2015/06/21
にゃへも
デジタル写真は外付けハードドライブに保存しているのですが、1TBのドライブがもうそろそろいっぱいになってきた。
写真だけじゃなくて他の多分もう見ることはないだろう昔の書類もとりあえず入れてあって、写真も重複してフォルダに入ってるのが多かったりするので、暇をみて少しずつ整理することにしました。
バックアップは超面倒ですね。
というわけでハワイに住んでいた頃の写真が出てきたのでちょっとこれからちょこちょこアップしてみます。
これはアラモアナビーチパークで撮ったもの。懐かしい~。
夕陽の沈む時間の海の色は何度見ても信じられないほど綺麗です。
ところで「にゃへも」。
この間大岡信さん編の『続 折々のうた』(岩波新書)を読んでたら、「伊野波節」という沖縄の古い歌が載っていました。
伊野波の石こびれ 無蔵つれてのぼる にゃへも石こびれ 遠さはあらな
(以下大岡さんの解説)
「伊野波」は沖縄北部の地名、「石こびれ」は石ころ坂。「無蔵」は男が恋人や妻をいう語。
「にゃへも」は「もっと」。
「あらな」はあってほしい。
仲を裂かれた恋人たちの悲しみの歌だという。二人が尽きぬ別れを惜しんで登っていく石ころだらけのけわしい坂、だがこのけわしい石ころ道よ、さらにけわしく遠い道であっておくれ、ひと時でも長く一緒にいられるものを、というのである。
(引用おわり)
悲しく切ない歌ですね。
しかし、にゃへも!
ああ使ってみたい。
「にゃへもコーヒーちょうだい」
「にゃへも音大きくして」
「にゃへも勉強したら?」
今でも沖縄に行ったらひょっとして通じるのかしら?と思ったけど「にゃへも」で検索してもこの歌しか出てこないので、古語なんでしょうね。
とりあえず息子に教えてやろうと思います。
機械翻訳とハワイの雨
ニューヨーク・タイムズの今月初めに掲載された「Is Translation an Art or a Math Problem?(翻訳は芸術か数理問題か?)」という記事が、翻訳者のフォーラムでも話題になってました。
この記事によると、機械翻訳の始まりは、アメリカの諜報部の科学者が第二次大戦中のチューリングマシンによるエニグマコード解読について知り、ロシア語の論文を同じように機械で翻訳できないか、と思いついたのが最初なんだそうです。
ロシア語で書かれた文書が「キリル文字で暗号化された英語の文書なんだ!」という発想に立ったのだと。
しかし1950年代のコンピュータは非力すぎ、処理できる情報量が少なすぎたためにそんな「解読」には歯が立たなかった。
機械による翻訳を使いものになるレベルで実用化するには、その言語のコンテクストを判断できる専門家が必要、というのが常識だった時代が30年ほど続いた。
そして、1988年、IBMの音声認識技術の研究者が編み出した全く新しいアプローチが、原文の言葉の「意味」を「考える」のではなく、大量の原文と訳文のデータの中から「似たもの」を拾いだしてくるという方法。
現在のグーグル翻訳もスカイプ翻訳もこの延長にあるもの。
…という背景と、現在の人間翻訳者と機械翻訳研究者の見解を少しずつ紹介してます。
More than once I heard someone at the marathon refer to the fact that human translators are finicky and inconsistent and prone to complaint. Quality control is impossible. As one attendee explained to me, “If you show a translator an unidentified version of his own translation of a text from a year ago, he’ll look it over and tell you it’s terrible.”
