が特に気になるようになったのは、マージョリー・ローリングス著『Cross Creek(クロス・クリーク)』を読んでから。
最近新訳も出た『仔鹿物語』(新訳は『鹿と少年』)の作者として有名な著者のエッセイ集で、20世紀の前半の北フロリダのオレンジ農園での生活をつづったものなのですが、これが本当に素晴らしい。
まだ『子鹿物語』(原題『Yearling』)という代表作を書く前。フロリダにオレンジの果樹園と小さな家を買って、ニューヨークでの生活を捨てて女一人で移住。
この辺境といっていいような田園の人びと(恐ろしく貧しい白人家族、頑固一徹の農家のおっちゃん、黒人の娘たち、など)と出会い、かなり真剣に果樹園経営と自家用農園を営み、乳牛と鴨を飼い、猟にでかけ、ニューヨークから友人が来れば土地の一風変わった食材を使って、ものすごく美味しそうなコース料理を作ってふるまったりするのです。
独立心が強いだけでなく、本当にたいていの事は何でも出来てしまう、「リソースフル」というのはこういう人のためにある言葉なんだ、と思わされるような人。
芯が通っていてかなり頑固で気が強く(庭に入ってきたブタを撃ち殺してさばいて豚肉パーティーを開いたら、そのブタの持ち主がやってきてあわや大げんかなんていうエピソードもある)、でも人や動物を見る目には驚くほど偏見がなく、温かい。
ちょっと検索してみたら、マージョリーさんに関するこんな素敵な記事がありました。
『クロス・クリーク』の章のひとつは、マグノリアの木への賛辞で始まっています。
「最小限の幸福というものが、ほかの人びとにとって何なのか、私は知らない。私自身にとって何かということすら、確実に言うのは不可能だ。けれども、私にとって是非とも必要な、はっきりとした形あるものが何かを言うことはできる。それは、空を背負った樹木の天辺だ。
もし体の自由がきかなくなったり、長い病に伏せるようなことがあっても、あるいは、大いにあり得ることだけれど牢屋に放り込まれるような羽目になっても、外の世界と繋がるその一片の形見さえあれば、私は生きていけると思う。クロス・クリークに来た最初の日々、私にはそんな支えがあった。
それはマグノリアの木だった。周りを取り巻くオレンジの木々のうち一番高い木々よりも、まだいっそう背が高い。この世に醜い木というものはないが、マグノリア、Magnolia grandiflora (タイサンボク)には、特有の完璧さが備わっている。
周りがどれほど繁っていようとも、ヒイラギやライブオークやモミジバフウがどれほど繁く混み合っているさなかにあっても、マグノリアは完璧な左右対称の樹形をつくる。この樹を見ていると、品格とは、人であれ植物であれ、おのずと内に備わっているものなのだろうか、と思わされる。
成長するために隣りをむやみに押しのけることがないので、オレンジ園に植えておくことのできる数少ない木のひとつなのである」(拙訳)
この本は日本では昭和20年代に『水郷物語』という題で翻訳されたそうです。
メアリー・スティーンバージェン主演で映画化もされてます。
彼女はマージョリー女史のイメージに良く合っていたと思うけど、やはり原作の世界があまりにも豊かなので、物足りなく感じてしまう。
でもマージョリーさんのたくましさ、緑深い「水郷」の感じはよく出てました。
『Cross Creek』中の、「日々の糧」という、料理と北フロリダの独特の食材(キャンプで食べる極上のビスケット、農園の野菜、天国のようなマンゴーアイスクリーム、クリスマス料理、それに蛇肉やリス肉も…)が次から次へと出てくる章がもう本当に面白い。友人や他の人にもぜひ読んでもらいたくて、この章含めいくつかの章を翻訳済みなのですが、もう気づいたら3年もほったらかしになっていた。
紙の本で出版できなくても、何かの方法で読んでもらえる方法はないものかと、またちょっと模索してみようと思います。時が経つのは早過ぎるー。
2015/07/18
すずめアパートメントと不法占拠者排除
あれは確か去年の6月頃であったか。
ある日の夜、台所で片付けものをしていると、レンジの上についている換気扇の中から、ごにょごにょと話し声がして来たのです。
もしかして頭がおかしくなったのかと一瞬思ったのですが、それきり話し声はやんだため、忘れたことにして寝てしまいました。
すると翌朝、朝ごはんを食べている時に、今度はブリキのバケツをホウキでかき回すような音がしてきたのです。
うちの換気扇は7、8メートルくらいのダクトを通って外壁についた排気口につながっています。
ベランダに出てその排気口を見てみると、なんだか怪しい草がいっぱい出ていました。
そして、キュー?ピュルピュル?というような声がするではありませんか。
バタバタする排気口の蓋をあけてみると、果たして壁の中が大騒ぎに。
スターリングの夫婦が巣を作ろうとしていたのでした。
European starling (ヨーロピアン・スターリング)、和名はムクドリですが日本のムクドリとは違い、もっと小さくて全身光沢のある緑色の綺麗な鳥です。
シェイクスピアの愛した鳥として知られていて、見た目も鳴き声も特徴的できれいだし、モノマネもできるらしい、とても賢い鳥なんですが、なにしろ繁殖力がめちゃめちゃ強い。
19世紀にシェイクスピア愛好者がヨーロッパから北アメリカに持ち込んだそうですが、以来爆発的に増え、大勢でやってきて農作物を食い荒らしてしまったり、土着の種を蹴散らして繁殖するので北米では害鳥扱い。
そんな夫婦がウチの換気扇に住み着こうとしていたのでした。
雛でも孵ってしまった日には大変なので、強制退去させた上で速攻で大家さんにテキストしてすぐに来てもらい、もう入れないように網を張ってもらいました。
そして今年。おととい、また壁の中から声がするような気がして、不安に思い、ベランダから排気口を見てみると。
また怪しい草がたくさん詰まっていました。
去年大家さんがつけてくれた網というのが、実は不織布製のぺっらぺらのものだったことが判明。
というのは、食い破られたその布がベランダにぺろっと落ちていたので露見したのです。
息子がホウキで草を掻き出すと、中に確かに誰かいる。
しかし1メートルくらいあるホウキの柄を突っ込んでみても、ゴソゴソいうものの、簡単に出てきません。
しかも低い唸り声を出して、ホウキの柄を攻撃しはじめるのです。
やっとその時点で、これはスターリングではないと気づきました。
この声は、Pさんちのタマラちゃんの機嫌の悪い時の声に似ている。
タマラちゃん。 |
そしたらしばらしくて、さらにバケツいっぱいくらいの草や苔や葉っぱのかたまりがガサガサっと出てきたかと思うと、続けて毛のかたまりが飛び出して、壁をつたって逃げていきました。
リスでした。
いやまさか。リスが。換気扇の中に住み着こうとするなんて思わなかった。
また大家さんに頼んで、今日、今度は金属の網を取り付けてもらいました。
換気扇でなければよかったんだけどね……。
露地をはさんだ裏の家には大きな柳の木があって、カラスが巣をかけています。
今は子ガラスが巣立ち間近からしく、黄色いクチバシの子が時々隣の家の屋根の上で羽根を試していたりして、カーカーかなりうるさいです。
クチバシの黄色い子どもというのは本当に、どのような種族であっても、うざい時はうざい。
このカラスの声を聞いていると、ウチの息子が2歳くらいの時を思い出します。
その家に最近越してきた若い夫婦によると、屋根の上の排水溝にはキツツキが巣をかけているのだそうです。
そしてウチのベランダの前のタウンハウスには、電線を引き込むこういう器具があるんですが、ここはもうずっと、去年からすずめアパートになっています。(上の図)
たぶん3家族くらいが入居しているらしく、いつも誰かしらこの電線に止まったり出入りしている。
この間この家族がいつになくチュンチュン大騒ぎをしてるので何かと思ってみたら、ブルージェイがこの巣の中を覗きこんでいたのでした。
そんな非常時にもすずめの声ってあんまり切羽詰まった感じがしないですね。ちゅんちゅんって。
このあたりでは庭付きの古い家がすごい勢いでどんどん取り壊されて、そのあとにちんまりとした箱のような家が4軒ずつ建っているって去年書きましたが、今まであった木や藪が減ってきて、小動物たちの居場所もだんだんと狭くなりつつあるのかもしれません。
シアトルに長く住んでいる人が集まると、「どこも混むようになったね」て話になるんですが、鳥や動物たちもそんなふうに感じているのかも。
2015/07/15
最近の獲物
最近のGoodwillハンティング の成果自慢。 奥様、このキュートな土鍋をご覧になって!