<「機械翻訳マラソン」(5月に開催された1週間のハッカソン)では、参加者が人間の翻訳者は気むずかしくて一貫性がない、と言っているのを一度ならず耳にした。人間の翻訳では品質管理は不可能に近いというのだ。ある参加者はこんなことを言っていた。
「翻訳者に、誰のものだかを隠してその人が1年前に翻訳した訳文を見せたら、こりゃひどい訳文だっていうに違いないよ」>
翻訳に「正解」はない。だってその証拠に英語版の『ドン・キホーテ』は20種類もある。一人の翻訳者だって迷うのに、正確さを問題にして何になるだろうか、としたあとで、この記事の著者は、しかし、少なくとも人間翻訳者は「この文章の目的はなに?」と尋ねるだろう、と書いています。
「正解」の訳だけを探す機械にとっては、誰が何の目的で書いたかなどという問題はまったく意味のないこと。
The problem is that all texts have some purpose in mind, and what a good human translator does is pay attention to how the means serve the end — how the “style” exists in relationship to “the gist.” The oddity is that belief in the existence of an isolated “gist” often obscures the interests at the heart of translation.
< 問題は、すべてのテクストはそもそも目的を持って書かれているということだ。優れた翻訳者なら、手段が目的をどう達成するか、つまりその「スタイル」がその「要旨」とのどのような関連において必要なのか、ということに注意を払うものだ。>
…と、この記事は結んでいます。
スタイルと要旨が関連しているのは当然で、だって言語は文化そのものだから、常に時代と場所と読む人、書く人によって揺らぎが出るものです。
本来、文学作品であればその「スタイル」と「要旨」は、分かちがたくからみあっているものです。
血を流すことなく内臓を取り出すことができないのと同様、文学作品から「要旨」だけを取り出したら、それはオリジナルとはまったく別の存在になってしまう。
文学作品の翻訳に訳した人のフィルターがかかるのは当然です。
同じ日本語内でだって、たとえば『源氏物語』の現代語訳がこんなにたくさんあるのはなぜかってことになる。正解があったら谷崎潤一郎だって3度も源氏物語を「翻訳」し直してない。
「スタイル」の方でいうと、たとえば広告や広報の文章やメディアの文章では、それぞれの企業やターゲット顧客や読者層によって語りかけるスタイルが違う。たとえば「日刊ゲンダイ」と「東洋経済」と「暮らしの手帖」と「CanCam」ではそれぞれの読者に合わせた異なる言葉の体系を持っています。
いってみれば、そのテクストを読む人びとが期待する場の「空気を読む」というのがスタイルの決定には必要。そしてその空気を読むには、そこで共有されている体験を漠然とでも理解していなければなりません。
書き手が出したい雰囲気と読み手が期待する形にはある程度の「正解ゾーン」があって、それをはみ出すと妙に居心地が悪くなって意味そのものが伝わらない。
重要なのは、「正解ゾーン」は読み手と書き手の期待が作るということです。
一対一の正解はないけど、常に時代や場所やいろいろな要素により揺れ動く正解ゾーンは確かにあるので、それをうまくたぐりよせるのが(人間)翻訳者の仕事。
人間翻訳者は、原文の「要旨」と「スタイル」をこれまでの経験という膨大な情報をもとに、ほとんど直感で理解しながら読み、それをまた経験をもとに、期待されるスタイルに直感的に当てはめていくわけですが、その理解に必要な情報量と処理プロセスがそっくり機械に置き換えられる日が、いつの日かやって来るのは間違いないのでしょう。