うちには炊飯器がないのでステンレスの無水鍋を使ってたんですが、ちょっと料理が立てこんでくると鍋不足になるため、ご飯専用のお鍋をここ数年来物色中でした。
ちなみにハワイにいた時はサッカーチームとボーイスカウトなどのスナック当番で必要があったため10合炊きの象印炊飯器を所有しておりました。
ハワイの少年サッカーチームというのは、試合後かなりがっつりとした「スナック」(というより「ご飯」)をペアレントが交代で用意するところが多く、うちのチームは 特にケータリング業を営んでいるペアレントが2組もあったため、テーブルとホテル用のウォーマーを持ち込んでまるでランチブッフェのような光景が繰り広げられることもしばしばでした。
そしてハワイの少年の食べものといえば、とりあえず炭水化物。米の飯はどんなときにも絶対不可欠。 (このチームでミネソタに遠征にいったときは、10合炊きの炊飯器2台をマネージャーが持っていきました)。
だもので、とりあえず10合/一升炊ける炊飯器はがマストハブアイテムだったんですが、シアトルで一升だきはきっと要らないだろうと思い、売り払ってしまいました。
猫ママ・マダムNさんのキッチンにずらりと揃っているル・クルーゼの鍋を使わせてもらうたびに、うーむ、さすがに煮物には優秀であるなあ、ル・クルーゼにしようかなあ、と思うことしきりだったのですが、何しろお値段がー。
と逡巡していたところ、お気に入りのご近所グッドウィルでこのかわいらしい土鍋に遭遇。
底にはFLAME CHEF JAPANとあります。
1970年代の日本製品みたいです。現存するメーカーじゃないみたい。
3合炊くにはちょっと小さいのが残念ですが、ル・クルーゼ鍋に負けずほっこりふんわり美味しく炊けました!
火加減が難しくておこげができるのもまたよろし。
このままオーブンにも入れられるし、豆など煮るにもよさそうです。
こちらはポーランド製手描きのマグカップ。
使用感まったくなしのほぼ新品で、なんと69セントでございました。
ふちがモリっと丸くなっていて飲みやすく、重さも持ち手も心地よくて、最近のお気にいり。
このお皿はおフランス製。これもほとんど使用感なし。たぶんヴィンテージじゃなくて、アンソロポロジーで見たことがある気がする。
2015/07/08
日本国の『それから』
世の中には「姦通小説」 というジャンルがあるのだそうです。
要するに、人の奥さんを取ってしまうとか旦那を取ってしまう三角関係の話ですね。
週刊誌ふういうと「略奪愛」になります。
夏目漱石の『それから』も、その次の作品の『門』も、「姦通小説」。
でもしばらく前にこの2冊を読み返してみたのだけど、ほとんど、色っぽさを感じませんでした。
この小説でいちばん官能的に感じた場面は、小説の冒頭で主人公の代助が鏡を見ながら歯を磨く場面だった。この優男、自分にうっとりしながら歯を磨いてるんですね。
(その次は三千代さんがすずらんの活けてあった水を飲むシーン。でも鈴蘭て有毒じゃなかったかしら?)
『それから』が書かれたのは明治42年、1909年。
『三四郎』『それから』『門』は、3年間に連続して朝日新聞に連載されて、三部作とされてますが、『三四郎』は主人公がこれから大学に入る青年であるし、ほかの登場人物たちもみんな秋の空のようにすっきりとした人ぞろいで、読後感も爽やかなのにくらべて、『それから』の主人公は頭と現実が分裂してしてて最後には破綻に向かって走りだしてしまうし、『門』はさらにその破綻の先にある、生活が重くのしかかる中でしんみりと寂しい内向的な世界で暮らす主人公の話です。
だんだんだんだん暗くなる三部作です。
その後の日本の行く末を予言するような暗い小説。
漱石先生の明治日本に対する警告が真ん中にがっつりと嵌めこまれた小説なんだな、と思いました。
主人公の代助ときたら、大学をとっくに卒業してもう三十路になるというのに職につかず、実業家の父と兄から月々の援助を受けてのらくら遊んで暮らしているくせに、理屈ばかりは二人前。
食うために働くという行為を見下して、食うために必死で就活中の友人をイラっとさせる発言を平気でする。
<「僕はいわゆる処世上の経験ほど愚なものはないと思っている。苦痛があるだけじゃないか」
「むろん食うにこまるようになれば、いつでも降参するさ。しかし今日に不自由のないものが、なにを苦しんで劣等な経験をなめるものか。インド人が外套を着て、冬の来たときの用心をすると同じことだもの」「パンに関係した経験は、切実かもしれないが、要するに劣等だよ。パンを離れ水を離れた贅沢な経験をしなくっちゃ人間の甲斐はない」>
なんて、しれっと言う。
挙句にその友人の妻に告白して、のっぴきならないところまで来てから自分には生活力がないことに初めて気づく、とんでもない野郎です。
もともとその友人に頼まれて仲人みたいに間を取り持ったのに、数年後に再会した人妻になった彼女が幸せそうではないのを見て、自分は彼女に心を惹かれているのだとだんだん気づいていくという、まったくもって煮え切らない残念な人。
だけど、この代助を見て、当時の明治の青年たちの多くは「これは僕の姿だ!」と胸を熱くしたらしいのです。
代助は、自分が働かない理由を友人にこう説明します。
<「なぜ働かないって、そりゃ僕が悪いんじゃない。つまり世の中が悪いのだ。もっと、おおげさに言うと、日本対西洋の関係がだめだから働かないのだ。
日本は西洋から借金でもしなければ、とうてい立ちいかない国だ。それでいて、一等国をもって任じている。そうして、むりにも一等国の仲間入りをしようとする。
だから、あらゆる方面に向かって、奥行きをけずって、一等国だけの間口を張っちまった。なまじい張れるから、なお悲惨なものだ。牛と競争をする蛙と同じことで、もう君、腹が裂けるよ。
その影響はみんな我々個人の上に反射しているから見たまえ。こう西洋の圧迫を受けている国民は、頭に余裕がないから、ろくな仕事はできない。
ことごとく切りつめた教育で、そうして目の回るほどこき使われるから、そろって神経衰弱になっちまう。日本国じゅうどこを見渡したって、輝いている断面は一寸四方もないじゃないか。ことごとく暗黒だ」>
そばで聞いていた三千代さんには「なんだかごまかしているようよ」と言われるのですが、これはそのまま、漱石先生の日本観と見て良いのだと思います。
もちろん、代助=自分という私小説では全然なくて、漱石先生は代助というちょっと困った主人公を作り上げた上で、自分の考えを思いきり代弁させているのです。
漱石先生は『現代日本の開化』という明治44年(1911年)の講演で、日本の開化は「外発的」なもので、日本人は「あたかも天狗にさらわれた男のように無我夢中で飛びついて」行かねばならないと指摘しています。
だから必然的に「空虚の感」を持ち、どこかに不満と不安をいだくものであって、
「この開化が内発的ででもあるかの 如き顔をして得意でいる人のあるのは宜しくない」
と言っています。
<自分はまだ煙草を喫ってもろくに味さえ分からない子供のくせに、煙草を喫ってさも旨そうな風をしたら 生意気でしょう。それを敢てしなければ立ち行かない日本人は随分悲酸な国民といわなければならない>。