グーグル翻訳はたしかに現在の段階では人にとってかわるほどの技量は全然なくて、このニューヨーク・タイムスの記事へのコメントでも「役に立たないよ」みたいな発言が多かったけれど、 グーグルやマイクロソフトが参照する訳文・原文ペアのデータが恐ろしい量で増え続け、それと同時に人工知能の学ぶ機能が飛躍していくのは目にみえているので、たぶん私が生きているうちにかなり精度の高い翻訳マシンが完成するだろうなと思います。
大量データの中から「意味を考えず似たものを拾ってくる」というのが現行の機械による翻訳だけれど、そのうち大量のデータから「コンテクストを拾う」「意味を理解する」ということも出来るようになることでしょう。
というか人間の思考プロセスも、細分化していけば「似たものに気づく」という単位の集積なのではないでしょうか。
人間の持つ直感的な理解というのが、何と何が関連しているか、ということの細かな積み重ねだとしたら、情報量が膨大で有機的にからみあっているからまだ機械で再現はできないけれど、いつかきっと解析または模倣されるに違いないわけで、その解析が可能になる日というのはつまり機械が「直感」といえるような思考プロセスを持つ日の一歩手前。
人工知能に言語の抽象的な思考力が備わる日には、スタイルを理解でき選べる翻訳マシンも可能となる、てことですよね。逆にそれまでは出来ないってことでもあるけど。
それで思うのだけど、完全に翻訳可能な文章、ほかの言語で置き換え可能な文章というのは、背景が画一的ってことなんですね。
たとえば、ジャワ島の密林に住む部族の先祖の言い伝えを現代英語にしたら、そのニュアンスや感情や意味合いはほとんど失われてしまう。
ハワイ語には雨の名前だけで何十種類もあるというのは良く言われることです。
きわめて予測しやすい、安定したマイクロ天候が多いハワイという土地では、たとえば「マノアの谷のこのへんに降る雨」というような、局地的な雨の名前がとても多いのだそうです。
(ハワイ大学の人が作った雨の名前リストがありました)
そういう雨を実際に肌に感じたことのない人の言葉に翻訳すれば、そこにある経験は決定的に失われて、もっと抽象的なものになる。
古代ハワイの人たちは「その場所に降る雨」を現代の私たちとはまったく違う受け取り方で感じ、見ていたのだと思います。
日本語だって、雨の名前はアメリカ英語よりずっと多いですよね。
こぬか雨、卯の花腐し、夕立、時雨。
『歳時記』にある言葉の多くは、もう解説なしじゃ現代の日本人には理解できなくなっている、立派な「死語」になっちゃってます。
「端居」とか「水飯」「振舞水」なんて、今じゃさっぱりわかりませんが、その時代の人には聞いただけで一定の情景と情緒を呼び起こす、きわめて喚起力の高い言葉だったわけです。
言葉は共通の体験に基づいたもので、情緒と論理がいっしょくたになっています。
きっとその両方のコンテクストの理解が、アートなんでしょう。
コンピュータのマニュアルやフランチャイズ店の経営方法や法律体系ならその多くが損なわれずに翻訳できるのは、それが資本主義社会とか技術とか司法という抽象世界への共通の理解と認識を前提としているからです。
これは今では当然のようだけど、考えてみれば、200年前には離れた地域に住む人がこれほど容易に相互の考えを理解し合えることはなかった。文化はもっとずっと多彩で多様で排他的で互いに相いれなかった。
「文明開化」が文化の中にブルドーザーのように平坦な場所を作って、共有の「文明」というコンテクスト、経済と科学技術のコンテクストができたから、翻訳可能な部分が広がってきた。
文明開化は同調圧力であって、それは今も進行中で、やっぱり文化はどうしようもなく全世界的にフラットになっていくしかないんだなあ、とあらためて思ってしまいました。
現時点のグーグル翻訳ですんなり通じる話は、フラットなのです、きっと。