日本の開化は「皮相、上滑りの開化」であり、でもだからといってほかにどうしようもできず、日本人は <涙を呑んで上滑りに滑っていかなければならない>か、または<滑るまいと思って踏ん張るために神経衰弱になるとすれば、どうも日本人は気の毒といわんか憐れといわんか、誠に言語道断の窮状に陥ったものであります。 私の結論はそれだけに過ぎない>
と、きわめて悲観的なことを言っています。
<おれの国には富士山があるというような馬鹿は今日は余りいわないようだが、戦争以後一等国になったんだと いう高慢な声は随所に聞くようである。なかなか気楽な見方をすれば出来るものだと思います> 。
代助は、洒落者で洗練された都会人で、学問をおさめたゆえに現実的な日本の位置を知り、仕事をして何かを成し遂げようと思うことさえできないほど、日本の現実に絶望しています。
実際の役にはまったく立っていない立場でごたくを並べているだけの人だけれども、このダメダメな人が実はもっとも真面目で純粋な明治の「現代人」として描かれているのです。
「人と人との間に信仰がない原因から起こる」不安に襲われ、 神経が鋭敏すぎるためにしじゅう気分を悪くし、地震をひどく恐れていて、小心であることを恥と思わない。それが代助。
代助の内面の分裂は、維新の前の教育を受け、サムライ社会の価値観で育ってきた父にはもちろん理解してもらえないし、実生活に追われている友人にも理解してもらえない。
わたしは代助の、人妻である三千代に対する気持ちはなんだか良く理解できない。
恋愛感情というにしては切実さが欠けているように感じます。
代助の世界は収まるべきところになにひとつ収まらない世界です。
自分を罰するかのように、にくからず思っていた三千代を友人の平岡に「斡旋」して縁をまとめ、数年たって関西から帰ってきた三千代に今度は自分を追い詰めるかのように接近していく。
それにひきかえ、代助に告白されて「あんまりだわ」と泣く三千代さんは、とても人間らしく描かれています。
親の勧める縁談を断り三千代さんを選んだばかりに援助を打ち切られ、親子や兄弟の縁も切られた代助は、「ちょっと職業を探して来る」と外に出る。
そうして、タバコ屋の暖簾や郵便ポストや売り出しの旗などの真っ赤な色が代助の頭の中を占領するところで、物語は終わります。
中編『趣味の遺伝』が、恋愛綺譚の形をとった、戦争賛美への冷めた批判だと思うということは以前に書きましたが、『それから』も、「姦通小説」といういれものに入った痛烈な日本社会批判に見えます。
もちろん恋愛や「姦通」の人事も漱石先生にとって真摯な重用事であって、単なる表皮ではないのはいうまでもありませんが。
代助と友人の会話の中に、共産党の人が逮捕されたりといった話題がちらほら出てくるけれど、漱石先生はこれを単なるどうでも良い時事ネタのひとつとして選んだわけではないと思う。
ぽつんと何気なしに挟まれたこの話題は、なんとも暗い影を落としています。
漱石先生は日本が本格的に暗くなっていき、言論弾圧もますます激しくなる時代の直前に胃病で亡くなってしまいますが、昭和の戦争前夜まで生きていたら、さぞかし苦々しい嫌な思いをされたことだろうと思う。
それからの日本は、代助の恐れていた首都の大地震を経験し、中国での領土拡大をこじらせ、大東亜共栄圏をぶちあげ、国内の言論をますます弾圧し、本格的に発狂せざるを得なくなっていきます。
『それから』にはその後の日本が見事にというか、恐ろしいくらいに、予言されているようにみえるのです。
2015/07/06
ナスタチウムと宇治金時
ロンドンのMさんに頂いた種から、やっとひとつ目の花が咲いた、ナスタチウム。
去年鉢に植えたのは、つぼみがつかないうちに青虫に全部やられてしまったので、今年は早々に毎日目を光らせて、小粒なアオムシを片っぱしから除去してました。
大変遺憾ながらチョウチョと共存できるほどの余裕がなく、申し訳ござらん。
家と家の間に挟まれたせっまいベランダなのに、よくまあ虫たちはこの鉢植えを見つけて来ることかと感心するほど、次々にいろんなのがやってくる。
咲いた花と葉はさっそくサラダに。ぴりっとした香りが夏らしくて美味です。