「翻訳は数理問題かアートか」という問題の正解は「内容により、読み手により、どちらでもある」です。
その文章がどの程度のコンテクストを背後に持っているか
読み手と書き手がどの程度コンテクストを共有しているか
により、コンテクストが多ければ多いほど表に出てない情報(コンテクスト理解)を必要とし、スタイル解読と選んだスタイルでの表現という「複雑」な作業を要する「アート」の域に近くなる。
コンテクストが少なければ、またはコンテクストが両側で共有されていれば、考慮する必要のある情報量は減るから、より単純な作業になる。
「算数かアートか」というのは、結局のところ処理している情報量の差ではないのだろうか、という気がします。 短い単純な数式なのか、高次な複雑な数式なのか。
そしてこれから発展してくる人工知能は、人々の記憶をもとにどんどん高次で複雑な翻訳をすることになる。
もう10年近く前になるのか、翻訳者のフォーラムで機械翻訳についてのトピックがあり、「私たちの仕事が機械翻訳にとって替わられる日には、ほかの多くの職業も同じ運命になっているはず」と、いささか楽観的な書き方で多くの人が納得していたのを思い出しますが、それが本当に現実として迫ってきた。カウントダウンになってきたなという感じがします。
あと20年くらいは人力翻訳が必要な時代が続いてほしいなと思うのは、楽観的すぎるのかもしれません。
「人工知能に奪われる仕事は何か」というような記事を毎日のように目にするようになりました。弁護士や医師といった仕事もそのうち置き換わるだろう、その前に中間管理職が大量に不要になるだろうといわれてます。
意外に思っているよりも早く、まずはセグメント化された高度な専門領域から、かなり精度の高い機械翻訳が完成しそうな気がします。
2015/06/18
全米オープン開催地のうねうねゴルフコース
ゴルフの全米オープンが今日から始まってます。開催地はタコマ近郊のChambers Bay Golf Course。
シアトルの近く(シアトルからは軽くクルマで1時間はかかるけど)で開催されるスポーツイベントとしては最大なんだそうです。
このチェンバーズ・ベイ・ゴルフコース、2年くらい前に何度か散歩に行ったところ。そのときの日記に載せた写真ですが再掲しちゃいます。ゴルフコースのまわりはぐるりと5キロ強の遊歩道になっていて、芝生の広場もあるチェンバーズ・クリーク・パークという公園です。
スコットランドかどこかのような、うねうねとした起伏の見るからに難しそうなゴルフコースは、もっと古いのかと思ったら2007年にオープンしたばかりなんだそうだ。
綺麗なコースだなと思っていたけど、まさかこんな大舞台に使われるとは。
ゴルフはやらないのでぜんぜんわかりませんが、 ここでプレイしたことのある友人によると、フェアウェイが狭くてグリーンがうねうね波打ってて硬いのでボールが速く、風向きも頻繁に変わるのでとっても難しいそうです。
いまちょっとテレビで見てたら、タイガー・ウッズが苦々しい顔をしているところでした。
乾いた草のボウボウ生えたラフに打ち込んでる人も続出。
でもほんとに眺めは豪華。木がたった1本しかないっていうのも独特の風景です。この右端の木↓
何人くらいの観客が来るのか、このあたりは今週は近寄れないほど交通規制が敷かれているそうです。
このコースの周辺は閑静な住宅街で近くにホテルなんか全然ないので、コース周辺にはこの週末だけのレンタルのために何万ドルって価格で貸し出されている家がたくさんあるって話です。
4月の新聞の記事で、月2,000ドルの家賃の家をこの1週間だけ38,500ドルで貸し出すために、借家人を追い出したっていう話もありました。1週間で2年分の収入になるですね。
全米オープンが終わったらまた散歩に行ってみよう。
石川遼選手など日本勢はFOXスポーツの中継をちょろっとみただけではフィーチャーされてませんでした。
おお、タイガーが草ボウボウの丘の斜面でボールを打っている!
2015/06/17
レトロなバーガーマスター
シアトルって、というよりアメリカの人って、ほんとに古い看板とか建物が好きだなあと思う。
この「Burgermaster」のウシの看板も、1952年創業のときからまったくそのままって感じです。
この「DINE」の筆記体ふうの書体が素敵。
シアトルに2店、カークランドに1店、あと近郊に2店がある地元の小チェーンのハンバーガやさんで、車をこのパーキングに停めて、車の中で食べられますというのが売り。
注文が決まったらヘッドライトをつけておくと、ウェイトレスのおばちゃま(またはおねえさんかお兄さんの場合もあるけど、たいていおばちゃん。はいはい私よりは若いですけどね)が注文をとりにきてくれます。
ローラースケートは履いてないけど『アメリカン・グラフィティ』みたいですね。
『マッドメン』のベティがキャデラック(だったかどうか忘れたけど)で乗り付けてもまったく違和感ないと思う。
窓のよこっちょのところにひょっと引っ掛ける式のトレイを持ってきてくれます。
バーガーの写真は撮り忘れた。こちらでー。
味はふつうのバーガーで、シェイクもいろいろあります。
2015/06/15
パラダイスのスカイライントレイル
快晴の日曜日、タホマ山akaレーニア山に行ってきました。
今回は、通年営業のビジターセンターがある「Paradise」から始まる、眺めの良いSkyline Trail へ。
とてもポピュラーな6マイル(約9.6キロ)のループトレイルです。
ガイドブックには「7月から10月」と書いてあるコースですが、今年は特に暖冬だったので、雪に覆われてたのはコースの2割くらい。もう普通のハイキングシューズだけでぜんぜんオッケーでした。
パラダイスの駐車場はもちろん激混みでしたが、運良くオーバーフローの駐車場の、しかもトレイル入り口のすぐ前にスポットを獲得。
パーキングとお天気にだけは昔から強運に恵まれているのですw
ビジターセンターでトレイルの状況を確認して、登り始めたのは午後1時ころ。
巨大なザックやスキーを背負って降りてくる人々に何人もすれ違いました。朝早くからずっと上のほうで滑ってるんでしょう。
パーキングから5分も登っただけで、すぐに死にそうに息が切れる。
普段の有酸素運動は近くのスーパー(徒歩5分)にだらだら歩いて買い物に行くか、近所を散歩するくらいなので、当然といえば当然の報い。
ずっと上のほうに人が歩いている姿を見て、頭がクラクラしました(上の写真、手前の尾根の右肩)。
標高差は1400フィート(約420メートル)って聞くと全然大したことないように思っていたけど、いやいやいやいや、おばちゃんハイカーにはこたえたよー。本当に心臓が止まるかと思った。
もっとこまめに動かなくちゃですね。
人気コースでお天気も良かったので、家族連れもたくさんいました。とはいえ、パラダイスの駐車場付近の混雑ぶりからしたら、こんなもの?と思うほど、上のほうは静かな世界。
雪の上をわたっていきます。ガチガチに固まってはいなくて、シェイブアイスに良い感じの頃合いでした。
ビジターセンターから時計回りに登ってくると、正面に山頂、左手にニスカリー氷河が見渡せます。
トレイルはしっかり整備されてて、歩きやすくなってました。でも雪だから滑ることは滑る。
5歳くらいか、こんなちっちゃい子も頑張って歩いてた。
綺麗なチョウがいた。
Edith's Checkerspot という名前らしいです。
1.7マイルくらい登ったところで、Panorama Point という展望地点につきます。
レーニア山の双子みたいなアダムス山と、噴火でてっぺんが平らになったセントヘレンズ山がくっきり見え、その真中あたりに遠く、オレゴン州の最高峰、三角形のフッド山も見えました。