大家さんに「10人以上で乗らないでね」と言われているちょっと頼りないベランダなので、鉢の数はもうそろそろ限界な気がする。
ほんとはきゅうりとかナスとかゴーヤとか植えたいんですがガーデニングの才能なさすぎ。
やっとナスタチウムは咲いたものの、何度植えてもローズマリーが枯れていく。
独立記念日はCT家におよばれをしてちんまりと過ごしました。うちの息子はアイスランド旅行中。
焼きなすにオクラに豚の冷しゃぶにタコとパプリカの冷製にレモンサワーという、大人の美しい食卓でした。
デザートは宇治金時! 抹茶シロップと白玉は食べる直前に作成。
ワイオラシェイブアイスには及ばないものの、たいへん上等のかき氷でございました。
なんて幸せ~。
わたくし、子どもの頃もかき氷器というものは家になかったので、かき氷を家でつくるという発想がまったくなかったんですが、かき氷器、欲しいかも!! この夏は特に大活躍しそうだし。
2015/07/05
もわーの日々
暑いっす。
今年の6月は観測史上すべての記録を破る暑さだったそうで、地元局は今年の気候は「記録破り(break)じゃなくて記録を破壊(destroy)」したと言ってました。
6月の月間平均最高気温は華氏78.9度 (摂氏26度)。
平年が69.9度(摂氏21.05度)だというから相当に上回ってます。
ふだんの年なら「シアトルの夏は独立記念日から」といわれてて、6月いっぱいはまだ普通にブーツと薄手ダウンジャケットの人だって見かけるのですが、さすがに今年は、町中くまなくもう夏仕様。
今週は連日快晴、毎日摂氏30度超えでした。
そしてついにシアトル市内で華氏90度(摂氏32度)超えも出た。
温まりきった地面や建物からもわーっと輻射されるこの熱気!なつかしい~。
日なたに停めてあった車にはいると、ハンドルが触れないほどあっつあつになってるのも、懐かしい。ワイキキみたいー。
この真夏の「もわー」が味わえる日は、例年のシアトルでは、たとえあってもほんの数日。年によってはまったく「もわー」とは縁のないまま夏が終わってしまうこともあるので、それに比べたら暑くてイヤなんて文句は言えません。
でも言うけど。快晴なら暑い暑い、雨続きなら寒くて暗いと文句をいわれるのが天気の役目というものです。
そういえばオアフ島でもめったに90度超えることはなかったです。だいたいいつも86度(摂氏30度)の線で止まってた。ハワイは貿易風があるので日本の関東地方の夏よりはずっと涼しいです。
シアトルも日が暮れるとさっと涼しくなるから、たとえ90度超えの日でも、関東地方のあのじっとりして逃げ場のないうだるような暑さに比べたら全然楽ちんです。
でもたしかに身体が熱気に慣れてないからか、ちょっと外にいると疲れる。
水分補給を欠かさないように気をつけましょうー。
いったい7月8月はどうなっちゃうんでしょうか。まだまだ暑くなるのか、例年通りにおさまるのか。
トマトを切ったら、中ににょろにょろしたものが!! げっ虫??と思ったら、違った。
あまりの暑さ続きのためか、種が中で発芽してたのでした。
2015/07/04
キラウェア火山の溶岩ハイキング
ハードドライブを整理してて発掘したハワイ写真をアップ。
2008年の、ハワイ島キラウェア火山のハイキングです。
息子が入っていたボーイスカウトの旅行で、キラウェア火山の国立公園内にある米軍の保養施設に2泊して、中1日は火口の長いハイキングに出かけたのでした。
引率のスカウトマスターたちや親たちも皆、ハワイらしくファンキーな人が多くて、面白かった。
みんな普段は医師とか建築家とかマジメな仕事をしてるのに、下ネタ大好きでふざけた人が多かった。
当時、息子13歳。アフロが風になびくとこうなるの図。
すぐ隣にのびのびと広がるのはマウナロア山。山という概念をくつがえすほどのどかな、べろりんとした形です。
いったいあなたには山の自覚があるのですか、と聞いてみたくなる。
でもこんな顔して、富士山より高い(4,169 m)んですよ。
地球で最も体積の大きい山だそうで、とにかく巨大な山です。
その隣にあるキラウェア火山は世界でも最も活発な火山のひとつ。今でも休まず噴火していますが、マグマの噴き出し口はたびたび変わります。
このハイキングトレイルは、ハレマウマウという名前の噴火中の火口のすぐそばを通って、キラウェアの大火口(カルデラ)を横切る道。
カルデラの直径を横切る道が約4.5キロ。それから丘を越えてもう1つの火口を横切って帰りはカルデラを囲む縁に上がってぐるりと半周して戻る、1日コースでした。
私たちが行った時には、このハレマウマウ火口からは噴煙は時々上がっていたけど溶岩が見えるほど活発ではなかったのですが、ちょうどこの直後の2008年4月から活動が活発化。
今は火口の中にマグマだまりが見えるくらい上がってきていて、夜になると火口が明るく見えるし、たまに小爆発が起きているようです。こんなふうに。見に行きたい。
マーク・トウェインが1866年にキラウェア火山を訪ねたときにも、この火口にマグマがぐつぐつ煮えたぎって、火柱がじゃんじゃん上がっているのが見えたようです。
がんがん日は照るし、溶岩はアスファルトのように熱を放出するので、溶岩原ハイキングは灼熱です。
このカルデラ内で一番新しい溶岩流は1982年のもの。
今一番活発に溶岩を吹き出しているのは、火山の南東側斜面にあるもっと新しいプウ・オア火口で、 つい去年もこのプウ・オア火口からの溶岩流がゆっくりと近隣のパホアの町に流れ込んだばかり。
去年は住宅に被害はなかったようですが、以前には集落がそっくり呑み込まれてしまったことが何度もありました。キラウェアの溶岩はゆっくりと流れてくるので、避難勧告が出ていてもギリギリまで居座っている人もいてニュースになってました。
キラウェアの南斜面は本当に稜線から海まで、まだ新しく黒光りする溶岩で覆われていて、何度行っても絶句する眺めです。
2005年だったか、溶岩流で埋まってしまった道路の終点まで行って、そこから何キロか溶岩の上を乗り越えて、なま溶岩流を観に行ったことがありました。
片道たぶん3キロか4キロくらいのものだと思うけど、比較的新しくまだトゲトゲした溶岩の上を乗り越え乗り越え歩いて片道2時間くらい。
安物のハイキングシューズだったので、それだけで底がすっかりダメになってしまいました。
でもパチパチと暖炉のような音をたてながら流れてくるフレッシュ溶岩は、すごかった。
うっかり落ちたら確実に焼死間違いなしの溶岩流のまわりに、大きな焚き火でも囲むようにハイカーが点々とちんまり座っているのもシュールでした。
パークレンジャーがいることはいるのですが、特に何かするわけでもなく、見てるだけ。 自己責任の国だなあ、と感動したものでした。
溶岩の中にまっさきに根を張って生え出すのは、ハワイ原産のシダとオヒアの木。
オヒアレフアの花。オヒアの木に咲くレフアの花。伝説の花です。ハワイの花には悲恋の伝説が多いです。
間の丘を越えて、もう一つのクレーター、キラウェア・イキを横切ります。ここは1950年代まで溶岩の湖だったところだそうで、カルデラより溶岩が新しい。
キラウェア火山の神、マダム・ペレへの供えもの。
ハワイに行く人には、ちょっと日程に無理をしてでもキラウェア火山見物は絶対のおすすめです。
何度行っても、ひょー大自然すげー、ととにかく素直に驚いてしまいます。
このハイキングの帰りにもぞろぞろと寄った、ボルケーノ・ハウス。国立公園内の歴史あるホテル。
部屋からキラウェアのカルデラが眺められます。
遠い昔、両親が日本から遊びにきた時に泊まったことがありました。まだ息子が幼稚園前だったかな。
所有は国立公園ですが、運営は入札で民間が行なってます。ハワイマガジンの記事によるとリースが切れて運営権の買い手がつかなかったようで、しばらくの間休業してたそうです。知らなかった。
改装してまた2013年に再オープン。以前は山小屋風の建物でしたが、改装してかなりアップグレードしたもよう。
このマダム・ペレのレリーフのある暖炉、19世紀から火が絶えたことがないという伝説があったのですが、ついにこの休業中に消えてしまったそうです。
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