ここからの山頂はこんな眺め。
このコースではここが最高地点で、標高6800フィート(2072メートル)。
ここでおにぎりを食べます。スパムむすびとほうじ茶を持参。
インド人の20人くらいの団体が、ここで宴会をしてました。踊ってる人もいて楽しそうでした。
シアトル周辺の観光地はどこもそうですが、インドと中国の人が圧倒的に多い。山の上も同じです。
このあとの3分の2はほとんど平らと下りの道(もうちょっと高いところを回ってくるループもあったけどそちらはパスして雪の上を横切りました)なので、らくらく。
Washington Trails Associationのハイキングガイドブックには反時計回りで説明が書いてあったので右から回るつもりだったのに、気づいたら左手から時計回りに登ってました。
でも時計回りのほうが、最初のきつい登りの間に氷河や山が眺められて、結果良かったと思います。
高山の花がたくさん咲いてました。これは、「paintbrush (ペイントブラッシュ)」。
水辺が好きな「Marsh Marigold(マーシュマリゴールド)」。
アネモネの仲間のPasqueflower(パスクフラワー)。
以前に行ったサンライズの雪渓ハイキングのフローズンレイクへのコースよりも、ずっと花が多かった。
山腹の丘をひとつ回ると、こんなすり鉢の底のような河原に出ます。ここがまた素敵。
山頂もすぐ近くに見えるし、雪解け水の小川の水と緑が目に鮮やか。
ここで一日ピクニックしたいような感じ。
ビジターセンターで聞くとこの箇所だけ道に水が被ってるから気をつけてといってましたが、せいぜいくるぶしくらいの深さでした。
今回は息子と2人のハイキング。最近買ったフィルムカメラを試し中。
団体で咲き誇っていたAvalanche Lily (アバランチリリー)。
「雪崩ユリ」と日本語にしてみると風情がまったく変わってしまいますが、「アバランチリリー」というと、はかなげな響きがある気がします。
雪が融けて雪崩の起こる時期になると咲き始めるんでしょう。
これはDwarf Lupine(ドワーフルピン)、たぶん。ルピナスの高山種らしいです。
Pink Mountain Heather(ピンクマウンテンヘザー)。
こちらはGlacier Lily(グレーシャーリリー)。
「氷河ユリ」と「雪崩ユリ」だと漫才コンビになりそうな気がします。
以上、花の名前のあんちょこはすべてこちらでした。
花あり氷河ありの豪華充実ハイキングでした。ゆっくりめで約4時間。
駐車場に戻ると5時10分前で、ビジターセンターはもう閉まるところでした。
夏場は夜9時過ぎまで明るいんだし、せめて6時頃まで開けといてくれてもいいのに…。
2015/06/14
ヤマボウシとハナミズキ
5月から6月のシアトルで目立つのはdogwood。
近所にも真っ白になっている満開の木がたくさんあります。上のはワシントン大学構内。
この木、「ハナミズキ」と「ヤマボウシ」は同じものかと思っていたら、別物なのだそうです。
でもどちらも英語では「Dogwood」ではある。
ハナミズキは「アメリカヤマボウシ」で、花弁(正確には「苞」ですが)が丸い形。
ヤマボウシは尖った形をしている。幹と実も違う。
うちの近所で見かけるのは「ヤマボウシ」のほうが多いみたいです。
これは、ハナミズキ?
これはヤマボウシですね。
この手裏剣みたいな形。ハナミズキよりヤマボウシのほうが優雅です。
ウィキによると果実は食べられるそうです。
「果肉はやわらかく黄色からオレンジ色でありマンゴーのような甘さがある。果皮も熟したものはとても甘く、シャリシャリして砂糖粒のような食感がある。果実酒にも適する」とな!知らなかった!
今回もiPhone写真でした。
2015/06/10
ケイちゃんのお葬式
(English version is here)
先日、友人の妹さんが、亡くなりました。
46歳でした。
彼女はダウン症でした。
生まれたときに気管だかに障害があって死にかかっていたのに、病院のスタッフはダウン症だからといって放置しようとしたのだそうだ(スリランカでの話)。自ら医師でもあったお父さんが激怒して、手術のできる小児科医を直接電話で呼び出して手術をさせたのだと、棺の前でそのお父さんが語ってくれました。
友人のジェニファーは13年前にそれまで東海岸にいた妹のケイちゃんを自分の家に引き取って、それからずっと一緒に過ごしてきました。
イギリス人のお母さんとスリランカ人のお父さんを持つスリランカ生まれのジェニファーは、ものすごく強い生命と愛情に溢れた人。そしてジェニファーの旦那さんジムもまた、とてつもなく懐が深くてリソースフルな人。
ケイちゃんがシアトルの家に来たときには、ジェニファーの娘たちは2人ともまだ小学生で、この2人ともに聡明で優しくてきれいなお嬢さんたちは、ケイちゃんを叔母さんというより姉妹のようにして、育ってきました。
その妹のほうがうちの息子のガールフレンドなんですが、デートし始めた高校生のときに、まず、「私と付き合うなら、家族とパッケージなんだけど」 と宣言したんだそうです。
うちの息子はあっという間に賑やかな家の仲間にさせてもらって、ケイちゃんにも特に気に入ってもらったらしく、いつも私にケイちゃんの話をしてました。
いつだったかケイちゃんに描いてもらった絵が、まだうちの壁に貼ってあります。
この家族はとにかく圧倒的に賑やかで愛情深くて、人間のほかにもシェパードとバーニーズマウンテンドッグとテリアがリビングで仲良く場所を譲り合っています。
何年か前のサンクスギビングに初めておよばれして行ったら、ケイちゃんが初対面のわたしに「ハッピーバースデー!!」とお祝いの言葉をかけてくれました。えっだれの誕生日?と思ったら、ケイちゃんは一年中いつでもお祝いをしてるのでした。
お祝いするにふさわしいような楽しい気分の時にはいつでも「ハッピーバースデー!」とまわりの人を祝福してくれるのが、ケイちゃんでした。
彼女は生涯に何度も大きな手術をして、その度に医師たちの予測を裏切って乗り切ってきました。シアトルに来た13年前にも、医師にはあと数年といわれていたとか。
驚異的な生命力で何度も危機を乗り越えて、そして家族にも、まわりの人にも、驚異的なほどの愛情を少しも出し惜しみせずに与えてくれた人でした。
彼女のメモリアルサービスに、私はジェニファーに頼まれて写真を撮りにいきました。
100人以上の人が集まり、ジェニファーと2人のお嬢さんと、そして10年前に住み込みのナニーとして子どもたちとケイちゃんの世話をしたシェルビーが、ケイちゃんとの日々を語ってくれました。
ケイちゃんがユーモアのセンスにあふれていて、どんなひどい時でも笑わせてくれたこと、なにがあっても「It Will be Okay!」と明るく言う異常なまでのへこたれなさがあったこと、サッカー観戦が強烈に好きだったこと、優しい人とそうでない人を見分ける鋭い観察力をもっていたこと。
そしてこの姉妹はふたりとも、ケイちゃんが「She shaped me into a woman(私がひとりの女性として大人になるのに、とても大きな影響を与えてくれた)」、その明るさ、へこたれなさ、愛情の深さでどれだけ自分たちを感化してくれたか計り知れない、と語っていました。
ジェニファーは待ちに待った小さな妹が生まれて大興奮したときのこと、お母さんが「特別なファミリーに、特別な赤ちゃんが授かったのよ」と言って妹を紹介してくれたことも語ってくれました。
手作りのパンフレットに、ジェニファーが書いたメッセージ。
Since moving to Seattle, people would often tell us how lucky Kay was to have us, never realizing we were the lucky ones. Kay's ability to see people for who they were and love them unconditionally is the legacy she leaves for us to carry on.
(彼女がシアトルに来てから、私たち家族がいてケイは幸運ね、とまわりの人に良く言われましたが、幸運に恵まれたのは実は私たちの方だったのです。人の本質を見抜き、そして無条件に愛することができたケイの力は、私たち家族がこれからも大切に受け継いでいける財産となりました)
会場には、ケイちゃんが大好きだった一口サイズのケーキとダイエットコークも並んでいました。
私たちはだれでも、まわりの人に影響を与えているし、時に、ささいに見えるそんな影響がとてつもなく大きな働きをする。
この世で一番大切なことは本当にシンプルで、だからこそなかなか手に入れにくいのに、ケイちゃんはいつもやすやすと手に入れて、周りの人にもいつも気前よく分けてくれていました。
ほんの少しの時間ではあったけれど、ケイちゃんに会えて私も幸運でした。
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